リセット

如月ゆすら

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1巻

1-3

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 生後半年くらいになると、やっと授乳が終わり離乳食に切り替わった。もちろんルーナは嬉々として離乳してみせた。ミリエルの方が逆に寂しそうにしたほど、あっさりと。
 ルーナは知る由もなかったが、この世界の高貴な女性は一般的に乳母を雇い、自ら子供を育てることをしない。そういった意味ではミリエルは珍しいほどに子供たちを慈しんでいる女性だった。

「ジーンたちを離乳食に切り替えさせるのは大変だったのに……」

 ポツリとつぶやかれたミリエルの言葉に、ルーナは思わずギクリとする。
 そして前世での施設時代に、乳幼児の世話をした経験を思い出し、赤ん坊としてどこかおかしくなかったかと自問する――実はこの育児経験が大いに役立ち、ルーナはこのエセ赤ん坊ライフでボロを出さずに済んでいるのだった。

(さすがに中身が十八歳とかばれるのはね……)

 奇異な目で見られることも嫌だったが、それで両親や兄姉きょうだいたちを心配させることになるのはもっと嫌だとルーナは思う。

(中世の魔女狩りみたいなのがこの世界にないとは限らないし……考えすぎかも知れないけど、どちらにせよ悪目立ちしない方が賢明だよね。家族のためにも)

 すでにこの短い期間で、ルーナにとって彼らはかけがえのない存在になっていた。
 家族という存在を知らなかった前世があることで、余計に彼らが大切なのだと実感する。そのため彼らに迷惑をかけるくらいならば、エセ赤ん坊ライフを押し通すことなど苦ではなかった。

(でも離乳だけはしよう。あれはもう精神的ダメージが大きすぎる……)

 一人うんうんとうなずきながら、エセ赤ん坊のルーナは誓うのだった。
 それからの日々も、千幸としての記憶や知識、大人たちが交わす会話を聞くことなどによって、彼女は順調に赤ん坊ライフを過ごしてゆく。

(結局、名前が『千幸』から『ルーナ』になっただけなんだよね)

 そう納得した彼女は、ルーナとしての自分をしっかりと受け入れていったのだった。


 そしてルーナが誕生し、九ヶ月が経った頃。
 その日、ルーナはマーサに抱かれて屋敷の庭へと出た。
 キャッキャと走りまわる兄姉きょうだいたちを、ルーナは庭の芝生に敷かれたブランケットの上で大人しく座って眺めていた。
 繊細なレースを襟に使った、白いベビードレスのルーナは本当に愛らしく、大人しく座っている様子を横目で確認したマーサは、とろけそうな顔で目を細めた。

(それにしても美少年に美少女だなぁ、わたしの兄姉たちは。というか父様と母様も美形だから当たり前か。ほんとこの家族って美形揃いで目の保養だ。まぁ最初は『美形外人だっ!』とか思って両親や兄姉って言われても違和感がめちゃくちゃあったわけだけど)

 ぼんやりそんなことを思っていると、ふとルーナは気づく。

(そういえば、鏡見たことないよね。他の人の話から銀髪、緑の目っていうのはわかるけど。わたしの顔ってどんな感じなんだろ? ま、あの両親の子供だし、大抵の人に可愛いって言ってもらえるから、不細工っていうのは違うと思うけど。でもそうなると気になるもんよね)

 特に容姿に関してのお願いはしてなかったが、神様のサービスでもあったのかもしれないと思うと、ルーナは無性に自分の容姿を確認したくなった。
 ちらりとマーサを見ると、いつもルーナが大人しくしているためか、安心して彼女に背を向け、近くに運ばれてきたガーデンテーブルに兄姉たちのおやつを用意していた。
 ルーナはキョロキョロと辺りを見渡し、さほど遠くない場所に小さな池を見つけた。そしてもう一度マーサの様子を確かめる。

(んー、ちょっと遠いけど、あのくらいなら行けるかな?)

