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第十七話 クロヴィス②
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部屋に満ちた甘い匂いと寝台の上に押し倒した白い肢体。
シーツの上に広がる金髪がきらきらと輝いて、とても美しかったのを覚えている。
このときのクロヴィスはどうしても、その「オメガ」が欲しかった。
触れれば可愛らしく啼き、アルファである自分を惹きつけてやまないオメガ。
「リュカ」を愛していたわけではない。その項を噛んだのは、「オメガを自分のものにしたい」という醜い支配欲と独占欲の表れだった。
クロヴィスが正気を取り戻したとき、全てが終わった後だった。
目の前には散々犯されて気を失った名前も知らない「オメガ」が倒れていた。しかもその項にはクロヴィスが残した歯形がくっきりと残っている。
このときほど、クロヴィスは自らのアルファという性を疎ましく思ったことはない。
フェロモンに惹きつけられていたとはいえ、これは間違いなく「暴力」でクロヴィスの「罪」だった。
オメガを番にした以上、クロヴィスはアルファとしての「責任」を取らなければならない。
婚約者のことや生家のことを思うとそれはなかなか難しいことだったが、それでもクロヴィスはそのオメガ――リュカと結婚することを選んだ。
それは全てクロヴィスの意思で、クロヴィス自身の決定だった。
あのとき、あの場所で目を覚ましたリュカは何も求めなかった。
ただ茫然と噛まれた自分の項を触っていた。本当にそれだけだったのだ。
普通、無理やり犯されて番にされたら、相手に文句のひとつでも言うものではないのか。泣いて責任を取れとリュカの方からクロヴィスに迫ってもいいはずだった。しかし、リュカはそれをしなかった。
挙句の果てに、全てを諦めたような笑顔で言ったのだ。
――番を解消してもらえれば、大丈夫ですよ。
なんて。
それを聞いたとき、クロヴィスは絶対にこのオメガと結婚しなければならないと思った。
リュカの暴力に慣れた様子が嫌だった。辛いことを飲み込んで、諦めて微笑むあの顔がひどく不快だったのだ。
もちろん、クロヴィスとリュカの婚姻が円滑に行われたわけではない。
リュカは男娼で、おまけに貧民街出身の孤児だった。事故のことを知った生家からは、責任を取るならば妾にでもすればいい、と言われた。素性の知れぬオメガをヴァリエール家に入れるわけにはいかないとも。
しかし、クロヴィスとしてはどうしてもリュカを「妾」にしたくはなかった。
おそらくリュカは身請けして妾にする、と言ってもすんなりと受け入れただろう。それがリュカにとっての当たり前で、彼はそうやって搾取されることに慣れすぎていた。
クロヴィスはその諦めた態度が気に入らなかった。
婚姻を強行すると当然のように生家からは勘当されたし、王位継承権は放棄することを求められた。その時点でクロヴィスの王位継承権は第七位。母や兄に次いでの順位であったが、放棄することに躊躇いはなかった。
おまけに数年で終わるはずのグリシーヌ城の総督を生涯務めることを条件に、ようやくクロヴィスはリュカと結婚することが出来たのだ。
生家との確執とは対照的に、婚約者であるオレールとの話し合いはすんなりと片付いた。
元々、恋人同士というわけではない。家が決めた婚約者ということで将来彼と結婚するのだと思って生きてきたが、クロヴィスとしては幼馴染としての感覚の方が強かった。性愛の対象として見たこともない。
それはオレールの方も同じだったようで、リュカの話をすると「それは運命の番ってやつじゃないですか?」と興奮気味に言った。
「運命の番? あの歌劇とかでよく見るやつか」
「そう! だって目が合っただけで相手は発情したんですよね? 運命の番以外ありえないですよ」
おめでとうございます! と笑顔で言われて、クロヴィスは初めてこれが慶事であることを思い出した。
誰かと番になる――結婚するということは、祝われるようなことだったのだ。
これまで周囲に祝ってくれる人はいなかった。むしろやめた方がいいと忠告されるばかりでめでたいことだなんて思いもつかなかったし、クロヴィス自身が望んだことでもない。
