かさなる、かさねる

ユウキ カノ

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5.知ってしまったから

5-②

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 待ち遠しい梅雨明けはなかなかやってきそうになかった。七月に入って雨足は余計に強くなって、自転車通学はほとんどできなくなった。期末テストが生徒に襲いかかり、部活もしばらくのあいだ休みになる。部活のあるなしなんて俺には関係ないことだけれど、雨がやまないことにはただ走ることもままならない。自転車にも乗れず、冬でもないのに体力がどんどん落ちていく気がした。
 夏休み以外は教室のエアコンを使ってはいけない決まりになっている。だがそんなものこの暑さのなかではくそくらえだ。先生に見つかったときは謝ればそれで済む。おとなしく勉強をしているのだから、それくらいのルール違反は許されるだろう。
「わかんねえなあ」
「公式の選び方さえわかれば簡単なんだけど」
 放課後、俺たちは教室で勉強会をしていた。学年上位の成績を保つシュウが、下から数えたほうが早い俺と武本に対して先生役を買って出てくれている。だがシュウの力を借りても、赤点をギリギリ免れるのが俺たちの限界だった。
「悪いなシュウ。つかれるだろ」
 俺も武本も決していい生徒とは言えない。そもそもやる気がないのだ。平均よりうえの偏差値のこの高校に入れたのだから、中学時代はそれなりに勉強ができたはずなのに、一年間の怠惰はそれをすっかり忘れさせていた。勉強しない俺たちは、いったいなんのために高校に入ったのだろう。いつだったか聞いた「モラトリアム」ということばは、俺と武本のような生徒のためにあるものなのかもしれない。
 それでもこうして勉強会をするだけほめてもらいたいものだが、これは先生たちに対する言い訳と一緒だ。つまり、これだけやってもダメでした、と言うためのアリバイ作りでしかない。そんな俺たちに付き合っているシュウは、さぞ頭が痛いだろう。
「そんなことないよ」
 困ったように笑ってシュウが首を傾げる。ごめんなーとふざける武本に対して、俺は笑い返すことができなかった。視界の端で、シュウが左の袖をぐっと引っ張るのが見えたからだ。
 シュウが自分自身になにをしているのかを知って以来、俺はシュウを注意して見るようになった。まだ短いあいだではあるけれど、それでも気づく。こいつは毎日確実に、その腕にある傷が原因だと想像できる行動をとっていた。今やった袖を引っ張る行為もそのひとつだ。ストレスを感じているとき、シュウは無意識に袖を伸ばしている。あくまで予想だけれど、それは傷を隠そうとしている動きに見えた。
 シュウのしている行為を知れば、普段なにげなく見ていたあいつのくせにはすべて理由があるのだとわかった。ひとと歩くとき、左側を歩きたがること。俺たち三人が並んだとき、俺が中心になるのは決して偶然なんかではなかった。意識してのものかどうかはわからないけれど、左腕をかばっているからだ。体育の前に姿を消すのもきっと、人前で着替えることができないからだろう。
 もしかしたら、と思う。太陽にあたると肌が荒れるというのも、シュウの作ったうそなのかもしれない。いや、ほとんど確実に、日光を浴びることを止められているというのは真実ではないと俺は信じていた。
 その証拠に、シュウは俺がそうしたくせを観察している瞬間、心底嫌そうな、そして不安そうな顔をするのだ。
 袖を引っ張ったシュウが、俺にだけわかる微妙な変化を顔色に乗せる。武本がばかで助かった。こういう一瞬の表情に、武本はとても疎い。
「でも、シュウが教えてくれて助かるわ。頭よくなった気がするもん。なっ」
 そう言って、武本がシュウの肩を叩く。俺はとっさに、まずい、と思った。そして予想どおり、シュウが怯えた顔をする。震えた唇を見ていた俺を、ほんのわずか、きっと睨んでから、シュウは武本に向かって「そんなことないよ」と笑った。
 俺だけにわかるシュウの表情が増えていた。シュウがそれを不快に思っていることも知ったうえで、俺はこいつへ視線を送ることをやめようとは思わなかった。
 俺がなんとかしないと。
 いつのまにか、そんなふうに考えている自分がいた。今はまだ動けない。シュウはひとに慣れない子猫みたいに、俺に対してしっぽを逆立てている。どうしたらいいのかわからないけれど、いまはただ、こいつのそばを離れずにいようと決めていた。
 不思議な気分だ。ほんのすこし前まで、シュウのことなんて気にも留めていなかったのに。今ではシュウの顔色をうかがうのが日課になっている。
「そういえば昨日のテレビ見た?」
「え、どれ」
 問題集に向かっているふりをして、シュウと武本のじゃれるような会話を聞いていた。笑っているシュウの内側に、いったいなにがあるんだろう。投げ出されている左腕の、その袖の下に、どんな傷があるのだろう。
 知りたいと思う。助けたいと思う。
 どうがんばっても解けそうにない問題を冊子から見つけた。どの公式を使えばいいのかさえさっぱりわからない。教えてもらうために、顔をあげてシュウの視線をとらえる。その黒い瞳がかつてよく見た彼女のそれと重なる。今度こそ間違いたくない。今度こそ。
 見つめる俺に、シュウが首を傾ける。凝視してしまったことをごまかすように、解く気もない難解な数式をシュウの目の前に差しだした。
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