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暁斗はたまに近所にあるワークショップで油絵教室の講師をしている。
このワークショップには暁斗の大学時代の同期が働いており、現金収入のない暁斗を見るに見かねて声をかけてくれたのだ。
とはいえ、油絵教室は不定期開催で安定した収入が得られるわけではない。
相変わらず律の世話になりながら絵だけを描くという生活を、もう四年ほど続けている。
「なぁなぁ、鴻上。お前のオメガちゃん、元気?」
油絵教室が終わり、片づけをしていると突然声をかけられた。
声の主はつなぎを着た大柄な男だった。つなぎには所々泥が付いている。暁斗の友人である山瀬だ。
山瀬は暁斗と同じ大学の陶芸コースの出身で、今は売れない陶芸家をしている。境遇的には暁斗とさほど変わらず、彼もこうしてワークショップで陶芸教室の非常勤の講師をしているのだ。
「お前、片づけ終わったの」
「終わった、終わった。っていうか、俺の教室は金曜日もあるから、片づけは適当でいいの」
暁斗が訊ねると、山瀬はそう言ってからからと笑った。
山瀬の陶芸教室は週に二回、定期開催されている。陶芸は一般にも広く受け入れられており、このワークショップでも参加者の多い教室らしい。それに加えてアルファである山瀬は見た目もいいから、この男の陶芸教室はご年配のご婦人たちにたいそうな人気があった。
「それより、オメガちゃんは元気なの? そろそろ別れる気になった?」
「なんでお前に律のことを話さなきゃいけないんだ。別れないし、そもそも付き合ってない」
山瀬に肩を抱かれて、暁斗は一気に不機嫌になる。
彼は暁斗が他人に触れられるのがあまり好きではないことを分かっていて、こうしてわざとらしく接触してくるのだ。どうやら嫌がる暁斗の様子が楽しいらしい。
挙句、いちいち律のことを気にするのも気に食わない。
なんだ、オメガちゃんって。
律に関心を持たれるのが嫌で、暁斗は山瀬に律の名前を教えていない。
だからこそ彼は「オメガちゃん」と律のことを呼ぶのだが、それはそれで律のことをその他大勢のオメガと一緒にされているようで腹立たしかった。
「だって羨ましすぎて俺も欲しいんだもん。お前と別れたら、すぐもらいに行こうと思って」
山瀬の言葉に暁斗は眉を寄せる。元々、鋭く目つきが悪い暁斗の顔が、さらに凶悪なものになっていく。
今にも人を殺しそうな暁斗の顔を見て、山瀬はさらに愉快そうに腹を抱えて笑った。そんな山瀬を咎めてくれたのは、教室に入って来たワークショップの職員だった。
「こら、山瀬。鴻上のことを揶揄うんじゃない。鴻上の顔が暗殺者みたいになってるだろうが」
「倉田」
「おー、倉田だ」
「ふたりともお疲れ。鴻上、これ今回の分」
よお、と気安げに笑う山瀬に倉田と呼ばれた青年が苦笑する。そして暁斗に向かって彼が差し出してきたのは、一枚の茶封筒だった。
それを受け取って、ついでに暁斗は山瀬の腕を振り払う。山瀬は煩わしいが、この封筒は大切なものだ。なにせ、今日一日分の暁斗の給料が入っている。
このワークショップは山瀬たち非常勤講師の給料は振込らしいが、暁斗のような単発のアルバイトの給料は何故か現金手渡しなのだ。
それを持ってきてくれた倉田はこのワークショップの職員で、誰あろう暁斗のことをこのワークショップに紹介してくれた人物だった。
倉田もまた山瀬と同じで暁斗の大学の同期だ。とはいえ、三人とも所属はばらばらで、何故このふたりが自分と仲がいいのかはよく分からない。
