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3.思い出す痛み
3-①
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走っても走っても、記録が出なかった。水を飲んでは走り、走っては吐き、吐いては水を飲んだ。野球部とサッカー部がほとんど占領したグラウンドのトラック上を、ひたすら走って回っていた中学時代だった。
夏休みが終わっても、太陽は眩しく地上を照らしていた。立っているだけでにじむ汗が、流れ落ちて土に跡を残す。
窓を開けているからだろう、吹奏楽部が練習する音が、音楽室のほうから響いていた。音楽のことはよくわからない。わからないけれど、クラリネットという楽器の音が、よく聞こえるような気がした。
「剣持! 足回ってねえぞ!」
中学の陸上部の監督は厳しいひとだった。いまから思えば陸上について無知なだけだったのかもしれない。根性論が好きな監督だった。
「あんなの気にすんな、足ちゃんと回ってるから」
「ああ」
部員たちはそんな監督に反発しているやつが多かった。でも俺は、「走った量の多いやつが強い」という監督の考え方が嫌いではなかった。走れば走るだけ、目指す先に近づける。俺の記録がなかなか縮まらないのは、走った量がほかの選手よりすくなかったからだ。
だからとにかく走った。まだ足りない、まだ、まだ。
「おつかれっした」
空にはまだ夕暮れの赤が残っている。校舎の影に隠れた太陽が、部活の終了時刻を知らせた。
田舎の中学に、部室なんてものは存在しない。グラウンドと校舎のあいだ、わずかなスペースがグラウンドを使う外の部活の更衣室代わりになっていた。ひとり、またひとりと、部員たちが帰っていく。その目はちらりと俺を見て、そしてふっとそらされた。どんなに集中していても、俺が気づいていないわけがない。どんなふうに接したらいいのか、あいつらは考えあぐねている。だけどそんなこと、気にするだけ無駄だと感じた。俺はあいつらとはちがう。走ることに対する意識が、俺とあいつらとでは比べ物にならない。
部員がすぐ帰ってしまっても、俺だけはストレッチを丹念にしてクールダウンを欠かさなかった。走りつづけるためにはメンテナンスも必要だ。筋肉を適度に維持して、その繊維を伸ばすことに専念する時間が必ずいる。走る量が足りないと思うからこそ、こんなところで身体を壊すわけにはいかない。あと一年足らずで俺たちは引退してしまうのだ。残された時間は有意義に使わなくてはいけない。
「明くん」
暗くなったグラウンド脇に、明るい声が響いた。気づいたら、音楽室から楽器の音がしなくなっていた。
「美奈子」
長い髪が外灯の光を透かして光る。名前を呼ぶと、たのしそうに笑った。クラリネットの入った黒いケースをその手に持っている。吹奏楽部の練習が先に終わると、こうして迎えにくるのだ。
美奈子とは、中一の終わりから付き合っていた。特別な感情があったわけじゃない。断る理由がなかったという、それだけのことだ。友人たちからは囃し立てられたけれど、たいした興味はなかった。
「今日もおつかれ」
「うん」
なにより、美奈子は自分の立場をよくわかっている相手だった。俺は陸上だけやっていられればそれでよくて、彼女に構っているひまなんてないと考えていた。美奈子は俺の意図を組み、そんな俺と文句ひとつ言わずに一緒にいる。
帰り道、美奈子の家まで遠回りをして送っていく。分かれ道のちいさな橋に着くまで、俺たちはたいてい、ほとんどなにも話さなかった。それでも、申し訳程度に手はつないでいたのだ。俺は左利きで、だから美奈子はいつも俺の右側を歩いた。美奈子の左手は細くて、肉がついているようには見えないのにやたらとやわらかい。
