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しおりを挟む第一章 呪われた英雄と魔女
その昔、多くの魔獣を操り世界を混乱させた魔術師を、聖騎士とその仲間たちが打ち倒した。
しかし、魔王とまで呼ばれた魔術師は、最後に古の魔術である呪いを聖騎士にかけた。
それは恐ろしい不死の呪い。四肢を切断されようが、飢えて骨と皮だけになろうが、決して死ぬことはできない呪い。聖騎士にして呪われた英雄と呼ばれるようになった彼は、仲間たちと共に呪いを解く方法を探した。そんな彼らの必死の願いが天に届いたのか、『森に棲む魔女が呪いを緩和できるだろう』という神託を巫女が受ける。
英雄は喜び勇み、仲間たちを連れて森の魔女に会いに行く。醜い魔女は英雄の話を聞き、呪いを緩和してやろうと言った。しかし、それには代償が必要だった。魔女は嗤う。
お前の運命を変えてやろう。代償さえ支払うならば。
~『呪われた英雄と魔女物語』より抜粋~
「呪いなんて解けませんけど」
突然家を訪ねてきた英雄一行とやらに、カナンはあっさりと言ってやった。
陽気に誘われ、うとうとしていたところを起こされた彼女はすこぶる機嫌が悪い。
そんな彼女のそっけないセリフに、英雄一行とやらは顔色をなくした。
「そんな……」
呆然と呟くのは非常に整った顔立ちの青年だ。金色の髪は薄暗い部屋の中でも輝き、紫色の瞳は失意に陰っていてなお美しい。すらりとした体躯を包むのは騎士服で、それがよく似合っていた。
なるほど、これが噂の呪われた英雄シュリス・サラディンか、とカナンは無遠慮にじろじろ観察した。
「そんなはずありません! 確かに神託があったのです! 森の魔女ならば呪いをなんとかできると!!」
そう叫んだのは、巫女服を身にまとう美少女だ。アリアリィンと名乗った少女は、大きな水色の目に怒りをにじませてカナンを睨んだ。かと思えば、潤んだ瞳で「信じてください、シュリス」と英雄の腕に縋って、小柄な割に大きなお胸をぎゅうぎゅうと押しつける。見回せば巫女の他にも、魔術師やら戦士やら……女性ばかりだ。
――――なんだこいつ。ハーレム勇者か。いや、英雄だっけ。
カナンはハッと鼻で笑ってやった。ハーレム野郎とか、マジでうざい。恋愛は一対一が基本だろう。と内心吐き捨てながらも、すぐに気持ちを切り替えた。
「呪いを解くことはできないけど、代償があればちょっと変えることはできる」
そう言ったカナンに、彼らの視線が集まる。
カナンは魔女だ。代償さえあれば、運命に干渉する力がある。とは言っても、本業である魔女の仕事はほぼしたことがない。いったい誰が自分に起きる出来事を予知して、運命を変えてほしいなどと言うだろうか。わざわざ代償を用意してまで。そういうわけで、普段は先代魔女に教わった薬を作って売り、細々と暮らしている。
「代償とはなんだ?」
褐色の肌の女戦士が詰め寄った。
「シュリスはガランバードン国第一王女リネディア様と婚約している身なのだ。――――何より、死ぬ気で戦ってきた結果がこれでは納得できん!」
悔しそうに唇を噛む女戦士の肩に、弓を背負った女性がそっと手を置いて慰める。
「……もう一度言うけれど、呪いを解く方法なんて知らない」
カナンの目には、英雄の周囲を覆う黒い靄がはっきりと視えていた。誰もがその身にまとう運命の色。しかし、これほど禍々しいものは視たことがない。
「私にできるのは、ただ〝運命〟に干渉して導くことだけ」
「それは……どういうことですか?」
英雄の仲間の一人が恐る恐る魔女に尋ねた。
「うーん。呪いは随分と強力みたいだけど、一応、死ぬことができるようにはなるかな」
顔を輝かせる面々に、カナンは「ただし」と続ける。
「本来の呪いが薄まるまで生死を繰り返すことになる。人と同じように生き、死ぬ。けれど記憶を持ったまま転生する」
