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第二十話 クロヴィス⑤
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しかし、それはそれとして現実は甘くはなかった。
オメガとは普通、番から離れないものだ。何故ならばオメガはアルファとは違い、生涯たったひとりしか番を作れない。番を解消されれば一生続く発情期をひとりで耐えねばならず、心身ともに不調を来しやすいと聞く。だからこそ、クロヴィスはまさかリュカが離婚届を置いて家を出て行くなんて思いもしなかった。
「離婚したくないのなら、さっさとリュカ様を追いかければいいのです」
呆然と離婚届を見つめたまま動かないクロヴィスに業を煮やしたのだろう。クレマンが冷めた口調で言った。
「追いかける……。リュカはどこに」
「さぁ。旦那様こそリュカ様の行きそうな場所に心当たりは?」
問われてクロヴィスは少しだけ思案する。
グリシーヌにおいてリュカの交友範囲は狭い。そもそもリュカは屋敷の外にはほとんど出たことがなく、接するのはヴァリエール家の使用人たちばかりだ。しかし、いくらリュカと仲良くしていても、彼らはクロヴィスが雇った使用人でそこには主従関係が存在した。
所詮は雇い主と被雇用者だ。家から出て行こうとするリュカが、そんな彼らを頼るわけがない。
「王都、か?」
グリシーヌにリュカの居場所はヴァリエール家以外ない。
そうなれば住み慣れた古巣を目指すのが定石ではないのか。ぽつりと呟いたクロヴィス言葉にクレマンは満足そうに頷いた。
「そうでしょうね。馬車乗り場はどこかとお訊ねになりましたから」
「知っているじゃないか。というか、そういうことはもっと早く言え。リュカが家を出て行ったのは、いつ頃だ?」
「昼前になりますね」
「昼前!? ずいぶんと時間が経っているじゃないか!」
慌てたように立ち上がるクロヴィスに、クレマンはすました顔で言う。
「大丈夫でしょう。今は例の盗賊の件もあって乗合馬車の本数を減らしていますから、リュカ様が馬車乗り場についた頃には今日の馬車はもう出発した後です」
元々、グリシーヌから王都への乗合馬車は一日に三本出ていた。
王都行きと言っても各町で止まり、その都度乗り換えねばならない不便なものだ。けれども、自分で馬車を用意できない平民たちが王都へ移動する最も安価で確実な方法で、多くの町人たちが利用している。
それがここ最近の盗賊のために朝出発する一本に絞られていた。
理由は簡単だ。グリシーヌから隣町まで騎士が護衛するためだ。
盗賊が出るのはグリシーヌと隣町の間にある広大な森の中だけだから、その道中を騎士たちが守ればいい。しかし、騎士の数は限られておりグリシーヌから続く街道を使うのは、乗合馬車だけではない。商人たちの荷馬車も護衛が必要だから、全ての馬車に護衛を付けるとどうしても騎士の数が足りなくなってしまうのだ。
そこで、少々不便ではあるが乗合馬車の本数を減らし、確実に護衛がつけられるようにしたというわけだった。
「すぐに屋敷に戻られるかと思っていたのですがお戻りにならず、ひょっとしたら帰るに帰れなくなられたのかと。そこで、原因である旦那様に迎えに行ってもらおうと思いまして」
澄ました顔で言っているが、その辛辣な言葉からクレマンが怒っていることを示している。彼とて本当にリュカのことを気に入っていたのだろう。
「分かった。迎えに行く。行けばいいんだろう」
「当たり前です」
無言の圧に耐えかねてクロヴィスが言えば、さも当然のようにクレマンが頷いた。
「しかし、俺が行ってリュカが怖がらないか」
「大丈夫ですよ。リュカ様は当家で買い求めた物を全て置いていかれましたが、旦那様がお選びになった外套だけはお持ちになりました」
「外套……」
そう言われて、クロヴィスは瞬いた。
外套は確かにクロヴィス自身が選んでリュカに贈ったものだ。
あの雪の日、リュカはたいそうな薄着だった。長時間屋外で過ごしたため全身が冷え切っていて、屋敷に戻ってもなかなか温まらなかったのだ。
聞けば、春にグリシーヌを訪れたときに使っていた上着よりも厚い生地衣類は持っていないのだ、とリュカは言った。
王都の娼館で暮らしていたリュカは、滅多なことがなければ外に出ることは叶わない。寒い冬となればなおさらで、使わないから持っていないというのがリュカらしいと思った。
