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1巻
1-2
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†
「どもっ、高崎千幸さん。担当天使のミチオです」
「……はぁ」
目の前で白い羽根を生やした白いスーツの男が、にこやかに握手を求めた。
にへらと笑うその顔は、愛嬌のある童顔だ。
千幸は差し出された手におずおずと自分の手を重ねるが、その表情は胡散臭い人物を見るそれだった。
それでも彼女が騒ぎ立てないのは、周囲の状況があまりにも現実離れしていたからだ。
まず風景というものがない。奥行きさえわからないほど、ただどこまでも白いのだ。ふと自分を見下ろせば、着ていた服まで飾り気のない白いワンピースに変わっている。
幸か不幸か、千幸には展望台から落ちたという最悪の記憶があった。
さらに目の前には天使と名乗る男がいて、背にはとても作り物とは思えないほど精巧な、パタパタと動く羽根を生やしている。
それらのピースを嵌め込んでいけば、ありえないと思いつつもひとつのパズルが完成する。
(信じたくないけど、ここって天国って奴かも……)
はぁっとため息をついた千幸に、目の前の天使――ミチオはためらいがちに声をかけた。
「えーと、薄々わかっていると思いますが、まず貴女は先ほど天に召されました」
(そんなニコニコ言われると、なんだか死んだのを喜ばれてるみたいでムカつくんだけど……)
顔を顰めた千幸に気づかないのか、ミチオはなおもニコニコと笑顔で話し続ける。
「それでですねぇ、私、千幸さんに謝らなくてはならないことがあるのですよ」
「謝る?」
「そうなんです。実は千幸さんは今日死ぬ予定ではなかったんです」
「はぁぁ?」
ミチオの言葉に、千幸は思わず大きな声をあげた。彼はそんな彼女に構うことなく淡々と話を続ける。
「申し上げにくいのですが、今日死ぬのは千幸さんにぶつかったイノシシの予定だったんです」
「イノシシ!?」
(あの衝撃はイノシシだったのか……ってことは最後に見た黒いものが?)
「そうなんです。野生の獣というのは本能で生きているものですから、稀に鋭く死の存在を感じとるんです。そしてパニックに陥る個体がいるのですよ」
「……で?」
「そ、そんなに睨まないで下さいよ。笑った方が可愛いですよ。ほらスマイル、スマイル」
「……早く続き話して」
「わ、わかりました。続けますね。で、パニックになって逃げ出したイノシシが突進した先にいたのが千幸さんっ、貴女なんですー」
パチパチと拍手しながら、まるで千幸が何かに当選したかのようなミチオの態度。それにプチンと切れた彼女は、無言でミチオの腹に一発拳を打ち込んだ。
「ぐふっ……いいパンチです」
倒れかかりながらも親指を立てて見せたミチオに、千幸は冷たい目で先を促した。
「いいから、さっさと続き」
「は、はいっ。こんな事故は滅多にないことなんですけど、調べてみたら千幸さんって稀に見る不幸体質なんですね……お気の毒です」
(天使にまで同情されるほどの不幸体質だったのか……)
いたわしそうな眼差しを向けるミチオに、千幸の顔がヒクヒクと引き攣る。
「だって本来ならあの場所にイノシシが現れることは稀ですし、出たとしてもこの寒い日にあの展望台に人がいることも滅多にないので、イノシシがたとえ暴れたとしても問題はないはずなんです。つまりこんな偶然が重なる確率は、小数点以下のゼロがどんだけってくらいありえない事故なんです。これはもう、ある意味すごいことですよ?」
「そう……だね」
妙な感心をするミチオに、さすがにポジティブ人間の千幸もへこむしかない。
「落ち込まないで下さいよー。……それで続きなんですが、人間は不運と幸運の二つを決められた量を持って生まれ、両方を寿命までに使い切るものなんです。もちろん魂の位によって器の大きさは違いますから、運の量というのも違ってきますけど。で、人生の前半にほとんどの不運を使いきり、幸運をほとんど使ってない千幸さんは、これからの人生において不幸体質が一変して幸運体質になる予定だったんですよね。だって使わないと、寿命までに幸運を使い終わりませんから。しかも千幸さんの魂って実はかなり高位なんで、運の量も相当なんです。だからこそあれほどの不幸に見舞われてしまったわけですが。そういう訳で、本当は明日から不幸人生どころか、幸運人生の始まりのはずだったんですよ。――まぁ死ななければ、だったわけですが」
「マジで?」
「マジですー。でも死んじゃったんですよねぇ……」
いかにも残念とばかりにため息をつくミチオ。千幸の被害妄想かもしれないが、その眼差しは不憫な者を哀れむような、そんな同情を含んでいるように見えた。
死ぬ直前に言っていた「幸せになる」という言葉は現実になるはずだったのだ。
千幸の最大の不幸が『死』であり、それが手違いで訪れたのが、彼女の最後の『不幸』であることは否定の余地もなかった。
「てかわたし、可哀想すぎじゃん!」
「ですよねー。まぁイノシシのせいとはいえこちらの不手際もあるわけですし、謝罪も含めて頑張った貴女に神様からご褒美が出ることになったんで、あまりへこまないで下さい」
「ご褒美? 何? 何してくれるの?」
ご褒美の言葉に俄然元気になった現金な千幸は、無意識にミチオの首を両手で絞めながらぶんぶんと揺すった。
「うっ……死にますぅ」
「あ、ごめん」
(天使って死ぬのか?)
