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第七話 とある冬の日
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砦の街は王国の東北部にあった。
王都からは馬車でまる三日ほどかかるが、早馬を飛ばせば一日で着く。
かつては戦争を繰り返していた隣国とも今は仲が良く、砦は実質、両国を行き来する商人たちを管理する関所のような役割を果たしていた。砦に張りつくように広がった街は、田舎ではあるがそれなりの活気があった。
人が行き交う場所には、彼らを相手に商売する人間が集まるものだ。行商人向けの宿屋や飯屋、それから娼館が多く軒を連ねていた。
もちろん、町人たちが利用する商店も多く、街はいつだって賑わっている。
リュカの住む屋敷はそんな街の郊外に建っていた。喧騒から少し離れた敷地は広大で、屋敷にはよく手入れされた庭園と大きな噴水があった。
リュカがヴァリエール家の屋敷に来たのは春のことで、それはそれは美しい花々が庭園を彩っていた。
それからこの屋敷で三度、リュカは発情期を過ごした。フェロモンでクロヴィスを煽ったあの発情期と秋に来た発情期、それからつい最近終わった発情期だ。
そのどれもクロヴィスに抱かれ、リュカは番と過ごす発情期の心地よさを知った。
仕事で抱かれていたときもそれなりに気持ちがよかったが、クロヴィスとのセックスは別格だと思う。元々、身体の相性は最高なのだ。そこに番と交わることで得られる精神的な安寧まで加われば、オメガの身体はあっという間に蕩けてしまう。
思い出すだけで胎の奥が切なく疼いてしまうのは、たぶんオメガとして仕方がないことなのだろう。
最も近い発情期は冬の始まりに来た。この冬、初めての雪が降った日の夜のことだった。
それから十日ほど。七日間をクロヴィスと一緒に過ごして、ようやく寝台から出られたのが三日前だ。
その間降り続いた雪は、ヴァリエール家の美しい秋の庭をすっかり雪景色へと変えてしまった。
東北部にある街は王都よりもずっと寒さが厳しく雪が深い。雪の降らない王都育ちのリュカは、これほどまでに積もった雪を見るのは初めてのことだった。
七日間続く発情期はオメガの体力をごっそりと奪っていく。ゆっくりと休息を取って、滋養のあるものを食べた。そしてようやく消耗した体力が戻って来たのを見て、リュカは使用人たちの目を盗んで屋敷をこっそり抜け出した。真っ白な雪に触れてみたかったのだ。
この屋敷の使用人たちはクレマンも含めて、リュカに対して少々過保護なきらいがある。冷遇されないようにと無駄に愛想を振りまいた弊害か、使用人は皆リュカのことを庇護すべきものだと勘違いしていて、食事量が減ったり少しでも薄着をしているとひどく心配されてしまうのだ。
辺りを白に染め上げる雪は、今もしんしんと降り続いている。発情期明けのリュカに、外出許可はきっと下りないだろう。下手をすれば、リュカが外に出たがっていたと、クロヴィスにまで報告が行くかもしれない。それは大変面倒くさい。
それが分かっていたからリュカは誰にも言わなかった。
広い屋敷であるが、倹約家の主人の意向で使用人は最低限だ。人が少ない夕方の時間を選んでリュカはそっと部屋を抜け出した。しんと静まり返った廊下は少しひんやりとしていて、外の冷気がここまで忍び込んでいるようだった。
玄関から外に出れば、そこは凍えるような寒さだった。
一応、いつも着ているシャツの上に厚手のガウンを羽織って来た。シャツもガウンもこの屋敷に来てから買い与えられたもので、着心地のいい上質で上品なものだ。
実を言えば、ガウンは室内用で雪の降る外で着ることは想定されていなかった。そんなことを知らないリュカは、何も気にせず屋外に出てしまった。
吹く風は冷たく、肌を刺すような寒さがリュカを包んでいた。しかし、リュカにはそんなものは気にならなかった。なにより、降り積もった雪に夢中だったのだ。
使用人たちの手により雪かきされた庭は、歩くのに不自由はなかった。しかし、集められた雪がいたる所に小高い山を作っていた。
「うわ……」