しかし、リュカの雪の中の満面の笑顔をクロヴィスは覚えていた。心の底から楽しそうで、リュカは雪遊びを気に入っていた。
また、外に出る機会だってあるだろう。そのとき外套がなければまた冷え切ってしまう。そう思ったから外套を贈ったのだ。
思えば、結婚してから一度も贈り物なんてしたことがなかった。相談したクレマンには冷たい目で見られ、女中たちには溜息をつかれた。
本当であれば生地から選んで、リュカの身体に合わせて誂えてやりたかった。けれども、そこまで大仰にすることは、リュカ本人が望まないだろうと既製品を選んだのだ。
それでも色や形にはひどく悩んで、ようやく選んだのがあの外套だ。しかし、贈ったはいいが冬の間一度も着ているところを見たことがなかったので、気に入らなかったのだろうと思っていた。
「衣装部屋の中に仕舞い込んでおられましたが、よほど気に入っていらっしゃったのかと」
平坦なクレマンの声に感情は感じられない。それでも滲んでくるリュカを気遣うその声音に、クロヴィスは黙って席を立った。
「馬を」
隣の部屋に控えていた部下に声をかけてそのまま厩へ向かう。
少しでも嬉しいと思っていたのか。大切にしてくれていたのか。
――ひょっとしたら自分が考えているよりも、リュカに嫌われてはいないのかもしれない。
そう思ったらもう堪らなかった。少しでも早くリュカに会いたい。会って、その真意を確かめなければいけない。
クロヴィスは数か月ぶりにリュカと向き合うために足を進めた。
乗合馬車の乗り場はグリシーヌの街の中心付近にある。
グリシーヌは辺境ではあるが街道沿いで賑わっている街だ。乗合馬車の利用者はそれなりにいて、乗り場はいつでも賑わっていた。
クレマンは屋敷に戻った。リュカとクロヴィスが帰宅した際の準備を整えなければ、としたり顔で言われて、苦虫を嚙み潰した気分になった。つまり、ひとりで迎えに行ってしっかり謝れということだ。
クロヴィスは馬車乗り場の隣にある待合室の中で見慣れた金髪を探した。リュカの金髪は薄い色をしていて、まるで月のように輝いている。遠目でもすぐに分かるはずだった。
しかし、そこにリュカはいなかった。クレマンはリュカは乗合馬車の乗り場に向かったと言ったけれど、その時点で今日の馬車はもう出発した後だったらしい。明日まで馬車は出ないのだから、一度屋敷に帰ったとしてもおかしくはない。
そう思ったクロヴィスだったが、乗り場に馬車がつけられて何故リュカがそこにいないのかを悟った。
待っていた人々は当たり前といった様子で次々と馬車に乗り込んでいく。もちろん、クロヴィスが手配した護衛の騎士たちはいない。当たり前だ。これは騎士団から許可を得ていない馬車の運行だった。
「おい」
「ひっ!?」
やって来た御者に声をかけると、御者はクロヴィスを見て明らかに顔色を悪くした。
それもそうだろう。クロヴィスは砦からまっすぐここにやってきたため、グリシーヌ騎士団を表す騎士服を身に纏っていた。胸を飾る飾緒は金色で、明らかに騎士団の中でも上の地位にいることが分かる格好だった。
「今は盗賊のこともあり、馬車は一日に一本しか許可をしていないはずだが。これは一体どういうことだ」
「ど、どういうと言っても。馬車が足りないんでさぁ。今まで三本走っていた馬車をいきなり一本にしろと言われても、俺達だっておまんまの食い上げだし街のやつらも困ります」
クロヴィスに詰め寄られて御者は、震えながらもそう言った。彼らにも街の人々にも生活がある。それはクロヴィスとてよく理解している。
しかし。
「今は盗賊の厳戒態勢だと言ったはずだ。お前たちは命よりも金の方が大切なのか」
現在、グリシーヌから発つ馬車にはその全てに騎士の護衛が付いている。
盗賊たちの調査をしつつ、これ以上の被害を出さないためだ。それは商人が使う馬車も町人たちの乗合馬車も全て同じ。つまり、盗賊たちはここ数日まともな獲物を手にしていない。
その中で護衛のない馬車が通りかかったら、どうなるか。
クロヴィスはその予感に背筋を粟立たせた。
「おい、前の馬車はいつ発った」
「ひ、昼前に。もうそろそろ隣町に着くはずでさぁ」
「昼前か」
ならばもうすでに馬車は森の中に入っていったことだろう。
リュカの屋敷を出たという時間とも合っている。間違いなくリュカはその馬車に乗っているはずだ。
無事であればいい。何事もなく隣町に到着しているのであれば、そこでリュカを捕まえればいい。
