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三章 地区管理局でお仕事

五話

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 しかし、地区管理局本部のオフィスに帰ったアロウは次の出張には中々行かなかった。その代わり事務所に出勤してから、行き先も言わずにどこかに出かけて行く。俺を置いてけぼりにして。ここに来てから俺はずっとアロウと一緒だった。出かけるときもいつも連れて行かれた。
 俺、もう用なしになったんだろうか……。

 一度や二度でそんなことを思う訳にもいかないが、何となく不安になった。だって、俺はまだ死神の仕事をしたことがないんだ。アロウと別れたらここにそのまま居たくないよな。何よりあいつらの仲間には死んでもなりたくない。……って、俺もう死んでいるんだった。

 それでも夕方になるとアロウは事務所に戻って来て俺と一緒に家に帰るから、不安になりながらも聞かずにいたんだ。


 その日もアロウは一旦事務所で仕事をした後、一人で行き先も言わずに出かけて行こうとした。
「えっと、アロウ。どちらにお出かけですか?」
 俺は一応アロウの秘書だから聞いてもいいよな。
 しかしアロウはチラリと俺を見ただけで、そそくさと出て行ってしまった。

 何で何も言ってくれないんだろう……。
 無視されてさすがにどんよりと落ち込んだ。
 一体、何処に行ってるんだろう。

 アロウに言われた仕事も片付けて暇になった。一人でウジャウジャと考えていると際限なく落ち込んできそうで、俺は部屋の外に出たんだ。

 お茶でも飲んで、気を落ち着けよう。
 給湯室に行って、自分のカップにお茶を入れていると、事務所の連中がぞろりとやって来た。チラッと見ると、怖い顔やら意地悪げな顔やら無表情な顔やら誰も皆恐ろしげな顔をしている。

 アロウは居ないし九朗も居ない。上の肩書きのある連中もいないようだった。こいつらは下っ端か、いつも給湯室でお茶を挽いている連中だ。

 俺、やばいんじゃないだろうか。
 俺はそそくさとお茶を入れて給湯室から出ようとしたが、事務所の連中は立ち塞がって通してくれない。

「お前ね、生意気なんだよ」
「大きな顔するんじゃないの」
「偉そうにお茶なんか飲むんじゃないわよ」
 口々に罵るだけでなく、手に持っていたカップを叩き落とされた。
「あちっ!!」
 お茶が顔やら服やらにかかった。熱いと感じる。事務所の連中の手が出てくる。
「何よ、ぽっと出の死人のクセして」
「生意気なのよ。事務所に入り浸りで」
 髪を掴んで引っ張られた。止めろという間もなく給湯室の床に転がされた。死神たちの足が俺の身体を踏んずけた。

 痛い。身体がいや、魂が千切れそうだ。腕で顔や頭を庇って丸くなって耐えた。
 アロウの気が移りそうだから、こいつら意地悪をするんだろうか?
 まるでどこかの国の女の園みたいに、皆で寄ってたかって殴る蹴るの暴行を繰り返す。

 俺、殺されるんじゃないか。魂を殺されたらどうなるんだろうか──。


「これこれ、何をしている。止めなさい!」
「──!!」

 誰かが激昂した彼らを止めてくれた。俺に暴行を加えていた奴らはクモの子を散らすようにいなくなった。恐る恐る見上げると、アロウによく似たこの前の客がいた。

「君、大丈夫かな」
 覗き込んで手を差し伸べて抱き起こしてくれた。
「はい」
 俺はヨロヨロと立ち上がった。お茶は引っ被っているし、奴らに踏んづけられて、とても大丈夫とはいえないけれど。

