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大雨の後
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「奇病?」
兵衛が持ってきた白湯を美味しそうにすすりながら、紘子が聞き返した。
「泥にまみれていた短い丈の着物は、兵衛の必死の説得で、こざっぱりとした花橘の小袿に着替えられている。
作業するのに邪魔だからという理由で、市場女のように結い上げられた髪は、ほどかれ、背に波打っていた。
それでも、ほとほと邪魔なのか、髪は几帳をあげるために用いられている紐で、無造作に束ねられている。
春から夏に向かう日差しは、兵衛が母屋に下がった今、御簾や几帳に遮られることもなく、うらうらと部屋の中へ入り込んでいた。
「うん。体中に鱗が生える奇病だって。宇治の西の方に、喜撰山ふもとあたりの、小さな村で発生してるらしいよ。老若男女、家畜に至るまでっていうんだから、そうとうだね」
「鱗ねえ……?」
「鱗が生えてきたなと思ったら、体中を覆いつくして、ある時呼吸ができなくなって、死に至るとかなんとか……うまいな。この菓子」
忠義は小さな菓子をつまみながら言った。
「困り果てた国守の願いでな。陰陽寮から調査に行かせたんだが、いつまでたっても帰京しない。しょうがないから、式神を使いにやったら、派遣した連中まで奇病にかかったらしくてな。帰るに帰れないらしい。早めに解決しようと、若手の中でも腕利きの陰陽師を送ったのが裏目に出た。大雨の事後処理はまだだし、疫病の季節も間近で、結界の補強はせねばならんしで、人手が足りん。それが、言うに事欠いて……」
ぎりっと清灯が奥歯を噛んだ。
「……なに?」
幼馴染達が宮中で起こっている些細な諍いの愚痴など、聞いたことない紘子は、珍しそうに先を促した。
「忠義。お前が話せ。口が疲れた」
ふいっと。清灯が横を向いた。
「お前さあ……。まったく。そんな風に宮中でも、表情豊かにすれば、ちょっとは生きやすくなるだろうに」
「そんな必要はない」
「いやいや。友達とかさ、結構大事よ。連中、お前が何考えてんのか分からないから、怖くて、何にも言えなかったり、突っかかって来られたりするんだろ? 今日だって、あんなひどい言葉を表情一つ変えずに聞いてやっているから、バカにされてると思って怒るんだよ」
「そんなことしていない。あんな連中に本気になったとて、しょうがあるまい」
そこだよ。
忠義ががっくりと崩れ落ちた。
「黙って聞いている方の身になれよ。腹が立ってしょうがないんだぞ!」
清灯が、驚いたような顔をして忠義を見た。
「そこんとこわかれよ」
「……すまん」
「ほんとだよ」
「いや。あのさ。二人の世界を作るのはいいけどさ。あんたたち、あたしの存在忘れてない?」
紘子は、手をひらひらさせながら、間に入った。
「な、なに言ってんだよ! 忘れるわけないよ!」
「……忘れてないぞ」
どうだか。
慌てたように言う忠義と、何を言ってるんだという清灯に、紘子は肩をすくめた。
「だから、内大臣がさあ……」
忠義が語る先ほどの会議の内容を聞きながら、紘子はそっとため息をついた。
あれは、いつの頃からか。
内裏の出仕が始まって、忙しいながらも、楽しそうに内裏のことを話す忠義とは反対に、清灯は、どんどん口数が少なくなっていった。
やがて、他人がいる前では、ほとんど感情を表すことはなくなり、表情が乏しくなっていったのは、いつからか。
忠義の話では、三人でいる時だけ、いくぶん、柔らかい表情をしているということだが……。それもいつまで持つのだろう。
小さい頃から、あれがしたい。これが欲しいと言わない子だった。
いつも何か、どこかを見て、苦しそうにしていた。
紘子の傍にいる時だけ、ほっとしたような表情で丸まって眠っていた。
その清灯が陰陽師寮に入り、能面のような顔を身に着けてからは、年を追うごとに何を考えているのか、わからなくなっている。
清灯自身、気が付いていないかもしれないが、時折、彼の陰の中に、闇よりもっと暗い何かが、見え隠れしている。
自分が持つ守りを司る「力」より、清灯が持つ、攻撃を司る「力」の方が身体への影響が強いのかもしれない。
身体の負担だけでない。姫である自分は、なんだかんだと、守られ、人と接することなく、好きなだけ家に引っ込んでいることができる。
出仕している清灯は、陰陽師頭としての後輩の指導と育成、殿上を許されたものとしての、年齢不相応な責任があった。内在するモノを押さえつけながら、外界の敵と戦わねばならない清灯に、どれだけの負担を強いているのか。
血を持つ者の宿命とはいえ、紘子には、そんな清灯を見るのが辛かった。
だからと言って、女の身では常に傍にいられるわけではない。
気をつけなければ。
闇が、「力」が、彼を飲み込んでしまわないように。
支配してしまわないように。
だから、ここに、京に戻ったのだから。
「……てなわけ。ちょっと、ちい姫? 聞いてる?」
「聞いてるわよ。聞いてる。紫野のおばあさまのところに行ったんでしょ? おばあさま、なんて言ってたの?」
「うん……」
「なに?」
言い淀む忠義に、紘子が聞いた。
「大齋院様は、ちい姫を連れて行けとおっしゃたんだ」
なかなか言おうとしない忠義に、しびれを切らした清灯が、口を開いた。
「あたしも言っていいの?」
やった!
