2 / 17
1巻
1-2
しおりを挟む
不審に思いながら誰何すれば、国王陛下の勅使だと答えが返ってくる。重い腰を上げて扉を開けると、黒いフードをかぶった男たちが雨に打たれて立っていた。
「森の魔女様、国王陛下がお呼びです。城まで同行願います」
「ああそう、断るわけにはいかないの?」
「同行願います」
淡々と告げられ、仕方なくカナンは身支度を整えた。一歩家を出た途端、身体を叩く雨があっという間に熱を奪っていく。やれやれと小さくため息を吐くと、男たちに囲まれるようにしてゆっくりと歩き出した。
豪奢な椅子に腰かけた初老の男の前に、カナンは跪いていた。
「森の魔女よ、そなたはシュリス・サラディンにかけられた不死の呪いを変えることができるとか。それに偽りはないな」
「そのとおりでございます」
かしこまって答えれば、初老の男――王はしばし目を伏せた。再び上げられた目の中に、欲が垣間見える。
「それを不老不死の……不死身の呪いにすることは可能か」
「……それが可能であればどうなさるのでしょうか」
「シュリス・サラディンは最強の騎士となろう。騎士の誉れである」
内心毒づきながらも、カナンは傍目には怯えて見えるように声を震わせる。
「そのような神の御業は持ちません……。私にできるのは少しばかり運命に干渉し、呪いを緩和することだけでございます」
「試してもいないのに、無理と申すか」
不機嫌さを隠そうともせず、王は言う。
「やれ。これは王命である。我が国が不死身の戦士を手に入れることができれば、そなたにも褒美を取らす」
「……わかりました……」
魔女が小さくも了承の言葉を吐いたことで、王は満足そうな表情をした。カナンは怯えるふりをやめ、にやりと口角を上げる。そして黒い瞳でまっすぐ王を射抜いた。
「では、代償をいただきましょう」
「代償だと?」
「はい。魔女の力には、それ相応の代償が必要でございます」
口元だけ笑いの形に歪めながら、カナンは続ける。
「王族の姫を彼の運命に巻き込むこと。それが代償です。それでも成功するかどうかわかりませんが、うまくすれば姫は永遠に若く美しいまま……おや、こう考えると悪い話ではないかもしれませんね。失敗すれば、どうなるかわかったものではありませんが」
「何を馬鹿なことを!」
王の傍に控えていた宰相が焦りをにじませて叫んだ。
「代償もなしに、どうして魔女の力を揮えるでしょう」
「あやつの相手など、そこら辺の女でよかろう」
面倒くさそうに言う王を、森の魔女は嘲笑う。
「不老不死となれば、もはや神の領域。それを穢す代償は高貴な血筋の御方。しかも、誰よりも愛されている方が望ましい。……おりますでしょう? 陛下。見目麗しく、優しく、賢くて、可憐な姫が……」
「まさか、リネディアのことを申しているのか!?」
嗤う魔女は頷いた。第一王女リネディア。英雄の元婚約者にして銀色の髪と菫色の瞳を持つ、近隣諸国に名高いこの国の至宝。以前、カナンが遠目に見たことのある王女は輝く靄をまとっていた。それを、英雄の呪われた運命の道連れにすればいい。
「もちろん、ご本人の了承を得た上でのお話です。リネディア様ほどの輝かしい運命を持つ方が代償であれば、どのような改変も思いのまま。この魔女も喜んで力をお貸ししましょう」
王は目の前の女が薄気味悪く思えてきた。魔術師とは違う。誰も使えない不思議な力を持つという魔女。
不老不死の戦士は欲しい。しかし王にとってリネディアは大事な政略の道具だ。どうしても他の者ではダメなのかと問えば、王女だからこそ価値があるのだと魔女は嗤う。
「それと呪いの影響で子はできなくなりますので、リネディア様にはそれも納得してもらってください。……あぁ、リネディア様が女王になって英雄が王配となり、永遠に君臨し続ければいいのかもしれません。さすればガランバードン王家は安泰ですね」
押し黙る王とその側近たちを一瞥したカナンは、「それではお心が決まりましたら、またお呼びください」と告げて退室する。それを止める者は誰もいなかった。
女官に案内されて広い廊下を歩いていると、前方から女性の集団がやってきた。案内の女官に倣って端に寄り、頭を下げる。すると、そのまま通り過ぎるかと思った相手が足を止めた。
「――――あなたが魔女ですか?」
そう問われ、思わず顔を上げれば、そこにいたのはシュリスの元婚約者――――第一王女リネディアだった。
定位置なのであろう優雅な曲線を描く椅子に王女が座っている。柔らかな色調で整えられた王女のサロンは、その椅子に王女が座することで完成するよう計算されたかのようだった。
ゆるりと波打つ美しい銀色の髪の王女は、穏やかでいて意志の強そうな菫色の瞳を細め、ふわりと微笑んだ。
「魔女様が城に来ていると伺ったので、陛下のもとへ確認しに行くところでしたの。お会いできて嬉しいですわ」
王女とカナンの前のテーブルに、侍女がてきぱきとお茶の用意をした。
「どうぞ、召し上がってください」
「……ありがとうございます」
どうしてこうなったと内心首を傾げながら、カナンは高級そうなお茶をいただいた。しばらくして、口を開いたのはリネディアだった。
「……シュリス様は、お元気ですか?」
「元気といえば元気ですね」
カナンが答えると、王女はホッとした様子だった。それを見つめるカナンの視線に気づき、恥ずかしそうに微笑む。
「そうですか。会うことは禁止されておりますので、気になっていたのです」
「リネディア様は、もしやシュリス……様のことを?」
もしや脈ありかと身を乗り出すが、リネディアはそっと目を伏せた。
「いいえ。将来、伴侶として添えば愛情や信頼を育むことはできると思っておりましたが……」
言葉を濁した王女は、背筋を伸ばして顔を上げる。
「わたくしは、この国の王族として国のため、民のためになる婚姻を望まれています。シュリス様と国とを比べて国を選び……まして、その手を取ることに怯えたわたくしは彼にふさわしくありません」
強張った表情の王女に、カナンは目を細めた。王女は言いにくそうに続ける。
「このようなことを言える立場ではありませんが、どうかシュリス様をお救いくださいませ。わたくしは――――」
「魔女殿! ご無事ですか!?」
やれやれ疲れたと思いながらカナンが廊下に出ると、シュリスが息を切らしてやってきた。その顔はひどく青ざめている。案内の女官を下がらせたシュリスは、カナンに怪我はないかと心配した。
「大丈夫だって。いや、悪いね。あんたの相手としてリネディア様をいただけるかなーって思ったけど無理だったわぁ」
王女は輝かんばかりの明るい色をまとっていた。どのような困難も苦悩も乗り越え、傷ついても再び歩き出す強さ。あの姫の持つ運命の輝きならば、呪いをもっと緩和することが可能かもしれない。何よりシュリスを幸せにしてくれるだろうと考えたのだが、それも無理だとわかった。