大学でも自由人として有名だった山瀬と面倒見のいい倉田は、不愛想で人付き合いが下手くそな暁斗に在学中から何かと構ってくる数少ない相手だった。
もちろん、暁斗が勘当されたとき、連日家に泊めてもらったこともある。その節はずいぶん世話になったとは思っている。
「えー、でも倉田も気になるだろ。オメガちゃんのこと」
「山瀬がしつこく聞くから、鴻上が嫌がって何も教えてくれないんだよ」
「しつこく聞かなくても教えてくれねぇよ。コイツは」
山瀬が倉田に向けて肩をすくめる。
同じアルファである山瀬は、アルファがオメガに向ける執着心を良く知っているのだ。
暁斗は出来れば律のことを誰にも知られなくなかった。けれども、散々迷惑をかけたふたりにだけは、定住先が決まった四年前にその経緯とともに話したことがあった。
当然、暁斗と同じで売れない芸術家としてアルバイトをして日銭を稼いでいる山瀬は、ひどく暁斗のことを羨んだ。暁斗たちにとって、金を気にせず制作に打ち込める環境というのは重要だから、それを叶えてくれる律にも興味があるのだろう。
しかし、アルファというのは独占欲が強い生き物だ。ベータの倉田ならまだしも、同じアルファである山瀬に律を会わせる気は全くなかった。
名前はもちろんとして、彼の話題すら聞かせたくない。
「相変わらずお世話になってんだろ。いいなぁ、会ってみたい」
「絶対、会わせない」
「なんでだよ。別に付き合ってるわけじゃねぇって言ったじゃん」
「会わせるわけないだろ。特に山瀬には」
「はぁ~、彼氏でもないのに心が狭ぇ~」
これだからアルファは、と自分の二次性のことは棚に上げて山瀬は言う。
大袈裟にふざける山瀬に文句を言うのは暁斗の常だが、それを宥めるのは倉田の役割だ。
いつもであれば、このあたりで山瀬を窘める言葉が出てくるはずだった。けれども、今日倉田から出てきたのは驚いた声だった。
「え、鴻上。オメガちゃんと付き合ってないの」
「付き合ってないけど」
「そうなんだ。四年も同棲してるから、俺てっきり恋人なのかと思ってたよ」
感心したように言われて、気まずくなったのは暁斗の方だ。
アルファとオメガが四年も一緒に暮らしていれば、それは同居ではなく同棲だと思われても仕方がない。ベータの倉田からすれば、男女が同居しているようなものなのだ。
「付き合ってないけど、やることはやってんだろ」
「……」
「まじか」
「オメガと同居してて手ぇ出さないアルファなんて、別に番がいるか不能かのどっちかだって」
山瀬の問いに無言を貫くと、それを肯定と取った倉田が絶句する。
しかし、すぐに暁斗の学生時代を思い出したのだろう。そう言えば、鴻上はこういうやつだった、と呆れたように呟いた。
真面目な倉田には、付き合っていない相手とセックスをするという感覚がよく分からないらしい。誘われれば寝る、というそこそこ爛れた学生生活を送っていた暁斗に、昔はそれなりに苦言を呈していた。
「まぁ、ふたりがいいんなら、俺たちが口を出すことじゃないとは思うけどね」
教室の鍵を閉めながら倉田が言う。
「でも、鴻上はオメガちゃんのこと好きなんだろ? ぼさっとしてると別のやつに持っていかれるぞ」
「そうそう。オメガなんてアルファより珍しくて、それだけでモテるんだからさ。オメガちゃんみたいに健気で尽くす系なんて最高だし」
倉田の真摯な忠告に乗っかって、山瀬がそんな適当なことを口にした。
けれど、暁斗の耳には山瀬の声はあまりよく聞こえなかった。何故ならば、その直前に倉田が言った言葉が頭の中で響き渡っていたからだ。
――好き?