 小さな池との距離を目で測りながら、彼女はそんなことを思う。
 最近はハイハイができるようになったので、短い距離ならば誰かの手をわずらわせることもなく、一人で行動できるようになっていた。

(『池に行く』なんて、しゃべれないから説明もできないし、あれくらいならすぐ戻ってくれば平気よね)

 ルーナは一人納得すると、ハイハイで池を目指すべく行動を開始した。
 ゆっくりと四つんいで進むルーナだったが、池まで続く柔らかな芝生のおかげで、手のひらや膝もさして痛くはない。

(ハイハイっていうのがちょっと情けないけど、自分で動けるっていうのはいいね)

 ルーナはご機嫌でい続ける。最初はすぐ近くと思われた池だったが、赤ん坊である自分を考慮に入れてなかったため、その距離を進むのは意外と大仕事だった。
 さすがに疲労を感じながらも、なんとかルーナは池の岸辺に辿り着いた。

(やるじゃん、わたし!)

 自画自賛しながら、ルーナは池を覗き込む。
 揺れる水鏡に自分らしき赤ん坊が映ると、ルーナはその体勢のまま息を止めて凍りついた。

(な、なんだこれっ!)

 水面に映る自分の顔が、驚愕きょうがくの表情を作る。
 皆に言われていたような、銀の髪、緑の瞳の赤ん坊。まず、聞くのと見るのでは大違いなその派手な色彩の組み合わせに驚く。さらにその顔立ちのあまりの整いように言葉を失った。

(可愛いどころか、このまま成長したらとんでもない美少女じゃん! これ、サービスなんて域は軽く超えてるよ、ミチオ……)


 思いもよらない自分の美しい顔立ちに、ルーナは呆然とするしかなかった。
 やがて気を取り直した彼女は、再度池を覗き込む。そしてそこに映る自分に思わず見惚れてしまうのだった。
 ルーナに自己陶酔ナルシシズムはない。しかし今まで自分の姿を確認したことがなかったルーナにとって、そこに映る姿は他人のようなものだった。それも天使のように美しく愛らしい赤ん坊の姿なのだから、思わず見惚れてしまうのも仕方がないだろう。

(やばい、このままだとわたしナルシスト決定!? うっ、さすがにそれは嫌だ)

 ルーナは水面を見ながら、「これは自分、これは自分」と呪文のように繰り返した。
 なんとか自己暗示に成功し、水面に映る自分から視線をらした時だった。ツルリと小さな手が芝生の草で滑り、彼女の身体は前のめりに池へと突き出される。

(あっ!)

 そう思った時にはなすすべもなく、ルーナはそのまま池の中へダイブしていた。
 ――バシャンッ
 水音と共にルーナの全身が冷たい水に包まれる。

(不幸体質改善されたんじゃなかったのぉ!?)

 心の中でそんな叫びをあげている間にも、ルーナの身体はゆっくりと沈んでゆく。彼女は咄嗟とっさに息を止めたものの、小さな肺はすぐに悲鳴をあげ、苦しくて目を閉じた。

(うぅっ、誰かっ!)

 そう助けを求めた時だ。

『可愛いお姫様。落ちてしまったのね』

 不意に聞こえた声――というより頭に直接響くもの――に、ルーナは驚きで目を開けた。
 それと同時にためていた空気を吐いたルーナは、その反動で水を飲んでしまい、さらにパニックにおちいる。

『大丈夫。今助けてあげるから』

 優しくそう言われた瞬間、ルーナをしゃぼん玉を思わせる丸い球体の泡が包んだ。驚きでまたしても口を開けてしまったルーナだが、今度口に入ってきたのは水ではなく新鮮な空気だった。

(息ができる……?)

『ふふふっ、お転婆は程々にしなければだめよ、お姫様』

 目に見えない誰かが楽しそうにそう告げると、泡が水の中をゆっくりと浮かび上がってゆく。
 水上にあがると、彼女を包んでいた泡はすぐに消えてしまった。代わりに水面の穏やかな波がゆらゆらとルーナの身体を持ちあげたまま岸へと運んでゆく。
 やがて池の岸に辿り着くと、波はゆるやかに盛り上がり、地面に彼女を優しく置くとすぐに何事もなかったかのように引いていった。

(な、何、今の?)