「あのさぁ……、リネディア王女、隣国に嫁ぐことが決まったんだって……」
「そうですね。隣国とは少々拗れていたのですが、これを機に和解をという話になっています」
「知ってたの!?」
「それは、まぁ……」
――――わたくしは、国のために嫁ぎます。それがわたくしの役目ですから。
凜とした声で語り、迷いもすべて断ち切った様子の王女は綺麗だった。きっと、国との間で迷うくらいにはシュリスを想っていたのだろう。
「……惜しいっ……!」
「何がでしょう?」
きょとんとするシュリスは、王女の婚姻話にさほどショックを受けていないようだ。二人の間に何も芽生えなかったのは、こいつに問題があったに違いないと、カナンは勝手に決めつけた。
一人でうんうん頷く魔女を見下ろすシュリスは、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
魔女が静かな生活を好むことは知っていたのに、シュリスの事情に巻き込むことで注目を集めるようになってしまったのだ。社交界でも、呪いを変える魔女の力が噂になっている。そして今回、ついに国王に召喚された。うまく切り抜けたようだが、下手をすれば牢屋送り、あるいは強制的に働かされることだって考えられる。
呪いを受けてからというもの、シュリスの話に耳を傾けてくれる人間はとても少なくなった。ずっと奔走してくれた仲間たちも、それぞれ仕事を任せられていて、ほとんど会えていない。
――――それでも、今は、まだいい。
少し疎遠になってはいても、家族も、仲間たちもいる。だが、彼らが死んでしまった後は? 自分のことを知ろうともしない人々から、化け物と見なされるのではないか。そんな恐怖と不安を押し隠しながら英雄として振る舞わねばならないシュリスにとって、いかにして女性の気を引くかなどというふざけたことを大真面目に話し合うことのできる魔女は、とてもありがたい存在だった。
だというのに、自分はそんな魔女に迷惑をかけている。
「うちまで送ってくれる?」
魔女の言葉で我に返ったシュリスは「もちろんです」と返事をした。
* * *
「あのさぁ、あんた婚活急がないと、結構まずいんじゃないかな」
自宅で酒とつまみを用意しながらカナンは切り出した。
シュリスの身分は以前と変わらない。呪われたとはいえ、英雄であり、国に仕える聖騎士。そして彼が神殿に保護されるのは、『不死の呪い』が『永遠の転生の呪い』になってから。このままでは、国にいいように扱われる。不老不死の戦士にしようなどと思いつく阿呆どもだ。碌なことを考えないに違いない。
リネディア王女もそれを案じていた。元々、王女との婚約もシュリスを戦力として国に縛りつけるためのもの。それが叶わなくなり、王女は別の形で国を守るための結婚をすることになった。では、シュリスは――――不死の英雄はどう利用される?
「誰かいいお相手がいればいいんだけどねぇ」
かなり難しいことを言っているのはわかっているが、無理矢理にでもテンション上げて尻を叩かねば、国中の女性から総スカンを食らった男はすぐに落ち込んでしまう。
「やっぱり若いお嬢さんを誑かして、勢いで行くのが一番だと思うんだよ」
恋に浮かれたお花畑状態なら、彼と手と手を取り合って運命に身を投じそうだ。それを思えば英雄の周りにいたハーレム要員たちは、ある意味素晴らしい危機意識を持っていたと言える。英雄にべったりだった巫女は王太子殿下を射止め、他の仲間たちもいつの間にかそれぞれ恋人や夫を作っていたのだから。
仲間たちから手紙をもらったシュリスは素直に祝っていたが、追い詰められた彼に懇願される前に手を打ったのではとカナンは疑っている。
「……不甲斐なくて、本当に申し訳なく……」
「いや、別に責めているわけじゃないからさぁ」
困り切ったように縮こまる英雄に、カナンはホットワインを差し出し、自分もごくりと飲んだ。本当はワインよりも熱燗が恋しいが仕方ない。
シュリスの花嫁探しは遅々として進んでいない。落とし物を届けようとしただけなのに睨まれ、ちょっといい感じかなと思った女性も、シュリスから贈り物をもらうだけもらって去っていく。
更に、これは魔女には報告していないが、頑張って声をかけてみようとしたらあからさまに避けられたり、正面切って『荷物運びの男はちょっと……』と言われたりもしていた。彼の心はボロボロである。
酒を片手にテーブルに突っ伏す英雄の姿に、さすがのカナンもちょっと気の毒になった。
「……魔女殿、私は自分が情けない……」
「あぁ、うん。私もあんたがここまでだとは思ってなかった」
「私は所詮、顔と地位と剣の腕だけの男だったのです」
「大体はそれで事足りるからね? 呪いがなければ、あんたほぼ全女性のターゲットだからね?」
カナンは思わずツッコミを入れた。呪いのことを知らなければ単なる自慢に聞こえるだろう。
「うーん……。私も婚活には苦しんだけど、あんたは呪いがあるから、もっと深刻だしねぇ……。仕方がない。もう別の手段で行こう」
「別の手段……ですか?」
興味を引かれたのか、シュリスが少し頭を持ち上げた。
「うん。その綺麗な顔と鍛え上げられた身体を最大限に使って、狙った女をベッドで腰砕けにさせて、あんたから離れられないよう快楽という名の――」
「なんてことを言うんですか!!」
ものすごい速さでシュリスの手が魔女の口を塞いだ。その顔は真っ赤だ。
「女性がそのような、はしたないことを言ってはいけません!」
「も、もががが!?」
何か言いたそうだと気づいたシュリスがそっと手を離したが、カナンが「まさかあんた童て」と言いかけたところでもう一度塞がれた。
「……婚前交渉はよくありません」
照れが入りつつも重々しいシュリスの言葉に、カナンがこくこくと頷くと、ようやく解放される。
「えーと……この国ではそれが普通なの?」
「そういうわけでは、ないのですが……」
令嬢は清らかであることが求められるが、男はそれほどではない。ただ、シュリスは成人と同時に聖騎士として教育され、第一王女と婚約した。更に魔術師を倒したことで英雄と持て囃され、その一挙手一投足に注目されていたのだ。色っぽいこととは縁遠かったし、婚約者がいる手前、そういう店に行くのも憚られた。
なぜこのような話を女性にしているのだろう、と頭の片隅で思いながら、シュリスはちらちらと魔女を窺い見る。魔女は、確実にシュリスより年上だ。そして先ほどの言動から、異性とそういう経験があるのは間違いない……
そんな考えを持った自分があさましく思え、恥ずかしくなったシュリスは頭を横に振った。これだけ親身になってくれている魔女に対して、何を考えているのか。
シュリスが心の中で神に懺悔し出したことなど知る由もないカナンが提案する。