その山のひとつにリュカはそっと触れてみた。白くふわふわしているように見えた雪は、触れると案外硬いものだった。そっと押すと、つるりとした感触がある。
集められた雪は崩れないようにと、固めてあったのだろう。しかしそんなことリュカには分からない。
氷みたいだ、と思いつつ、今度は庭の低木に積もった雪に触れる。するとこちらは見た目通りふんわりとしていてリュカの体温ですぐに溶けてしまった。
――楽しい。
触れると溶けるふわふわの雪も触ると氷みたいなつるりとした雪もその全部が楽しかった。
少し歩くと、庭園の中ほどに凍り付いた噴水が見えた。春から秋にかけては澄んだ水を湛える美しい噴水は、今では真っ白な雪でそのほとんどが隠されている。水瓶を支える妖精の像が半分ほど凍り付いていた。
どれくらいの時間、外にいたのだろうか。リュカが夢中になって雪を集めたり、踏んだり、転んだりして遊んでいると「何をしている」と声をかけられた。
しまった、みつかった、と慌てて顔を上げれば、そこにはひどく驚いた顔をしたクロヴィスがいて、リュカも同じように驚いた。まさかクロヴィスが帰って来るとは思っていなかったのだ。
基本的にクロヴィスは、明るいうちには帰って来られない。夕食を一緒に食べるときだって帰宅するのは日が落ちた後だ。
屋敷を抜け出したときはまだ薄っすら明るかった空は、すっかり暗くなっていた。それでも辺りを照らす雪明りのおかげで、普段の夜よりはずっと明るい。それがまた雪になれないリュカにはとても不思議だった。
「おかえり、旦那様。今日は少し早いな」
「早くない。君はこんな時間に何をしているんだ」
この数か月で、リュカの口調はすっかり崩れていた。当初は男娼時代に仕込まれた王国貴族の喋り方で話していたのだが、クロヴィスの方から普通に話してくれと言われたのだ。
どうやら、発情期でどろどろに蕩けたとき、リュカの口調は生来のものになるらしい。そのときの言葉遣いと猫を被っているときの口調が全くの別人で気持ちが悪いと言われて、声を上げて笑ったのは少し前の話だ。
「何って、雪遊び?」
「なんで疑問形なんだ……。というか、そんな薄着で寒くないのか」
「薄着?」
自らの格好を見ながらリュカが首を傾げると、クロヴィスは盛大に顔を顰めた。そして巻いていたマフラーを外して、リュカの頭から肩までをぐるぐる巻きにする。
「何だよ」
「自分で気づいていないのか? 寒さで顔が真っ白だぞ」
「え?」
指先も冷たい、と握られた手にリュカは驚いた。白くて細い指先が手袋をした手のひらに包まれて、じんわりと温まっていく。ゆっくりと血液が手のひらを流れ出す感覚。悴んだ手がようやく感覚を取り戻して、じわじわと痺れが広がっていく。どうやら冷えすぎて血流が悪くなっていたらしい。
「屋敷に帰るぞ。このままじゃ風邪をひく。発情期が終わったばかりで、まだ体重も戻ってないだろう」
何をやっているんだ、と呆れたように言われて返す言葉もなかった。
「いやぁ、すぐ戻るつもりだったんだよ。ちょっと雪に触ってみたくて」
「ああ、そういえば君は王都の出身だったな」
雪が珍しいのか、と問われてリュカは素直に頷いた。ぐるぐると巻かれたマフラーのせいで首が動かしにくいが、それでもリュカの答えは伝わったらしい。
ふむ、と少しだけ考える様子を見せて、クロヴィスは握りしめていた手をそっと放した。そのままその場にしゃがみ込んで、何故か足元の雪を集め始める。
「――?」
何をしているのだろうか。
不思議に思ってその手元を覗き込むと、クロヴィスの大きな手のひらが器用に集めた雪で球体を作っているのが見えた。
「見たことはないか?」
「何を?」
「雪だるま」
ひとつめの球体を作ったかと思ったら、今後は一回り小さいものをまた作り始める。何度も両手で握っては表面が滑らかになるようにと擦り上げた。大きな球の上に、小さな球を乗せると大小の球がふたつ重なる形になる。それを差し出されて、リュカは首を傾げた。
「完成?」
「本当なら、これに枝や石で腕や顔を作る」
「へぇ」
これをやる、と言われて素直にリュカが両手を差し出すと、冷え切った手の上にひんやりとした雪だるまがそっと置かれた。まんまるのその雪だるまの愛らしさに、リュカは思わず微笑んだ。