 呆然とするルーナに、遅まきながら事態を知った兄姉きょうだいやマーサが駆け寄ってきた。

「ルーナ!」
「ルーナ様!」

 池の岸辺に座り込むルーナを、駆け寄ってきたマーサが力いっぱい抱きしめる。

「ああ、ルーナ様、申し訳ありません」

 涙を流して謝るマーサを見て、ルーナは途端に激しい後悔に襲われた。
 軽い気持ちで行動して、彼女を泣かせてしまった。「ごめんなさい」と言えない赤ん坊の自分が歯がゆくて涙が溢れた。
 ルーナはマーサのふくよかな胸に包まれ、泣きながら心の中で詫びる。
 慰めるように何度も兄姉たちに背中を撫でられていると、疲労も相俟あいまってルーナはやがてマーサの腕の中で眠りに落ちていった。


「マーサ泣かないで。ルーナは無事だったんだから」

 泣き止まないマーサをアマリーが必死で慰めると、彼女は腕の中ですやすやと眠るルーナを見、続いて心配そうに自分を見上げる子供たちを見て、やっと小さく微笑ほほえんだ。

「はい、申し訳ありません。アマリー様」

 ホッとした空気が流れたところで、マーサの横に座り込んでいたユアンが口を開いた。

「ねぇ、ルーナは池に落ちたのに、なんで濡れてないのかな?」

 ルーナのベビードレスを触りながら、ユアンは不思議そうに兄を見た。
 確かに彼の言う通り、池に落ちたはずのルーナ本人はおろか、その着ているドレスもまったく濡れてはいなかった。

「池に落ちてなかったってことはないよね?」
「そんなはずないわ! 水面から浮き上がってきたのを見たもの」
「僕もだよ、だから不思議なの」

 アマリーもルーナのドレスを確認するが、やはり湿ってさえなかった。
 その様子に一人難しそうな顔をしていたジーンは、確信がないのか自信なさげに答える。

「水の精霊のせいかも。精霊は気に入った人間に〈加護〉を与えるから」

たぐまれ魔力マナに、精霊の加護か……)

 聡明な少年は、妹の行く末を思うとその顔をひっそりと曇らせた。


     †


 控えめなノックの音に、書斎で書類の整理をしていたアイヴァンは手を止めてドアを見た。
 すぐさま控えていた家令のコンラッドがドアを開くと、顔を出したのはアイヴァンの長子であるジーンだった。

「父様、少しよろしいですか?」

 息子の言葉にアイヴァンはうなずくと、コンラッドに目配せする。すると心得た家令は一礼した後すぐさま部屋を出ていった。

「どうした? ジーン」

 息子を書斎のソファに座らせると、アイヴァンは自分もその向かい側に腰を下ろした。

「実は昨日のことなんですが……」
「ああ、マーサから聞いている。彼女のことが心配だったのか?」

 アイヴァンは息子の深刻な様子にあたりを付けて尋ねた。
 昨日ルーナが池に落ちたことを報告してきたマーサはかなり取り乱していた。子守ナニーとして失格なので解雇してくれとまで言ってきて、アイヴァンの方が困ってしまったほどだ。

「マーサは辞めさせられてしまうのですか?」

 心配そうに尋ねる息子に、アイヴァンは首を振って答えた。

「いいや、こんなことが二度と起こらないように注意はしたが、辞めさせるつもりはない。おまえたちも慕っているし、マーサほど有能な子守はいないからな」
「よかった」
「ルーナがあまりに聞き分けのいい赤ん坊だから失念していたが、赤ん坊は本来突飛なことをするものだ。今後はマーサも気をつけるだろうし、こんなことは二度と起こらない」
「はい。僕も今後はもっとしっかりルーナを見てることにします」
「そうだな。ところで話はそれだけか?」

 マーサの進退を聞いても、硬い表情のままの息子を不思議に思い尋ねると、ジーンは躊躇ちゅうちょした後話し始めた。 

「ルーナのことなんです」
「ルーナの?」

 いぶかしげな父に、ジーンはコクンとうなずく。

「父様。ルーナが池に落ちた時、まるで水があの子を返すように水面が浮き上がって、池の岸まで運んだんです。あれって精霊の仕業じゃないかなって……」
「…………」
「それに、岸に上がったルーナの衣服は全然濡れてなかったんです」

 ジーンは黙ったままの父を不安げに見上げる。
 やがてアイヴァンはゆっくりと口を開いた。

「人に無関心なはずの精霊が加護を与えるか……。まったくルーナはつくづく規格外らしい。尋常ならぬ魔力に、精霊の加護。まだ何かあったとしても最早私は驚かぬよ」
「父様、ルーナは大丈夫なのでしょうか?」