けれども、クロヴィスの騎士としての勘がそうではないと訴えていた。
オメガとは普通、番から離れないものだ。何故ならばオメガはアルファとは違い、生涯たったひとりしか番を作れない。番を解消されれば一生続く発情期をひとりで耐えねばならず、心身ともに不調を来しやすいと聞く。だからこそ、クロヴィスはまさかリュカが離婚届を置いて家を出て行くなんて思いもしなかった。
「離婚したくないのなら、さっさとリュカ様を追いかければいいのです」
呆然と離婚届を見つめたまま動かないクロヴィスに業を煮やしたのだろう。クレマンが冷めた口調で言った。
「追いかける……。リュカはどこに」
「さぁ。旦那様こそリュカ様の行きそうな場所に心当たりは?」
問われてクロヴィスは少しだけ思案する。
グリシーヌにおいてリュカの交友範囲は狭い。そもそもリュカは屋敷の外にはほとんど出たことがなく、接するのはヴァリエール家の使用人たちばかりだ。しかし、いくらリュカと仲良くしていても、彼らはクロヴィスが雇った使用人でそこには主従関係が存在した。
所詮は雇い主と被雇用者だ。家から出て行こうとするリュカが、そんな彼らを頼るわけがない。
「王都、か?」
グリシーヌにリュカの居場所はヴァリエール家以外ない。
そうなれば住み慣れた古巣を目指すのが定石ではないのか。ぽつりと呟いたクロヴィス言葉にクレマンは満足そうに頷いた。
「そうでしょうね。馬車乗り場はどこかとお訊ねになりましたから」
「知っているじゃないか。というか、そういうことはもっと早く言え。リュカが家を出て行ったのは、いつ頃だ?」
「昼前になりますね」
「昼前!? ずいぶんと時間が経っているじゃないか!」
慌てたように立ち上がるクロヴィスに、クレマンはすました顔で言う。
「大丈夫でしょう。今は例の盗賊の件もあって乗合馬車の本数を減らしていますから、リュカ様が馬車乗り場についた頃には今日の馬車はもう出発した後です」
元々、グリシーヌから王都への乗合馬車は一日に三本出ていた。
王都行きと言っても各町で止まり、その都度乗り換えねばならない不便なものだ。けれども、自分で馬車を用意できない平民たちが王都へ移動する最も安価で確実な方法で、多くの町人たちが利用している。
それがここ最近の盗賊のために朝出発する一本に絞られていた。
理由は簡単だ。グリシーヌから隣町まで騎士が護衛するためだ。
盗賊が出るのはグリシーヌと隣町の間にある広大な森の中だけだから、その道中を騎士たちが守ればいい。しかし、騎士の数は限られておりグリシーヌから続く街道を使うのは、乗合馬車だけではない。商人たちの荷馬車も護衛が必要だから、全ての馬車に護衛を付けるとどうしても騎士の数が足りなくなってしまうのだ。
そこで、少々不便ではあるが乗合馬車の本数を減らし、確実に護衛がつけられるようにしたというわけだった。
「すぐに屋敷に戻られるかと思っていたのですがお戻りにならず、ひょっとしたら帰るに帰れなくなられたのかと。そこで、原因である旦那様に迎えに行ってもらおうと思いまして」
澄ました顔で言っているが、その辛辣な言葉からクレマンが怒っていることを示している。彼とて本当にリュカのことを気に入っていたのだろう。
「分かった。迎えに行く。行けばいいんだろう」
「当たり前です」
無言の圧に耐えかねてクロヴィスが言えば、さも当然のようにクレマンが頷いた。
「しかし、俺が行ってリュカが怖がらないか」
「大丈夫ですよ。リュカ様は当家で買い求めた物を全て置いていかれましたが、旦那様がお選びになった外套だけはお持ちになりました」
「外套……」
そう言われて、クロヴィスは瞬いた。
外套は確かにクロヴィス自身が選んでリュカに贈ったものだ。
あの雪の日、リュカはたいそうな薄着だった。長時間屋外で過ごしたため全身が冷え切っていて、屋敷に戻ってもなかなか温まらなかったのだ。
聞けば、春にグリシーヌを訪れたときに使っていた上着よりも厚い生地衣類は持っていないのだ、とリュカは言った。
王都の娼館で暮らしていたリュカは、滅多なことがなければ外に出ることは叶わない。寒い冬となればなおさらで、使わないから持っていないというのがリュカらしいと思った。
しかし、リュカの雪の中の満面の笑顔をクロヴィスは覚えていた。心の底から楽しそうで、リュカは雪遊びを気に入っていた。
また、外に出る機会だってあるだろう。そのとき外套がなければまた冷え切ってしまう。そう思ったから外套を贈ったのだ。