初めて見た雪だるまが可愛かったのもある。しかし、何よりもリュカを見ればいつも眉間に皺を作っているクロヴィスが、自分の手を汚してまでわざわざ作ってくれたことが嬉しかった。
「ありがとな」
「満足したなら戻るぞ」
「これ、部屋に持って帰ってもいいか」
「室内に持ち込めばすぐ溶けると思うが……、まぁ好きにしたらいい」
先に踵を返したクロヴィスは振り向くことなく屋敷の方へと歩き出した。その背中をリュカは慌てて追いかける。
雪だるまは大切に両手に抱えたままだ。部屋の中ですぐに溶けてしまうなら、窓の外に置いておけばいい。窓越しに見たテラスにもたくさんの雪が積もっていたから、雪だるまを置いていても問題はないだろう。
小走りで追いついたクロヴィスを見上げると、その顔は相変わらず仏頂面のままだった。けれどもマフラーをリュカの首に巻いたせいで、すっきりとした襟足が露わになっている。鼻先と耳が赤くなって、ひどく寒そうだった。
――自分だって、砦から馬で帰って来て身体は冷え切っているくせに。
それなのに、リュカに自分のマフラーを巻いてくれたのか。それなのにわざわざ手を濡らしてまで雪だるまを作ってくれたのか。
分かりにくいその優しさに、リュカの胸にじんわりと温かかな何かが広がっていく。
「旦那様」
「なんだ」
「ありがとな」
へへ、と笑ってリュカはクロヴィスに抱き着いた。その抱擁をクロヴィスは煩わしそうに手で押しのけようとする。
「歩きにくい」
「はいはい」
それでもクロヴィスはやめろ、とは言わなかった。そのことに気を良くして、リュカはクロヴィスの腕に自らのそれを絡ませる。片手には雪だるま。もう片方にはクロヴィスだ。
硬い毛織の外套越しにしっかりと筋肉のついた感触がある。同時に香って来たクロヴィスの香りを感じて、リュカはさらに笑みを深めた。
後日、クレマンからお小言とともに一着の外套が届けられた。
夜に庭で雪遊びをしたことは当然こっぴどく怒られたし、二度と黙ってひとりで外に出ないようにと言い含められた。
クロヴィスとともに屋敷に戻ったとき、使用人たちは何故か主人と一緒に玄関から入って来たリュカにひどく驚いていた。おまけにリュカの格好を見た彼ら――特にリュカ付きの女中たちが悲鳴を上げた。シャツにガウンだけという薄着で長時間雪の中にいたリュカの身体は冷え切っていたし、肩や頭には薄っすらと雪が積もっていたのだ。
連行されて熱いお湯にぶち込まれ、温かいスープを飲まされた。その後、女中たちに頼まれたのか、何故かクロヴィスに抱き込まれて眠った。大きな身体は温かくて心地よかったが、リュカは眠るどころではなかった。もちろん、ちらりと盗み見たクロヴィスの寝顔はいつもの通りで、眉間にもしっかりと皺が寄っていた。
それから数日後、クロヴィスからだとクレマンが外套を持ってきたのだ。
外套はしっかりとした毛織で作られていて、見ただけで値が張ると分かるものだった。
色は黒と地味なものだったが、着てみるとリュカの身体にぴったりと合い、とても温かい。
そんなものをもらう理由がないリュカは当然困惑した。しかし、いらない、と言ってもクレマンは引いてくれなかった。
「旦那様からの贈り物ですから、貰っておいたらいいのです。思えば、リュカ様が嫁入りされてから初めての贈り物ではないですか?」
そう言われて、リュカはそうなのだろうか、と首を傾げた。
リュカの生活費は全てクロヴィスが支払っている。食事も衣服もこの屋敷も。リュカが何不自由もなく暮らせるのは、クロヴィスのおかげだ。
だから、別に贈り物まではいらない。
そうリュカは訴えたけれど、せっかく誂えたのだから、と押し切られてしまった。
結局、外套はリュカの物になり、衣裳部屋に仕舞われることになった。
リュカの手持ちの服と言えば、男娼をやっていたときに使っていた露出の多いものかこの屋敷に来てから与えられた飾り気のない普段着だけだ。それも必要最低限しか持っておらず、女中たちには常々もっと着飾ってはどうかと言われていた。
仕事でもないのに着飾るのは面倒くさいが、この外套は外出するときに使える日常使いのものだ。あって困るものでもないか、と思うと同時にクロヴィスはどんな顔をしてこの外套を買い求めたのかと考えると少し楽しかった。