疑問を持ちつつも千幸は慌てて手を離し、ミチオの次の言葉を待った。
「ふぅ……死ぬかと思いましたよ、まったく。――えーと、そうそうご褒美の話でしたね。まず今回は突発的な事故なので転生の輪に入って次の転生を待つのではなく、すぐに新たな人生をやり直していただくことに決定しました。ゲームで言うところの『リセット』って奴ですね。しかもその際、神様のご厚意でかなり自由な選択肢が千幸さんに与えられます」
「自由な選択?」
「はい。生まれや容姿、特殊技能なんかですね」
「マジで?」
思わず目を輝かせる千幸に、ミチオはにこやかに笑いながらうなずいた。
「マジですよー。何かご希望はありますか? だめなら言いますから、とりあえず何でも言ってみて下さい」
(何でもかぁ……)
俯いて考え込んだ千幸は、しばらくしてやっと顔をあげた。
「……んーと、両親が揃ってて、もちろんわたしが成人するくらい……ううんっ、もっと長生きしてくれる両親ね。あとは兄弟とかも欲しいなぁ」
「家族? えーと、それだけですか? 絶世の美女にしてほしいとか、世界一のお金持ちになりたいとかはないんですか?」
「は? そういうの興味ないし。てかこんな普通の顔でもセクハラとか痴漢とか遭遇するんだよ?
絶世の美女とかだと色々大変そうじゃん。それにお金はあるに越したことはないけど、それもやっぱりありすぎたら困りそう。何事も程々がいいってもんよ。あっ、なら貧乏回避は頼んでおいた方がいいのかな? ま、別にいいか」
「千幸さんは欲がないのですねぇ。といいますか本当に女子高生ですか? なんか達観しすぎというか……」
「うるさいなぁ。生まれてから十八年。色々ありすぎてこんな性格になっちゃったのよ! てか、欲がないとは言わないわよ? やっぱりあんまりお馬鹿なのや、不細工っていうのは遠慮したいし。あっ、あとお肌の手入れがいらないような美肌が欲しい!」
「マニアックなとこつきますね……」
「うっさい! 肌は基本なのよ。玉のお肌は七難隠すって施設の院長先生が言ってたんだからっ」
「それ色白ですよ。まぁ根本的には間違ってませんが」
ミチオはそう言いながら、懐から手のひらサイズの白い手帳を取り出した。「容姿・生まれはおまかせ……」とつぶやきながら、開いたページにレトロな羽根ペンで書き込んでゆく。
「リクエストは美肌だけですね?」
「うん」
ふむふむとうなずき、ミチオは手帳で何かを確認したり記入したりした後、顔を上げた。
「家族構成の項目はよし……と。美肌も問題ないですよ。手入れなどしなくても、つるつるピカピカのお肌が貴女のものです」
「やったぁ!」
嬉しそうに手を叩く千幸を、ミチオは微笑ましく眺めている。
「喜んでもらえてこちらも嬉しいです。では次に特殊技能ですねぇ」
「特殊技能って何?」
「運動神経とか、音楽とか芸術の才能とか、記憶能力、ずば抜けた頭脳とかでしょうか。別の世界を選ばれるのでしたら、その他に剣とか魔法なども……」
「ま、魔法!!」
魔法という言葉に千幸の目がカッと見開き、ミチオは思わず一歩後退る。
実は千幸、施設を出て一人暮らしをしてからというもの、ゲームに嵌まっていた。
もともとファンタジー系の小説などが好きだったこともあり、古いRPGゲームを友人に借りたことをきっかけに、今ではすっかりゲーマーになってしまったと自負している。
そんな千幸にとって、魔法は憧れのものなのだ。
「魔法使いになりたい! それも色々な魔法が使えるって感じで!!」
勢い込む千幸に、ミチオは例の手帳をペラペラとめくりながら説明していく。
「魔法使いですかぁ……えーと、魔力系と精霊系、召喚なんかがありますね。色々って言うなら、今言ったのが全部使えるっていうのも可能ですよ」
「ま、マジですか!? もちろんそれでお願いします!!」
「魔法となると、そうですねぇ……ここなんかどうです?」
「どこ?」
「サンクトロイメと呼ばれる、剣と魔法の世界ですよ」
「それいいっ! 是非そこで!!」
「わかりました。では貴女の転生先の世界はサンクトロイメで」
「はいっ!」
先ほどまでミチオを冷ややかに見ていた千幸だが、今はまさしく神を見るかのような眼差しだ。
「ただそれだけオールラウンドになると、その世界での役割も大変になっちゃうかもですが……」
「リアル魔法使い! うわぁ楽しみになってきた! 早く転生しよう!」
千幸は魔法使いという言葉に浮かれ、ミチオが小さくつぶやいた言葉をまったく聞いてはいなかった。――そこに落とし穴があるとは思いもせずに。
「じゃあ、それ以外については神様がお決めになりますが、よろしいですね?」
「うん、おまかせでいいよ。あ、そだ。転生したらこの記憶はどうなるの?」
