神蛇の血

ぺんぎん

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内親王の庭

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 大納言 藤原利高邸は、四条大宮にあった。

 広大な敷地の奥深く。丑寅の方角に、ひときわ美しい造りの建物がある。

 母屋からは細い廊でのみ繋がっており、趣向をこらした深山木に囲まれて、外からは見られないようにしつらえてあった。

 遣水は、隔ての関と見せかけた小山の前栽の中を、縫うように流れている。

 その昔、左大臣家の長子に降嫁した内親王のために稀代の名工が作った庭だ。

 内親王が愛したその庭は、今は見る影もない。

 大納言家の末姫。藤原紘子は、庭に出ると、大きな伸びをした。

 立石を流れる水の音が、誰もいない静かな邸内に響き渡っている。

「これはもう、水田にしろという天の声だわね」

 視線の先には、先日の大雨で湿地と化した庭が広がっていた。

 紘子は先月、春の鳥が鳴くのを待って、元は池だったそこを埋め立て、畑を作り、紫野から持ってきた野菜や薬草の種をまいたばかりだった。

 小さな芽が出かかっていたのに。

 自然の力とはいえ、池を埋め立てた苦労を思い出し、紘子は悔しそうに顔をしかめた。

 身の丈よりさらに長い髪を、頭の上で幾重にも束ね上げ、白い布できゅっとまとめる。

 手際よく、自分が着ている短い丈の着物をさらにたくし上げた。

 細く、白い手足が露になる。

「まずは、水をなんとかしなきゃね」

 そう言うと、裸足のまま、ずぶずぶと泥水の中に入っていった。

 広大な敷地を一緒に耕してくれる人、つねに大募集中。

 紘子は畑からあふれた水を逃がそうと、鋤を動かしながら人手のなさを呪った。

 大納言家の上臈女房に手伝ってほしいとは言わないが、せめて、物の分かった家司の一人や二人、いてくれたらと思わずにはおられなかった。

 忌み姫、物の怪憑きの姫と呼ばれる姫の元で働いてくれる物好きはいない。

 唯一手伝ってくれるだろう幼馴染の二人は、畑仕事を手伝ってくれるくらいの閑職には就いていない。

 自分の持つ「力」のために、こんな結果になっているのだから、しょうがないと言えばしょうがないが、不満がないわけではなかった。


 初夏の陽気を吸い込んだ泥は、紘子の冷え切った足をほんのり温めた。

「姫様! なんというお姿」

 ひっと言う小さな叫び声と共に、悲鳴のような声が飛んできた。

 母屋から北の対へと続く細廊の入り口、広廂に、中年の女房が目を見開いて立っている。

「あら、兵衛。久しぶりね」

 内親王であった母についてきた兵衛は、大納言お気に入りの古参女房で、母の死後もそのまま大納言家に仕えていた。

「そんなことは姫様のなさることではありません! 早く、早く室へお戻りあそばして! たれか! たれかある!」

 ――誰も来ないって。

 紘子は、そっとため息をついた。

 今さら自分が、他の姫君方と同じように、幾重にも重ねた色彩の装束に身を包み、十重二十重の几帳に守られて、引っ込むとでも思うのか?

 まあ、思うんだろうな。

 紘子は、じゃぼっとぬかるみの中から足を引き抜いた。

「ひっ」

 兵衛は顔を真っ赤にして、倒れんばかりだ。

「わかった。わかった。そんなに怒んないでよ。今、そこで洗うからさ」

「そこって、お待ちくださいませ。この兵衛、今すぐ、お湯殿に参り、お湯を持ってまいります。姫、お待ちください。姫! ああ。そんなところで、尊きおみ足をあらわにするとは」