思わず語尾があがった。
晴明が存命中は、修行の一環として、紫野から、あちらこちらに、調伏や、結界の強化に歩き回ったものだ。
それが、大納言家に帰ってからというものの、やることなくて、そりゃあ母様ご自慢のお庭も開墾したくもなるわ
「でも、清灯、どうして、ちい姫を連れていかなきゃならんだ? 僕らだけじゃだめなのか?」
とことん、紘子を甘やかしている忠義は、心配そうに言った。
「……だから、しょうがないと言っているだろう。ちい姫は、守りの「力」を持つんだ。浄化と結界で、ちい姫を超える術者はいない。俺もちょっとはやるが、呪詛の祝直しは、ちい姫よりは劣る」
できないことはないんだが。
言い切る清灯に、忠義が聞く。
「も少し、分かりやすく説明して?」
「いったい、お前は俺らと何年一緒にいるんだ?」
清灯は、あきれながら、話はじめた。
兵衛が持ってきた白湯を美味しそうにすすりながら、紘子が聞き返した。
「泥にまみれていた短い丈の着物は、兵衛の必死の説得で、こざっぱりとした花橘の小袿に着替えられている。
作業するのに邪魔だからという理由で、市場女のように結い上げられた髪は、ほどかれ、背に波打っていた。
それでも、ほとほと邪魔なのか、髪は几帳をあげるために用いられている紐で、無造作に束ねられている。
春から夏に向かう日差しは、兵衛が母屋に下がった今、御簾や几帳に遮られることもなく、うらうらと部屋の中へ入り込んでいた。
「うん。体中に鱗が生える奇病だって。宇治の西の方に、喜撰山ふもとあたりの、小さな村で発生してるらしいよ。老若男女、家畜に至るまでっていうんだから、そうとうだね」
「鱗ねえ……?」
「鱗が生えてきたなと思ったら、体中を覆いつくして、ある時呼吸ができなくなって、死に至るとかなんとか……うまいな。この菓子」
忠義は小さな菓子をつまみながら言った。
「困り果てた国守の願いでな。陰陽寮から調査に行かせたんだが、いつまでたっても帰京しない。しょうがないから、式神を使いにやったら、派遣した連中まで奇病にかかったらしくてな。帰るに帰れないらしい。早めに解決しようと、若手の中でも腕利きの陰陽師を送ったのが裏目に出た。大雨の事後処理はまだだし、疫病の季節も間近で、結界の補強はせねばならんしで、人手が足りん。それが、言うに事欠いて……」
ぎりっと清灯が奥歯を噛んだ。
「……なに?」
幼馴染達が宮中で起こっている些細な諍いの愚痴など、聞いたことない紘子は、珍しそうに先を促した。
「忠義。お前が話せ。口が疲れた」
ふいっと。清灯が横を向いた。
「お前さあ……。まったく。そんな風に宮中でも、表情豊かにすれば、ちょっとは生きやすくなるだろうに」
「そんな必要はない」
「いやいや。友達とかさ、結構大事よ。連中、お前が何考えてんのか分からないから、怖くて、何にも言えなかったり、突っかかって来られたりするんだろ? 今日だって、あんなひどい言葉を表情一つ変えずに聞いてやっているから、バカにされてると思って怒るんだよ」
「そんなことしていない。あんな連中に本気になったとて、しょうがあるまい」
そこだよ。
忠義ががっくりと崩れ落ちた。
「黙って聞いている方の身になれよ。腹が立ってしょうがないんだぞ!」
清灯が、驚いたような顔をして忠義を見た。
「そこんとこわかれよ」
「……すまん」
「ほんとだよ」
「いや。あのさ。二人の世界を作るのはいいけどさ。あんたたち、あたしの存在忘れてない?」
紘子は、手をひらひらさせながら、間に入った。