「そんな……」
一行は愕然としているが、話はまだ終わりではないので、こんなところで青くなってもらっても困る。
「代償は、健全な運命を持つ者」
魔女の力には、必ず代償が必要となる。その内容は魔女によって異なるそうだが、カナンの『運命に干渉する能力』の場合、対象とは別に『運命を差し出す人間』が必要となる。それも、健全な運命でなければならない。そしてその人間の同意を得て初めて、ほんの僅かな干渉が許されるという、あまり使い勝手のよくない能力だ。
カナンは営業スマイルを浮かべ、丁寧な口調で説明する。
「今回は呪いが強すぎるので、お相手の運命が丸ごと必要になります。――――いえ、命を取るわけではありません。英雄と、まさしく『運命を共にして』もらうのです。どちらかが死ねば死に、生まれれば生まれる。それを繰り返すのです。ああ、婚姻という誓約で縛った方がより強固な繋がりになるので、お相手は花嫁がいいでしょうか。まあ英雄さんなら引く手あまただろうしダイジョブでしょ。あ、もちろん本人の了承は必須ですよ?」
「……それじゃ、まるで生贄……」
呆然と呟いた巫女が、はっとして手で口を塞いだ。
「不死の呪いが、生死を繰り返す呪いに変わるだけなんて、なんの意味があるのよ!!」
一行が喚き出したので、あぁ煩いとカナンは営業スマイルを放り出す。
「あのさー、私はどちらでも構わないんだけど、もしやるなら、今打てる手は打っておいた方がいいんじゃない? 呪いにかかってることが広まりすぎているから、転生するたび神殿に保護してもらった方がいいかもね。神殿で保護されるなんて窮屈そうで同情するけど、どんな家に生まれつくかわからないし、政治利用されたりするよりマシじゃない? それと、婚姻の誓約で呪いを緩和するから性別くらいは固定されるだろうけど、容姿はどうなるかわからないなぁ。相手に不誠実なことすると効力切れるし、そうなったら緩和してた分がどんなふうに影響するかわからないから、お互い浮気とかしない方がいいよ。――――とりあえず、助言はこれくらいかな? やるって決まったら花嫁と一緒にまた来て。じゃ!」
一気に言い放つと、ぽかんと口を開けたままの英雄一行を家から閉め出した。ざわざわとした人声が家から遠ざかっていくのを、カナンは扉に背を押しつけて聞いていた。
「ラノベとかにありがちなハーレム勇者かと思ったけど、なんかマトモに仲間から慕われてる感じ?」
カナンは元々この世界の人間ではない。日本で老いて死んだと思ったら、いつの間にか幼い姿でこの世界に立っていた。意味がわからないと混乱し、途方に暮れていたところを他の魔女に拾われて、どうにかこうにか生きてきたのだ。
「あれが英雄ねぇ……」
ふーんと呟き、カナンは欠伸を噛み殺した。
* * *
聖騎士として賜った城の一室で、シュリス・サラディンは悩んでいた。初めて魔女のもとを訪れた後、シュリスと仲間たちは話し合い、魔女の言うとおりにすることにした。全員がシュリスのために奔走してくれ、ほぼすべての準備ができた。
残るはただ一つ――――――――花嫁だ。
生あるうちに善行を積めば、死した後、神の御許で幸せに満ちた安らぎが得られる。逆に悪行を積めば神から遠ざけられ、地獄を巡ることになるというのが神殿の教えだ。
魔女の言うように、記憶を持ったまま生まれ変わるということは、神の御許での安らぎが決して得られないということ。それは地獄を巡るという教えにも等しく、聞いた者は大抵顔をしかめる。そうでなくとも、新しい家族のもとに生まれ育ち、また老いて死ぬなどという運命を進んで享受したい者がいるとは思えなかった。
信心深い母はその話を聞いて倒れ、今も寝込んでいる。王女との婚約が白紙に戻されたことにより、サラディン家が得られるはずだった利権も失った。父や兄たちが新たな婚約者を見つけようとしてくれているが、どれもこれも失敗しているようだ。
