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第二十四話 笑顔
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唇を噛んだまま話さないリュカを見て、クロヴィスは嘆息する。しかし、怒っているわけではなさそうだった。
「オレールとは確かに婚約していたが、それは家が勝手に決めたことだ。関係は悪くはなかったが、幼い頃からの付き合いだから友人といった感覚の方が強い」
「でも、婚約したのが嫌だったんだろ」
「オレールの婚約がか? まさか。彼には幸せになって欲しいと思っている。オレールには長年の想い人がいてな。相手はアルファだがどうにも家格が釣り合わなくて、オレールはずっと諦めていたんだ」
曰く、オレールの想い人は田舎領主の三男坊で、彼の生家に雇われた護衛だった。子どもの頃からずっとそばにいたアルファに恋をしたオレールだったが、侯爵家のオレールと爵位も持たないアルファとではまったく釣り合いが取れない。当然、そのことを弁えたアルファには相手にされていなかったという。
それらの事情を理解した上で、クロヴィスはオレールと結婚するつもりだった。オレール自身もクロヴィスとの結婚には納得していたらしい。
「しかし、俺が彼との婚約を解消したときに、オレール自身が少々細工をしたんだ。自分が子どもができないオメガだから俺がリュカを選んだとかなんとか、そういう噂を自ら社交界に流して、新しい結婚相手が見つからないようにした」
貴族社会では子どもが出来ないオメガは、どれほど高貴な身分でもなかなか相手が見つからないのだ、とクロヴィスは言った。貴族にとって後継を残すことは重要で、オメガの役割がそれそのものだからだ。
瑕疵が付いてしまった――というか、自ら付けたわけだが――オレールは、護衛に泣きついた。
――このままでは親子ほども年の離れたアルファの後妻にでもされるかもしれない。なら、ずっと好きだったあなたと番いたい。
そのアルファ自身も、幼い頃から守って来たオレールを憎からず思っていたのだろう。そんなことを泣きながら言われて、オレールをようやく受け入れた。その全てはオレールの計画の内で、クロヴィスは定期的に来るオレールの手紙で報告を受けていたのだ、と言った。
「あいつは大人しいが、計算高い。友人としてはいいが、番にと望むには少々灰汁が強いんだ。そもそも俺がグリシーヌに赴任するときに一緒に来なかったのは、そのアルファと離れたくなかったからだし、戻って来てから結婚すると言うのも少しでも結婚するまでの時間を延ばすためだ」
淡々と説明するクロヴィスからは、確かにオレールに対する特別な気持ちは読み取れなかった。しかし、それではクロヴィスは元々愛してもいない友人と結婚するつもりだったということだ。
問えば、それが貴族というものだ、とクロヴィスは返した。
「相手が友人として付き合えるならば、マシな方だ。家の利益のみで結ばれる契約だからな」
握られた手がひどく熱い。高鳴る心臓を何とか往なしていると、クロヴィスが俺はそれが出来なかったから勘当されたんだ、と続けた。
「かんどう?」
「オレールとの婚約を解消したら家から縁を切られた。兄に何かあっても家督は継げないし、親が死んでも財産は貰えない。幸いなことに総督として生涯務めることが出来るから、君を路頭に迷わせるようなことはないが、ひょっとしたら子どもには『ヴァリエール』と名乗らせることが出来ないかもしれない」
「そうとく?」
「グリシーヌ城の総督だ。あの砦で一応、一番偉いということになっている」
「誰が?」
「俺がだ」
それまで知らなかったことを一気に教えられて、リュカは大いに混乱する。
家から縁を切られた、だなんて。何でもないことのようにクロヴィスは言ったが、一大事なのではないだろうか。そもそも家族がいないリュカには、よく分からないけども。
「じゃあ、旦那様はオレール様のことは別に好きじゃなかったし、新しい婚約は別に嫌じゃなかった?」
「ああ」
「俺と結婚するために、家と縁切ったのか? だから俺、旦那様の家族に会ったことがない?」