王都からは馬車でまる三日ほどかかるが、早馬を飛ばせば一日で着く。
かつては戦争を繰り返していた隣国とも今は仲が良く、砦は実質、両国を行き来する商人たちを管理する関所のような役割を果たしていた。砦に張りつくように広がった街は、田舎ではあるがそれなりの活気があった。
人が行き交う場所には、彼らを相手に商売する人間が集まるものだ。行商人向けの宿屋や飯屋、それから娼館が多く軒を連ねていた。
もちろん、町人たちが利用する商店も多く、街はいつだって賑わっている。
リュカの住む屋敷はそんな街の郊外に建っていた。喧騒から少し離れた敷地は広大で、屋敷にはよく手入れされた庭園と大きな噴水があった。
リュカがヴァリエール家の屋敷に来たのは春のことで、それはそれは美しい花々が庭園を彩っていた。
それからこの屋敷で三度、リュカは発情期を過ごした。フェロモンでクロヴィスを煽ったあの発情期と秋に来た発情期、それからつい最近終わった発情期だ。
そのどれもクロヴィスに抱かれ、リュカは番と過ごす発情期の心地よさを知った。
仕事で抱かれていたときもそれなりに気持ちがよかったが、クロヴィスとのセックスは別格だと思う。元々、身体の相性は最高なのだ。そこに番と交わることで得られる精神的な安寧まで加われば、オメガの身体はあっという間に蕩けてしまう。
思い出すだけで胎の奥が切なく疼いてしまうのは、たぶんオメガとして仕方がないことなのだろう。
最も近い発情期は冬の始まりに来た。この冬、初めての雪が降った日の夜のことだった。
それから十日ほど。七日間をクロヴィスと一緒に過ごして、ようやく寝台から出られたのが三日前だ。
その間降り続いた雪は、ヴァリエール家の美しい秋の庭をすっかり雪景色へと変えてしまった。
東北部にある街は王都よりもずっと寒さが厳しく雪が深い。雪の降らない王都育ちのリュカは、これほどまでに積もった雪を見るのは初めてのことだった。
七日間続く発情期はオメガの体力をごっそりと奪っていく。ゆっくりと休息を取って、滋養のあるものを食べた。そしてようやく消耗した体力が戻って来たのを見て、リュカは使用人たちの目を盗んで屋敷をこっそり抜け出した。真っ白な雪に触れてみたかったのだ。
この屋敷の使用人たちはクレマンも含めて、リュカに対して少々過保護なきらいがある。冷遇されないようにと無駄に愛想を振りまいた弊害か、使用人は皆リュカのことを庇護すべきものだと勘違いしていて、食事量が減ったり少しでも薄着をしているとひどく心配されてしまうのだ。
辺りを白に染め上げる雪は、今もしんしんと降り続いている。発情期明けのリュカに、外出許可はきっと下りないだろう。下手をすれば、リュカが外に出たがっていたと、クロヴィスにまで報告が行くかもしれない。それは大変面倒くさい。
それが分かっていたからリュカは誰にも言わなかった。
広い屋敷であるが、倹約家の主人の意向で使用人は最低限だ。人が少ない夕方の時間を選んでリュカはそっと部屋を抜け出した。しんと静まり返った廊下は少しひんやりとしていて、外の冷気がここまで忍び込んでいるようだった。
玄関から外に出れば、そこは凍えるような寒さだった。
一応、いつも着ているシャツの上に厚手のガウンを羽織って来た。シャツもガウンもこの屋敷に来てから買い与えられたもので、着心地のいい上質で上品なものだ。
実を言えば、ガウンは室内用で雪の降る外で着ることは想定されていなかった。そんなことを知らないリュカは、何も気にせず屋外に出てしまった。
吹く風は冷たく、肌を刺すような寒さがリュカを包んでいた。しかし、リュカにはそんなものは気にならなかった。なにより、降り積もった雪に夢中だったのだ。
使用人たちの手により雪かきされた庭は、歩くのに不自由はなかった。しかし、集められた雪がいたる所に小高い山を作っていた。
「うわ……」
その山のひとつにリュカはそっと触れてみた。白くふわふわしているように見えた雪は、触れると案外硬いものだった。そっと押すと、つるりとした感触がある。
集められた雪は崩れないようにと、固めてあったのだろう。しかしそんなことリュカには分からない。