以前はシュリスを持て囃していた貴族たちが、娘を生贄にされるのではないかと怯えている。一部では、誰がその生贄に選ばれるのかと面白おかしく賭けが行われているらしい。
深いため息を吐くと、シュリスはソファから立ち上がった。
シュリスがやってきたのは、巫女アリアリィンの部屋だった。他の仲間たちもこの城で暮らしている。仲間とはいえ、女性の部屋に赴くには遅い時間だ。けれどシュリスは、他に神託が得られないか、どうしても彼女に確かめたかった。
アリア、と声をかけようとしたとき、中から声が聞こえてきた。
「アリア様……本当にいいのですか。あなたはシュリスを」
「……私は、神の御許から離れるのが怖いの。それはとても悪いことだわ。シュリスは大切だけれど、そんなの私には……」
部屋から漏れ聞こえてくるのはアリアリィンと、シュリスの友人で侯爵家の嫡男でもあるディランの声。どうやらアリアリィンは恐怖のあまりディランに縋っているようだ。二人は恋仲だったのだろうか。しばしシュリスは逡巡した。アリアリィンを悲惨な運命に巻き込むつもりはないと、部屋に入って二人に説明するべきだろうか。
惑うシュリスの耳に、アリアリィンの涙に濡れた声が届く。
「私、シュリスのことは好きでもなんでもないの。私は巫女だから、英雄の傍にどうしてもいないといけなくて……。本当は、野蛮なことをする騎士が怖いの」
シュリスは我が耳を疑った。彼女はいつだってシュリスに好意的で親切だった。仲間として信頼されているのだと思っていたが、それらはすべて偽りだったのか? 本当は、剣を振るうシュリスを恐ろしいと思っていたのだろうか。
「お願い、ディラン様……。私をシュリスの妻になんてさせないで……」
少し迷った後、シュリスはそっとその場を離れた。ショックだったが、アリアリィンの考えはごく普通だ。いったいどこの誰が、シュリスのために先の見えない呪いに身を投じてくれるというのか。そんな人間、存在するわけがない。
頭では理解していたつもりだったが、仲間の本音は想像以上にシュリスを落ち込ませた。
部屋に戻ると、久方ぶりにサラディン家の侍従が訪ねてきていた。
「シュリス様、旦那様から言伝と、荷物を預かっております」
夜分にやってきた侍従から渡された手紙を見て、シュリスは目を見開いた。
* * *
カナンは呆れ果てていた。目の前には、小さくなって俯く英雄シュリス。その後方には、どこか所在なさげな少女を連れた侍従らしき男。
「あんた、それでも本当に聖騎士で英雄なの!?」
カナンの目には、少女の周りにひどく希薄な靄が漂っているのが視えた。
「マジでありえない。言わなかった私も悪いけど、奴隷は健全な運命を持っているとは言えないから、代償にはふさわしくない!!」
聖騎士かつ英雄が生贄花嫁として奴隷を用意したことに、カナンは腹を立てていた。
そもそも、健全な運命を持つかどうかということ以前に、奴隷という立場の人間を代償とすることが問題だ。本心から望んで了承するという条件が必要なのに、隷属させた者を無理矢理投じても意味はない。
そう叱り飛ばせば、英雄はため息を吐き、目を白黒させる侍従と少女を帰らせた。
――――いや、あんたも帰れよ。と喉まで出かかったが、カナンはなんとか呑み込む。
「魔女殿……。他に、方法はないのですか」
「ない。少なくとも私は知らない」
すげなく答えれば、英雄は目に見えて落ち込んだ。まるでカナンが虐めているみたいではないか。面倒くさいなぁと思いながら、カナンは頭を掻く。
「あんたさ、英雄さん」
「……シュリス、です」
「あー……、シュリス。婚約者いるんじゃなかったっけ?」
「……婚約は、白紙になりましたので……」
沈黙が辺りを包んだ。とりあえず、カナンはシュリスを自宅に招き入れる。なんだかちょっぴり気の毒に思えてしまったのだ。