恐る恐る聞けば、クロヴィスが困惑しながらも頷いてくれる。その途端、目頭が熱くて鼻の奥が痛くなった。
「リュ、リュカ……!?」
いきなりぼろぼろと泣きだしたリュカに、クロヴィスが動揺する。しかし涙は止まらなかった。だって。
「俺、てっきり旦那様はオレール様のことを愛してるんだと思ってた。だから、家族にも会わせてもらえないし、避けられてるんだって思って、だったら番解消してもらわなきゃって」
「それこそ、なんでそうなるんだ。ひょっとして離婚したいのは、それが理由か?」
「そうだよ。だって、俺、あんたのこと好きだから、好きな人には幸せになって欲しいんだ」
自分じゃあんたを幸せにできない。だから、オレール様と一緒になって幸せになって欲しかった。番を解消されたって、俺はたぶん生きていける。だから家を出たのに。
泣きながらそう言えば、クロヴィスの顔がどんどん苦しげになっていく。それはまるで痛みを我慢しているような顔だった。
「なんで、そんな……。どうして、君は自分を蔑ろにするんだ。どうして簡単に全て捨てようとする。いや、俺の言葉が足りないのがいけないんだが」
起き上がれるか、と聞かれてリュカは頷いた。殴られた顔と腹は痛いが、起きられないほどではない。背中を支えられてゆっくりと体を起こせば、クロヴィスがリュカを思いっきり抱きしめてくる。
力強い腕に囚われて、また涙が零れた。
「好きだ。愛してる。今思えば、たぶん最初から惹かれていたんだ。だから怖がられているのが辛かった」
クロヴィスの言葉がリュカの胸に沁み込んでいく。それは確かに一番深いところに届いて、リュカの心を震わせる。誰かに――いや、相手がクロヴィスだからか――愛されることがこれほどうれしいことだとは思わなかった。
しかし、クロヴィスはよく分からないことを言っていた。リュカは何となくそれを聞き流してはいけない気がした。そっと広い背中に手を回して、頬を逞しい胸に寄せる。
「怖がるって、なに」
「君は、俺のことが怖いだろう。だから、俺は最近君を避けていたんだ。顔を合わせると触れたくなるから……」
クロヴィスの問いにリュカは再び驚いた。怖い、誰が、誰のことを。
何を馬鹿なことを、と思ったが、クロヴィスは真剣だった。抱きしめる腕が少し震えていて、その答えがクロヴィスにとって「恐ろしいこと」であることに気づく。
「怖くない。もしかしたら、他のアルファは怖かったのかもしんねぇけど。あんたが怖かったことは一回もない」
きっぱりと答えて、リュカはそっとクロヴィスから身体を離した。馴染んだ温度が離れるのは少し寂しかったけれど、そうしなければ顔が見えない。クロヴィスの頬に両手で触れて、その瞳を覗き込む。不安で満ちたその紫色は、少しだけ滲んでいるように見えた。
だから、リュカはもう一度繰り返す。いや、伝わるまできっと何度でも言うだろう。
「怖くないって。嘘じゃねぇよ」
だって、クロヴィスは最初から優しかった。全ての始まりである砦での事故のときでさえ、強引だけれど乱暴ではなかった。それから数回過ごした発情期だって、ただ気持ちがいいだけだった。それに。
「一緒に寝てくれて嬉しかった。抱きしめてくれたことも、雪だるま作ってくれたことも、俺すっごい嬉しかったよ」
故に、恋に落ちたのだ。普段は仏頂面でにこりともしない男だったけれど、その不器用な優しさが好きだった。
「信じてよ。俺も、信じるからさ」
「ああ……――」
クロヴィスが頷いて、それから柔らかく微笑んだ。
それを見て、リュカは息を呑む。
「わら、った」
「は?」
「笑った。今、笑ったろ」
「笑ったか?」
「笑ったよ。旦那様の笑顔、初めて見た」
リュカが言えば、今度はクロヴィスが驚いたように言う。
「そうだったか」
「うん。旦那様はいつも無表情か怒ってるかで、だから俺嫌われてるんだと思ってた」
それはリュカがずっと見たいと思っていたクロヴィスの笑顔だった。離婚する前に一度は見たいと願って、けれど絶対に叶わないと諦めた、リュカが心から望んだたったひとつのもの。
「もっと笑って欲しい。俺、たぶん旦那様の笑顔好き」
つられて微笑みながら言えば、クロヴィスは神妙な顔で頷いた。