誰が、誰を。
倉田の言葉に暁斗が瞬いていると、それを見て倉田が再びひどく驚いた顔をした。
「え、鴻上、そこから?」
「はぁ~、想像以上に情緒が赤ちゃん」
山瀬が呆れたように言って、頭を掻く。どうやら珍しく彼も驚いているらしい。
「鴻上、だって好きでもない相手と一緒には暮らせないだろう?」
「そうそう。それで家に泊めてくれるっていう女の子たち、全部断ってたじゃん」
「……あれは、なんか嫌だったから」
「鴻上、わりと人嫌いなのにオメガちゃんとはずっと一緒に暮らせてるだろ。その意味をちゃんと考えた方がいい」
倉田の言うとおり、暁斗は人が苦手だった。人嫌いと言ってもいいかもしれない。
自分に無関心で兄だけを可愛がっていた両親は、兄がベータだと分かった瞬間兄を無視し冷遇した。それが暁斗が九つのときだ。
幼かった暁斗はその手のひら返しが心の底から恐ろしいと思ったし、両親がひどく醜いものに見えた。まだ成長途中の柔らかい心に植え付けられた人への不信は、暁斗が成長するにつれて大きくなった。
二次性がアルファと分かってからは、周囲の人間も信頼できなくなった。こちらの顔色を窺うような態度が気持ち悪かった。相手の持つステータスによって態度を変える人間を、幼くして暁斗は見すぎていたのだ。
人は醜くて恐ろしい。
他人と必要以上に関わりたくないし、信用できない。
幼い頃からそういう価値観で生きて来た。
絵に夢中になったのは、そんな環境で育ったからかもしれない。
自分の殻にこもって、誰にも邪魔をされずに自分だけの世界を描ける。そこでようやく暁斗は自由に息が出来た。
それでも数少ない友人がいて、それなりに対人関係も築けていると思っていた。
けれども、暁斗には「人を好きになる」という感覚がよく分からない。
若い身体は相応の欲を抱くから女を抱いたことはあるが、そこに気持ちなんてものは存在しなかった。一度肌を重ねて、それでお終い。二回以上関係を持つと面倒くさくなることは経験済みだったので、同じ相手を二度抱いたことはなかった。
例外は律だけだ。それでも、暁斗には自分が律へ向けている感情が一体どういうものなのかを理解出来なかった。
律のことは可愛いと思うし、彼がいないと自分はきっと生きていけない。
これが、好きということなのだろうか。
呆けたように言えば、倉田が慰めるように暁斗の背中を撫でた。
「好きかどうかは自分で決めることだけど、そんな難しく考えなくていいんじゃない。相手のことが可愛いなとか、旨いもの食べたときに食べさせてやりたいなとか、ふとしたときにそう思うだろ。好きって、そんな簡単なことだよ」
「そうそう。俺は皿が上手く焼けたときに、真っ先に見せたいと思うような相手のことだと思う」
「山瀬が珍しくまともなことを」
「鴻上だって、完成した絵を一番にオメガちゃんに見せたいと思うだろ」
言われて、暁斗はああ、そうか、と思った。
確かに山瀬の言う通りだったからだ。
暁斗が全身全霊で描き上げた絵を一番に見て欲しいと思うのは律だ。
色をキャンバスに乗せるたびに、無意識のうちに暁斗は律を想っている。この絵が完成したら、律はどんな顔をするだろうか。喜んでくれるだろうか。
そう思うから、命を削るように絵を描いている。
律に出会う前、絵は暁斗にとって、たったひとつ世界と自分を繋ぐための縁だった。
絵があればそれだけでよかった。けれど、今ではそんな感覚はもう思い出せなくなっている。
律がいなければ、きっと絵すら描けない。
気づいてしまえば、それはとても簡単なものだった。
暁斗は律のことが好きなのだ。いや、好きという言葉だけで片づけるには、この感情は少々重すぎるような気もした。
倉田が、好きならちゃんと態度で示した方がいい、と言った。
「ちゃんと……」
「日頃の感謝を伝えるとか?」
「オメガちゃんが喜ぶことしてみたら?」
ふたりからのアドバイスを元に、暁斗は思案する。
律は暁斗が絵を描けばそれだけで喜んでくれる。けれども、それではいつもと変わらない。