「千幸さんの記憶は残すことも、消すこともできますよ」
「へぇ……じゃあ残しておいてほしいかも」
ミチオは千幸の言葉に驚いて目を瞠った。千幸の人生は決して覚えていて楽しいものではないはずだ。それなのに残しておきたいのだろうか? と。
その問いを表情から読み取ったのだろう。千幸が口を開く。
「んー、次のわたしの人生って結構幸せそうじゃない? 両親揃ってるし。だからさ、覚えていた方がいいと思って。そしたら大事にできるでしょ。いろんなものを」
「千幸さん……」
照れたように笑う千幸をミチオはまぶしげに見た。
あのような『負』ばかりの人生でありながら、千幸の魂は穢れることなく美しい。これなら役割も十二分に果たしてくれるだろう。
それとは別にミチオは思う。平穏とはいい難いであろう転生後の世界で、彼女が幸せになれるように、と。
「わかりました。千幸さんの記憶は残します。あっ、千幸さんの意識は自我が目覚める頃まで曖昧にしときますね」
「ふぅん、よくわかんないけど、おまかせするよ」
「では、逝きますか?」
「了解!」
第二章 新たなはじまり
満月が窓ガラスごしに室内を照らす。
広い室内に設置された、大人が何人も寝られるような大きさの天蓋付きベッドには、三人の子供たちが寝転んでいた。
年齢と性別の違いはあるものの、三人とも濃い金髪に碧眼の、揃って端整な顔立ちをしているため、血の繋がりが容易に想像できた。
最年長は右端に寝転ぶ十歳前後の少年。兄弟中一人だけ癖のない真っ直ぐな髪を持つ彼は、幼いながらも兄としての自覚が垣間見える利発そうな少年だ。
真ん中には末っ子と思われる五歳ほどの少年。緩やかに波打つ髪と、整った可愛らしい顔立ちは兄よりも隣にいる少女の方によく似ていた。
最後は紅一点の少女。最年長の少年より一、二歳年下と思われる彼女は、勝気そうな強い光を放つ瞳と、生き生きとした表情が魅力の美しい少女だった。
「ジーン兄様、お母様は大丈夫かしら?」
「心配ないよ、アマリー。きっともうすぐ僕らに可愛い弟が生まれてくるさ」
妹の心配そうな声に、ジーンは安心させるように笑った。その声に半分まどろんでいた弟のユアンが、あくびまじりで口を挟む。
「ねぇ赤ちゃんは男の子なの?」
「あら、きっと女の子よ」
「いや男だと思うな」
「女よ!」
気の強いアマリーは、ニヤニヤと笑うジーンに食ってかかる。
そんな二人を見ながら、のんびり屋のユアンは楽しそうにつぶやいた。
「僕はどっちでもいいなぁ。それでいっぱい可愛がるんだ」
その言葉にジーンとアマリーは喧嘩をやめると、同意するように大きくうなずいた。
「どっちにしても僕たちが守ってあげよう」
「そうね」
「うんっ」
兄弟たちがうなずき合った時、にわかに廊下が騒がしくなった。
「ひょっとして?」
「かもっ!」
パタパタと行き交う足音に、兄弟はお互いの顔を見合わせるとベッドを飛び出した。
三人が廊下に出ると、メイドたちが慌しく廊下を行き来している。
その様子に声をかけることもできず佇んでいた三人だったが、こちらに歩いてきたふくよかで優しそうな女性――子守のマーサが彼らに気づいた。
「あらあら、皆様、起きてらっしゃったのですね」
「マーサ!」
パタパタと近づいてくる子供たちに微笑みかけると、マーサは視線を合わせるためにその場に膝をついた。
「ちょうど呼びに参ったのですよ。皆様、ご一緒にいらしたのですね」
「うん。ユアンが一緒にいてほしいって頼むから」
「だって、母様が……」
からかいを含んだアマリーの言葉に、ユアンは頬を膨らませて口ごもった。
マーサはそんなユアンの頬へ優しく手を当てると、満面の笑みを浮かべて告げた。
「奥様は大丈夫ですよ。先ほど妹君がお生まれになったのです」
その知らせに、三人は顔を見合わせて歓声をあげた。
マーサは三人のその様子を微笑ましく見つめた後、にこやかに訊いた。
「さぁ、お母上様と妹君にお会いになられますでしょう?」
「うんっ」
「では、参りましょう」
三人は揃って元気よくうなずくと、マーサと共に母のいる寝室へと歩き出した。
廊下の端にある両親の主寝室に近づくと、「おぎゃぁ」という甲高い赤ん坊の泣き声が三人の耳にも届いてきた。
「赤ちゃん泣いてるよ」
「ほんとだ」
心配そうなユアンとアマリーの様子に、マーサはクスクスと笑うと、安心させるように声をかけた。
「赤ちゃんは泣くのがお仕事なのですよ。それに大きな泣き声は元気な証拠なのです」
「じゃあこの子はすごく元気だね!」
三人はマーサの言葉に安心すると、今度はワクワクしながら両親の寝室に足を踏み入れた。
「おやおや、全員起きていたのかい?」