薄暗い公園の脇の小道を抜けて、まっすぐ南に進む。夕方はずいぶん涼しくなってきたけれど、つないだ右手にはじんわりと汗をかいていた。
俺は美奈子の家には近づいたことがなかった。親なんかに会ったら面倒くさいし、どんな家に住んでいるかにもたいして興味はなかった。そもそもこうして手をつなぐようになったのも、俺たちが一定の距離を保って会話もせずに歩いているのを見た友人に諭されてのことだ。反論するのにも労力がいる。他人の言われたことには、従っているほうが楽だ。はじめて手に触れたときの美奈子の驚いた顔を、今でも覚えている。
「じゃあね」
「ああ」
向かいあってあいさつをする。美奈子の目がなにかを訴えているのがわかった。ほんのすこしだけ低い位置にある瞳は、力強い眉のしたで揺れている。
鈍い俺でもわかった。頭のなかで、早くしてやれよ、と言う友人の声が響く。手をあげようと腕の筋肉が緊張したことに気づいて、その力を意識的に抜いた。
「早く帰んないと真っ暗になるよ」
我ながら冷たい声だった。美奈子が恥ずかしそうに髪を耳にかける。
「そうだね」
バイバイ、と、スカートのすそを揺らして美奈子が走り去っていった。その姿が坂の下に消える前に、踵を返してリュックの前ベルトを締める。深呼吸をひとつして、右足をぐっと踏み出した。この場所から中学校を挟んで真北にある家に帰るまで、いつも走るようにしている。だから制服ではなく体操着で下校するのが習慣だ。
山の端に残っていた夕陽がどんどん見えなくなって気温が下がっていく。走るときは暑いくらいのほうがいい。気持ちが高ぶって、どこまでも走っていけそうな気がする。秋は長距離の季節だけれど、涼しい風が当たる頬は、その風の温度をよろこんではいなかった。
俺が走れば家までの距離なんて大したことはない。すっかり暗くなった空を見あげて、別れ際に見た美奈子の顔を思いだす。そんな顔しなくてもいいのに、と思うほど、彼女は傷ついた表情を浮かべていた。拒否したのは俺だ。俺だけれど、そんなに傷つくようなことだっただろうか。
うっとうしい、と思う気持ちがフォームを雑にしていくのを、俺は止められなかった。
夏休みが終わっても、太陽は眩しく地上を照らしていた。立っているだけでにじむ汗が、流れ落ちて土に跡を残す。
窓を開けているからだろう、吹奏楽部が練習する音が、音楽室のほうから響いていた。音楽のことはよくわからない。わからないけれど、クラリネットという楽器の音が、よく聞こえるような気がした。
「剣持! 足回ってねえぞ!」
中学の陸上部の監督は厳しいひとだった。いまから思えば陸上について無知なだけだったのかもしれない。根性論が好きな監督だった。
「あんなの気にすんな、足ちゃんと回ってるから」
「ああ」
部員たちはそんな監督に反発しているやつが多かった。でも俺は、「走った量の多いやつが強い」という監督の考え方が嫌いではなかった。走れば走るだけ、目指す先に近づける。俺の記録がなかなか縮まらないのは、走った量がほかの選手よりすくなかったからだ。
だからとにかく走った。まだ足りない、まだ、まだ。
「おつかれっした」
空にはまだ夕暮れの赤が残っている。校舎の影に隠れた太陽が、部活の終了時刻を知らせた。
田舎の中学に、部室なんてものは存在しない。グラウンドと校舎のあいだ、わずかなスペースがグラウンドを使う外の部活の更衣室代わりになっていた。ひとり、またひとりと、部員たちが帰っていく。その目はちらりと俺を見て、そしてふっとそらされた。どんなに集中していても、俺が気づいていないわけがない。どんなふうに接したらいいのか、あいつらは考えあぐねている。だけどそんなこと、気にするだけ無駄だと感じた。俺はあいつらとはちがう。走ることに対する意識が、俺とあいつらとでは比べ物にならない。