思えば、あれほど律に依存しているくせに、暁斗は何をすれば律が喜ぶのかなんて今まで考えたこともなかった。
律が何を好きで、何を喜ぶのか。
ただ彼のそばで絵を描いていただけの四年間では、何も知ることが出来なかったのだ。
無言で考え込んでしまった暁斗に助け舟を出してくれたのは倉田だった。
「うーん。じゃあ、とりあえず夕飯でも作ってみたら? 家事全般、オメガちゃんがやってくれてるんだろ」
俺の彼女はそれで喜ぶよ、と言われて、暁斗は頷いた。
――そうか。律を手伝えば、律は喜ぶのか。
確かに律は朝から夜遅くまで働いている。帰ってくるのは毎日日付が変わる前で、それから食事の支度をしてくれるのだ。もし、律が帰ってきたときにすでに夕飯があったら、彼はどう思うだろうか。少なくとも、嫌がったりはしないだろう。
それに幸いなことに僅かではあるが、現金が手元にあった。先ほど貰った、今日の給料だ。
料理を作ってみることをふたりに伝えると、山瀬が首を傾げた。
「鴻上、料理なんか出来んの?」
「したことない」
「わはは、こりゃ前途多難だな」
そう笑いつつも山瀬は買い物を手伝ってくれた。倉田からカレーなら初心者でもなんとかなるんじゃないか、とアドバイスをもらったが、暁斗にはその材料すら分からなかったのだ。
このワークショップには暁斗の大学時代の同期が働いており、現金収入のない暁斗を見るに見かねて声をかけてくれたのだ。
とはいえ、油絵教室は不定期開催で安定した収入が得られるわけではない。
相変わらず律の世話になりながら絵だけを描くという生活を、もう四年ほど続けている。
「なぁなぁ、鴻上。お前のオメガちゃん、元気?」
油絵教室が終わり、片づけをしていると突然声をかけられた。
声の主はつなぎを着た大柄な男だった。つなぎには所々泥が付いている。暁斗の友人である山瀬だ。
山瀬は暁斗と同じ大学の陶芸コースの出身で、今は売れない陶芸家をしている。境遇的には暁斗とさほど変わらず、彼もこうしてワークショップで陶芸教室の非常勤の講師をしているのだ。
「お前、片づけ終わったの」
「終わった、終わった。っていうか、俺の教室は金曜日もあるから、片づけは適当でいいの」
暁斗が訊ねると、山瀬はそう言ってからからと笑った。
山瀬の陶芸教室は週に二回、定期開催されている。陶芸は一般にも広く受け入れられており、このワークショップでも参加者の多い教室らしい。それに加えてアルファである山瀬は見た目もいいから、この男の陶芸教室はご年配のご婦人たちにたいそうな人気があった。
「それより、オメガちゃんは元気なの? そろそろ別れる気になった?」
「なんでお前に律のことを話さなきゃいけないんだ。別れないし、そもそも付き合ってない」
山瀬に肩を抱かれて、暁斗は一気に不機嫌になる。
彼は暁斗が他人に触れられるのがあまり好きではないことを分かっていて、こうしてわざとらしく接触してくるのだ。どうやら嫌がる暁斗の様子が楽しいらしい。
挙句、いちいち律のことを気にするのも気に食わない。
なんだ、オメガちゃんって。
律に関心を持たれるのが嫌で、暁斗は山瀬に律の名前を教えていない。
だからこそ彼は「オメガちゃん」と律のことを呼ぶのだが、それはそれで律のことをその他大勢のオメガと一緒にされているようで腹立たしかった。
「だって羨ましすぎて俺も欲しいんだもん。お前と別れたら、すぐもらいに行こうと思って」
山瀬の言葉に暁斗は眉を寄せる。元々、鋭く目つきが悪い暁斗の顔が、さらに凶悪なものになっていく。
今にも人を殺しそうな暁斗の顔を見て、山瀬はさらに愉快そうに腹を抱えて笑った。そんな山瀬を咎めてくれたのは、教室に入って来たワークショップの職員だった。
「こら、山瀬。鴻上のことを揶揄うんじゃない。鴻上の顔が暗殺者みたいになってるだろうが」
「倉田」
「おー、倉田だ」
「ふたりともお疲れ。鴻上、これ今回の分」
よお、と気安げに笑う山瀬に倉田と呼ばれた青年が苦笑する。そして暁斗に向かって彼が差し出してきたのは、一枚の茶封筒だった。