パタパタと部屋へ入っていった三人は、すぐにそう声をかけられた。
声の主は、彼ら三人の父であるアイヴァン・クレイ・リヒトルーチェ公爵。彼は眼鏡をかけた端整な顔に穏やかな笑みを浮かべながら、天蓋のあるベッドの傍らに立っていた。
そのベッドには、疲れは見えるもののいつもと同じ綺麗な母ミリエルの姿があり、三人はホッと安心して顔を綻ばせた。
「父様! 赤ちゃんを見せて!」
「母様、大丈夫?」
「赤ちゃんどこ?」
三人三様の言動に苦笑しつつ、アイヴァンは三人を手招きした。
「ここへおいで」
それを合図に我先にと彼に近づいた三人は、母親のベッドの横にある小さな寝台をとり囲んで中を覗きこんだ。
そこにはすやすやと眠る赤ん坊の姿。生まれたばかりだというのに肌はうっすらとピンク色がかった白磁で、ふわふわとした髪はこの世界でも珍しい銀色だった。
「可愛い!」
「さっきまで泣いてたのに、もう寝てる」
「天使みたいだね」
「お母様と同じ銀色の髪だわ」
「目は何色かな? 僕たちと同じかな?」
「きっと母様と同じ緑だよ」
興奮して一斉に口を開いた後、今度はうっとりと生まれたばかりの妹を見つめる三人に、両親はそっと微笑みを交わす。
三人の子供たちは、皆父親譲りの濃い金髪と青い目を受け継いでいる。だが生まれたばかりの彼女は唯一母親似の銀髪だった。
「父様、この子の魔力すごいね……」
じっと末の妹を見つめていたジーンが父を振り返りながら言った。同じく強い魔力を持つ身だからこそ気づいたのだろう。
「ああ、クレセニア随一と言われる、リュシオン王子にも匹敵するかもしれないな」
「リュシオン殿下にも? ……それって大変なことなんじゃ」
驚く長子に、アイヴァンは重々しくうなずく。聡い息子はそれがどんなに大変なことかわかったらしい。
アイヴァンはそんなジーンの頭に手を置くと、他の二人にも視線を合わせ、真剣な表情で口を開いた。
「いいかい? この子には平凡な人生は望めないかもしれない。だが幸せな人生にすることはできる。私とミリエルはそのための努力を惜しまないつもりだ。だからおまえたちも妹を精一杯愛してやってほしい。そうすればきっとこの子は幸せになれるだろう」
父の言葉に三人はそれぞれ顔を見合わせてから、しっかりと父にうなずいた。
「僕たちさっき誓い合ったんだ。皆でこの子を守るって」
「そうよ、わたしたちの妹だもの」
「僕もこの子を守るよ!」
三人の言葉にミリエルは思わず涙ぐむ。
「どうかこの子の行く末が幸せでありますように……」
母のつぶやきは、そこにいるすべての人の願いだった。
そしてそれは赤ん坊の魂の中に眠る、千幸の耳にもしっかりと届いていた。
(ありがとう、神様。こんな家族をわたしにくれて)
まどろみの中、赤ん坊の中で眠る千幸は幸せそうにつぶやいた。そしてまた優しいまどろみに身を委ねるのだった……
その日クレセニア王国にて、王家にも繋がる名門貴族、リヒトルーチェ公爵家の末娘として生まれた赤ん坊は、ルーナレシア・リーン・リヒトルーチェと名づけられた。
彼女の新たな人生はまだ始まったばかり――
†
「ルーナ」
そう呼ばれることにも慣れてきた。そんなことを思いながらルーナレシア――ルーナは呼ばれた方向へと顔を向ける。首のみを動かすだけの動作だが、生後三ヶ月のルーナにしてみればそれもやっと最近できるようになったばかりだ。
眠くてたまらない日常を過ごしながらも、少しずつ周りの様子がわかってきたルーナこと、前世、高崎千幸。
最初は起き上がることはおろか首さえ動かせない状況に、寝起きでぼんやりしたままの彼女は、肢体不自由にでもなったのかと焦り、大泣きしてしまったものだ。
そしてそんな時は、すぐに飛んできた母ミリエルや、子守のマーサ、そして時には父アイヴァンに抱き上げられて慰められるのが常だった。
ルーナ、ルーナ様と呼ばれて抱きしめられると、彼女はそこでやっと自分が無力な赤ん坊だと気づくのだった。そしてすぐにまたまどろみに引き寄せられてゆく。
「まぁ起きてたのね」
そう微笑み、ミリエルは赤ん坊用の寝台からルーナを抱き上げた。
「ミルクの時間だものね」
ミリエルの言葉が耳に入った途端、ルーナは内心青ざめる。
いくら現在母乳が必要な赤ん坊とはいえ、中身は元十八歳なのだ。授乳は恥ずかしい。というか拷問だ。
(あああ、無理!)
パタパタと手足を動かして抵抗を示すのだが、ミリエルは「あらあら、待ちきれないのね」とその綺麗な胸元を早速あらわにしようとする。
(うわぁ、女同士だけど……女同士だけどぉ)
恥ずかしさに耐え切れなくなったルーナは、意識を逸らすように自分へと暗示をかけた。
(寝るっ、眠ってしまえっ!)