「じゃあ娼館でも行く? 経験積んでおくのも必要じゃないかな」
「……その、初めては、好きな人としたいです……」
「あー……そう、ごめんね」
何を馬鹿なことをと言われるかと思ったのに、魔女は謝ってくれた。シュリスが驚いて見つめ返せば、「私だってそういう気持ちくらいはわかるよ。最初は大事だよねぇ」と笑う。それは今まで見たことがない表情で、どこか遠くを見ているような目は、寂しさと愛しさを湛えていた。
「魔女殿は、おいくつなのですか?」
「お、聞いちゃう? たぶん三十は過ぎているかなぁ。正確にはわかんない」
魔女はいつものようなふてぶてしい表情になり、ふっふっふと笑った。
「私だって、素敵な恋の一つくらいは経験あるのだよ。ほぉーら、こんな魔女にだってできるんだから、あんたなら運命の恋の一つや二つ、絶対にできるって!」
ばんばんと背中を叩かれた英雄は、杯から零れそうになった酒を慌ててすすった。
――――ところがその後、花嫁探しは中断された。国境付近に強力な魔獣が出るとかでシュリスは頻繁に呼び戻されるようになり、市井で生活することが難しくなったのだ。
いっそ国外で嫁を見つけてこいというべきか。正直言って、もうそれしかないとは思うが、それではせっかくできた飲み仲間を失うことになる。いや待てよ? 相手の気が変わらないうちに運命を改変するなら、一緒についていった方がいいのだろうか。
本気で悩んでいたカナンは、久々に姿を見せた彼が負傷していることに驚いた。シュリスは少し失態を犯しただけだと説明したが、その後も魔獣退治に行くたびに大怪我と言ってもいい傷を負ってくる。
そしてあるとき、彼の左腕がなくなっていた。
「いったいどういう戦い方をしてるのさ」
「少し油断した際に、喰われました。……ふふ、出血するし痛みもありますが、呪いのせいか一晩経てば傷は塞がるんですよ」
平然と言うようなことではない。
「あんた、こんなんじゃ嫁さんなんて見つからないじゃないの! せっかくの綺麗な顔まで傷つけて!」
シュリスの頬にも大きな傷跡ができていた。美麗な顔についた傷は引きつり、表情を歪ませる。
「大丈夫ですよ……」
ふふふと笑うシュリスに、カナンは憤慨した。他国で花嫁を見つけてこいと言ったが、シュリスは首を縦に振らない。どこか達観したかのような彼の態度に、カナンは苛々した。
シュリスの顔は諦めに満ちているが、悠長にしている場合ではない。シュリスを覆う靄は、最初に視たときよりもどす黒くなっている。
「マジでどっかの女引っかけてこい」
思いのほか真剣な声が出た。目が据わっている自覚もある。しかしシュリスは困ったように笑うだけだ。
「女性を虜にするような抱き方など知りません」
「じゃあ娼館行けよ! おねーさんから学んでこい! 初めては好きな人とがいいとか言ってる場合じゃないから!」
「しかし……」
「もう! 好きな相手ができたときに大事に抱いてやりゃ、女は満足だよ!!」
煮え切らない英雄の姿に、カナンは地団太を踏みたくなった。
「娼婦が嫌なら、貴族の未亡人とか」
「腕のないこの身体と傷では、嫌がられるでしょう。見た目だけが取り柄でしたから……」
「くっそ、マジでもっと前に筆おろしさせておくんだった……!」
「筆……?」
「なんでもないよ! くそ!!」
口が悪い自覚はあるが、八方塞がりの状況がどうしようもなく不安にさせた。これだから嫌なのだ。人の運命が視えるくせに、何一つできずにただ時が過ぎていくだけだから。
ぎゅっと眉間に皺を寄せるカナンに、何を思ったのかシュリスが口を開いた。
「魔女殿が……」
「ああん?」
カナンがガラの悪い返事をしてしまったせいか、シュリスは視線を落とした。いいから続けろ、と促せば、彼は視線を逸らしたまま言葉を紡ぐ。
「魔女殿が、その、私に、教えてくれませんか……?」
「は?」
カナンはぽかんとした。口を開けたまま微動だにしない彼女に、シュリスは「いえ、やっぱりいいです」とか「魔女殿に決まったお相手がいなければの話で……」とかなんとか口の中でモゴモゴ言いながら、視線をうろうろさせて恥じらっている。
「シュリス、あんた……」
「……はい」
「本当に切羽詰まってるのね……」
こんな年上で口の悪い魔女に手ほどきを乞うほど切羽詰まっていたとは……
シュリスの性格からして、きっとものすごく悩みに悩んで言い出したに違いない。しかし――――
「娼館に行った方がずっといい思いできるし、勉強にもなると思うよ」
カナンが心の底からそう言っても、シュリスは俯いて黙り込むだけだ。その様子をじっと見つめていたカナンだったが、やがて大きくため息を吐いた。びくりとシュリスの肩が揺れる。
「あー……、あんた娼館に行ってもガチガチになってそう……それに英雄が来たって騒がれでもしたら、それだけで委縮して使い物にならなくなりそうだよねぇ……」
要するに、少しでも気心の知れた相手がいいのだろうとカナンは結論づけた。そこでちょっと自分について考えてみる。
誰とでもしたいわけじゃない。むしろしなくてもいい。干物上等。
……でも、まあ。前世でだけど経験がないわけじゃないし、シュリス相手なら一回くらいいいかな、と思う程度には情もある。
ただ、頭ではそう思っていても身体が納得してくれるかはわからない。こういうものは、心より身体の方が正直だったりするのだ。
どうせ何がどうなるかわからない世界。魔女という自分の存在。それを思えば常識とやらに縛られる必要もない。……ないのだが。
「あのさぁ、私、あんたのこと結構気に入ってるんだよね」
俯いていたシュリスが顔を上げる。綺麗な紫色の目で見つめられるとちょっと照れくさくて、カナンは視線を逸らして苦笑した。
「でも、一回そういう関係になっちゃったら、今の関係は壊れちゃうと思うんだよ」
どんなに大丈夫だと思っていても、変わってしまう。酒を酌み交わしながら愚痴を言い合ったり、どうやって花嫁を見つけるか相談したり、魔女が下世話なことを言って英雄がたしなめたり。それはカナンにとって楽しいひとときだった。それを失いたくないと思うのは完全にカナンの我儘なのだが。
「本当にどうしようもなくなったら、ちゃんと考えるから。もう少しだけ頑張ろう。あんたの『初めては好きな人と』っていう夢を諦めないでよ」
優しげな魔女の言葉に、英雄は小さく頷いた。
気づけば、シュリスたち英雄一行がカナンのもとを訪れてから一年が経とうとしている。最近も彼は魔獣討伐で忙しく、しばらく会えていない。
これ以上シュリスのまとう靄が昏くなっていくのを視るのは嫌だ。できれば可愛い花嫁を連れてきて、目の前で永遠の愛を誓ってほしい。
気持ちはもう、弟とか息子とか孫とかを見守っている気分だ。聖騎士で英雄だけれど不器用で少し抜けているところのある青年に幸せになってほしいと、カナンは心から願っていた。
――――――ガタン!
