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希望

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 フロイントの言葉にユーリスは息を飲む。
 助けに来たのはギルベルトとゲオルグのふたりだ。そのギルベルトは立ち上がれないほど負傷していて、ゲオルグは未だに戻ってこない。ハインツとの戦いの勝敗すら分からないのだ。アデルの手枷は外れないし、目の前には敵の黒幕であるフロイントがいる。その上、帝国の兵士が荷馬車を包囲しているだなんて。

 状況は悪化するばかりで、ユーリスにはもうどうやって逃げ出せばいいのか分からなかった。

 せめて、と膝の上にあるアデルの頭を抱き込んで、ギルベルトの血まみれの手を握りしめる。驚いたようにこちらを見たギルベルトは、焦るユーリスとは違いとても静かな目をしていた。
 不思議なくらい凪いだ紫に見入っていると、突如荷馬車の中にひとりの帝国兵が入って来た。フロイントと帝国語で数言交わし、ユーリスやアデルを舐めまわすように見た。

 王国貴族の嗜みとして、近隣諸国の言葉は不自由がないくらい話せるように教育されるものだ。帝国語であっても、日常会話くらいは理解できる。

 帝国兵はフロイントにオメガの数とその処遇を訪ねたのだ。
 帝国でのオメガの扱いは酷いものだ。大陸で最も不遇で、残酷な扱いをされることはシュテルンリヒトでも有名な話で、そもそも帝国人はオメガを人として認めていないと聞く。現に帝国兵はユーリスたちを指して、奴隷と呼んだのだ。

 ――奴隷のひとりは番がいるようだが。

 そう訊ねた帝国兵にフロイントは平然と、番のアルファは外で殺す、と答えた。
 その会話がひどく恐ろしく、握ったままの手に思わず力が入った。震えるそれを宥めるように、ギルベルトが握り返してくる。

 そうしているうちにゆっくりとであるが、確実に荷馬車が動き出した。
 日はとっぷりと暮れ、待っていた帝国兵の迎えもやって来た。これ以上、ここに留まる理由はないということだ。
 通常であれば、王都の門は兵士たちに守られ、特別な許可がなければ開くことはない。あっさりと開いた門にギルベルトが低い声で訊ねた。

「門兵たちは、殺したのか」
「さぁ、そのあたりは彼らに任せているのでなんとも」

 捲られた幌の隙間から、王都の堅牢な門が覗く。生まれて初めて見る巨大な門をユーリスは驚きを持って見上げた。王都の外など、オメガであるユーリスは滅多に出られるものではない。こんな状況でなければ、もっと気分も高揚しただろうに。

 車輪が石畳の上を揺れる音ががたがたと耳に響く。この揺れが収まり、街道に出ればそれこそ本当の終わりだ。
 泣きそうな気分でフロイントを見れば、フロイントは悠然と微笑んでいた。

 祖国を裏切り、無事に帝国へ亡命できることを確信しているのだろう。その一切の憂いのない顔を見て、ユーリスは最初から抱えていた疑問がふつふつと沸き上がるのを感じた。

「フロイント……先生……。ひとつ聞いてもいいでしょうか」
「何でしょう。ヒンメル」

 相手は反逆罪を犯した大罪人であるが、学生の頃は世話になった恩師なのだ。一瞬躊躇ったが、結局呼び捨てには出来なかった。

「どうしてシュテルンリヒトを裏切り、帝国へ手を貸すのですか。この国をあなたは恨んでいるのですか」

 裕福な侯爵家に生まれ、魔法の才能にも恵まれたアルファだ。ユーリスやアデルとは違い、何の不自由もなく過ごしてきたはずだ。そう思い訊ねれば、フロイントは案の定あっさりと答えた。興味深そうに眉を上げて、ユーリスを見返してくる。

「恨む? 私が、この国を? そんなことはありませんよ」
「では、何故祖国を裏切るような真似をされるのですか」
「裏切るも何も、別に私はこの国に忠誠を誓っていたわけではありませんからね。そこの騎士様とは違って。帝国へ行こうと思ったのは、最近周囲を嗅ぎまわるねずみがうるさかったからですし、帝国に手を貸したのはその方が面白そうだったからです」