そうやって目を閉じることをイメージすれば、彼女の意識はすぅっと遠ざかって、まどろみの中に引き込まれていくのがわかる。
そんな千幸の意識とは別に、実際のルーナはぱちりと目を開けて授乳されているのだ。
この方法は、生後まもなく恥ずかしさに耐えかねた千幸が編み出した対処法だった。
まだ自我のない赤ん坊ゆえに、根底にある千幸の意識がなくても、身体はその本能で行動するらしい。これは次に目が覚めた時に、ちゃんと空腹が満たされていることで証明済みだ。
千幸の記憶を残したまま転生したものの、自我のない赤ん坊にきちんと考えることができる千幸の意識があるのは不都合なことも多い。ミチオが言っていた意識を曖昧にしておくというのが、そのための救済策なのだろう。
こうして、曖昧に浮き上がってくる千幸の意識の中で、彼女はルーナという自分と、その周囲に慣れ、日に日に『リセット』した人生に違和感を感じなくなっていった。
「どもっ、高崎千幸さん。担当天使のミチオです」
「……はぁ」
目の前で白い羽根を生やした白いスーツの男が、にこやかに握手を求めた。
にへらと笑うその顔は、愛嬌のある童顔だ。
千幸は差し出された手におずおずと自分の手を重ねるが、その表情は胡散臭い人物を見るそれだった。
それでも彼女が騒ぎ立てないのは、周囲の状況があまりにも現実離れしていたからだ。
まず風景というものがない。奥行きさえわからないほど、ただどこまでも白いのだ。ふと自分を見下ろせば、着ていた服まで飾り気のない白いワンピースに変わっている。
幸か不幸か、千幸には展望台から落ちたという最悪の記憶があった。
さらに目の前には天使と名乗る男がいて、背にはとても作り物とは思えないほど精巧な、パタパタと動く羽根を生やしている。
それらのピースを嵌め込んでいけば、ありえないと思いつつもひとつのパズルが完成する。
(信じたくないけど、ここって天国って奴かも……)
はぁっとため息をついた千幸に、目の前の天使――ミチオはためらいがちに声をかけた。
「えーと、薄々わかっていると思いますが、まず貴女は先ほど天に召されました」
(そんなニコニコ言われると、なんだか死んだのを喜ばれてるみたいでムカつくんだけど……)
顔を顰めた千幸に気づかないのか、ミチオはなおもニコニコと笑顔で話し続ける。
「それでですねぇ、私、千幸さんに謝らなくてはならないことがあるのですよ」
「謝る?」
「そうなんです。実は千幸さんは今日死ぬ予定ではなかったんです」
「はぁぁ?」
ミチオの言葉に、千幸は思わず大きな声をあげた。彼はそんな彼女に構うことなく淡々と話を続ける。
「申し上げにくいのですが、今日死ぬのは千幸さんにぶつかったイノシシの予定だったんです」
「イノシシ!?」
(あの衝撃はイノシシだったのか……ってことは最後に見た黒いものが?)
「そうなんです。野生の獣というのは本能で生きているものですから、稀に鋭く死の存在を感じとるんです。そしてパニックに陥る個体がいるのですよ」
「……で?」
「そ、そんなに睨まないで下さいよ。笑った方が可愛いですよ。ほらスマイル、スマイル」
「……早く続き話して」
「わ、わかりました。続けますね。で、パニックになって逃げ出したイノシシが突進した先にいたのが千幸さんっ、貴女なんですー」
パチパチと拍手しながら、まるで千幸が何かに当選したかのようなミチオの態度。それにプチンと切れた彼女は、無言でミチオの腹に一発拳を打ち込んだ。
「ぐふっ……いいパンチです」
倒れかかりながらも親指を立てて見せたミチオに、千幸は冷たい目で先を促した。
「いいから、さっさと続き」
「は、はいっ。こんな事故は滅多にないことなんですけど、調べてみたら千幸さんって稀に見る不幸体質なんですね……お気の毒です」
(天使にまで同情されるほどの不幸体質だったのか……)
いたわしそうな眼差しを向けるミチオに、千幸の顔がヒクヒクと引き攣る。
「だって本来ならあの場所にイノシシが現れることは稀ですし、出たとしてもこの寒い日にあの展望台に人がいることも滅多にないので、イノシシがたとえ暴れたとしても問題はないはずなんです。つまりこんな偶然が重なる確率は、小数点以下のゼロがどんだけってくらいありえない事故なんです。これはもう、ある意味すごいことですよ?」
「そう……だね」
妙な感心をするミチオに、さすがにポジティブ人間の千幸もへこむしかない。
「落ち込まないで下さいよー。……それで続きなんですが、人間は不運と幸運の二つを決められた量を持って生まれ、両方を寿命までに使い切るものなんです。もちろん魂の位によって器の大きさは違いますから、運の量というのも違ってきますけど。で、人生の前半にほとんどの不運を使いきり、幸運をほとんど使ってない千幸さんは、これからの人生において不幸体質が一変して幸運体質になる予定だったんですよね。だって使わないと、寿命までに幸運を使い終わりませんから。しかも千幸さんの魂って実はかなり高位なんで、運の量も相当なんです。だからこそあれほどの不幸に見舞われてしまったわけですが。そういう訳で、本当は明日から不幸人生どころか、幸運人生の始まりのはずだったんですよ。――まぁ死ななければ、だったわけですが」
「マジで?」
「マジですー。でも死んじゃったんですよねぇ……」
いかにも残念とばかりにため息をつくミチオ。千幸の被害妄想かもしれないが、その眼差しは不憫な者を哀れむような、そんな同情を含んでいるように見えた。
死ぬ直前に言っていた「幸せになる」という言葉は現実になるはずだったのだ。
千幸の最大の不幸が『死』であり、それが手違いで訪れたのが、彼女の最後の『不幸』であることは否定の余地もなかった。
「てかわたし、可哀想すぎじゃん!」
「ですよねー。まぁイノシシのせいとはいえこちらの不手際もあるわけですし、謝罪も含めて頑張った貴女に神様からご褒美が出ることになったんで、あまりへこまないで下さい」
「ご褒美? 何? 何してくれるの?」
ご褒美の言葉に俄然元気になった現金な千幸は、無意識にミチオの首を両手で絞めながらぶんぶんと揺すった。
「うっ……死にますぅ」
「あ、ごめん」
(天使って死ぬのか?)