暖炉の火に薪をくべていたところへ倒れるようにして入ってきたのは、カナンが幸せを願っている相手だった。
「え、えええ!! どうしたの!?」
突然のことに混乱したカナンだが、すぐに気づく。シュリスの呼吸がおかしい。顔色も悪いし、右手がどす黒く腫れ上がっている。
「シュリス……?」
入口付近で倒れたままのシュリスをどうにか移動させようとしたが、カナンよりも背が高く鍛えられた身体を動かすことは叶わない。
仕方なくその場で彼の身体を診る。四苦八苦しながらどうにか鎧を剥ぎ取れば、右手だけではなく身体中いたるところがどす黒く変色していた。打撲の跡か、骨が折れているのか、はたまた別の要因があるのか、知識のないカナンには判断できない。
何より気になったのは、シュリスを覆う靄が、前回会ったときよりも昏く濁っていたことだった。
「こちらにおいででしたか」
その声に、カナンはびくりと身体を震わせた。背後を振り返れば、いつの間にか家の前には騎士服とマントをまとった男たちがいる。
「……シュリスに何をしたの」
先頭の男をきつく見据えたカナンは、それが以前、自分を連行しに来た勅使だと気づいた。相手は肩をすくめる。
「我々は英雄様をお迎えに来ただけです。魔獣が出て英雄様が倒してくださったのですが、負傷してしまわれまして。それでも魔女様のところまで歩けたのですから、さすがは英雄様ですね」
「あなたたちは戦わなかったのね」
シュリスと違い、鎧どころか盾一つ持たない彼らの騎士服は乱れもしていない。
「不死の英雄様がいらっしゃるのに、我らの出番などないでしょう? 我らにお手伝いできることがあればなんでもしますが、我らの命は一度限りですので、英雄様が矢面に立ってくださるのですよ」
とてもありがたいことに、と男が言うと、周囲の騎士たちから笑い声が漏れた。
「森の魔女様、国王陛下がお呼びです。城まで同行願います」
「ああそう、断るわけにはいかないの?」
「同行願います」
淡々と告げられ、仕方なくカナンは身支度を整えた。一歩家を出た途端、身体を叩く雨があっという間に熱を奪っていく。やれやれと小さくため息を吐くと、男たちに囲まれるようにしてゆっくりと歩き出した。
豪奢な椅子に腰かけた初老の男の前に、カナンは跪いていた。
「森の魔女よ、そなたはシュリス・サラディンにかけられた不死の呪いを変えることができるとか。それに偽りはないな」
「そのとおりでございます」
かしこまって答えれば、初老の男――王はしばし目を伏せた。再び上げられた目の中に、欲が垣間見える。
「それを不老不死の……不死身の呪いにすることは可能か」
「……それが可能であればどうなさるのでしょうか」
「シュリス・サラディンは最強の騎士となろう。騎士の誉れである」
内心毒づきながらも、カナンは傍目には怯えて見えるように声を震わせる。
「そのような神の御業は持ちません……。私にできるのは少しばかり運命に干渉し、呪いを緩和することだけでございます」
「試してもいないのに、無理と申すか」
不機嫌さを隠そうともせず、王は言う。
「やれ。これは王命である。我が国が不死身の戦士を手に入れることができれば、そなたにも褒美を取らす」
「……わかりました……」
魔女が小さくも了承の言葉を吐いたことで、王は満足そうな表情をした。カナンは怯えるふりをやめ、にやりと口角を上げる。そして黒い瞳でまっすぐ王を射抜いた。
「では、代償をいただきましょう」
「代償だと?」
「はい。魔女の力には、それ相応の代償が必要でございます」
口元だけ笑いの形に歪めながら、カナンは続ける。
「王族の姫を彼の運命に巻き込むこと。それが代償です。それでも成功するかどうかわかりませんが、うまくすれば姫は永遠に若く美しいまま……おや、こう考えると悪い話ではないかもしれませんね。失敗すれば、どうなるかわかったものではありませんが」
「何を馬鹿なことを!」
王の傍に控えていた宰相が焦りをにじませて叫んだ。
「代償もなしに、どうして魔女の力を揮えるでしょう」
「あやつの相手など、そこら辺の女でよかろう」
面倒くさそうに言う王を、森の魔女は嘲笑う。
「不老不死となれば、もはや神の領域。それを穢す代償は高貴な血筋の御方。しかも、誰よりも愛されている方が望ましい。……おりますでしょう? 陛下。見目麗しく、優しく、賢くて、可憐な姫が……」
「まさか、リネディアのことを申しているのか!?」
嗤う魔女は頷いた。第一王女リネディア。英雄の元婚約者にして銀色の髪と菫色の瞳を持つ、近隣諸国に名高いこの国の至宝。以前、カナンが遠目に見たことのある王女は輝く靄をまとっていた。それを、英雄の呪われた運命の道連れにすればいい。
「もちろん、ご本人の了承を得た上でのお話です。リネディア様ほどの輝かしい運命を持つ方が代償であれば、どのような改変も思いのまま。この魔女も喜んで力をお貸ししましょう」
王は目の前の女が薄気味悪く思えてきた。魔術師とは違う。誰も使えない不思議な力を持つという魔女。
不老不死の戦士は欲しい。しかし王にとってリネディアは大事な政略の道具だ。どうしても他の者ではダメなのかと問えば、王女だからこそ価値があるのだと魔女は嗤う。
「それと呪いの影響で子はできなくなりますので、リネディア様にはそれも納得してもらってください。……あぁ、リネディア様が女王になって英雄が王配となり、永遠に君臨し続ければいいのかもしれません。さすればガランバードン王家は安泰ですね」
押し黙る王とその側近たちを一瞥したカナンは、「それではお心が決まりましたら、またお呼びください」と告げて退室する。それを止める者は誰もいなかった。