「分かった、善処しよう。元々こんな顔だが、リュカの前では出来るだけ笑うようにする」
「はは、頑張って笑うってなんか変だな」
クロヴィスにとって笑顔とは努力しないと作れない物らしい。俺、得意だから教えてあげようか、と揶揄えば、クロヴィスは苦虫を嚙み潰したような顔をした。
「では、その代わりと言っては何だが、俺からも頼みがあるんだが」
「なんだ?」
「その、『旦那様』というのは止めてくれないか。俺は娼館に行ったことはないが、娼婦が客を呼ぶときの呼び方だろう。クロヴィスと名前で呼んで欲しい」
そう言われて、確かにそうだな、とリュカは思った。
最初の出会いが出会いだったのだ。一年前のリュカにとってクロヴィスは、まさにお客の延長のようなものだった。頑なに顔を合わせない相手と仲良くするつもりもなかったし、そこに愛が芽生えるとも思っていなかった。
ついそのままで呼び続けていたが、クロヴィスは気にしていたらしい。
「クロヴィス、様?」
「呼び捨てで構わない。あと、俺の前で作り笑いをするな」
「分かった。クロヴィス、クロヴィス……」
リュカは許されたその名前を何度も反芻する。音として耳に届くその名前は、リュカにとって特別だ。この砦の街でクロヴィスの名前を呼ぶのはきっとリュカしかいないだろう。
それこそ、ようやく番であると認められたような気持ちだった。これからはきっと、クロヴィスが言うような作り笑いなんて一生しなくていいはずだ。
ふくふくと笑いながら名前を呼ぶリュカの頬に、クロヴィスがそっと口づけた。腫れている左頬を指先でなぞられ、柔らかく唇を寄せられる。
「リュカも、何か望みがあれば言って欲しい。出来るだけ叶えられるように努力する」
クロヴィスの言葉にリュカはうん、と頷いた。そして少しだけ考えて口を開く。
「じゃあ、あと一個、お願い聞いて欲しい」
「何だ」
「発情期以外も抱いて欲しい。寝室も一緒がいい」
リュカが言った途端、クロヴィスがぴしり、と固まったのが分かった。
しかし、出来るだけ叶える、と言った手前断るわけにもいかなかったのだろう。クロヴィスは迷う素振りを見せながらも、怪我が治ったらな、と返してくれた。
「オレールとは確かに婚約していたが、それは家が勝手に決めたことだ。関係は悪くはなかったが、幼い頃からの付き合いだから友人といった感覚の方が強い」
「でも、婚約したのが嫌だったんだろ」
「オレールの婚約がか? まさか。彼には幸せになって欲しいと思っている。オレールには長年の想い人がいてな。相手はアルファだがどうにも家格が釣り合わなくて、オレールはずっと諦めていたんだ」
曰く、オレールの想い人は田舎領主の三男坊で、彼の生家に雇われた護衛だった。子どもの頃からずっとそばにいたアルファに恋をしたオレールだったが、侯爵家のオレールと爵位も持たないアルファとではまったく釣り合いが取れない。当然、そのことを弁えたアルファには相手にされていなかったという。
それらの事情を理解した上で、クロヴィスはオレールと結婚するつもりだった。オレール自身もクロヴィスとの結婚には納得していたらしい。
「しかし、俺が彼との婚約を解消したときに、オレール自身が少々細工をしたんだ。自分が子どもができないオメガだから俺がリュカを選んだとかなんとか、そういう噂を自ら社交界に流して、新しい結婚相手が見つからないようにした」
貴族社会では子どもが出来ないオメガは、どれほど高貴な身分でもなかなか相手が見つからないのだ、とクロヴィスは言った。貴族にとって後継を残すことは重要で、オメガの役割がそれそのものだからだ。
瑕疵が付いてしまった――というか、自ら付けたわけだが――オレールは、護衛に泣きついた。
――このままでは親子ほども年の離れたアルファの後妻にでもされるかもしれない。なら、ずっと好きだったあなたと番いたい。
そのアルファ自身も、幼い頃から守って来たオレールを憎からず思っていたのだろう。そんなことを泣きながら言われて、オレールをようやく受け入れた。その全てはオレールの計画の内で、クロヴィスは定期的に来るオレールの手紙で報告を受けていたのだ、と言った。