氷みたいだ、と思いつつ、今度は庭の低木に積もった雪に触れる。するとこちらは見た目通りふんわりとしていてリュカの体温ですぐに溶けてしまった。
――楽しい。
触れると溶けるふわふわの雪も触ると氷みたいなつるりとした雪もその全部が楽しかった。
少し歩くと、庭園の中ほどに凍り付いた噴水が見えた。春から秋にかけては澄んだ水を湛える美しい噴水は、今では真っ白な雪でそのほとんどが隠されている。水瓶を支える妖精の像が半分ほど凍り付いていた。
どれくらいの時間、外にいたのだろうか。リュカが夢中になって雪を集めたり、踏んだり、転んだりして遊んでいると「何をしている」と声をかけられた。
しまった、みつかった、と慌てて顔を上げれば、そこにはひどく驚いた顔をしたクロヴィスがいて、リュカも同じように驚いた。まさかクロヴィスが帰って来るとは思っていなかったのだ。
基本的にクロヴィスは、明るいうちには帰って来られない。夕食を一緒に食べるときだって帰宅するのは日が落ちた後だ。
屋敷を抜け出したときはまだ薄っすら明るかった空は、すっかり暗くなっていた。それでも辺りを照らす雪明りのおかげで、普段の夜よりはずっと明るい。それがまた雪になれないリュカにはとても不思議だった。
「おかえり、旦那様。今日は少し早いな」
「早くない。君はこんな時間に何をしているんだ」
この数か月で、リュカの口調はすっかり崩れていた。当初は男娼時代に仕込まれた王国貴族の喋り方で話していたのだが、クロヴィスの方から普通に話してくれと言われたのだ。
どうやら、発情期でどろどろに蕩けたとき、リュカの口調は生来のものになるらしい。そのときの言葉遣いと猫を被っているときの口調が全くの別人で気持ちが悪いと言われて、声を上げて笑ったのは少し前の話だ。
「何って、雪遊び?」
「なんで疑問形なんだ……。というか、そんな薄着で寒くないのか」
「薄着?」
自らの格好を見ながらリュカが首を傾げると、クロヴィスは盛大に顔を顰めた。そして巻いていたマフラーを外して、リュカの頭から肩までをぐるぐる巻きにする。
「何だよ」
「自分で気づいていないのか? 寒さで顔が真っ白だぞ」
「え?」
指先も冷たい、と握られた手にリュカは驚いた。白くて細い指先が手袋をした手のひらに包まれて、じんわりと温まっていく。ゆっくりと血液が手のひらを流れ出す感覚。悴んだ手がようやく感覚を取り戻して、じわじわと痺れが広がっていく。どうやら冷えすぎて血流が悪くなっていたらしい。
「屋敷に帰るぞ。このままじゃ風邪をひく。発情期が終わったばかりで、まだ体重も戻ってないだろう」
何をやっているんだ、と呆れたように言われて返す言葉もなかった。
「いやぁ、すぐ戻るつもりだったんだよ。ちょっと雪に触ってみたくて」
「ああ、そういえば君は王都の出身だったな」
雪が珍しいのか、と問われてリュカは素直に頷いた。ぐるぐると巻かれたマフラーのせいで首が動かしにくいが、それでもリュカの答えは伝わったらしい。
ふむ、と少しだけ考える様子を見せて、クロヴィスは握りしめていた手をそっと放した。そのままその場にしゃがみ込んで、何故か足元の雪を集め始める。
「――?」
何をしているのだろうか。
不思議に思ってその手元を覗き込むと、クロヴィスの大きな手のひらが器用に集めた雪で球体を作っているのが見えた。
「見たことはないか?」
「何を?」
「雪だるま」
ひとつめの球体を作ったかと思ったら、今後は一回り小さいものをまた作り始める。何度も両手で握っては表面が滑らかになるようにと擦り上げた。大きな球の上に、小さな球を乗せると大小の球がふたつ重なる形になる。それを差し出されて、リュカは首を傾げた。
「完成?」
「本当なら、これに枝や石で腕や顔を作る」
「へぇ」
これをやる、と言われて素直にリュカが両手を差し出すと、冷え切った手の上にひんやりとした雪だるまがそっと置かれた。まんまるのその雪だるまの愛らしさに、リュカは思わず微笑んだ。
初めて見た雪だるまが可愛かったのもある。しかし、何よりもリュカを見ればいつも眉間に皺を作っているクロヴィスが、自分の手を汚してまでわざわざ作ってくれたことが嬉しかった。