女官に案内されて広い廊下を歩いていると、前方から女性の集団がやってきた。案内の女官に倣って端に寄り、頭を下げる。すると、そのまま通り過ぎるかと思った相手が足を止めた。
「――――あなたが魔女ですか?」
そう問われ、思わず顔を上げれば、そこにいたのはシュリスの元婚約者――――第一王女リネディアだった。
定位置なのであろう優雅な曲線を描く椅子に王女が座っている。柔らかな色調で整えられた王女のサロンは、その椅子に王女が座することで完成するよう計算されたかのようだった。
ゆるりと波打つ美しい銀色の髪の王女は、穏やかでいて意志の強そうな菫色の瞳を細め、ふわりと微笑んだ。
「魔女様が城に来ていると伺ったので、陛下のもとへ確認しに行くところでしたの。お会いできて嬉しいですわ」
王女とカナンの前のテーブルに、侍女がてきぱきとお茶の用意をした。
「どうぞ、召し上がってください」
「……ありがとうございます」
どうしてこうなったと内心首を傾げながら、カナンは高級そうなお茶をいただいた。しばらくして、口を開いたのはリネディアだった。
「……シュリス様は、お元気ですか?」
「元気といえば元気ですね」
カナンが答えると、王女はホッとした様子だった。それを見つめるカナンの視線に気づき、恥ずかしそうに微笑む。
「そうですか。会うことは禁止されておりますので、気になっていたのです」
「リネディア様は、もしやシュリス……様のことを?」
もしや脈ありかと身を乗り出すが、リネディアはそっと目を伏せた。
「いいえ。将来、伴侶として添えば愛情や信頼を育むことはできると思っておりましたが……」
言葉を濁した王女は、背筋を伸ばして顔を上げる。
「わたくしは、この国の王族として国のため、民のためになる婚姻を望まれています。シュリス様と国とを比べて国を選び……まして、その手を取ることに怯えたわたくしは彼にふさわしくありません」
強張った表情の王女に、カナンは目を細めた。王女は言いにくそうに続ける。
「このようなことを言える立場ではありませんが、どうかシュリス様をお救いくださいませ。わたくしは――――」
「魔女殿! ご無事ですか!?」
やれやれ疲れたと思いながらカナンが廊下に出ると、シュリスが息を切らしてやってきた。その顔はひどく青ざめている。案内の女官を下がらせたシュリスは、カナンに怪我はないかと心配した。
「大丈夫だって。いや、悪いね。あんたの相手としてリネディア様をいただけるかなーって思ったけど無理だったわぁ」
王女は輝かんばかりの明るい色をまとっていた。どのような困難も苦悩も乗り越え、傷ついても再び歩き出す強さ。あの姫の持つ運命の輝きならば、呪いをもっと緩和することが可能かもしれない。何よりシュリスを幸せにしてくれるだろうと考えたのだが、それも無理だとわかった。
「あのさぁ……、リネディア王女、隣国に嫁ぐことが決まったんだって……」
「そうですね。隣国とは少々拗れていたのですが、これを機に和解をという話になっています」
「知ってたの!?」
「それは、まぁ……」
――――わたくしは、国のために嫁ぎます。それがわたくしの役目ですから。
凜とした声で語り、迷いもすべて断ち切った様子の王女は綺麗だった。きっと、国との間で迷うくらいにはシュリスを想っていたのだろう。
「……惜しいっ……!」
「何がでしょう?」
きょとんとするシュリスは、王女の婚姻話にさほどショックを受けていないようだ。二人の間に何も芽生えなかったのは、こいつに問題があったに違いないと、カナンは勝手に決めつけた。
一人でうんうん頷く魔女を見下ろすシュリスは、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
魔女が静かな生活を好むことは知っていたのに、シュリスの事情に巻き込むことで注目を集めるようになってしまったのだ。社交界でも、呪いを変える魔女の力が噂になっている。そして今回、ついに国王に召喚された。うまく切り抜けたようだが、下手をすれば牢屋送り、あるいは強制的に働かされることだって考えられる。
呪いを受けてからというもの、シュリスの話に耳を傾けてくれる人間はとても少なくなった。ずっと奔走してくれた仲間たちも、それぞれ仕事を任せられていて、ほとんど会えていない。
――――それでも、今は、まだいい。
少し疎遠になってはいても、家族も、仲間たちもいる。だが、彼らが死んでしまった後は? 自分のことを知ろうともしない人々から、化け物と見なされるのではないか。そんな恐怖と不安を押し隠しながら英雄として振る舞わねばならないシュリスにとって、いかにして女性の気を引くかなどというふざけたことを大真面目に話し合うことのできる魔女は、とてもありがたい存在だった。
だというのに、自分はそんな魔女に迷惑をかけている。
「うちまで送ってくれる?」
魔女の言葉で我に返ったシュリスは「もちろんです」と返事をした。
* * *
「あのさぁ、あんた婚活急がないと、結構まずいんじゃないかな」
自宅で酒とつまみを用意しながらカナンは切り出した。
シュリスの身分は以前と変わらない。呪われたとはいえ、英雄であり、国に仕える聖騎士。そして彼が神殿に保護されるのは、『不死の呪い』が『永遠の転生の呪い』になってから。このままでは、国にいいように扱われる。不老不死の戦士にしようなどと思いつく阿呆どもだ。碌なことを考えないに違いない。
リネディア王女もそれを案じていた。元々、王女との婚約もシュリスを戦力として国に縛りつけるためのもの。それが叶わなくなり、王女は別の形で国を守るための結婚をすることになった。では、シュリスは――――不死の英雄はどう利用される?