「尊きって、足に尊いも何もないわよ。兵衛もきちんと歩いてお日様にあてないと」

 体に悪い。と続けようとして、ごくんと飲み込んだ。

「歩くなんて! 恐れ多くもお母上の内親王様がご存命の折は、立ち歩くことは、まれなほどの貴婦人でいらしゃいましたのに」

 あ、これは長くなる。

 紘子は、黙って立石のところに歩いて行き、そこから流れる水で、足を洗いはじめた。

 母は、自分が生まれてすぐ、産後の肥立ちが悪く、五十日のお祝いを待たずに身罷られた。

 儚げな美しい人だったという。

 小さい頃から病がちで、心配した同腹の今上帝が、内裏にいるよりは、気も張らないであろうと、降嫁を決めたという。

 雲居の御簾から出たのは、その短い人生の間で、たったの一度、大納言邸に降嫁した時のみだったという。

 まあ、だいぶ誇張されているだろうけどさ。

「姫様、姫様、はやく御簾内にお入りに……ああっ、それは、そのようにお使いになるものではございません。ああっ。はしたない」

 もはや、恐慌状態である。

 用事があれば、自分から母屋へ行くし、食事は台盤所の采女が細殿の前に置いて行ってくれる――まあ、忘れる日もあるが――そのため、邸の上臈女房達とは、めったに顔を合わせない。

 それを良いことに、好きな格好で、好きなことをしていたら、こうなっていたのだが、運が悪い日はこうなる。

 自分だって、一応、姫君らしくしようと思えば、できる。――たぶん。

 ただ、それをしてしまっては、この「力」を制御することが、難しくなる。

 「力」は、物質を構成する五行、水、火、木、金、土が根源にある。

 五行に触れない生活は、死にも等しい。

 育ててくれた、先の陰陽師頭は、自分が名門の姫であることを、幾度となく嘆き、憂いていた。

 「力」の均衡が崩れたその時は、「力」に引きずられて狂鬼となるか、生きる屍となるか――どちらにしても、人間が抱えるには強大にすぎる「力」なのだ。

「欲深だからなあ。人間は」

「何ぞ?」

「……何でもないわよ。それより、兵衛。あなたが離れに来るなんて、どうしたのよ。父様でも寄られるの?」

 東宮妃にと目した娘が、東宮妃どころか、普通の結婚も難しいことを知った父、大納言は、滅多に紘子の住む離れには近寄らない。

 別に嫌われているのではない。ハズだ。

 なまじっか血筋も良く、左大臣家の兄弟の、どの姫よりも美しい娘の顔を見ると、入内がかなわない悔しさで狂わんばかりになるため、体に悪いと薬師から止められているそうな。

「残念だね」

 兵衛の代わりに、低い声が返って来た。

 背の高い、がっちりした体格の男が、渡殿の所に、にこにこ笑いながら立っている。

 人柄の良いさがにじみ出るその顔は、子供の頃から変わらない。

「忠義!」

 久しぶりに会う幼馴染は、参内帰りなのか、蒼鈍色の衣冠姿で、常より大人びて見えた。

「中将様!」

 兵衛が、

 ひっ。

 と声ならぬ声をだして飛び上がった。

 おおよそ名門家の上臈女房がやったと思えないくらいの早さで、ざざっと御簾を下ろす。

 問題は、御簾の中にいるはずの姫君が庭の遣り水で足を洗っているので、全くその御簾の意味がないということだけであった。

「まだ用意が何も整っておりませんのに……」

「ごめんごめん。でも、用意なんて、整うの待ってたら……」

 夕方になるから。

 兵衛は、がっくりと肩を落とした。

「ちい姫、元気だった?」

 この時代、一部の入内した女性を除いて、女性の本名は家族と夫くらいにしか明かされない。

 兄弟のように育った幼馴染達は、彼女の本名を知ってはいたが「自分たちの小さな姫」という意味で、ちい姫と呼んでいた。

「元気! 忠義は? 参内帰り? 久しぶりだから、ゆっくりして行けるんでしょう?」

 喜び勇んで駆け寄ってくる幼馴染の姫を、男は複雑な心境で眺めていた。

 少し見ないうちにまた、ひときわ美しくなっている。

 この調子でいくと、物の怪憑きの姫だろうが、奇行の姫だろうが、求婚者が列をなすのは、時間の問題のような気がした。

「どうしたの? 大雨の後処理で忙しかったんじゃないの? 宮中は落ち着いたの?……っと、そうでもないのね」

 紘子は、忠義の大きな体躯に隠れるように立ったいた、白い直衣をみつけて、口を手で抑えた。

 白い直衣を着る小柄な男は、仏頂面のまま、無言で御簾の中へ入っていく。

 宮中で被っていた鉄面皮、どこで落としてきたのやら。

 忠義はおかしそうに含み笑いをした。






 






 

 

 

 





 

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