全てはあの日、軽率だった自分の責任を取るための結婚でしかなかったけれど。
「幸せになってくださいね。僕も頑張ります」
「幸せ」
「そうですよ。あなたのことだから、責任取らなきゃって思って結婚するんでしょうけど、結婚ってしてそこで終わりじゃないですからね」
幸せになるためにするんですよ、とオレールは笑った。
政略結婚を反故にした相手に言うことではないのでは、と少し思ったが、それこそクロヴィスが口にしていいことではない。素直に彼の言葉に頷いて、オレールとはそれきり会っていない。自分たちの関係は悪いものではなかったが、婚約を解消してからも会えるほどしがらみがないわけではないからだ。
遠く王都にいる友人のひとりとして、時折手紙が送られてくる。クロヴィスはまさかそれをクレマン以外の使用人が見ているとは思わなかったし、内容がリュカへ伝わるとは思っていなかったのだ。
婚姻が成立するまでのひと月は、主にクロヴィスが生家を説得するための時間だった。結局、説得というより落としどころを見つけたと言った方がいい結果になったが、リュカが「ヴァリエール」と名乗ることは許された。
その間、リュカは元々在籍していた娼館で過ごしていた。
クロヴィスは両親との話し合いのために何度か王都を訪れていた。その度にリュカの顔を見に行った。
身請けは済んでいるため、もう客は取っていないはずだった。けれどもリュカは、クロヴィスを迎えるときは絶対に男娼としての態度を崩さなかった。
用意された応接間で会う彼は、グリシーヌ城の慰問に訪れたときのような薄手で露出の多い格好をしていた。おまけに顔に浮かべるのは相手に媚びるような愛想笑いだけだ。口から出てくる言葉は確かに耳に優しかったが、クロヴィスはそれが気に食わなかった。
クロヴィスは男娼を買いに来ているわけではない。
娼館通いなどしたことがないクロヴィスだ。娼館に満ちたおしろいと香水の匂いは不快でしかなかったし、周囲から向けられる不躾な視線も不愉快だった。
おまけにリュカはクロヴィスが姿を見せると一瞬固まるのだ。近寄ればその手は微かに震え、明らかにクロヴィスに怯える様子を見せた。
――怯えられている。
自分たちの初対面が初対面である。
いくら男に抱かれ慣れた男娼とはいえ、あれほど無理やり身体を拓かれれば恐ろしいに決まっている。フェロモンで理性の飛んだクロヴィスは、それはもう好き勝手にリュカを貪った。ぼんやりとしか覚えていないが、リュカが気絶して反応がなくなった後もその身体を離せず、そのまま抱き続けたと思う。
あれは、間違いなく強姦だ。暴力であり、決してお互いを思い合った行為ではない。
そのことに気づいたとき、クロヴィスはオレールの言葉を思い出した。
――結婚は幸せになるためにする。
その理屈でいくと、リュカはクロヴィスと幸せにならなければいけないのだろう。しかし、現状自分たちの関係は最悪と言っていいのではないか。
リュカは自分を襲った相手と結婚しなければならないのだ。
けれども、オメガは一生に一度しか番を作ることが出来ない。クロヴィスがリュカとの番を解消したとしても、リュカはもう他のアルファと番うことは叶わないのだ。
つまり、リュカはクロヴィス以外とは結婚出来ないし、番になることは出来ない。
それでリュカは幸せになれるのだろうか。なれるわけがない。だって、結婚相手はかつて自分に無体を働いた強姦魔である。
そうして思い悩むクロヴィスの元に、面白おかしく届くのはリュカの悪評ばかりだった。
曰く、客の前では分厚い猫を被っているだとか、他の男娼の客を寝取っただとか、今回の事故も彼の企みだったとか。
王都にいる間、付き合いで顔を出した夜会では絶対にリュカの客だったというアルファに絡まれた。それこそ今思えば、身請けを全て断っていたらしいリュカを番にしたクロヴィスへの妬みだったのだろう。それか、たかが男娼のために王位継承権を放棄したクロヴィスを裏で馬鹿にしていたか。どちらにせよ、それらは悪意でしかなかったはずだ。
しかし、生来生真面目で色恋とは無縁だったクロヴィスにとって、根も葉もないリュカの悪評は全て真実に聞こえたし、事実、クロヴィスの前でのリュカは自らを偽っているようにしか見えなかった。
