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第十六話 クロヴィス①

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 聖マグノリア王国の国境、グリシーヌ城とその周辺の城下町は通称砦の街と呼ばれている。
 古くは小さな公国だったグリシーヌは長い歴史の中で、聖マグノリア王国の一部となり、隣国と領地を接する国境の街として発展して来た。戦争をしていた百年ほど前までは前線基地であったグリシーヌであるが、終戦して久しい現在では王都と隣国を繋ぐ街道の中継地点として賑わっている。

 砦であったグリシーヌ城は入国を管理する行政機関として生まれ変わり、中央から派遣されるグリシーヌ城の総督は、軍基地の司令官というよりも入国管理局を監督する文官としての役割が大きかった。
 元々、ヴァリエール辺境伯家はグリシーヌ公国の大公家として栄えて来た家系だった。
 グリシーヌ公国がなくなり、公都であったグリシーヌの街はマグノリア王家の直轄地となった。しかし、それ以外の公国領はそのままヴァリエール家の領地として引き継がれ、グリシーヌの総督も代々ヴァリエール辺境伯家の直系男子が務めている。

 クロヴィス・ド・ヴァリエールはそんなヴァリエール家に生まれたアルファだった。
 母親は現国王の姪であり、クロヴィスと兄もマグノリア王国の王位継承権を持つ身として厳しく育てられた。
 幼い頃から品行方正であれ、と遊びのひとつも知らず大人になって、常に仏頂面のクロヴィスを人は陰で堅物と呼んだ。

 真面目で堅物。愛想笑いすらしない鉄仮面。――というのが、社交界でのクロヴィスの評判であり、おかげさまで夜会では女性にもオメガにも遠巻きにされた過去を持っている。散々である。
 しかし、クロヴィスとしてはそのことに何の不満もなかった。

 美しく整頓された本棚のように整然とした人生を歩むことに疑問は持たなかったし、人からどう思われようと気にするような繊細な精神は持ち合わせていない。だからこそ、クロヴィスはこれからもずっと自分の人生は整えられたまま過ぎていくのだと思っていた。
 一年前、事故により嵐のような番を得てしまうまでは。



 グリシーヌ城の総督は代々ヴァリエール辺境伯家の直系男子が務めている。
 ヴァリエール家の代表として、今代当主の次男であるクロヴィスが総督の任についたのは三年前。それまで王都で王国騎士団に所属する近衛騎士として働いていたクロヴィスにとっては、立場上は間違いなく栄転と言っていいものだった。

 王族の警護が主である近衛騎士とは違い、グリシーヌ城総督というのはさまざまな役割がある。その最たるものがグリシーヌ城が有するグリシーヌ騎士団の騎士団長としての仕事であり、グリシーヌの街やその周辺の街々の治安維持だ。

 ヴァリエール家の家令であるクレマンがグリシーヌ城を訪ねて来たのは、ちょうど中天に太陽がさしかかる真昼のことだった。
 そのときクロヴィスは、各方面から上がってくる多発する盗賊の被害の調書を読んでいるときであった。

 数か月前から頻出するようになった盗賊は、グリシーヌの街から隣町へと続く街道沿いに出没する。砦であったグリシーヌの街と隣町との間には、いくつもの堀と広大な森が広がっているのだ。盗賊たちはその森の中に潜んでいて、街道を通る商人たちを襲っているようだった。
 ようだ、というのは、グリシーヌ騎士団自体が被害の全容を把握しきれていないからだ。

 盗賊たちは森の中で商人を殺し、荷を全て持ち去ってしまうため、被害の報告が上がって来ない場合が多々あるのだ。聖マグノリア王国を敵国から守るために広がる深い森は、盗賊たちの悪事や姿まで隠してしまう。
 それでも商人たちの所属する商業ギルドや取引先からの連絡で、盗賊たちの足取りは掴めつつあった。
 騎士団は盗賊の被害が報告されるたびに森への警戒を強め、最近では街道を通る商人たちを護衛するために隊を編成して、彼らの保護に当たっていた。

 グリシーヌを通る商人たちは聖マグノリア王国にとっても富をもたらす大切な存在だ。たかだか一盗賊団のために、その商売が脅かされるというのはあってはならない事態だ。
 盗賊の噂は王都へも広がり、つい先日も早々になんとかしろという王家からの勅命を持った旧友がクロヴィスを訪ねて来たばかりだった。その対応もあって、クロヴィスは多忙を極めていた。