 魔法王国と呼ばれるクレセニア王国では、魔力があること自体は誇れこそすれ、困ることではない。だがそれが、明らかに尋常ではない強大なものだとすると話は違ってくる。
 その力を利用しようとする者や、恐れる者。様々な思惑が絡んでくることは容易に想像できた。
 それによって狙われる可能性も――
 リヒトルーチェ公爵家の姫という立場は、ある程度の盾にはなる。しかしそれでも絶対かつ万全なものではないのだ。
 また精霊の加護を受ける者は、精霊使いの素質があると言われている。
 精霊を使役できる者があまりにも希少なため、その存在自体が奇跡と呼ばれる精霊使い。
 そのため彼らはあがめられる一方、力の大きさに恐れられてもきた。実情を知るアイヴァンにとっては、ルーナがその希少な才に恵まれていることは、手放しで喜べるものではなかった。

「ルーナも今はただの赤ん坊だ。だが、いずれその存在は隠せなくなる。それまでに我々で何ができるのか考えよう」
「はい。僕らの大事な家族だから守らなきゃ」
「ああそうだな」

 力強くうなずく息子に、アイヴァンは頼もしげに微笑ほほえんだ。


     †


 緩やかに、優しく時は流れる。
 人生を『リセット』し、異世界に転生した千幸ことルーナは、三歳の誕生日を迎えていた。

 クレセニア王国、王都ライデールにある広大なリヒトルーチェ公爵家の本邸。
 その一階の中庭に面した図書室は、子供たちの学習室としても使われている。
 天井まである書棚には、びっしりと隙間なく本が置かれ、部屋の中央には大きな長方形のテーブルと椅子。窓際にはゆったりとしたカウチの他に、ロッキングチェアも用意されている。
 その他にも星空を描いた天球儀や、世界地図が貼られた衝立ついたて、さらに珍しい他国の民芸品などもあちこちに飾られていた。
 そんな遊び心も満載な図書室のテーブルで、ユアンと彼の魔法の教師、トールが向かい合っていた。

「前回まで治癒魔法の基本をお教えしましたが、今日からは防御魔法プロテクトについて学びます」
「はいっ」

 素直に返事をする教え子に、教師は満足げにうなずいて続ける。

「まずは基本の防御魔法を勉強しましょう」

 そう言うと教師はテーブルの端に飾られていた花瓶を、中央へと持ってきた。

「この花瓶の周りに防御障壁を張りめぐらします――『ラノア・リール』」

 教師である魔法使いが呪文を唱えると、一瞬花瓶の周りに透明な箱が現れて白く光った。
 すぐに見えなくなった防御壁だが、ユアンが花瓶に触れようとすると不可視のガラスがあるかのようにその手が弾かれた。

「これは一番単純な防御魔法です。『ラノア・リール』は古代魔法言語エンシェントマジックスペルで障壁を意味し、すべての防御魔法の基本の言語となる呪文スペルなのです。高度なものになれば、様々な効果を付加できるようになるので、しっかりと使いこなせるようにならねばなりません」
「はい、先生」
「では集中して呪文の詠唱を」

 ユアンは教師の合図にうなずくと、真剣な表情で魔法を唱えた。
 サンクトロイメで最も一般的な魔法は、かつて存在した古代魔法文明の流れをむ古代魔法言語を使用したものだ。
 魔法言語、または魔法語とも呼ばれる古代魔法言語は、言葉ひとつひとつに意味があり、力が宿っている。
 その言葉に宿るまじないを媒体に、自分の魔力を発動させ、様々な事象を起こすのが魔法だった。

『ラノア・リール』

 ユアンが呪文を唱えると同時に、先ほど教師が見せたような、完璧な防御魔法が花瓶の周りに張り巡らされる。
 その瞬間、鈴を鳴らしたような愛らしい声がユアンと教師の耳に届いた。

「わぁっ、しゅごーい」

 驚いて二人が声の方を見ると、いつの間にいたのか目をキラキラさせたルーナが図書室の入口に立っていた。

「ルーナ?」
「ユアン兄しゃまぁ」

 トコトコと近寄ってくるルーナの姿は、まさに小さな天使。まっすぐな銀髪が揺れ、水色のモスリンドレスの背中にある大きな白いリボンが、まるで羽根のように見える。
 ユアンは近づいてくる妹を抱き上げると、自分の膝に乗せた。

「ルーナどうしたの? 勝手に出歩いたらマーサが心配するよ」
「ごえんなしゃい」

 ペコリと頭をさげるルーナに、妹に弱いユアンはそれ以上何も言えず苦笑する。

「しぇんしぇい、邪魔しないから、いていい?」

 コテンと首を傾げてお願いするルーナに、魔法研究一筋の朴念仁ぼくねんじん教師もあっさりと陥落した。

「もちろんですよ、ルーナ様」

(さすがはルーナ。あの厳しいトール先生も逆らえない……)