シーツの上に広がる金髪がきらきらと輝いて、とても美しかったのを覚えている。
このときのクロヴィスはどうしても、その「オメガ」が欲しかった。
触れれば可愛らしく啼き、アルファである自分を惹きつけてやまないオメガ。
「リュカ」を愛していたわけではない。その項を噛んだのは、「オメガを自分のものにしたい」という醜い支配欲と独占欲の表れだった。
クロヴィスが正気を取り戻したとき、全てが終わった後だった。
目の前には散々犯されて気を失った名前も知らない「オメガ」が倒れていた。しかもその項にはクロヴィスが残した歯形がくっきりと残っている。
このときほど、クロヴィスは自らのアルファという性を疎ましく思ったことはない。
フェロモンに惹きつけられていたとはいえ、これは間違いなく「暴力」でクロヴィスの「罪」だった。
オメガを番にした以上、クロヴィスはアルファとしての「責任」を取らなければならない。
婚約者のことや生家のことを思うとそれはなかなか難しいことだったが、それでもクロヴィスはそのオメガ――リュカと結婚することを選んだ。
それは全てクロヴィスの意思で、クロヴィス自身の決定だった。
あのとき、あの場所で目を覚ましたリュカは何も求めなかった。
ただ茫然と噛まれた自分の項を触っていた。本当にそれだけだったのだ。
普通、無理やり犯されて番にされたら、相手に文句のひとつでも言うものではないのか。泣いて責任を取れとリュカの方からクロヴィスに迫ってもいいはずだった。しかし、リュカはそれをしなかった。
挙句の果てに、全てを諦めたような笑顔で言ったのだ。
――番を解消してもらえれば、大丈夫ですよ。
なんて。
それを聞いたとき、クロヴィスは絶対にこのオメガと結婚しなければならないと思った。
リュカの暴力に慣れた様子が嫌だった。辛いことを飲み込んで、諦めて微笑むあの顔がひどく不快だったのだ。
もちろん、クロヴィスとリュカの婚姻が円滑に行われたわけではない。
リュカは男娼で、おまけに貧民街出身の孤児だった。事故のことを知った生家からは、責任を取るならば妾にでもすればいい、と言われた。素性の知れぬオメガをヴァリエール家に入れるわけにはいかないとも。
しかし、クロヴィスとしてはどうしてもリュカを「妾」にしたくはなかった。
おそらくリュカは身請けして妾にする、と言ってもすんなりと受け入れただろう。それがリュカにとっての当たり前で、彼はそうやって搾取されることに慣れすぎていた。
クロヴィスはその諦めた態度が気に入らなかった。
婚姻を強行すると当然のように生家からは勘当されたし、王位継承権は放棄することを求められた。その時点でクロヴィスの王位継承権は第七位。母や兄に次いでの順位であったが、放棄することに躊躇いはなかった。
おまけに数年で終わるはずのグリシーヌ城の総督を生涯務めることを条件に、ようやくクロヴィスはリュカと結婚することが出来たのだ。
生家との確執とは対照的に、婚約者であるオレールとの話し合いはすんなりと片付いた。
元々、恋人同士というわけではない。家が決めた婚約者ということで将来彼と結婚するのだと思って生きてきたが、クロヴィスとしては幼馴染としての感覚の方が強かった。性愛の対象として見たこともない。
それはオレールの方も同じだったようで、リュカの話をすると「それは運命の番ってやつじゃないですか?」と興奮気味に言った。
「運命の番? あの歌劇とかでよく見るやつか」
「そう! だって目が合っただけで相手は発情したんですよね? 運命の番以外ありえないですよ」
おめでとうございます! と笑顔で言われて、クロヴィスは初めてこれが慶事であることを思い出した。
誰かと番になる――結婚するということは、祝われるようなことだったのだ。
これまで周囲に祝ってくれる人はいなかった。むしろやめた方がいいと忠告されるばかりでめでたいことだなんて思いもつかなかったし、クロヴィス自身が望んだことでもない。
全てはあの日、軽率だった自分の責任を取るための結婚でしかなかったけれど。
「幸せになってくださいね。僕も頑張ります」
「幸せ」