 それは単純な好奇心だ、と平然と答えるフロイントにユーリスは瞬いた。
 悪意なく人を害することが出来る者が、この世にいることが信じられなかった。

「アデル様を憎んでいるわけではないのですか」
「アデル・ヴァイツェンを憎んでいる者は、たくさんおりますが、私はどうでもいい」

 オメガを差別するわけでもなく、何かの主義主張があるわけでもない。

 ――そちらの方が面白そうだから。

 フロイントの行動原理は本当にただそれだけなのだ。

「ユーリス。このような者と言葉を交わしても、決してその考えを理解することは出来ない。あなたとこの男は見ている世界が違いすぎるのです」

 呆然とするユーリスを慰めるようにギルベルトが言った。
 その言葉通り、恐ろしいほど空虚なフロイントのことを、ユーリスはどれだけ言葉を交わしても決して理解することは出来ないだろう。そもそもフロイント自身は分かり合うつもりもないのだ。彼は幌の外を見て、うっそりと笑った。

「おしゃべりはもうそれくらいでいいでしょうか。そろそろ街道に出る」

 門を通り過ぎ、堀を越えればそこは街道へと繋がる道だ。帝国へと向かう街道へはあっという間に出てしまう。

「もうぼろぼろですがね。このままでは死ぬまでにしばらくかかるでしょうし、ローゼンシュタインにはここで馬車を降りてもらいますよ」

 そう言って、フロイントが帝国兵へ目配せをすれば、心得たとばかりに帝国兵はひとつ頷いた。腰に差した剣を抜き、ギルベルトの元へと近寄ってくる。
 白刃が目の前に迫り、ユーリスは思わず唇を噛みしめた。そのままでいれば、悲鳴を上げてしまいそうだったのだ。

 しかし、当のギルベルトは平然とした顔で帝国兵を――否、その向こう側にいるフロイントを睨んでいる。薄い唇には微かに笑みすら浮かべているようにも見えた。
 全身は傷だらけで、右手は動かすことも出来ないほどの深手を負っているのだ。どう考えても今のギルベルトにフロイントと帝国兵ふたりを相手にする体力はない。だというのに、ギルベルトは背にユーリスを庇ったままで笑う。
 それは無謀さとは程遠い、とても冷静な表情だった。

「物証の代わりに自白を、と思っていたが、まさか帝国兵を王都へ手引きしているとは思わなかった。愚かだな、フロイント」
「強がらなくてもいいのですよ。命乞いくらい可愛らしくしてみることをお勧めいたしますよ」
「命乞いなど、するわけがないだろう。お前、気づかないのか?」
「何?」

 ギルベルトが吐き捨てるように言った途端、がたんと大きな音をたてて馬車が止まる。
 嘶く馬の声が辺りに響いて、怒声が飛び交った。帝国の響きを持ったそれは、ひどく焦っているように聞こえた。

 ――何が起こっているのか。

 荷馬車の外側で起こっているらしい「何か」が分からず、ユーリスはギルベルトを見た。
 そんなユーリスの困惑を受け取ったのか、ギルベルトは小さく微笑んで、ユーリスの耳元に唇を寄せる。

 ――大丈夫。もう少し、身体を低くしてください。

 そっと囁かれた言葉に、思わずユーリスは瞬いた。考えることなく言われたとおりにアデルの上に身を伏せた瞬間、強い風が吹きすさんだ。それはギルベルトを襲ったフロイントの魔法とはけた違いの威力だった。

 人一人を切り刻むためではなく、周囲を薙ぎ払うための魔力の風。
 溢れる魔力の奔流が幌を吹き飛ばし、ユーリスの髪を嬲った。
 フロイントのうめき声と、帝国語で聞こえる罵声。

 風が収まるのを待ちようやく顔を上げたユーリスは、目の前に広がる光景に言葉を失った。
 周囲を囲むのは先ほどの帝国兵たちではない。漆黒の騎士服に濃紺のペリース。
 そこには王国の誇りを身に纏った騎士たちが、剣を構えたままで馬車を包囲していた。

「どうやったのか、お前は『ネーベル』の暗号通信を傍受し、解析していたからな。少し罠を張らせてもらった。――本当に、たったふたりで来るわけがないだろう」

 ふん、と鼻を鳴らしたギルベルトがユーリスの方を見た。
 握りしめられたままの手のひらが、温かく涙が滲みそうになる。

「怖い思いをさせて申し訳ありません。もう、大丈夫ですよ」

 そう言って、ギルベルトはようやく笑ったのだった。


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