かさなる、かさねる

ユウキ カノ

文字の大きさ
16 / 39
5.知ってしまったから

5-①

しおりを挟む
 ぼうっとしていたら、いつのまにか朝のホームルームも終わる時間だった。教室がざわめきを取り戻したことで、肩の力がふっと抜ける。
 授業中も、シュウはいつもと変わらない様子だった。背筋をぴんと伸ばして、教卓に立つ先生のほうをまっすぐに見ている。ときどき、先生のことばに頷いてさえいた。先生も人間だから、反応が返ってくる生徒がいたらそちらばかり見てしまうだろう。真後ろにいるからわかるのだけれど、先生たちはシュウのほうを向いている時間が長いような気がした。
 雨に濡れる窓側に置かれたシュウの左腕を見る。その下に隠された傷に、俺は気づいてしまった。
 あのとき彼女になにも言えなかったことを、自分がどれだけ後悔していたのかいまさらになって気づかされる。今度こそ間違いたくない。そう思う気持ちが、胸のなかでおおきくなっていく。
 俺はあいつの傷に向かいあうだけの覚悟を持っているのだろうかか。もうあんな思いをするのは嫌だと、ただそれだけで、シュウの心に触れてもいいのだろうか。
 シュウが、くっと左の袖を引っ張るのが見えた。シャツの下にあるはずの傷を、見て見ぬふりすることなんてできない。贖罪と、そう言われても構わないと思った。
 午前中の授業は移動教室がなかった。休み時間になっても、めずらしく武本は寄ってこない。俺とシュウのあいだに流れる微妙な空気を、あいつなりに感じ取ったのだろう。シュウは自分からは振り向いたりはしない。俺か武本に声をかけられるまで、まるで他人のような顔をしてそこに座っている。
 俺はいつものように窓の外ばかり眺めながら、昼休みになるのをただひたすら待った。三時間の授業のあいだに雨は小雨になり、そしてそのうちすっかり止んだ。空はあいかわらず真っ暗だが、放課後まで天気が持てば走れるかもしれない。そんな気分でいられれば、の話だけれど。
 昼休みのはじまりを告げるチャイムが鳴って、先生が教室から出ていくや否や、予想したとおり、シュウは黙って席を立った。これまではその、ふらふらとどこかへいなくなる姿を見てもなんとも思わなかったのに、いまはシュウのことが気になって仕方がない。
「武本、今日飯パス」
 シュウの背中が教室から出ていく前に、武本の席まで近寄っていって声をかける。武本はうかがうように俺を見て、おう、とだけ返してきた。恐るおそるといったその表情に、俺のみぞおちもキリキリと痛む。
 シュウを追いかけて教室を出る。昼飯なんて二の次だ。確かめたかった。シュウの行為の真相を。
 放送部による校内放送がはじまる。騒がしい校舎に、ざらついた質感の音声が反響した。
「シュウ」
 遠くから見ると、シュウの背中は細長くほんとうに頼りなかった。昨日のできごとのせいでバイアスがかかっていると思いながらも、その後ろ姿からどこか不安げな空気を感じる。
 声をかけるとシュウは振り返って心底不機嫌そうな顔をした。そのまま顔を前に戻して、ひとが溢れた校舎のなかを生徒を避けるようにしながら歩いていく。その背中を引きとめることはせず、俺は黙ってついていった。距離を保ったまま校舎を出て、水たまりの目立つ部室棟のほうへと向かう。
「シュウ」
 ここまできたら人気もない。もう一度声をかけると、シュウは振り向こうとしなかった。返事の代わりに歩調が早まって、すこし焦る。
 毎日のように走っていると、走るときの瞬発力が一般人とは比べ物にならなくなるものだ。声が届くくらいの短い距離なんて、ほんの数回太ももに力を入れて足を蹴りだすだけで詰めることができてしまう。
「なあ、待てよ」
 とっさに、シュウの腕を掴んだ。その瞬間、シュウが血相を変えて俺の手を振り払う。はっとして、一秒前の自分の行動を思い返す。血の気がすっと引いたけれど、触れたのがシュウの左腕ではなかったことに気づいてほんのわずか安心した。
「ごめん」
 長い間があった。シュウがこちらを向いて立ちどまってくれたことにほっとしながら、心の底から謝る。
「……いいよ」
 よほどひどい顔をしていたのだろうか。シュウが怒りを抑えるようにため息をついてから声を漏らした。その右腕は、おそらく無意識で左腕をかばっている。右手で左腕を握って、身体が左半分だけ後ろに引かれていた。左腕を見る俺の視線に、シュウが気づく。今度はシュウの顔が青ざめる番だった。俺の目から出るなにかに押されるようにシュウが後ずさる。
 そのシュウの行動で、つい気持ちがおおきくなってしまった。
「口止めしなくていいの」
 上からものを言っているような雰囲気が俺のことばから漂う。シュウはその空気を、敏感に感じ取ったようだった。
「言いたかったら言えばいいよ」
 そう言うシュウの顔は自嘲で歪んでいた。自分の行為を知らしめてもいいなんて、ひとかけらも思っていない顔だ。
 さっきまで雨が降っていたとはいえ、指先がやけに冷えて寒いくらいだった。固まってしまったような気すらする唇を開けて、今度は響きに気をつけながら声を絞りだす。
「そんな顔してなに言ってんだよ」
 責めるような声ではなく、心配しているのだと伝わればいい。思いが届いたのかどうかは、シュウの表情からは読みとれなかった。どんどん無表情になってうつむいていくシュウから諦めの色を感じる。
 シュウのその顔が、美奈子のそれに重なって揺れた。目の前にいる長身の同級生を、かわいそうだと思う自分がいる。俺はあのとき逃げた。今度は、逃げたくない。
「……お前、それ自分でやったの」
 あいかわらず右手でおおわれたままの左腕に目を向けると、シュウはぐっと唇を噛んで視線をそらした。答えはなかった。けれど、真っ青な横顔は、答えたも同然だった。俺がこんな顔をさせているのだと思うと、心臓が刺すように痛む。
「そんな顔するなよ。しんどいだろ、そんな顔してるの」
 だが俺のことばを聞いて、シュウの顔に血がのぼったように見えた。横を向いていた顔をこちらに向けることもなく、そのまま小走りで校舎のほうへと駆けていく。今度は、追いかけようとは思わなかった。細長い背中を見送りながら、俺は腹を決めていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…

しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。 高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。 数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。 そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち

ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。 クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。 それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。 そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決! その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。

吊るされた少年は惨めな絶頂を繰り返す

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

処理中です...