「ふーん。じゃあ、婚約はなかったことになって、あの巫女もディランってのと恋人同士になったわけ」
「ええと、アリアリィンは王太子殿下の婚約者になりました。私のことは好きでもなんでもないと」
「ええー? あんたの腕にでっかい胸押しつけてたクセに、好きじゃないとかねぇだろ! ってだけでもツッコミどころいっぱいなのに、今の流れでディランはどうした!」
「あの、魔女殿。確かにアリアリィンはいつも私の腕にしがみついていましたが、巫女である彼女は世情に疎く、ひどく怖がりだったためで、そういう意図があったわけでは……。ディランにも、私の近しい友人だから相談に乗ってもらっていただけらしくて……」
彼女の名誉に関わることだと、大真面目に弁明するシュリスだったが、カナンは半眼で聞き流した。
「婚約者と巫女の他にも誰かいたでしょう? あんたに救われた人はたくさんいるんだし」
もっともであろうカナンの言葉に、シュリスは苦笑した。
「ダメでした。……実は、国王陛下が私のためにお触れを出してくださったのですが……」
「は? お触れ?」
「はい。ですが、永遠を共にしたいと言ってくれる女性は誰もいませんでした。それで、父が最後の手段だと言って奴隷を……」
森に棲み、引きこもりがちなカナンは知らなかった。シュリスの婚約者であった第一王女リネディアは、呪われた英雄とは結婚できないと父である国王に告げ、婚約は白紙となった。そこで、国王は英雄シュリスの花嫁になってくれる女性を広く募るお触れを出したのだ。
「たくさんの女性が集まってはくれましたが、みな、詳しい話を聞いて帰っていきました」
それはそうだろう。英雄と結婚はできるが、身分は神殿預かりだし、解呪どころか新たに呪いにかかるようなもの。おまけに、先の見通せない永遠の生がついてくる。本当にシュリスに嫁がないのかと最終確認された第一王女は、国王にこう言ったそうだ。
『それはいつまで続くのですか? 途中で歯車が狂ってしまったらどうしますか? お互いに心変わりしてしまったら? 別に愛する人を見つけてしまったら? いったい誰が次の人生でも幸せだと保証してくれるのでしょう』
帰った女性たちも、まさしくそう思ったのでしょう、とシュリスは俯きがちに語った。
「なんという公開振られプレイ……!」
「ぷれ……?」
「いやいや、なんでもないよ、気にしないで」
その後、生贄花嫁にならないために恋人と結婚する者が急増した。呪われた英雄の存在は、若い夫婦の大量生産を後押ししたのだ。
「……この間から街へ行くたびに結婚式やってるなぁって思ってたけど、まさかそんな原因があったとは……。それで、他には誰もいなかったの?」
「アロンバール侯爵から申し出がありましたが、私は男色家ではないので、彼と永遠を共にするのはちょっと……と思いまして」
「……そういう嗜好の不一致は辛いねぇ……」
英雄さん、綺麗な顔してるからねぇ。とため息を吐く魔女に、シュリスは苦笑した。諦めきったその表情に、カナンは顔をしかめる。
「じゃあ依頼の件は延期で」
「え?」
「だってまだ花嫁見つかってないじゃん」
「いえ、でも、もう……」
俯くシュリスに、カナンは深く息を吐いた。
「あんた何歳?」
「……十九、ですが」
十二で騎士見習いとなり、十四で聖騎士を目指した。十六で成人すると同時に聖騎士となって王女と婚約し、十八で魔術師を倒した。……あれからもう一年も経つのか、とシュリスは懐かしさを覚えたが、それは魔女の甲高い声に破られた。
「十九!? 若いとは思ってたけど、まさかの未成年……!」
「いえ、成人していますよ……?」
