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3.思い出す痛み
3-②
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秋の新人戦が、一週間後に迫っていた。あいかわらず縮まらないタイムに、俺は毎日いらいらしていた。吐くまで走っても、身体はすこしも前に進まない。
走るのはたのしい。蹴った瞬間に足が軽くなって、前にいきたくなる。風を切る音が耳元で鋭く響いて、ほうっと息をつくころにはゴールを走り抜けているのだ。その感覚が、長いあいだ感じられていなかった。なにが悪いのかもわからない。監督はいつものように、「走れ」と、そう言うだけだった。
朝、だれよりも早くグラウンドにやってきて走った。体育の授業のために生徒がやってこなかったら、そして、グラウンドが職員室に面していなかったら、授業なんてそっちのけで走りつづけていたかもしれない。
クラスメイトはもうすぐやってくる文化祭の合唱コンクールのことで頭がいっぱいのようだった。教室の壁に貼られたおおきな歌詞カードが、妙な緊張感を持って俺たちのことを睨んでいる。合唱なんてわずらわしいだけなのに、こういうとき、女子はやたらとやる気を出してぴりぴりしていた。けれど、ぴりぴりしていたのは女子たちだけではない。
授業中の貧乏揺すりが止まらなかった。制服を着ていることが窮屈に思えて、一刻も早く体操着に着替えて走りたいと願った。
帰りの会は苦痛だった。日直のどうでもいい一日の振り返りと、担任の連絡事項を聞く。会が終わると、震える指を抑えつけるようにしてグラウンドに向かった。一日を耐えてやっと走れる期待に震えているのか、また走ることに向き合わなければいけない現実に恐怖しているのか、正直、俺にはわからなかった。
新人戦の日は、どこまでも突き抜けそうな青空が広がっていた。土手に面した競技場の周囲に植えられたソメイヨシノの葉が、ほんのすこしだけ赤茶に色づきはじめている。風はほとんどない。暑くもないし、寒くもない。最高の陸上日和だ。
競技場を囲むように各学校のテントが張られ、辺り一面に色とりどりのユニフォームやジャージがうごめいていた。中学の、しかも新人戦なんて、力試しのためだと考えている部がほとんどだろう。それは陸上に限ったことではない。緑のフィールドと茶色のトラックを見おろすように集まった他校の選手たちはみんな、笑顔でアップをはじめていた。
柔軟のために両ひざを合わせてみようとしても、うまくくっつかなかった。それが震えのせいだということには、気づかないふりをした。土手のうえを走る女子選手の結ばれた長い髪を見て、美奈子を思いだす。
「明くん」
今朝の集合場所は学校だった。バスに乗りこもうとする俺のもとに、美奈子がやってきたのだ。運動部が新人戦に参加しているあいだ、吹奏楽部は一日中練習することになっている。
「がんばってね」
部員たちからは、彼女がその一言を告げるためだけに部活を抜け出してきたことをからかわれた。でも俺にとってはそんなこと、どうでもよかった。美奈子の声に、応じることもできなかった。
バスで競技場を目指す道中、美奈子の言った「がんばって」ということばの意味を考えていた。がんばるべきはこれまでの練習だ。どれだけ積みあげてこられたかで、今日の結果は決まる。今日の俺は、やってきたことをそのまま実践するだけだ。がんばる段階は、とうに終わっている。
俺は、がんばっていただろうか。
ふたり掛けの席にひとりで座っていた。バスのなかは決して余裕があるとは言えないから、ほかの席はぎゅうぎゅうに詰まっていた。窓際の席で、真っ青な空を見あげる。
いつでも走っていた。目を閉じると、学校のグラウンドが現実味をもって迫ってくる。ほこりっぽい風のにおい。空に向かって背伸びをするような桜の木。そのただなかで、俺はいつもひとりだった。深呼吸をして左足を前に振り出すと、砂まじりの風の温度がさがって頬に当たる。足が軽くて、どこまでも走っていけるんじゃないかと、本気で思う。そんなふうに思える走りを、俺はできるだろうか。
「剣持、いってこい」
「はい」
招集のアナウンスが聞こえて、監督に声をかけられた。ぐっとあごをひいて立ちあがる。一〇〇メートルは人気種目だ。レースに出る選手も多い。招集所の前には人だかりができていた。
冷えないよう身体を揺すりながら、意図的に動かしている以外の震えをまた感じとった。痙攣ではない。緊張でもない。心拍数はいつもどおりだし、汗だってかいていないのだから平常心だ。それなのに震えている。
怯えているんだろうか。
順番が回ってきて、スタート位置に立ったとき、その予測は事実となって俺の身体を襲ってきた。たった一〇〇メートル先のゴールが、遥か遠くに見える。もっと長い距離をいつも走っているのに、あそこまでたどりつくことなんてできやしないんじゃないかとこわくなった。
競技場のなかには、各校の選手が応援する声がこだましている。うるさい、と心から思った。舌打ちをしそうになったのを寸前で堪える。
スターティングブロックを調整しながら、息を整えた。より冷静になっていくたび、みぞおちのあたりが嫌な感じにざわざわするのを感じる。メガホンを使った応援の声に、また「うるさい」と感じた。けれど、剣持明、と選手の名前を読みあげるアナウンスが聞こえた瞬間、余計な音は俺のなかから消えた。