部員がすぐ帰ってしまっても、俺だけはストレッチを丹念にしてクールダウンを欠かさなかった。走りつづけるためにはメンテナンスも必要だ。筋肉を適度に維持して、その繊維を伸ばすことに専念する時間が必ずいる。走る量が足りないと思うからこそ、こんなところで身体を壊すわけにはいかない。あと一年足らずで俺たちは引退してしまうのだ。残された時間は有意義に使わなくてはいけない。
「明くん」
暗くなったグラウンド脇に、明るい声が響いた。気づいたら、音楽室から楽器の音がしなくなっていた。
「美奈子」
長い髪が外灯の光を透かして光る。名前を呼ぶと、たのしそうに笑った。クラリネットの入った黒いケースをその手に持っている。吹奏楽部の練習が先に終わると、こうして迎えにくるのだ。
美奈子とは、中一の終わりから付き合っていた。特別な感情があったわけじゃない。断る理由がなかったという、それだけのことだ。友人たちからは囃し立てられたけれど、たいした興味はなかった。
「今日もおつかれ」
「うん」
なにより、美奈子は自分の立場をよくわかっている相手だった。俺は陸上だけやっていられればそれでよくて、彼女に構っているひまなんてないと考えていた。美奈子は俺の意図を組み、そんな俺と文句ひとつ言わずに一緒にいる。
帰り道、美奈子の家まで遠回りをして送っていく。分かれ道のちいさな橋に着くまで、俺たちはたいてい、ほとんどなにも話さなかった。それでも、申し訳程度に手はつないでいたのだ。俺は左利きで、だから美奈子はいつも俺の右側を歩いた。美奈子の左手は細くて、肉がついているようには見えないのにやたらとやわらかい。
薄暗い公園の脇の小道を抜けて、まっすぐ南に進む。夕方はずいぶん涼しくなってきたけれど、つないだ右手にはじんわりと汗をかいていた。
俺は美奈子の家には近づいたことがなかった。親なんかに会ったら面倒くさいし、どんな家に住んでいるかにもたいして興味はなかった。そもそもこうして手をつなぐようになったのも、俺たちが一定の距離を保って会話もせずに歩いているのを見た友人に諭されてのことだ。反論するのにも労力がいる。他人の言われたことには、従っているほうが楽だ。はじめて手に触れたときの美奈子の驚いた顔を、今でも覚えている。
「じゃあね」
「ああ」
向かいあってあいさつをする。美奈子の目がなにかを訴えているのがわかった。ほんのすこしだけ低い位置にある瞳は、力強い眉のしたで揺れている。
鈍い俺でもわかった。頭のなかで、早くしてやれよ、と言う友人の声が響く。手をあげようと腕の筋肉が緊張したことに気づいて、その力を意識的に抜いた。
「早く帰んないと真っ暗になるよ」
我ながら冷たい声だった。美奈子が恥ずかしそうに髪を耳にかける。
「そうだね」
バイバイ、と、スカートのすそを揺らして美奈子が走り去っていった。その姿が坂の下に消える前に、踵を返してリュックの前ベルトを締める。深呼吸をひとつして、右足をぐっと踏み出した。この場所から中学校を挟んで真北にある家に帰るまで、いつも走るようにしている。だから制服ではなく体操着で下校するのが習慣だ。
山の端に残っていた夕陽がどんどん見えなくなって気温が下がっていく。走るときは暑いくらいのほうがいい。気持ちが高ぶって、どこまでも走っていけそうな気がする。秋は長距離の季節だけれど、涼しい風が当たる頬は、その風の温度をよろこんではいなかった。
俺が走れば家までの距離なんて大したことはない。すっかり暗くなった空を見あげて、別れ際に見た美奈子の顔を思いだす。そんな顔しなくてもいいのに、と思うほど、彼女は傷ついた表情を浮かべていた。拒否したのは俺だ。俺だけれど、そんなに傷つくようなことだっただろうか。
うっとうしい、と思う気持ちがフォームを雑にしていくのを、俺は止められなかった。
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