「誰かいいお相手がいればいいんだけどねぇ」
かなり難しいことを言っているのはわかっているが、無理矢理にでもテンション上げて尻を叩かねば、国中の女性から総スカンを食らった男はすぐに落ち込んでしまう。
「やっぱり若いお嬢さんを誑かして、勢いで行くのが一番だと思うんだよ」
恋に浮かれたお花畑状態なら、彼と手と手を取り合って運命に身を投じそうだ。それを思えば英雄の周りにいたハーレム要員たちは、ある意味素晴らしい危機意識を持っていたと言える。英雄にべったりだった巫女は王太子殿下を射止め、他の仲間たちもいつの間にかそれぞれ恋人や夫を作っていたのだから。
仲間たちから手紙をもらったシュリスは素直に祝っていたが、追い詰められた彼に懇願される前に手を打ったのではとカナンは疑っている。
「……不甲斐なくて、本当に申し訳なく……」
「いや、別に責めているわけじゃないからさぁ」
困り切ったように縮こまる英雄に、カナンはホットワインを差し出し、自分もごくりと飲んだ。本当はワインよりも熱燗が恋しいが仕方ない。
シュリスの花嫁探しは遅々として進んでいない。落とし物を届けようとしただけなのに睨まれ、ちょっといい感じかなと思った女性も、シュリスから贈り物をもらうだけもらって去っていく。
更に、これは魔女には報告していないが、頑張って声をかけてみようとしたらあからさまに避けられたり、正面切って『荷物運びの男はちょっと……』と言われたりもしていた。彼の心はボロボロである。
酒を片手にテーブルに突っ伏す英雄の姿に、さすがのカナンもちょっと気の毒になった。
「……魔女殿、私は自分が情けない……」
「あぁ、うん。私もあんたがここまでだとは思ってなかった」
「私は所詮、顔と地位と剣の腕だけの男だったのです」
「大体はそれで事足りるからね? 呪いがなければ、あんたほぼ全女性のターゲットだからね?」
カナンは思わずツッコミを入れた。呪いのことを知らなければ単なる自慢に聞こえるだろう。
「うーん……。私も婚活には苦しんだけど、あんたは呪いがあるから、もっと深刻だしねぇ……。仕方がない。もう別の手段で行こう」
「別の手段……ですか?」
興味を引かれたのか、シュリスが少し頭を持ち上げた。
「うん。その綺麗な顔と鍛え上げられた身体を最大限に使って、狙った女をベッドで腰砕けにさせて、あんたから離れられないよう快楽という名の――」
「なんてことを言うんですか!!」
ものすごい速さでシュリスの手が魔女の口を塞いだ。その顔は真っ赤だ。
「女性がそのような、はしたないことを言ってはいけません!」
「も、もががが!?」
何か言いたそうだと気づいたシュリスがそっと手を離したが、カナンが「まさかあんた童て」と言いかけたところでもう一度塞がれた。
「……婚前交渉はよくありません」
照れが入りつつも重々しいシュリスの言葉に、カナンがこくこくと頷くと、ようやく解放される。
「えーと……この国ではそれが普通なの?」
「そういうわけでは、ないのですが……」
令嬢は清らかであることが求められるが、男はそれほどではない。ただ、シュリスは成人と同時に聖騎士として教育され、第一王女と婚約した。更に魔術師を倒したことで英雄と持て囃され、その一挙手一投足に注目されていたのだ。色っぽいこととは縁遠かったし、婚約者がいる手前、そういう店に行くのも憚られた。
なぜこのような話を女性にしているのだろう、と頭の片隅で思いながら、シュリスはちらちらと魔女を窺い見る。魔女は、確実にシュリスより年上だ。そして先ほどの言動から、異性とそういう経験があるのは間違いない……
そんな考えを持った自分があさましく思え、恥ずかしくなったシュリスは頭を横に振った。これだけ親身になってくれている魔女に対して、何を考えているのか。
シュリスが心の中で神に懺悔し出したことなど知る由もないカナンが提案する。
「じゃあ娼館でも行く? 経験積んでおくのも必要じゃないかな」
「……その、初めては、好きな人としたいです……」
「あー……そう、ごめんね」
何を馬鹿なことをと言われるかと思ったのに、魔女は謝ってくれた。シュリスが驚いて見つめ返せば、「私だってそういう気持ちくらいはわかるよ。最初は大事だよねぇ」と笑う。それは今まで見たことがない表情で、どこか遠くを見ているような目は、寂しさと愛しさを湛えていた。
「魔女殿は、おいくつなのですか?」
「お、聞いちゃう? たぶん三十は過ぎているかなぁ。正確にはわかんない」
魔女はいつものようなふてぶてしい表情になり、ふっふっふと笑った。
「私だって、素敵な恋の一つくらいは経験あるのだよ。ほぉーら、こんな魔女にだってできるんだから、あんたなら運命の恋の一つや二つ、絶対にできるって!」
ばんばんと背中を叩かれた英雄は、杯から零れそうになった酒を慌ててすすった。
――――ところがその後、花嫁探しは中断された。国境付近に強力な魔獣が出るとかでシュリスは頻繁に呼び戻されるようになり、市井で生活することが難しくなったのだ。
いっそ国外で嫁を見つけてこいというべきか。正直言って、もうそれしかないとは思うが、それではせっかくできた飲み仲間を失うことになる。いや待てよ? 相手の気が変わらないうちに運命を改変するなら、一緒についていった方がいいのだろうか。
本気で悩んでいたカナンは、久々に姿を見せた彼が負傷していることに驚いた。シュリスは少し失態を犯しただけだと説明したが、その後も魔獣退治に行くたびに大怪我と言ってもいい傷を負ってくる。
そしてあるとき、彼の左腕がなくなっていた。
「いったいどういう戦い方をしてるのさ」
「少し油断した際に、喰われました。……ふふ、出血するし痛みもありますが、呪いのせいか一晩経てば傷は塞がるんですよ」
平然と言うようなことではない。
「あんた、こんなんじゃ嫁さんなんて見つからないじゃないの! せっかくの綺麗な顔まで傷つけて!」
シュリスの頬にも大きな傷跡ができていた。美麗な顔についた傷は引きつり、表情を歪ませる。
「大丈夫ですよ……」
ふふふと笑うシュリスに、カナンは憤慨した。他国で花嫁を見つけてこいと言ったが、シュリスは首を縦に振らない。どこか達観したかのような彼の態度に、カナンは苛々した。
シュリスの顔は諦めに満ちているが、悠長にしている場合ではない。シュリスを覆う靄は、最初に視たときよりもどす黒くなっている。