「あいつは大人しいが、計算高い。友人としてはいいが、番にと望むには少々灰汁が強いんだ。そもそも俺がグリシーヌに赴任するときに一緒に来なかったのは、そのアルファと離れたくなかったからだし、戻って来てから結婚すると言うのも少しでも結婚するまでの時間を延ばすためだ」
淡々と説明するクロヴィスからは、確かにオレールに対する特別な気持ちは読み取れなかった。しかし、それではクロヴィスは元々愛してもいない友人と結婚するつもりだったということだ。
問えば、それが貴族というものだ、とクロヴィスは返した。
「相手が友人として付き合えるならば、マシな方だ。家の利益のみで結ばれる契約だからな」
握られた手がひどく熱い。高鳴る心臓を何とか往なしていると、クロヴィスが俺はそれが出来なかったから勘当されたんだ、と続けた。
「かんどう?」
「オレールとの婚約を解消したら家から縁を切られた。兄に何かあっても家督は継げないし、親が死んでも財産は貰えない。幸いなことに総督として生涯務めることが出来るから、君を路頭に迷わせるようなことはないが、ひょっとしたら子どもには『ヴァリエール』と名乗らせることが出来ないかもしれない」
「そうとく?」
「グリシーヌ城の総督だ。あの砦で一応、一番偉いということになっている」
「誰が?」
「俺がだ」
それまで知らなかったことを一気に教えられて、リュカは大いに混乱する。
家から縁を切られた、だなんて。何でもないことのようにクロヴィスは言ったが、一大事なのではないだろうか。そもそも家族がいないリュカには、よく分からないけども。
「じゃあ、旦那様はオレール様のことは別に好きじゃなかったし、新しい婚約は別に嫌じゃなかった?」
「ああ」
「俺と結婚するために、家と縁切ったのか? だから俺、旦那様の家族に会ったことがない?」
恐る恐る聞けば、クロヴィスが困惑しながらも頷いてくれる。その途端、目頭が熱くて鼻の奥が痛くなった。
「リュ、リュカ……!?」
いきなりぼろぼろと泣きだしたリュカに、クロヴィスが動揺する。しかし涙は止まらなかった。だって。
「俺、てっきり旦那様はオレール様のことを愛してるんだと思ってた。だから、家族にも会わせてもらえないし、避けられてるんだって思って、だったら番解消してもらわなきゃって」
「それこそ、なんでそうなるんだ。ひょっとして離婚したいのは、それが理由か?」
「そうだよ。だって、俺、あんたのこと好きだから、好きな人には幸せになって欲しいんだ」
自分じゃあんたを幸せにできない。だから、オレール様と一緒になって幸せになって欲しかった。番を解消されたって、俺はたぶん生きていける。だから家を出たのに。
泣きながらそう言えば、クロヴィスの顔がどんどん苦しげになっていく。それはまるで痛みを我慢しているような顔だった。
「なんで、そんな……。どうして、君は自分を蔑ろにするんだ。どうして簡単に全て捨てようとする。いや、俺の言葉が足りないのがいけないんだが」
起き上がれるか、と聞かれてリュカは頷いた。殴られた顔と腹は痛いが、起きられないほどではない。背中を支えられてゆっくりと体を起こせば、クロヴィスがリュカを思いっきり抱きしめてくる。
力強い腕に囚われて、また涙が零れた。
「好きだ。愛してる。今思えば、たぶん最初から惹かれていたんだ。だから怖がられているのが辛かった」
クロヴィスの言葉がリュカの胸に沁み込んでいく。それは確かに一番深いところに届いて、リュカの心を震わせる。誰かに――いや、相手がクロヴィスだからか――愛されることがこれほどうれしいことだとは思わなかった。
しかし、クロヴィスはよく分からないことを言っていた。リュカは何となくそれを聞き流してはいけない気がした。そっと広い背中に手を回して、頬を逞しい胸に寄せる。
「怖がるって、なに」
「君は、俺のことが怖いだろう。だから、俺は最近君を避けていたんだ。顔を合わせると触れたくなるから……」
クロヴィスの問いにリュカは再び驚いた。怖い、誰が、誰のことを。
何を馬鹿なことを、と思ったが、クロヴィスは真剣だった。抱きしめる腕が少し震えていて、その答えがクロヴィスにとって「恐ろしいこと」であることに気づく。