疑問を持ちつつも千幸は慌てて手を離し、ミチオの次の言葉を待った。
「ふぅ……死ぬかと思いましたよ、まったく。――えーと、そうそうご褒美の話でしたね。まず今回は突発的な事故なので転生の輪に入って次の転生を待つのではなく、すぐに新たな人生をやり直していただくことに決定しました。ゲームで言うところの『リセット』って奴ですね。しかもその際、神様のご厚意でかなり自由な選択肢が千幸さんに与えられます」
「自由な選択?」
「はい。生まれや容姿、特殊技能なんかですね」
「マジで?」
思わず目を輝かせる千幸に、ミチオはにこやかに笑いながらうなずいた。
「マジですよー。何かご希望はありますか? だめなら言いますから、とりあえず何でも言ってみて下さい」
(何でもかぁ……)
俯いて考え込んだ千幸は、しばらくしてやっと顔をあげた。
「……んーと、両親が揃ってて、もちろんわたしが成人するくらい……ううんっ、もっと長生きしてくれる両親ね。あとは兄弟とかも欲しいなぁ」
「家族? えーと、それだけですか? 絶世の美女にしてほしいとか、世界一のお金持ちになりたいとかはないんですか?」
「は? そういうの興味ないし。てかこんな普通の顔でもセクハラとか痴漢とか遭遇するんだよ?
絶世の美女とかだと色々大変そうじゃん。それにお金はあるに越したことはないけど、それもやっぱりありすぎたら困りそう。何事も程々がいいってもんよ。あっ、なら貧乏回避は頼んでおいた方がいいのかな? ま、別にいいか」
「千幸さんは欲がないのですねぇ。といいますか本当に女子高生ですか? なんか達観しすぎというか……」
「うるさいなぁ。生まれてから十八年。色々ありすぎてこんな性格になっちゃったのよ! てか、欲がないとは言わないわよ? やっぱりあんまりお馬鹿なのや、不細工っていうのは遠慮したいし。あっ、あとお肌の手入れがいらないような美肌が欲しい!」
「マニアックなとこつきますね……」
「うっさい! 肌は基本なのよ。玉のお肌は七難隠すって施設の院長先生が言ってたんだからっ」
「それ色白ですよ。まぁ根本的には間違ってませんが」
ミチオはそう言いながら、懐から手のひらサイズの白い手帳を取り出した。「容姿・生まれはおまかせ……」とつぶやきながら、開いたページにレトロな羽根ペンで書き込んでゆく。
「リクエストは美肌だけですね?」
「うん」
ふむふむとうなずき、ミチオは手帳で何かを確認したり記入したりした後、顔を上げた。
「家族構成の項目はよし……と。美肌も問題ないですよ。手入れなどしなくても、つるつるピカピカのお肌が貴女のものです」
「やったぁ!」
嬉しそうに手を叩く千幸を、ミチオは微笑ましく眺めている。
「喜んでもらえてこちらも嬉しいです。では次に特殊技能ですねぇ」
「特殊技能って何?」
「運動神経とか、音楽とか芸術の才能とか、記憶能力、ずば抜けた頭脳とかでしょうか。別の世界を選ばれるのでしたら、その他に剣とか魔法なども……」
「ま、魔法!!」
魔法という言葉に千幸の目がカッと見開き、ミチオは思わず一歩後退る。
実は千幸、施設を出て一人暮らしをしてからというもの、ゲームに嵌まっていた。
もともとファンタジー系の小説などが好きだったこともあり、古いRPGゲームを友人に借りたことをきっかけに、今ではすっかりゲーマーになってしまったと自負している。
そんな千幸にとって、魔法は憧れのものなのだ。
「魔法使いになりたい! それも色々な魔法が使えるって感じで!!」
勢い込む千幸に、ミチオは例の手帳をペラペラとめくりながら説明していく。
「魔法使いですかぁ……えーと、魔力系と精霊系、召喚なんかがありますね。色々って言うなら、今言ったのが全部使えるっていうのも可能ですよ」
「ま、マジですか!? もちろんそれでお願いします!!」
「魔法となると、そうですねぇ……ここなんかどうです?」
「どこ?」
「サンクトロイメと呼ばれる、剣と魔法の世界ですよ」
「それいいっ! 是非そこで!!」
「わかりました。では貴女の転生先の世界はサンクトロイメで」
「はいっ!」
先ほどまでミチオを冷ややかに見ていた千幸だが、今はまさしく神を見るかのような眼差しだ。
「ただそれだけオールラウンドになると、その世界での役割も大変になっちゃうかもですが……」
「リアル魔法使い! うわぁ楽しみになってきた! 早く転生しよう!」
千幸は魔法使いという言葉に浮かれ、ミチオが小さくつぶやいた言葉をまったく聞いてはいなかった。――そこに落とし穴があるとは思いもせずに。
「じゃあ、それ以外については神様がお決めになりますが、よろしいですね?」
「うん、おまかせでいいよ。あ、そだ。転生したらこの記憶はどうなるの?」
「千幸さんの記憶は残すことも、消すこともできますよ」
「へぇ……じゃあ残しておいてほしいかも」
ミチオは千幸の言葉に驚いて目を瞠った。千幸の人生は決して覚えていて楽しいものではないはずだ。それなのに残しておきたいのだろうか? と。
その問いを表情から読み取ったのだろう。千幸が口を開く。