「マジでどっかの女引っかけてこい」
思いのほか真剣な声が出た。目が据わっている自覚もある。しかしシュリスは困ったように笑うだけだ。
「女性を虜にするような抱き方など知りません」
「じゃあ娼館行けよ! おねーさんから学んでこい! 初めては好きな人とがいいとか言ってる場合じゃないから!」
「しかし……」
「もう! 好きな相手ができたときに大事に抱いてやりゃ、女は満足だよ!!」
煮え切らない英雄の姿に、カナンは地団太を踏みたくなった。
「娼婦が嫌なら、貴族の未亡人とか」
「腕のないこの身体と傷では、嫌がられるでしょう。見た目だけが取り柄でしたから……」
「くっそ、マジでもっと前に筆おろしさせておくんだった……!」
「筆……?」
「なんでもないよ! くそ!!」
口が悪い自覚はあるが、八方塞がりの状況がどうしようもなく不安にさせた。これだから嫌なのだ。人の運命が視えるくせに、何一つできずにただ時が過ぎていくだけだから。
ぎゅっと眉間に皺を寄せるカナンに、何を思ったのかシュリスが口を開いた。
「魔女殿が……」
「ああん?」
カナンがガラの悪い返事をしてしまったせいか、シュリスは視線を落とした。いいから続けろ、と促せば、彼は視線を逸らしたまま言葉を紡ぐ。
「魔女殿が、その、私に、教えてくれませんか……?」
「は?」
カナンはぽかんとした。口を開けたまま微動だにしない彼女に、シュリスは「いえ、やっぱりいいです」とか「魔女殿に決まったお相手がいなければの話で……」とかなんとか口の中でモゴモゴ言いながら、視線をうろうろさせて恥じらっている。
「シュリス、あんた……」
「……はい」
「本当に切羽詰まってるのね……」
こんな年上で口の悪い魔女に手ほどきを乞うほど切羽詰まっていたとは……
シュリスの性格からして、きっとものすごく悩みに悩んで言い出したに違いない。しかし――――
「娼館に行った方がずっといい思いできるし、勉強にもなると思うよ」
カナンが心の底からそう言っても、シュリスは俯いて黙り込むだけだ。その様子をじっと見つめていたカナンだったが、やがて大きくため息を吐いた。びくりとシュリスの肩が揺れる。
「あー……、あんた娼館に行ってもガチガチになってそう……それに英雄が来たって騒がれでもしたら、それだけで委縮して使い物にならなくなりそうだよねぇ……」
要するに、少しでも気心の知れた相手がいいのだろうとカナンは結論づけた。そこでちょっと自分について考えてみる。
誰とでもしたいわけじゃない。むしろしなくてもいい。干物上等。
……でも、まあ。前世でだけど経験がないわけじゃないし、シュリス相手なら一回くらいいいかな、と思う程度には情もある。
ただ、頭ではそう思っていても身体が納得してくれるかはわからない。こういうものは、心より身体の方が正直だったりするのだ。
どうせ何がどうなるかわからない世界。魔女という自分の存在。それを思えば常識とやらに縛られる必要もない。……ないのだが。
「あのさぁ、私、あんたのこと結構気に入ってるんだよね」
俯いていたシュリスが顔を上げる。綺麗な紫色の目で見つめられるとちょっと照れくさくて、カナンは視線を逸らして苦笑した。
「でも、一回そういう関係になっちゃったら、今の関係は壊れちゃうと思うんだよ」
どんなに大丈夫だと思っていても、変わってしまう。酒を酌み交わしながら愚痴を言い合ったり、どうやって花嫁を見つけるか相談したり、魔女が下世話なことを言って英雄がたしなめたり。それはカナンにとって楽しいひとときだった。それを失いたくないと思うのは完全にカナンの我儘なのだが。
「本当にどうしようもなくなったら、ちゃんと考えるから。もう少しだけ頑張ろう。あんたの『初めては好きな人と』っていう夢を諦めないでよ」
優しげな魔女の言葉に、英雄は小さく頷いた。
気づけば、シュリスたち英雄一行がカナンのもとを訪れてから一年が経とうとしている。最近も彼は魔獣討伐で忙しく、しばらく会えていない。
これ以上シュリスのまとう靄が昏くなっていくのを視るのは嫌だ。できれば可愛い花嫁を連れてきて、目の前で永遠の愛を誓ってほしい。
気持ちはもう、弟とか息子とか孫とかを見守っている気分だ。聖騎士で英雄だけれど不器用で少し抜けているところのある青年に幸せになってほしいと、カナンは心から願っていた。
――――――ガタン!
暖炉の火に薪をくべていたところへ倒れるようにして入ってきたのは、カナンが幸せを願っている相手だった。
「え、えええ!! どうしたの!?」
突然のことに混乱したカナンだが、すぐに気づく。シュリスの呼吸がおかしい。顔色も悪いし、右手がどす黒く腫れ上がっている。
「シュリス……?」
入口付近で倒れたままのシュリスをどうにか移動させようとしたが、カナンよりも背が高く鍛えられた身体を動かすことは叶わない。
仕方なくその場で彼の身体を診る。四苦八苦しながらどうにか鎧を剥ぎ取れば、右手だけではなく身体中いたるところがどす黒く変色していた。打撲の跡か、骨が折れているのか、はたまた別の要因があるのか、知識のないカナンには判断できない。
何より気になったのは、シュリスを覆う靄が、前回会ったときよりも昏く濁っていたことだった。
「こちらにおいででしたか」
その声に、カナンはびくりと身体を震わせた。背後を振り返れば、いつの間にか家の前には騎士服とマントをまとった男たちがいる。
「……シュリスに何をしたの」
先頭の男をきつく見据えたカナンは、それが以前、自分を連行しに来た勅使だと気づいた。相手は肩をすくめる。
「我々は英雄様をお迎えに来ただけです。魔獣が出て英雄様が倒してくださったのですが、負傷してしまわれまして。それでも魔女様のところまで歩けたのですから、さすがは英雄様ですね」
「あなたたちは戦わなかったのね」
シュリスと違い、鎧どころか盾一つ持たない彼らの騎士服は乱れもしていない。
「不死の英雄様がいらっしゃるのに、我らの出番などないでしょう? 我らにお手伝いできることがあればなんでもしますが、我らの命は一度限りですので、英雄様が矢面に立ってくださるのですよ」
とてもありがたいことに、と男が言うと、周囲の騎士たちから笑い声が漏れた。
0
お気に入りに追加
949
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
私が死んで満足ですか?