「な、なに言ってんだよ! 忘れるわけないよ!」
「……忘れてないぞ」
どうだか。
慌てたように言う忠義と、何を言ってるんだという清灯に、紘子は肩をすくめた。
「だから、内大臣がさあ……」
忠義が語る先ほどの会議の内容を聞きながら、紘子はそっとため息をついた。
あれは、いつの頃からか。
内裏の出仕が始まって、忙しいながらも、楽しそうに内裏のことを話す忠義とは反対に、清灯は、どんどん口数が少なくなっていった。
やがて、他人がいる前では、ほとんど感情を表すことはなくなり、表情が乏しくなっていったのは、いつからか。
忠義の話では、三人でいる時だけ、いくぶん、柔らかい表情をしているということだが……。それもいつまで持つのだろう。
小さい頃から、あれがしたい。これが欲しいと言わない子だった。
いつも何か、どこかを見て、苦しそうにしていた。
紘子の傍にいる時だけ、ほっとしたような表情で丸まって眠っていた。
その清灯が陰陽師寮に入り、能面のような顔を身に着けてからは、年を追うごとに何を考えているのか、わからなくなっている。
清灯自身、気が付いていないかもしれないが、時折、彼の陰の中に、闇よりもっと暗い何かが、見え隠れしている。
自分が持つ守りを司る「力」より、清灯が持つ、攻撃を司る「力」の方が身体への影響が強いのかもしれない。
身体の負担だけでない。姫である自分は、なんだかんだと、守られ、人と接することなく、好きなだけ家に引っ込んでいることができる。
出仕している清灯は、陰陽師頭としての後輩の指導と育成、殿上を許されたものとしての、年齢不相応な責任があった。内在するモノを押さえつけながら、外界の敵と戦わねばならない清灯に、どれだけの負担を強いているのか。
血を持つ者の宿命とはいえ、紘子には、そんな清灯を見るのが辛かった。
だからと言って、女の身では常に傍にいられるわけではない。
気をつけなければ。
闇が、「力」が、彼を飲み込んでしまわないように。
支配してしまわないように。
だから、ここに、京に戻ったのだから。
「……てなわけ。ちょっと、ちい姫? 聞いてる?」
「聞いてるわよ。聞いてる。紫野のおばあさまのところに行ったんでしょ? おばあさま、なんて言ってたの?」
「うん……」
「なに?」
言い淀む忠義に、紘子が聞いた。
「大齋院様は、ちい姫を連れて行けとおっしゃたんだ」
なかなか言おうとしない忠義に、しびれを切らした清灯が、口を開いた。
「あたしも言っていいの?」
やった!
思わず語尾があがった。
晴明が存命中は、修行の一環として、紫野から、あちらこちらに、調伏や、結界の強化に歩き回ったものだ。
それが、大納言家に帰ってからというものの、やることなくて、そりゃあ母様ご自慢のお庭も開墾したくもなるわ
「でも、清灯、どうして、ちい姫を連れていかなきゃならんだ? 僕らだけじゃだめなのか?」
とことん、紘子を甘やかしている忠義は、心配そうに言った。
「……だから、しょうがないと言っているだろう。ちい姫は、守りの「力」を持つんだ。浄化と結界で、ちい姫を超える術者はいない。俺もちょっとはやるが、呪詛の祝直しは、ちい姫よりは劣る」
できないことはないんだが。
言い切る清灯に、忠義が聞く。
「も少し、分かりやすく説明して?」
「いったい、お前は俺らと何年一緒にいるんだ?」
清灯は、あきれながら、話はじめた。
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