 そんなことを兄が思っているとは知らず、ルーナはワクワクと授業の続きを待っていた。
 ユアンが教師と共に防御魔法の練習をしている横で、ルーナは彼の教科書とも言える魔法書を眺めていた。
 最初は魔法の練習に興味津々だったルーナだが、精度を高めるために何度も繰り返すのを眺めているばかりではさすがに飽きる。そこで目の前に置かれていた兄の魔法書を読むことにしたのだ。
 もちろんルーナがそれを読めるとは思いもしない二人は、彼女が本で遊んでいるくらいの認識だ。
 パラパラとページをめくるフリを繰り返し、兄たちの注意がれたのを見計らってじっくり読み始める。

(神様の贈り物である特殊能力のせいなのか、読み書きに苦労しないのは助かるなぁ)

 ルーナには、ありがたいもの、ありがたくないものを含めて、いくつかの贈り物が、知らない間に付与されていた。
 やたらと美少女な容姿、前世より優れてる記憶力に加え、この世界の言葉や文字が理解できる能力などだ。また確認できていないだけで、他にも何かあるかもしれないのが怖いところだ。
 もっとも身体の動きは一般的な子供と変わらない。そのため三歳児らしからぬ言動はするものの、舌がまわらないため彼女のしゃべり方は舌足らずで愛らしい。
 この舌足らずが、ルーナを年相応に見せているのを自覚しているので、彼女はあえて直そうとも思わなかった。そしてそれは、いずれ直るというのも理由にあるのだが。

(なになに『魔法は基本的に二つの系統から成り立つ。攻撃、そして攻撃補助の魔法を黒魔法といい、一方防御や強化補助、治癒の魔法を白魔法という。これらすべての魔法は古代魔法言語の呪文を媒体に、自身の魔力で様々な現象を起こすことができる』か。ふぅん呪文ねぇ。言霊ことだまって感じよね。意味のある言葉で魔法発動って)

 魔法使いになりたくてこの世界に転生したルーナ。すっかり魔法書にのめり込んでいる。

(わたしも早く魔法習いたいなぁ。勉強は嫌いだけど、魔法使いになるためならすっごく頑張るのに。魔法の才能があるのはわかってても、使い方がわかんなきゃ使えないし。あーあ、ユアン兄様いいなぁ。話を聞く限りじゃ魔法の勉強は五歳ぐらいからっていうし、まだまだ先かぁ)

 うーんとうなりながら魔法書を睨みつけるルーナに、トールが気づいて声をかける。

「ルーナ様、そろそろお部屋に戻られますか?」

(あ、飽きたと思われたのかな?)

 むしろもっと読みふけっていたかったが、怪しまれるのは厄介なので、ルーナはコクンと素直にうなずいてみせた。

「お部屋に帰りましゅ。しぇんしぇい、兄しゃま、お邪魔してごえんなしゃい」
「いいのですよ、ちっとも邪魔じゃありませんでしたし」

 兄の膝から降りてルーナが舌足らずな口調でそう言うと、相好を崩したトールはにこやかに返した。
 ルーナはにっこり笑って兄と教師に小さな手を振ると、トコトコと歩いて図書室を出ていった。
 パタンと図書室のドアが閉まると、ルーナはドアを背にその場に立ち止まる。

(魔法の勉強かぁ……兄様なら味方になってくれる?)

 くるりと振り返ると、ルーナは閉じられたドア越しのユアンにそう心の中で尋ねた。


     †


 それから数日後、しとしとと絶え間なく雨の降る日。
 母ミリエルの部屋で過ごしていたルーナは、窓際に置かれたソファに座り、膝の上に革装丁の大きな本を広げていた。
 もっとも本はそれだけではなく、テーブルの上にも様々な種類のものが所狭しと置かれている。
 現在彼女が広げている本の表紙には、『植物図鑑』と金の題字が押されている。
 文章よりも図解が多いため、描かれた絵を楽しんでいるのだろうと周囲は思っていたが、三歳にして読み書きに不自由しないルーナは、実際は文章の方もしっかり熟読している。他にも子供向けの地理・歴史書に始まり、動物図鑑といったものまでも読破済みだった。
 それらの知識で得た情報をまとめると、地球とは異なるこのサンクトロイメという世界のことが少しわかってくる。