走るのはたのしい。蹴った瞬間に足が軽くなって、前にいきたくなる。風を切る音が耳元で鋭く響いて、ほうっと息をつくころにはゴールを走り抜けているのだ。その感覚が、長いあいだ感じられていなかった。なにが悪いのかもわからない。監督はいつものように、「走れ」と、そう言うだけだった。
朝、だれよりも早くグラウンドにやってきて走った。体育の授業のために生徒がやってこなかったら、そして、グラウンドが職員室に面していなかったら、授業なんてそっちのけで走りつづけていたかもしれない。
クラスメイトはもうすぐやってくる文化祭の合唱コンクールのことで頭がいっぱいのようだった。教室の壁に貼られたおおきな歌詞カードが、妙な緊張感を持って俺たちのことを睨んでいる。合唱なんてわずらわしいだけなのに、こういうとき、女子はやたらとやる気を出してぴりぴりしていた。けれど、ぴりぴりしていたのは女子たちだけではない。
授業中の貧乏揺すりが止まらなかった。制服を着ていることが窮屈に思えて、一刻も早く体操着に着替えて走りたいと願った。
帰りの会は苦痛だった。日直のどうでもいい一日の振り返りと、担任の連絡事項を聞く。会が終わると、震える指を抑えつけるようにしてグラウンドに向かった。一日を耐えてやっと走れる期待に震えているのか、また走ることに向き合わなければいけない現実に恐怖しているのか、正直、俺にはわからなかった。
新人戦の日は、どこまでも突き抜けそうな青空が広がっていた。土手に面した競技場の周囲に植えられたソメイヨシノの葉が、ほんのすこしだけ赤茶に色づきはじめている。風はほとんどない。暑くもないし、寒くもない。最高の陸上日和だ。
競技場を囲むように各学校のテントが張られ、辺り一面に色とりどりのユニフォームやジャージがうごめいていた。中学の、しかも新人戦なんて、力試しのためだと考えている部がほとんどだろう。それは陸上に限ったことではない。緑のフィールドと茶色のトラックを見おろすように集まった他校の選手たちはみんな、笑顔でアップをはじめていた。
柔軟のために両ひざを合わせてみようとしても、うまくくっつかなかった。それが震えのせいだということには、気づかないふりをした。土手のうえを走る女子選手の結ばれた長い髪を見て、美奈子を思いだす。
「明くん」
今朝の集合場所は学校だった。バスに乗りこもうとする俺のもとに、美奈子がやってきたのだ。運動部が新人戦に参加しているあいだ、吹奏楽部は一日中練習することになっている。
「がんばってね」
部員たちからは、彼女がその一言を告げるためだけに部活を抜け出してきたことをからかわれた。でも俺にとってはそんなこと、どうでもよかった。美奈子の声に、応じることもできなかった。
バスで競技場を目指す道中、美奈子の言った「がんばって」ということばの意味を考えていた。がんばるべきはこれまでの練習だ。どれだけ積みあげてこられたかで、今日の結果は決まる。今日の俺は、やってきたことをそのまま実践するだけだ。がんばる段階は、とうに終わっている。
俺は、がんばっていただろうか。
ふたり掛けの席にひとりで座っていた。バスのなかは決して余裕があるとは言えないから、ほかの席はぎゅうぎゅうに詰まっていた。窓際の席で、真っ青な空を見あげる。
いつでも走っていた。目を閉じると、学校のグラウンドが現実味をもって迫ってくる。ほこりっぽい風のにおい。空に向かって背伸びをするような桜の木。そのただなかで、俺はいつもひとりだった。深呼吸をして左足を前に振り出すと、砂まじりの風の温度がさがって頬に当たる。足が軽くて、どこまでも走っていけるんじゃないかと、本気で思う。そんなふうに思える走りを、俺はできるだろうか。
「剣持、いってこい」
「はい」
招集のアナウンスが聞こえて、監督に声をかけられた。ぐっとあごをひいて立ちあがる。一〇〇メートルは人気種目だ。レースに出る選手も多い。招集所の前には人だかりができていた。
冷えないよう身体を揺すりながら、意図的に動かしている以外の震えをまた感じとった。痙攣ではない。緊張でもない。心拍数はいつもどおりだし、汗だってかいていないのだから平常心だ。それなのに震えている。
怯えているんだろうか。
順番が回ってきて、スタート位置に立ったとき、その予測は事実となって俺の身体を襲ってきた。たった一〇〇メートル先のゴールが、遥か遠くに見える。もっと長い距離をいつも走っているのに、あそこまでたどりつくことなんてできやしないんじゃないかとこわくなった。
競技場のなかには、各校の選手が応援する声がこだましている。うるさい、と心から思った。舌打ちをしそうになったのを寸前で堪える。
スターティングブロックを調整しながら、息を整えた。より冷静になっていくたび、みぞおちのあたりが嫌な感じにざわざわするのを感じる。メガホンを使った応援の声に、また「うるさい」と感じた。けれど、剣持明、と選手の名前を読みあげるアナウンスが聞こえた瞬間、余計な音は俺のなかから消えた。
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山田忠雄・柴田武ほか編、二〇一二年『新明解国語辞典』第七版、三省堂。
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