「お黙り、この若造が!! いいこと!? 十九かそこらでちょっと婚活に失敗したからって僕もう結婚しません~だなんて、誰が許しても私が許さん! こちとらアラフォーで婚活し続けたんだから! 先の見えない戦いに身を投じ続け、最後に理想の相手を勝ち取った私の気持ちがわかるか!? 私ですら諦めなかったのに、若くて綺麗で才能まであるあんたが諦めるとか絶対に許せん!」
「あ、あらふぉ……?」
戸惑うシュリスを無視し、憤慨したカナンは戸棚から酒瓶を取り出すと、どんと卓上に置く。
「景気づけだ! まずは飲め!」
無理矢理シュリスに杯を押しつけて酒を注ぎ、自分の杯にも勢いよく注ぐと、グイッと一飲みして本題に入る。
「英雄じゃなく、あんた自身に惚れてくれる人を探せばいいんじゃない? そうよ、惚れさせちまえば、こっちのもんよね! まずは呪いと身分を伏せましょう! 外見も鬘や眼鏡なんかで変装して、市井に紛れて好ましいお嬢さんを探して交流を深めるの! 貴族? 貴族のお嬢さんなんて身元がしっかりしてない男は眼中にないでしょ?」
姿を偽るならば、市井の方が都合がいい。カナンは自分の考えに頷いた。
そうして、ポカンとしているシュリスに真剣な目を向ける。
「これはただの婚活じゃないわ。普通の結婚だって、ただ式をあげれば終わりじゃないから似たようなもんだけどさ。永く共にあるなら、心底あんたを愛してくれる人を見つけなきゃ」
その場では少し考えさせてほしいと言っていたシュリスだったが、数日後、休暇を取って魔女のもとを再び訪れたのだった。
「いいこと? 街で生活して、可愛くて気立てのいいお嬢さんをたらし込むのよ! あ、それと金に擦り寄ってこられても困るから、お金は持ってないことにしなさい」
カナンはいつも薬を買い取ってくれる街の顔役に頼み、しばらく住むための場所と荷運びの仕事を用意してもらっていた。黙ってカナンの話を聞いていたシュリスは神妙に頷く。
前回会ったときとは違い、目に力が宿っていた。どうやらやる気になったらしいシュリスを送り出しながら、カナンはうまくいくことを祈った。だが――――
「……魔女殿……、私はもうダメです……」
「早っ!!」
翌日やってきたシュリスに慄きつつも、まずは話を聞いてやろうとカナンは酒を用意する。
「……道行く女性がハンカチを落としたので拾ったのです……」
「ふんふん。知り合う手段としては悪くないよね」
「……ですが、呼び止めて手渡そうとすると……非常に嫌そうな表情で、指先だけでハンカチをつまみ、礼もなく立ち去られたのです……!」
「そりゃ、世の女性は好みでもない男に近寄られたら虫唾が走るもの」
「ええっ……!?」
カナンの言葉に、シュリスが信じられないとでも言いたげに顔を歪めた。
「しかし、あくまで親切心からで、断じて下心など……」
言い募るシュリスに、カナンはちびちび酒を飲みながら「馬鹿ねぇ」と言う。
「そんなの誰がわかるのよ。逆にちょっとでも優しくして、勘違いされて付きまとわれたらどうすんの? 女にとっては自己防衛の一種じゃん」
「……じこぼうえい……」
シュリスは呆然と繰り返した。自己防衛されるほど自分はダメなのかと衝撃を受けている。そんなシュリスを、カナンは残念なものを見るような目で見つめた。
聞けば、これでも王女の婚約者としての立ち居振る舞いは完璧だったらしい。完璧だからこそ、他の女性とは常に距離を置き続けた。婚約者に誠実であったと言えば聞こえはいいが、その婚約がなくなってしまった今となっては、どう動いたらいいのかわからないという。まして、相手は貴族ではなく市井の女性。かなり勝手が違うだろう。
それでも、彼自身を好ましく思う女性が必ずいるはずだと魔女は信じていた。
「魔女殿! 小間物屋のサティさんに声をかけられました!」
「ああ、うん。なんて言われたの?」
「今日もお仕事頑張ってくださいね、と!」
「そっかぁ……、よかったねぇ」
「はい!」