 サンクトロイメには、大陸がふたつある。
 ひとつはフォーン大陸といい、羽根を広げた鳥の形をした、地図の大半を占める大きな大陸だ。
 もうひとつは北にあるネビュリンド大陸で、フォーンに比べると三分の一ほどの大きさであり、こちらは魔物と魔族の住処と言われる極寒の大陸のため、人が住まうことはできない。ここには昔、魔王が封印されたとか、古代魔法文明が栄えていたなど様々な伝承があるらしい。
 サンクトロイメに最も多く存在する種族は人間で、髪色の多彩さと、魔力マナと呼ばれる不思議な力を有している者が多く存在することを除けば、地球と何ら変わりはない。
 また亜人あじんと呼ばれる、獣に近い姿を持つ者たちも存在するが、彼らは大陸外の島々に住む者が多く、フォーン大陸で見かけることはまれだった。
 生息する動植物については、異世界ならではと納得できるようなものも存在すれば、地球でも見かけるようなものも多く存在した。もっとも同じと言ってしまうには語弊があるかもしれないが。
 例えば赤い林檎もあるが、葡萄のような紫色の林檎もある――ちなみにその味は梨そのものだ。

(時代とかはともかく一番地球と違うのは、魔法があること、魔物とかが存在することかなぁ)

 そんな風にルーナが思う通り、多少の違いはあるもののその生活様式は地球の中世から近代あたりのヨーロッパに近い。電気といった科学的なものは発達しておらず、その代わり組み上げられた魔法によって動く魔道具マジックツールという便利用品が存在する。
 もっとも魔道具は高価なものなので、庶民レベルにまで普及している品は少ないのだが。


 ルーナが本を眺めながら思いをせていると、ノックの音が彼女の耳に届いた。コンコンコンッという親愛を示す三回の合図に、それが母にとって親しい人物――つまり彼女にとっても親しい人であることを知る。
 ミリエルは手にしていた刺繍道具をテーブルに置くと、「どうぞ」とドアへ向けて声をかけた。すると待ちきれなかったように勢いよくドアが開き、アマリーとユアンが部屋へ飛び込んできた。

「やっぱりルーナここにいたぁ!」

 アマリーは元気良く声をあげると、パタパタと駆け寄ってルーナの横に腰掛ける。一方ユアンはニコニコしながらのんびりと近づいてきた。

「あらあら、二人ともお勉強はどうしたの?」

 部屋の時計を確認してから、ミリエルはとがめるように二人に問いかけた。

「今日は先生が私用でいらっしゃらないからお休みだもの」
「そんなこと言って、また授業をさぼったんじゃないでしょうね?」
「母様、ほんとに先生はお休みなんですってば」
「本当なんだよ」

 アマリーを助けるようにユアンが口を挟むと、ミリエルはクスクスと笑いながらうなずいた。

「それなら良いけど、貴女あなたももうすぐレングランド学院に入学するのですから、しっかり勉強しておかないと入学早々付いていけなくなりますよ」
「あーあ、レングランドに入るより、わたしはお家で家庭教師に教えてもらう方がいいのにな。だって入学したら週末しか家に帰れないし……」

 母の言葉に、アマリーは大げさに嘆いてみせた。
 レングランド学院とは王都ライデールにある王立学校のひとつだ。
 身分の貴賎きせん、年齢にかかわらず広く優秀な人材に門戸を開いており、魔法のみならず様々な学問を学べる国内最高学府である。また、ライデールが学術都市と言われる所以ゆえんになった学校でもあった。
 さらに学校と同じ敷地内に建つレングランドの学術研究施設では、魔法学、医学、工学、農学などの様々な研究がなされており、その研究結果が国を栄えさせている。
 レングランド学院への入学資格は十歳以上であることで、また全寮制のため学院に入学すれば週末しか自宅に帰ることができなくなる。もっとも遠方の生徒などはそれも叶わず、年に数回の帰宅になる者も多い。
 すでにジーンは学院に入学して一年になり、やはり平日は寮で過ごしている。
 アマリーもそうなるのかと思うと、ルーナも寂しさがこみ上げてきた。

「姉しゃまに毎日会えないのは、わたちもしゃみしい」

 しゅんとルーナが項垂うなだれると、アマリーは感激したのかルーナをぎゅっと抱きしめた。

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