 アロウによく似た客は、俺を立ち上がらせて親切にホコリを叩いてくれた後、何と俺をベロリンと舐めたのだ。
「ひっ! 何するんだよ」
 俺は給湯室の壁まで飛び退った。

「ふうむ。極上の味がする」
 客はアロウと似た顔を少し笑ませて舌なめずりをした。
 何なんだよ、このオヤジは。

「ヴァルファは何処に行ったんだね」
「知らないよ。置いていかれた」
「ふうむ。浮気をするのに奥さんを連れて行くバカはいないからな」
「それって、どういうたとえだよ」
 俺の神経はズタズタで、もう焼き切れそうだった。ホントにそんなモノがあるのなら。


 アロウは何処に行ったんだろう。早く帰ってきて欲しかった。いつまでもこんな所にこんなオヤジと居たくない。だけど、そこに帰って来たのはアロウじゃなかった。

「七斗……。おや、ヤヴン様。いらっしゃってたんですか」
 そう言って現れたのは九朗だったりする。アロウによく似たオヤジ、ヤヴンは九朗を振り返って少し唇を尖らせた。

「フギムニンか。もう帰って来たのか」
「どうも、虫の知らせというか、ヴァルファが様子を見て来いと言うもので」
 九朗はヤヴンに恭しく頭を下げて言った。俺はヤヴンの手を振りきり九朗の側に走って行った。

「お前に払い下げたのなら、私にも味見をさせてくれてもよいであろう」
 ヤヴンが不服そうに言う。
 味見って、さっきみたいにベロリと舐めるのと違うよな……。

「コイツはまだだ」
「まだ? ふうむ」
 ヤヴンは顎の下に手を置いてしばらく俺を見ていたが、
「どちらにしてもこのような所に置いて行くからには、もう払い下げたも同然であろう。私もそうそう暇ではないし、ここは三人でもよいぞ」と、とんでもない事を言い出した。

「そうだなあ。七斗どうする? 鬼にはなるわ、暴君ではあるわ、浮気はするわ、いつ払い下げられるか分らんわ、アイツにこの先ずっと付いていてもいい事は無いぞ。この際乗り換えるか?」
 九朗が俺の手を握り囁く。ヤヴンもうんうんと頷いた。九朗よりも偉そうだがコイツはどういう奴なんだ。

「け、結構だよ! アロウに振られたら俺はただの死神になって仕事をするんだっ!!」

 俺は二人の上役を相手に喚いていた。もう、有るのか無いのか分からないけど俺の神経はずたぼろで考えるのも嫌だった。こんな奴らに気を使う気力なんか残っていなかった。

「オッサン、助けてくれてありがとう。礼だけは言っておく」
 俺は九朗の手を振りきりアロウの部屋に走って逃げた。
 自分のデスクで脱力していると、九朗が後から悠々と入ってくる。こいつはアロウの部屋にフリーパスで入れるんだった。

 脱力したまま睨み上げたら、俺のデスクに腰掛け、俺の顔を覗き込んで気遣わしげに言う。
「聞いたぞ。皆にやられて、酷い目にあったそうだな」
 優しく言われて焼き切れた神経が悲鳴を上げた。勝手に涙が盛り上がって溢れそうになった。

「平気だ」
 涙の盛り上がった瞳で睨んで強がった。九朗は少し目を細めたが笑いもせず真摯な様子で言った。

「もう一回聞くが、本当にアロウでいいのか? 先程の方はアロウの叔父君でもっと偉い方だし、あの方に気に入られたらもっと栄耀栄華が望めるぞ」
 叔父か。それでよく似ているのか。性格も似ているんだろうか……?

「そんなものなんか要らない。俺はここに居るだけで、アロウの側に居るだけでいいんだ。だけど俺はここの事務所の連中みたいにはなりたくない。アロウに他の奴が出来たら、俺はただの死神になりたい。死んでもこんな所にいるのは嫌だ」
 死んでるけどさ。

 俺の依怙地な台詞に九朗は肩を竦めてアロウの執務室に行ってしまった。
 俺は本当は不安なんだ。今も強がってあんなことを言ったけれど、アロウは今日も一人で出かけてしまって、危ない目に遭っても帰って来たのは九朗だけで、本当に他の奴に行ってしまったら、俺、どうしよう……。

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