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Chapter11*こぼれたビールは戻らない。

こぼれたビールは戻らない。[2]―③

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わたしはしばらくの間、キッチンカウンターの上のスマホをじっと見下ろしていた。

どれくらいそうしていたのだろう。さっきまでとは違ってうんともすんとも言わないスマホを恐る恐る手に取る。するとそれは、充電が切れてこときれていた。

きっと家に置きっぱなしにしていた間とついさっきの着信の嵐で、もともと残量の少なかった充電がゼロになったのだろう。

ホッとしたような、でも途方に暮れるような。そんな気持ちが綯交ないまぜになって、胸をきつく締めあげる。
重苦しい心に引きずられるように、わたしはスマホを胸にその場にずるずるとしゃがみ込んだ。

「……なによっ、……どうしてわたしが責められないといけないのよ…!」

わたしには何ひとつやましいことなんてない。むしろそっちの方が、やましい朝帰りだったくせに。なのに、わたしの方が一方的に責められるなんて絶対おかしい。

そう思ったら、胸の底からどす黒い怒りがどんどんと込み上げてきて、大声で叫び出したくなった。

時刻は九時前。“早朝”というほど早い時間ではないけれど、だからと言って狭い1LDKの賃貸、朝っぱらから大声なんて出せるはずもない。腹の底から込み上げるものを無理やり飲み下すと、喉がぐうっと音を立てた。

キッチンの入り口で膝を抱えてうずくまる。大声で叫ぶのは出来ないけれど、黙ったままでは到底いられない。

「なによっ……やっぱり若くて可愛い子の方がいいんじゃない……それならそれで、最初からそっちに行きなさいってのよっ……“ビール克服”だって真面目に付き合って損した……こんな地味なアラサー女捕まえてもてあそぼうだなんて……これだからエリート御曹司はっ……」

両腕と両脚で作った穴の中に、言えなかったこと、言いたかったことを一気に吐き出す。じわりとまぶたが熱を持ち、視界が歪み始めた。

ダメ。泣かない。

こうなることは分かってたはずでしょ、静。付き合い始めてからだって、ちゃんと心づもりはしていたはずじゃない。
彼は雲の上のひと。住む世界が違うのだから、ずっと一緒に居られるわけじゃない。
泡沫うたかたの恋に溺れて我を忘れるなんて、そんな愚かな真似、二度としないって誓ったじゃないか。

「うん、よしっ! こういうときは飲んで寝るに限る!」

幸い今日は公休日。ビール飲みながら溜まっている『世界の名橋から』の録画を見て、好きなだけ寝てやる!
朝っぱらからビールを飲んでどこが悪いの!? こんな時くらい好きなだけ好きなことをしても、バチは当たらないってのよっ!

そうと決まれば。

「ビールあるのみ!」

すくっと立ち上がったわたしは、迷わず冷蔵庫へ。冷蔵庫のドアを開けて、所定の位置に手を伸ばした瞬間。

「っ、」

目に付いたものに思わず息を呑んだ。

数種類の缶の隣でひと際存在感を放つ瓶。

「麹のビール……」

それは、ちょうど一週間前に彼がわたしにくれた“ご褒美”。
後日一緒に飲んだけれど全部は飲みきれず、『また今度一緒に飲もう』と言って冷蔵庫に入れたままにしてあった。

これ貰った時の甘く楽しかった時間がよみがえって、一気に涙が視界を滲ませる。

「ちょうどいいわっ、麹ビール、一人で飲んでやるんだからっ…!」

涙を振り切るように声に出して言うと、瓶を手に取る。

「栓抜き栓抜き……」

すぐ横の戸棚からグラスを出し、瓶とグラスを左手に持ったまま、栓抜きの入った引き出しを開ける。シンクの隣の天板ワークトップでビール瓶を開栓することにした。

一本目はこのままここで一気に飲み干してやるのだ。

だけど――。

開栓した瞬間、手が滑って瓶が倒れた。
ごろんと横倒しになった瓶に「あっ!」と声を上げて手を伸ばしたけれど、時すでに遅く、それはそのまま足元に落下し、ゴトンと鈍い音を立てた。

瓶からトクトクとこぼれ出したビール。

わたしは、まるで金縛りにあったみたいに微動だにせずそれを見つめることしか出来ない。

足元に広がっていく薄黄金色うすこがねいろの水たまりの中で、「シュワシュワ」と小さく弾ける炭酸を見ているうちに、わたしの胸の中でも何かがパチンと弾けた。

「~っ、…うっ、うぅ……っ」

堰を切ったかのようにあふれ出す涙。
頬から滑り落ちていくそれは、「シュワっ」と音を立てながら薄黄金色の中に消えていく。

「……好きだって言ったくせに…可愛いって言ったくせにっ…! アキの……アキのバカぁぁっ…!」

ビールの海に非難の言葉を浴びせながら、わたしはしばらくの間、声を上げてわんわんと泣きじゃくった。


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