「そうですよ。あなたのことだから、責任取らなきゃって思って結婚するんでしょうけど、結婚ってしてそこで終わりじゃないですからね」
幸せになるためにするんですよ、とオレールは笑った。
政略結婚を反故にした相手に言うことではないのでは、と少し思ったが、それこそクロヴィスが口にしていいことではない。素直に彼の言葉に頷いて、オレールとはそれきり会っていない。自分たちの関係は悪いものではなかったが、婚約を解消してからも会えるほどしがらみがないわけではないからだ。
遠く王都にいる友人のひとりとして、時折手紙が送られてくる。クロヴィスはまさかそれをクレマン以外の使用人が見ているとは思わなかったし、内容がリュカへ伝わるとは思っていなかったのだ。
婚姻が成立するまでのひと月は、主にクロヴィスが生家を説得するための時間だった。結局、説得というより落としどころを見つけたと言った方がいい結果になったが、リュカが「ヴァリエール」と名乗ることは許された。
その間、リュカは元々在籍していた娼館で過ごしていた。
クロヴィスは両親との話し合いのために何度か王都を訪れていた。その度にリュカの顔を見に行った。
身請けは済んでいるため、もう客は取っていないはずだった。けれどもリュカは、クロヴィスを迎えるときは絶対に男娼としての態度を崩さなかった。
用意された応接間で会う彼は、グリシーヌ城の慰問に訪れたときのような薄手で露出の多い格好をしていた。おまけに顔に浮かべるのは相手に媚びるような愛想笑いだけだ。口から出てくる言葉は確かに耳に優しかったが、クロヴィスはそれが気に食わなかった。
クロヴィスは男娼を買いに来ているわけではない。
娼館通いなどしたことがないクロヴィスだ。娼館に満ちたおしろいと香水の匂いは不快でしかなかったし、周囲から向けられる不躾な視線も不愉快だった。
おまけにリュカはクロヴィスが姿を見せると一瞬固まるのだ。近寄ればその手は微かに震え、明らかにクロヴィスに怯える様子を見せた。
――怯えられている。
自分たちの初対面が初対面である。
いくら男に抱かれ慣れた男娼とはいえ、あれほど無理やり身体を拓かれれば恐ろしいに決まっている。フェロモンで理性の飛んだクロヴィスは、それはもう好き勝手にリュカを貪った。ぼんやりとしか覚えていないが、リュカが気絶して反応がなくなった後もその身体を離せず、そのまま抱き続けたと思う。
あれは、間違いなく強姦だ。暴力であり、決してお互いを思い合った行為ではない。
そのことに気づいたとき、クロヴィスはオレールの言葉を思い出した。
――結婚は幸せになるためにする。
その理屈でいくと、リュカはクロヴィスと幸せにならなければいけないのだろう。しかし、現状自分たちの関係は最悪と言っていいのではないか。
リュカは自分を襲った相手と結婚しなければならないのだ。
けれども、オメガは一生に一度しか番を作ることが出来ない。クロヴィスがリュカとの番を解消したとしても、リュカはもう他のアルファと番うことは叶わないのだ。
つまり、リュカはクロヴィス以外とは結婚出来ないし、番になることは出来ない。
それでリュカは幸せになれるのだろうか。なれるわけがない。だって、結婚相手はかつて自分に無体を働いた強姦魔である。
そうして思い悩むクロヴィスの元に、面白おかしく届くのはリュカの悪評ばかりだった。
曰く、客の前では分厚い猫を被っているだとか、他の男娼の客を寝取っただとか、今回の事故も彼の企みだったとか。
王都にいる間、付き合いで顔を出した夜会では絶対にリュカの客だったというアルファに絡まれた。それこそ今思えば、身請けを全て断っていたらしいリュカを番にしたクロヴィスへの妬みだったのだろう。それか、たかが男娼のために王位継承権を放棄したクロヴィスを裏で馬鹿にしていたか。どちらにせよ、それらは悪意でしかなかったはずだ。
しかし、生来生真面目で色恋とは無縁だったクロヴィスにとって、根も葉もないリュカの悪評は全て真実に聞こえたし、事実、クロヴィスの前でのリュカは自らを偽っているようにしか見えなかった。
応援ありがとうございます!
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