かさなる、かさねる

ユウキ カノ

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3.思い出す痛み

3-③

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「おつかれ」
 この夏、三年生が引退して新部長になった同級生に声をかけられる。テントに戻ってきた俺を認めたあと、宙をさまよってから肩のあたりに止まった視線を無視して、ああ、とだけ答えた。なんとことばをかければいいのか迷う彼の声音には、明らかな同情が浮かんでいた。
 空砲が鳴って、スターティングブロックを蹴ってすぐ、足が重くて動かないことに驚いた。手足だけじゃない、呼吸も苦しくて、胸がなにかに潰されているみたいだった。一〇〇メートル先、まっすぐに目指すゴールが遠い。
 レースが終わってみれば、六位でゴールしていた。競技場の玄関に掲示された記録を見あげてみると、そこには過去最悪のタイムが記された俺の名前があった。
 午前最後の予選に落ちた俺は、それから夕方の投擲が終わるまでテントの隅でじっとしていた。グラウンドに向けて声援を送る部員たちは、そんな俺に一言も声をかけない。監督も、戻ってきた俺を一瞥しただけだった。会話をするのが煩わしかったから、だれも俺に注目しないのは好都合だった。
 学校に着いて、バスを降りる。部員たちが帰っていくなか、足はそのまま、グラウンドへと向かった。体育でも使うからと校舎に寄せるようにして置いてある、走高跳び用の分厚いマットのうえに寝ころぶ。
 目の前に広がる空は、紫とオレンジがきれいに混じっていた。綿を伸ばしたような雲が伸びていて、昼間の吸いこまれそうな青空とはちがう顔に見える。手足を投げ出して真上を見ていると、頭のなかがからっぽになるような気がした。けれどそれはあくまで気がしただけのことだ。
 たのしくなかった。昼間、たった一度走ったレース。足を前に出しても、爪先でトラックを蹴りあげても、すこしも身体が前に進まなかった。夢を見ているみたいだった。腕も、足も、上半身すらも重くて、理想とするフォームを維持することなんてできなかった。
 寝ころんだまま左腕を空に向かって突きだす。手のひらから力を抜いて、水彩絵具を溶かしたみたいな薄い空を背景に、ゆらゆらと心もとなく揺れる指先を見つめた。もう震えてはいない。けれど、たしかに痺れている。
 俺は、ただ走っていたいだけだ。足が運んでくれるまま肩で風を切って、その音を聞いていられれば、それでいい。タイムにこだわるなんて、そもそも間違っていたのだ。
 空中に伸ばしたままの左手に、ふとやわらかな感触がよみがえってきた。美奈子はもう帰っただろうか。この前は無視した美奈子の求める行為に、いまなら応じられるような気がした。
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