「んー、次のわたしの人生って結構幸せそうじゃない? 両親揃ってるし。だからさ、覚えていた方がいいと思って。そしたら大事にできるでしょ。いろんなものを」
「千幸さん……」
照れたように笑う千幸をミチオはまぶしげに見た。
あのような『負』ばかりの人生でありながら、千幸の魂は穢れることなく美しい。これなら役割も十二分に果たしてくれるだろう。
それとは別にミチオは思う。平穏とはいい難いであろう転生後の世界で、彼女が幸せになれるように、と。
「わかりました。千幸さんの記憶は残します。あっ、千幸さんの意識は自我が目覚める頃まで曖昧にしときますね」
「ふぅん、よくわかんないけど、おまかせするよ」
「では、逝きますか?」
「了解!」
第二章 新たなはじまり
満月が窓ガラスごしに室内を照らす。
広い室内に設置された、大人が何人も寝られるような大きさの天蓋付きベッドには、三人の子供たちが寝転んでいた。
年齢と性別の違いはあるものの、三人とも濃い金髪に碧眼の、揃って端整な顔立ちをしているため、血の繋がりが容易に想像できた。
最年長は右端に寝転ぶ十歳前後の少年。兄弟中一人だけ癖のない真っ直ぐな髪を持つ彼は、幼いながらも兄としての自覚が垣間見える利発そうな少年だ。
真ん中には末っ子と思われる五歳ほどの少年。緩やかに波打つ髪と、整った可愛らしい顔立ちは兄よりも隣にいる少女の方によく似ていた。
最後は紅一点の少女。最年長の少年より一、二歳年下と思われる彼女は、勝気そうな強い光を放つ瞳と、生き生きとした表情が魅力の美しい少女だった。
「ジーン兄様、お母様は大丈夫かしら?」
「心配ないよ、アマリー。きっともうすぐ僕らに可愛い弟が生まれてくるさ」
妹の心配そうな声に、ジーンは安心させるように笑った。その声に半分まどろんでいた弟のユアンが、あくびまじりで口を挟む。
「ねぇ赤ちゃんは男の子なの?」
「あら、きっと女の子よ」
「いや男だと思うな」
「女よ!」
気の強いアマリーは、ニヤニヤと笑うジーンに食ってかかる。
そんな二人を見ながら、のんびり屋のユアンは楽しそうにつぶやいた。
「僕はどっちでもいいなぁ。それでいっぱい可愛がるんだ」
その言葉にジーンとアマリーは喧嘩をやめると、同意するように大きくうなずいた。
「どっちにしても僕たちが守ってあげよう」
「そうね」
「うんっ」
兄弟たちがうなずき合った時、にわかに廊下が騒がしくなった。
「ひょっとして?」
「かもっ!」
パタパタと行き交う足音に、兄弟はお互いの顔を見合わせるとベッドを飛び出した。
三人が廊下に出ると、メイドたちが慌しく廊下を行き来している。
その様子に声をかけることもできず佇んでいた三人だったが、こちらに歩いてきたふくよかで優しそうな女性――子守のマーサが彼らに気づいた。
「あらあら、皆様、起きてらっしゃったのですね」
「マーサ!」
パタパタと近づいてくる子供たちに微笑みかけると、マーサは視線を合わせるためにその場に膝をついた。
「ちょうど呼びに参ったのですよ。皆様、ご一緒にいらしたのですね」
「うん。ユアンが一緒にいてほしいって頼むから」
「だって、母様が……」
からかいを含んだアマリーの言葉に、ユアンは頬を膨らませて口ごもった。
マーサはそんなユアンの頬へ優しく手を当てると、満面の笑みを浮かべて告げた。
「奥様は大丈夫ですよ。先ほど妹君がお生まれになったのです」
その知らせに、三人は顔を見合わせて歓声をあげた。
マーサは三人のその様子を微笑ましく見つめた後、にこやかに訊いた。
「さぁ、お母上様と妹君にお会いになられますでしょう?」
「うんっ」
「では、参りましょう」
三人は揃って元気よくうなずくと、マーサと共に母のいる寝室へと歩き出した。
廊下の端にある両親の主寝室に近づくと、「おぎゃぁ」という甲高い赤ん坊の泣き声が三人の耳にも届いてきた。
「赤ちゃん泣いてるよ」
「ほんとだ」
心配そうなユアンとアマリーの様子に、マーサはクスクスと笑うと、安心させるように声をかけた。
「赤ちゃんは泣くのがお仕事なのですよ。それに大きな泣き声は元気な証拠なのです」
「じゃあこの子はすごく元気だね!」
三人はマーサの言葉に安心すると、今度はワクワクしながら両親の寝室に足を踏み入れた。
「おやおや、全員起きていたのかい?」
パタパタと部屋へ入っていった三人は、すぐにそう声をかけられた。
声の主は、彼ら三人の父であるアイヴァン・クレイ・リヒトルーチェ公爵。彼は眼鏡をかけた端整な顔に穏やかな笑みを浮かべながら、天蓋のあるベッドの傍らに立っていた。
そのベッドには、疲れは見えるもののいつもと同じ綺麗な母ミリエルの姿があり、三人はホッと安心して顔を綻ばせた。
「父様! 赤ちゃんを見せて!」
「母様、大丈夫?」
「赤ちゃんどこ?」
三人三様の言動に苦笑しつつ、アイヴァンは三人を手招きした。
「ここへおいで」
それを合図に我先にと彼に近づいた三人は、母親のベッドの横にある小さな寝台をとり囲んで中を覗きこんだ。