「ありがとな」
「満足したなら戻るぞ」
「これ、部屋に持って帰ってもいいか」
「室内に持ち込めばすぐ溶けると思うが……、まぁ好きにしたらいい」
先に踵を返したクロヴィスは振り向くことなく屋敷の方へと歩き出した。その背中をリュカは慌てて追いかける。
雪だるまは大切に両手に抱えたままだ。部屋の中ですぐに溶けてしまうなら、窓の外に置いておけばいい。窓越しに見たテラスにもたくさんの雪が積もっていたから、雪だるまを置いていても問題はないだろう。
小走りで追いついたクロヴィスを見上げると、その顔は相変わらず仏頂面のままだった。けれどもマフラーをリュカの首に巻いたせいで、すっきりとした襟足が露わになっている。鼻先と耳が赤くなって、ひどく寒そうだった。
――自分だって、砦から馬で帰って来て身体は冷え切っているくせに。
それなのに、リュカに自分のマフラーを巻いてくれたのか。それなのにわざわざ手を濡らしてまで雪だるまを作ってくれたのか。
分かりにくいその優しさに、リュカの胸にじんわりと温かかな何かが広がっていく。
「旦那様」
「なんだ」
「ありがとな」
へへ、と笑ってリュカはクロヴィスに抱き着いた。その抱擁をクロヴィスは煩わしそうに手で押しのけようとする。
「歩きにくい」
「はいはい」
それでもクロヴィスはやめろ、とは言わなかった。そのことに気を良くして、リュカはクロヴィスの腕に自らのそれを絡ませる。片手には雪だるま。もう片方にはクロヴィスだ。
硬い毛織の外套越しにしっかりと筋肉のついた感触がある。同時に香って来たクロヴィスの香りを感じて、リュカはさらに笑みを深めた。
後日、クレマンからお小言とともに一着の外套が届けられた。
夜に庭で雪遊びをしたことは当然こっぴどく怒られたし、二度と黙ってひとりで外に出ないようにと言い含められた。
クロヴィスとともに屋敷に戻ったとき、使用人たちは何故か主人と一緒に玄関から入って来たリュカにひどく驚いていた。おまけにリュカの格好を見た彼ら――特にリュカ付きの女中たちが悲鳴を上げた。シャツにガウンだけという薄着で長時間雪の中にいたリュカの身体は冷え切っていたし、肩や頭には薄っすらと雪が積もっていたのだ。
連行されて熱いお湯にぶち込まれ、温かいスープを飲まされた。その後、女中たちに頼まれたのか、何故かクロヴィスに抱き込まれて眠った。大きな身体は温かくて心地よかったが、リュカは眠るどころではなかった。もちろん、ちらりと盗み見たクロヴィスの寝顔はいつもの通りで、眉間にもしっかりと皺が寄っていた。
それから数日後、クロヴィスからだとクレマンが外套を持ってきたのだ。
外套はしっかりとした毛織で作られていて、見ただけで値が張ると分かるものだった。
色は黒と地味なものだったが、着てみるとリュカの身体にぴったりと合い、とても温かい。
そんなものをもらう理由がないリュカは当然困惑した。しかし、いらない、と言ってもクレマンは引いてくれなかった。
「旦那様からの贈り物ですから、貰っておいたらいいのです。思えば、リュカ様が嫁入りされてから初めての贈り物ではないですか?」
そう言われて、リュカはそうなのだろうか、と首を傾げた。
リュカの生活費は全てクロヴィスが支払っている。食事も衣服もこの屋敷も。リュカが何不自由もなく暮らせるのは、クロヴィスのおかげだ。
だから、別に贈り物まではいらない。
そうリュカは訴えたけれど、せっかく誂えたのだから、と押し切られてしまった。
結局、外套はリュカの物になり、衣裳部屋に仕舞われることになった。
リュカの手持ちの服と言えば、男娼をやっていたときに使っていた露出の多いものかこの屋敷に来てから与えられた飾り気のない普段着だけだ。それも必要最低限しか持っておらず、女中たちには常々もっと着飾ってはどうかと言われていた。
仕事でもないのに着飾るのは面倒くさいが、この外套は外出するときに使える日常使いのものだ。あって困るものでもないか、と思うと同時にクロヴィスはどんな顔をしてこの外套を買い求めたのかと考えると少し楽しかった。
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