思えば、結婚してから一度も贈り物なんてしたことがなかった。相談したクレマンには冷たい目で見られ、女中たちには溜息をつかれた。
本当であれば生地から選んで、リュカの身体に合わせて誂えてやりたかった。けれども、そこまで大仰にすることは、リュカ本人が望まないだろうと既製品を選んだのだ。
それでも色や形にはひどく悩んで、ようやく選んだのがあの外套だ。しかし、贈ったはいいが冬の間一度も着ているところを見たことがなかったので、気に入らなかったのだろうと思っていた。
「衣装部屋の中に仕舞い込んでおられましたが、よほど気に入っていらっしゃったのかと」
平坦なクレマンの声に感情は感じられない。それでも滲んでくるリュカを気遣うその声音に、クロヴィスは黙って席を立った。
「馬を」
隣の部屋に控えていた部下に声をかけてそのまま厩へ向かう。
少しでも嬉しいと思っていたのか。大切にしてくれていたのか。
――ひょっとしたら自分が考えているよりも、リュカに嫌われてはいないのかもしれない。
そう思ったらもう堪らなかった。少しでも早くリュカに会いたい。会って、その真意を確かめなければいけない。
クロヴィスは数か月ぶりにリュカと向き合うために足を進めた。
乗合馬車の乗り場はグリシーヌの街の中心付近にある。
グリシーヌは辺境ではあるが街道沿いで賑わっている街だ。乗合馬車の利用者はそれなりにいて、乗り場はいつでも賑わっていた。
クレマンは屋敷に戻った。リュカとクロヴィスが帰宅した際の準備を整えなければ、としたり顔で言われて、苦虫を嚙み潰した気分になった。つまり、ひとりで迎えに行ってしっかり謝れということだ。
クロヴィスは馬車乗り場の隣にある待合室の中で見慣れた金髪を探した。リュカの金髪は薄い色をしていて、まるで月のように輝いている。遠目でもすぐに分かるはずだった。
しかし、そこにリュカはいなかった。クレマンはリュカは乗合馬車の乗り場に向かったと言ったけれど、その時点で今日の馬車はもう出発した後だったらしい。明日まで馬車は出ないのだから、一度屋敷に帰ったとしてもおかしくはない。
そう思ったクロヴィスだったが、乗り場に馬車がつけられて何故リュカがそこにいないのかを悟った。
待っていた人々は当たり前といった様子で次々と馬車に乗り込んでいく。もちろん、クロヴィスが手配した護衛の騎士たちはいない。当たり前だ。これは騎士団から許可を得ていない馬車の運行だった。
「おい」
「ひっ!?」
やって来た御者に声をかけると、御者はクロヴィスを見て明らかに顔色を悪くした。
それもそうだろう。クロヴィスは砦からまっすぐここにやってきたため、グリシーヌ騎士団を表す騎士服を身に纏っていた。胸を飾る飾緒は金色で、明らかに騎士団の中でも上の地位にいることが分かる格好だった。
「今は盗賊のこともあり、馬車は一日に一本しか許可をしていないはずだが。これは一体どういうことだ」
「ど、どういうと言っても。馬車が足りないんでさぁ。今まで三本走っていた馬車をいきなり一本にしろと言われても、俺達だっておまんまの食い上げだし街のやつらも困ります」
クロヴィスに詰め寄られて御者は、震えながらもそう言った。彼らにも街の人々にも生活がある。それはクロヴィスとてよく理解している。
しかし。
「今は盗賊の厳戒態勢だと言ったはずだ。お前たちは命よりも金の方が大切なのか」
現在、グリシーヌから発つ馬車にはその全てに騎士の護衛が付いている。
盗賊たちの調査をしつつ、これ以上の被害を出さないためだ。それは商人が使う馬車も町人たちの乗合馬車も全て同じ。つまり、盗賊たちはここ数日まともな獲物を手にしていない。
その中で護衛のない馬車が通りかかったら、どうなるか。
クロヴィスはその予感に背筋を粟立たせた。
「おい、前の馬車はいつ発った」
「ひ、昼前に。もうそろそろ隣町に着くはずでさぁ」
「昼前か」
ならばもうすでに馬車は森の中に入っていったことだろう。
リュカの屋敷を出たという時間とも合っている。間違いなくリュカはその馬車に乗っているはずだ。
無事であればいい。何事もなく隣町に到着しているのであれば、そこでリュカを捕まえればいい。
けれども、クロヴィスの騎士としての勘がそうではないと訴えていた。
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