そこにはすやすやと眠る赤ん坊の姿。生まれたばかりだというのに肌はうっすらとピンク色がかった白磁で、ふわふわとした髪はこの世界でも珍しい銀色だった。
「可愛い!」
「さっきまで泣いてたのに、もう寝てる」
「天使みたいだね」
「お母様と同じ銀色の髪だわ」
「目は何色かな? 僕たちと同じかな?」
「きっと母様と同じ緑だよ」
興奮して一斉に口を開いた後、今度はうっとりと生まれたばかりの妹を見つめる三人に、両親はそっと微笑みを交わす。
三人の子供たちは、皆父親譲りの濃い金髪と青い目を受け継いでいる。だが生まれたばかりの彼女は唯一母親似の銀髪だった。
「父様、この子の魔力すごいね……」
じっと末の妹を見つめていたジーンが父を振り返りながら言った。同じく強い魔力を持つ身だからこそ気づいたのだろう。
「ああ、クレセニア随一と言われる、リュシオン王子にも匹敵するかもしれないな」
「リュシオン殿下にも? ……それって大変なことなんじゃ」
驚く長子に、アイヴァンは重々しくうなずく。聡い息子はそれがどんなに大変なことかわかったらしい。
アイヴァンはそんなジーンの頭に手を置くと、他の二人にも視線を合わせ、真剣な表情で口を開いた。
「いいかい? この子には平凡な人生は望めないかもしれない。だが幸せな人生にすることはできる。私とミリエルはそのための努力を惜しまないつもりだ。だからおまえたちも妹を精一杯愛してやってほしい。そうすればきっとこの子は幸せになれるだろう」
父の言葉に三人はそれぞれ顔を見合わせてから、しっかりと父にうなずいた。
「僕たちさっき誓い合ったんだ。皆でこの子を守るって」
「そうよ、わたしたちの妹だもの」
「僕もこの子を守るよ!」
三人の言葉にミリエルは思わず涙ぐむ。
「どうかこの子の行く末が幸せでありますように……」
母のつぶやきは、そこにいるすべての人の願いだった。
そしてそれは赤ん坊の魂の中に眠る、千幸の耳にもしっかりと届いていた。
(ありがとう、神様。こんな家族をわたしにくれて)
まどろみの中、赤ん坊の中で眠る千幸は幸せそうにつぶやいた。そしてまた優しいまどろみに身を委ねるのだった……
その日クレセニア王国にて、王家にも繋がる名門貴族、リヒトルーチェ公爵家の末娘として生まれた赤ん坊は、ルーナレシア・リーン・リヒトルーチェと名づけられた。
彼女の新たな人生はまだ始まったばかり――
†
「ルーナ」
そう呼ばれることにも慣れてきた。そんなことを思いながらルーナレシア――ルーナは呼ばれた方向へと顔を向ける。首のみを動かすだけの動作だが、生後三ヶ月のルーナにしてみればそれもやっと最近できるようになったばかりだ。
眠くてたまらない日常を過ごしながらも、少しずつ周りの様子がわかってきたルーナこと、前世、高崎千幸。
最初は起き上がることはおろか首さえ動かせない状況に、寝起きでぼんやりしたままの彼女は、肢体不自由にでもなったのかと焦り、大泣きしてしまったものだ。
そしてそんな時は、すぐに飛んできた母ミリエルや、子守のマーサ、そして時には父アイヴァンに抱き上げられて慰められるのが常だった。
ルーナ、ルーナ様と呼ばれて抱きしめられると、彼女はそこでやっと自分が無力な赤ん坊だと気づくのだった。そしてすぐにまたまどろみに引き寄せられてゆく。
「まぁ起きてたのね」
そう微笑み、ミリエルは赤ん坊用の寝台からルーナを抱き上げた。
「ミルクの時間だものね」
ミリエルの言葉が耳に入った途端、ルーナは内心青ざめる。
いくら現在母乳が必要な赤ん坊とはいえ、中身は元十八歳なのだ。授乳は恥ずかしい。というか拷問だ。
(あああ、無理!)
パタパタと手足を動かして抵抗を示すのだが、ミリエルは「あらあら、待ちきれないのね」とその綺麗な胸元を早速あらわにしようとする。
(うわぁ、女同士だけど……女同士だけどぉ)
恥ずかしさに耐え切れなくなったルーナは、意識を逸らすように自分へと暗示をかけた。
(寝るっ、眠ってしまえっ!)
そうやって目を閉じることをイメージすれば、彼女の意識はすぅっと遠ざかって、まどろみの中に引き込まれていくのがわかる。
そんな千幸の意識とは別に、実際のルーナはぱちりと目を開けて授乳されているのだ。
この方法は、生後まもなく恥ずかしさに耐えかねた千幸が編み出した対処法だった。
まだ自我のない赤ん坊ゆえに、根底にある千幸の意識がなくても、身体はその本能で行動するらしい。これは次に目が覚めた時に、ちゃんと空腹が満たされていることで証明済みだ。
千幸の記憶を残したまま転生したものの、自我のない赤ん坊にきちんと考えることができる千幸の意識があるのは不都合なことも多い。ミチオが言っていた意識を曖昧にしておくというのが、そのための救済策なのだろう。
こうして、曖昧に浮き上がってくる千幸の意識の中で、彼女はルーナという自分と、その周囲に慣れ、日に日に『リセット』した人生に違和感を感じなくなっていった。
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