マチバリ
恋愛
王太子に婚約破棄を告げられた伯爵令嬢ロロナが死んだ。
ある者は面倒な婚約破棄の手続きをせずに済んだと安堵し、ある者はずっと欲しかった物が手に入ると喜んだ。
全てが上手くおさまると思っていた彼らだったが、ロロナの死が与えた影響はあまりに大きかった。
書籍化にともない本編を引き下げいたしました
側妃は捨てられましたので
なか
恋愛
「この国に側妃など要らないのではないか?」
現王、ランドルフが呟いた言葉。
周囲の人間は内心に怒りを抱きつつ、聞き耳を立てる。
ランドルフは、彼のために人生を捧げて王妃となったクリスティーナ妃を側妃に変え。
別の女性を正妃として迎え入れた。
裏切りに近い行為は彼女の心を確かに傷付け、癒えてもいない内に廃妃にすると宣言したのだ。
あまりの横暴、人道を無視した非道な行い。
だが、彼を止める事は誰にも出来ず。
廃妃となった事実を知らされたクリスティーナは、涙で瞳を潤ませながら「分かりました」とだけ答えた。
王妃として教育を受けて、側妃にされ
廃妃となった彼女。
その半生をランドルフのために捧げ、彼のために献身した事実さえも軽んじられる。
実の両親さえ……彼女を慰めてくれずに『捨てられた女性に価値はない』と非難した。
それらの行為に……彼女の心が吹っ切れた。
屋敷を飛び出し、一人で生きていく事を選択した。
ただコソコソと身を隠すつまりはない。
私を軽んじて。
捨てた彼らに自身の価値を示すため。
捨てられたのは、どちらか……。
後悔するのはどちらかを示すために。

結婚30年、契約満了したので離婚しませんか?
おもちのかたまり
恋愛
恋愛・小説 11位になりました!
皆様ありがとうございます。
「私、旦那様とお付き合いも甘いやり取りもしたことが無いから…ごめんなさい、ちょっと他人事なのかも。もちろん、貴方達の事は心から愛しているし、命より大事よ。」
眉根を下げて笑う母様に、一発じゃあ足りないなこれは。と確信した。幸い僕も姉さん達も祝福持ちだ。父様のような力極振りではないけれど、三対一なら勝ち目はある。
「じゃあ母様は、父様が嫌で離婚するわけではないんですか?」
ケーキを幸せそうに頬張っている母様は、僕の言葉にきょとん。と目を見開いて。…もしかすると、母様にとって父様は、関心を向ける程の相手ではないのかもしれない。嫌な予感に、今日一番の寒気がする。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
20年前に攻略対象だった父親と、悪役令嬢の取り巻きだった母親の現在のお話。
ハッピーエンド・バットエンド・メリーバットエンド・女性軽視・女性蔑視
上記に当てはまりますので、苦手な方、ご不快に感じる方はお気を付けください。
この度、双子の妹が私になりすまして旦那様と初夜を済ませてしまったので、 私は妹として生きる事になりました
秘密 (秘翠ミツキ)
恋愛
*レンタル配信されました。
レンタルだけの番外編ssもあるので、お読み頂けたら嬉しいです。
【伯爵令嬢のアンネリーゼは侯爵令息のオスカーと結婚をした。籍を入れたその夜、初夜を迎える筈だったが急激な睡魔に襲われて意識を手放してしまった。そして、朝目を覚ますと双子の妹であるアンナマリーが自分になり代わり旦那のオスカーと初夜を済ませてしまっていた。しかも両親は「見た目は同じなんだし、済ませてしまったなら仕方ないわ。アンネリーゼ、貴女は今日からアンナマリーとして過ごしなさい」と告げた。
そして妹として過ごす事になったアンネリーゼは妹の代わりに学院に通う事となり……更にそこで最悪な事態に見舞われて……?】
子ども扱いしないでください! 幼女化しちゃった完璧淑女は、騎士団長に甘やかされる
佐崎咲
恋愛
旧題:完璧すぎる君は一人でも生きていけると婚約破棄されたけど、騎士団長が即日プロポーズに来た上に甘やかしてきます
「君は完璧だ。一人でも生きていける。でも、彼女には私が必要なんだ」
なんだか聞いたことのある台詞だけれど、まさか現実で、しかも貴族社会に生きる人間からそれを聞くことになるとは思ってもいなかった。
彼の言う通り、私ロゼ=リンゼンハイムは『完璧な淑女』などと称されているけれど、それは努力のたまものであって、本質ではない。
私は幼い時に我儘な姉に追い出され、開き直って自然溢れる領地でそれはもうのびのびと、野を駆け山を駆け回っていたのだから。
それが、今度は跡継ぎ教育に嫌気がさした姉が自称病弱設定を作り出し、代わりに私がこの家を継ぐことになったから、王都に移って血反吐を吐くような努力を重ねたのだ。
そして今度は腐れ縁ともいうべき幼馴染みの友人に婚約者を横取りされたわけだけれど、それはまあ別にどうぞ差し上げますよというところなのだが。
ただ。
婚約破棄を告げられたばかりの私をその日訪ねた人が、もう一人いた。
切れ長の紺色の瞳に、長い金髪を一つに束ね、男女問わず目をひく美しい彼は、『微笑みの貴公子』と呼ばれる第二騎士団長のユアン=クラディス様。
彼はいつもとは違う、改まった口調で言った。
「どうか、私と結婚してください」
「お返事は急ぎません。先程リンゼンハイム伯爵には手紙を出させていただきました。許可が得られましたらまた改めさせていただきますが、まずはロゼ嬢に私の気持ちを知っておいていただきたかったのです」
私の戸惑いたるや、婚約破棄を告げられた時の比ではなかった。
彼のことはよく知っている。
彼もまた、私のことをよく知っている。
でも彼は『それ』が私だとは知らない。
まったくの別人に見えているはずなのだから。
なのに、何故私にプロポーズを?
しかもやたらと甘やかそうとしてくるんですけど。
どういうこと?
============
「番外編 相変わらずな日常」
いつも攻め込まれてばかりのロゼが居眠り中のユアンを見つけ、この機会に……という話です。
※転載・複写はお断りいたします。
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
過去1ヶ月以内にレジーナの小説・漫画を1話以上レンタルしている
と、レジーナのすべての番外編を読むことができます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にレジーナの小説・漫画を1話以上レンタルしている
と、レジーナのすべての番外編を読むことができます。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。