「怖くない。もしかしたら、他のアルファは怖かったのかもしんねぇけど。あんたが怖かったことは一回もない」
きっぱりと答えて、リュカはそっとクロヴィスから身体を離した。馴染んだ温度が離れるのは少し寂しかったけれど、そうしなければ顔が見えない。クロヴィスの頬に両手で触れて、その瞳を覗き込む。不安で満ちたその紫色は、少しだけ滲んでいるように見えた。
だから、リュカはもう一度繰り返す。いや、伝わるまできっと何度でも言うだろう。
「怖くないって。嘘じゃねぇよ」
だって、クロヴィスは最初から優しかった。全ての始まりである砦での事故のときでさえ、強引だけれど乱暴ではなかった。それから数回過ごした発情期だって、ただ気持ちがいいだけだった。それに。
「一緒に寝てくれて嬉しかった。抱きしめてくれたことも、雪だるま作ってくれたことも、俺すっごい嬉しかったよ」
故に、恋に落ちたのだ。普段は仏頂面でにこりともしない男だったけれど、その不器用な優しさが好きだった。
「信じてよ。俺も、信じるからさ」
「ああ……――」
クロヴィスが頷いて、それから柔らかく微笑んだ。
それを見て、リュカは息を呑む。
「わら、った」
「は?」
「笑った。今、笑ったろ」
「笑ったか?」
「笑ったよ。旦那様の笑顔、初めて見た」
リュカが言えば、今度はクロヴィスが驚いたように言う。
「そうだったか」
「うん。旦那様はいつも無表情か怒ってるかで、だから俺嫌われてるんだと思ってた」
それはリュカがずっと見たいと思っていたクロヴィスの笑顔だった。離婚する前に一度は見たいと願って、けれど絶対に叶わないと諦めた、リュカが心から望んだたったひとつのもの。
「もっと笑って欲しい。俺、たぶん旦那様の笑顔好き」
つられて微笑みながら言えば、クロヴィスは神妙な顔で頷いた。
「分かった、善処しよう。元々こんな顔だが、リュカの前では出来るだけ笑うようにする」
「はは、頑張って笑うってなんか変だな」
クロヴィスにとって笑顔とは努力しないと作れない物らしい。俺、得意だから教えてあげようか、と揶揄えば、クロヴィスは苦虫を嚙み潰したような顔をした。
「では、その代わりと言っては何だが、俺からも頼みがあるんだが」
「なんだ?」
「その、『旦那様』というのは止めてくれないか。俺は娼館に行ったことはないが、娼婦が客を呼ぶときの呼び方だろう。クロヴィスと名前で呼んで欲しい」
そう言われて、確かにそうだな、とリュカは思った。
最初の出会いが出会いだったのだ。一年前のリュカにとってクロヴィスは、まさにお客の延長のようなものだった。頑なに顔を合わせない相手と仲良くするつもりもなかったし、そこに愛が芽生えるとも思っていなかった。
ついそのままで呼び続けていたが、クロヴィスは気にしていたらしい。
「クロヴィス、様?」
「呼び捨てで構わない。あと、俺の前で作り笑いをするな」
「分かった。クロヴィス、クロヴィス……」
リュカは許されたその名前を何度も反芻する。音として耳に届くその名前は、リュカにとって特別だ。この砦の街でクロヴィスの名前を呼ぶのはきっとリュカしかいないだろう。
それこそ、ようやく番であると認められたような気持ちだった。これからはきっと、クロヴィスが言うような作り笑いなんて一生しなくていいはずだ。
ふくふくと笑いながら名前を呼ぶリュカの頬に、クロヴィスがそっと口づけた。腫れている左頬を指先でなぞられ、柔らかく唇を寄せられる。
「リュカも、何か望みがあれば言って欲しい。出来るだけ叶えられるように努力する」
クロヴィスの言葉にリュカはうん、と頷いた。そして少しだけ考えて口を開く。
「じゃあ、あと一個、お願い聞いて欲しい」
「何だ」
「発情期以外も抱いて欲しい。寝室も一緒がいい」
リュカが言った途端、クロヴィスがぴしり、と固まったのが分かった。
しかし、出来るだけ叶える、と言った手前断るわけにもいかなかったのだろう。クロヴィスは迷う素振りを見せながらも、怪我が治ったらな、と返してくれた。
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