嬉しそうに返事をする彼は、仲間の魔術師に頼んで冴えない風体の男に見える幻をまとっており、街で荷運びの仕事をしている。ほぼ毎日夕方ごろにやってきては、その日あったことをカナンに話して聞かせるのが日課になりつつあった。
しかし、町娘に挨拶されたくらいでこの喜びよう。お触れの名のもとに行われた公開振られプレイでどれだけ心に傷を負ったのか計り知れない。
そして翌週、シュリスは項垂れた様子でやってきた。
「えっと……どうした? って聞いた方がいい? 聞かない方がいい?」
「魔女殿の優しさが辛い……」
あ、これ結構ガチで落ち込んでる。
そう感じ取ったので、酒を用意してやった。今やすっかり酒飲み仲間となった英雄のために、この間街で仕入れてきたばかりの新品だ。
「うぅ……魔女殿、サティさんには恋人がいたんです……」
「そっかぁ、それは残念だねぇ」
まぁ、そういうこともあるだろうと酒に口をつける。
「サティさんが欲しいと言うものは、全部買ってあげたのに」
「……」
「サティさん、プレゼントを受け取るときは、とても嬉しそうに微笑んで」
「……」
「ありがとう、嬉しいわって言ってくれて」
「……」
「思い切って一緒に遊びに行きませんかって誘ったら……恋人がいるのって……」
阿呆がいる。
カナンは酒の入った杯をテーブルに置くと、英雄の金色の頭をガシッと鷲掴みにした。
「きぃ~さぁ~まぁ~! あれほど金を使うなと言っただろうがぁぁぁぁぁぁ!!」
「痛い痛い痛いです、魔女殿!」
ぎりぎりと両手に力を込めれば、シュリスは痛い痛いと騒ぎ出す。
「平凡な見かけの奥手青年が金持ってたら、そりゃ女狐は貢がせるよ! 阿呆!!」
「そ、そんな……! サティさんはそんな人じゃ……! どうしても欲しいと言うから、つい……!」
「なんというダメ男!」
「ハッ! そういえばこれから恋人に会うと言っていたけれど、私が贈った腕輪をしていた……、大変です! サティさん、恋人に浮気を疑われたりしてないでしょうか……ぐっ!?」
「黙れ……それ以上言うんじゃない……!」
頭を掴んでいた手で英雄の口を塞いだカナンは、彼が哀れすぎて涙が出そうだった。
この英雄殿には、女性とはどういうものなのかを説明してやる必要があるかもしれない。
カナンが考えていた以上に彼の中身はぽんこつだった。貴族の四男だか五男だかに生まれ、騎士として身を立てるためにひたすら剣を振るった青春時代に、恋など一つも存在しない。これまで向こうから寄ってくるのを婚約者を慮って避けるばかりだったので、自分から女性に声をかけるのにも一苦労。あと、たぶんあんまり女性を見る目がない。
その後、気をつけるべき女性の生態についてみっちり説明したら、涙目でぷるぷる震えていた。不覚にもちょっと可愛いと思ったのは内緒だ。
その日は、朝から雨が降っていた。あまりの寒さに、カナンは火を入れた暖炉の前で茶をすすっている。ザアザアとやまない雨音に、この調子では誰も魔女の家には寄りつかないだろうなと考えた。すっかり飲み仲間になった英雄も、今日は国王の命だかなんだかで城に出向いているはずだ。
「……最初はとんだハーレム野郎が来たと思っていたけど、ちょっとぽんこつなとこを除けば結構な好青年だし、なんとか幸せになってほしいなぁ……」
魔女と言っても、中途半端な力しかない自分にできることなど限られている。
「……いっそのこと、国外まで婚活しに行く……?」
ただの思いつきだったが、案外いいかもしれない。婚活するなら手広くいこう。何せ世界は広いのだ。きっと彼と運命を共にしてくれる花嫁が見つかるだろう。そう考えると気持ちが弾んだ。
それならば、若い令嬢を誑かすために策を練っておこう。甘い言葉の一つや二つスラスラ言えるように練習させてみようかと考えたとき、ドンドンと扉が叩かれた。
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