 そこに来てのクレマンの訪れである。
 クレマンはヴァリエール家に長年仕える家令で、今はクロヴィスについてグリシーヌにある屋敷を管理してくれているいわば私生活での右腕のような存在だった。

 クロヴィスの最近の忙しさを知る彼が、わざわざ職場まで足を運ぶことなど、急用以外には在り得ない。そう判断して、クロヴィスはクレマンの入室を許可した。
 そして言われたのは衝撃的な内容だった。

「リュカ様が家を出て行かれました」
「……は?」
「それも離婚届を置いて」

 ――離婚届。

 その言葉に思わずクロヴィスは固まった。
 無言で差し出されたのは金箔の押された厚手の羊皮紙だ。以前、クロヴィス自身が用意した婚姻証明書とよく似たそれは、しかししっかりと「離婚届」と明記してある。
 用紙の下部には名前を書く欄があり、そこにははっきりと「リュカ・ヴァリエール」と書いてあった。

「離婚届……」
「はい。旦那様のお名前を頂いた後、出しておいて欲しいと私にお申し付けになられました」

 目の前にあるそれを、クロヴィスは呆然と受け取った。書いてある名前はあの豪快な性格には似合わない繊細そうな文字で、そのときクロヴィスはリュカの字を初めて見たことに気づいた。

 ――リュカ・ヴァリエール。

 彼こそが一年前、事故により番になってしまった嵐のようなオメガである。



 リュカとクロヴィスの出会いは、オメガとアルファとしてはそう珍しくないものだった。
 ちょうど一年ほど前の寒さの和らいだ初春の頃。グリシーヌ城はオメガの公娼たちを城に招いていた。目的は城に詰める騎士たちの慰問である。
 王都より赴任している騎士たちはその全てが貴族の出身だ。職務的な制限もあり、商人用に営業しているグリシーヌ城下の娼館には通うことが出来ない。そこで王都で国から承認を得ている公娼たちを月に何度か招いて慰問としていたのだ。

 リュカはそうして招かれた公娼のひとりだった。
 クロヴィスは王都にいた頃から、一度も娼館を利用したことはなかった。幼い頃から決められた婚約者がいたためだ。相手は母親が用意した侯爵家のオメガで、幼馴染といってもいい関係だった。婚前交渉など考えたこともなく、当然他で発散したこともない。
 だからこそそのときだって、ただオメガたちを眺めていただけだった。否、眺めることすらしていなかった。
 たまたま城内を移動する彼らとすれ違っただけ。本当にそれだけだった。

 美しい公娼たちの中にいて、それでもリュカはひときわ目立っていた。
 薄い金髪に宝石のような青い瞳。少し疲れたような顔には清純な色香が漂っており、彼が娼館でも名うての男娼であることはすぐに分かった。
 その容姿をぼんやりと眺めて、クロヴィスは遠目で見るその姿をああ、美しいな、と思った。

 しかし、それは決してリュカに心惹かれたわけではなかった。
 例えば、暁の空にまたたく小さな星々を目にしたときのような、春の訪れを告げる花鳴鳥の虹色の羽根を見つけたときのような、そんな感覚。ただ美しいものを美しいと認識したということにすぎなかった。
 甘い匂いを纏ったオメガたちへの興味はすぐになくなった。手元の書類に視線を移して、すぐさま頭を切り替える。
 クロヴィスは娼婦を買わない。故に、彼らとの邂逅はここで終わりのはずだったのだ。

 しかし悲劇はここで起こった。
 すれ違いざま、たまたまクロヴィスは書類から顔を上げた。
 そのときだってリュカを見ようとしたわけではない。けれども上げた視線の先にはリュカがいて、あろうことか目が合ってしまった。

 透き通るような青い瞳が自分を映したからだろうか。それとも近寄ったことで物理的な距離が近くなったからか。
 突然爆発したようなフェロモンの香りを感じて、それからの記憶はひどく曖昧だった。
 ただ、目の前のオメガを自分の物にしなければいけない。そんな衝動に突き動かされていた。

 その場で犯さず部屋に戻れたのは、なけなしの理性が働いたからだ。
 ここで暴いてしまいたいという強い情欲に必死で抗って、崩れ落ちた細い身体を抱えて城内にある自らの部屋へと運ぶことが出来た。

 本来であれば、近衛騎士出身であるクロヴィスには、オメガのフェロモンによるハニートラップは効果がないはずだった。そういう風に訓練されてきた。それなのに。
 リュカの香りの前ではそんなものは全て無意味だったのだ。


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