それを受け取って、ついでに暁斗は山瀬の腕を振り払う。山瀬は煩わしいが、この封筒は大切なものだ。なにせ、今日一日分の暁斗の給料が入っている。
このワークショップは山瀬たち非常勤講師の給料は振込らしいが、暁斗のような単発のアルバイトの給料は何故か現金手渡しなのだ。
それを持ってきてくれた倉田はこのワークショップの職員で、誰あろう暁斗のことをこのワークショップに紹介してくれた人物だった。
倉田もまた山瀬と同じで暁斗の大学の同期だ。とはいえ、三人とも所属はばらばらで、何故このふたりが自分と仲がいいのかはよく分からない。
大学でも自由人として有名だった山瀬と面倒見のいい倉田は、不愛想で人付き合いが下手くそな暁斗に在学中から何かと構ってくる数少ない相手だった。
もちろん、暁斗が勘当されたとき、連日家に泊めてもらったこともある。その節はずいぶん世話になったとは思っている。
「えー、でも倉田も気になるだろ。オメガちゃんのこと」
「山瀬がしつこく聞くから、鴻上が嫌がって何も教えてくれないんだよ」
「しつこく聞かなくても教えてくれねぇよ。コイツは」
山瀬が倉田に向けて肩をすくめる。
同じアルファである山瀬は、アルファがオメガに向ける執着心を良く知っているのだ。
暁斗は出来れば律のことを誰にも知られなくなかった。けれども、散々迷惑をかけたふたりにだけは、定住先が決まった四年前にその経緯とともに話したことがあった。
当然、暁斗と同じで売れない芸術家としてアルバイトをして日銭を稼いでいる山瀬は、ひどく暁斗のことを羨んだ。暁斗たちにとって、金を気にせず制作に打ち込める環境というのは重要だから、それを叶えてくれる律にも興味があるのだろう。
しかし、アルファというのは独占欲が強い生き物だ。ベータの倉田ならまだしも、同じアルファである山瀬に律を会わせる気は全くなかった。
名前はもちろんとして、彼の話題すら聞かせたくない。
「相変わらずお世話になってんだろ。いいなぁ、会ってみたい」
「絶対、会わせない」
「なんでだよ。別に付き合ってるわけじゃねぇって言ったじゃん」
「会わせるわけないだろ。特に山瀬には」
「はぁ~、彼氏でもないのに心が狭ぇ~」
これだからアルファは、と自分の二次性のことは棚に上げて山瀬は言う。
大袈裟にふざける山瀬に文句を言うのは暁斗の常だが、それを宥めるのは倉田の役割だ。
いつもであれば、このあたりで山瀬を窘める言葉が出てくるはずだった。けれども、今日倉田から出てきたのは驚いた声だった。
「え、鴻上。オメガちゃんと付き合ってないの」
「付き合ってないけど」
「そうなんだ。四年も同棲してるから、俺てっきり恋人なのかと思ってたよ」
感心したように言われて、気まずくなったのは暁斗の方だ。
アルファとオメガが四年も一緒に暮らしていれば、それは同居ではなく同棲だと思われても仕方がない。ベータの倉田からすれば、男女が同居しているようなものなのだ。
「付き合ってないけど、やることはやってんだろ」
「……」
「まじか」
「オメガと同居してて手ぇ出さないアルファなんて、別に番がいるか不能かのどっちかだって」
山瀬の問いに無言を貫くと、それを肯定と取った倉田が絶句する。
しかし、すぐに暁斗の学生時代を思い出したのだろう。そう言えば、鴻上はこういうやつだった、と呆れたように呟いた。
真面目な倉田には、付き合っていない相手とセックスをするという感覚がよく分からないらしい。誘われれば寝る、というそこそこ爛れた学生生活を送っていた暁斗に、昔はそれなりに苦言を呈していた。
「まぁ、ふたりがいいんなら、俺たちが口を出すことじゃないとは思うけどね」
教室の鍵を閉めながら倉田が言う。
「でも、鴻上はオメガちゃんのこと好きなんだろ? ぼさっとしてると別のやつに持っていかれるぞ」
「そうそう。オメガなんてアルファより珍しくて、それだけでモテるんだからさ。オメガちゃんみたいに健気で尽くす系なんて最高だし」
倉田の真摯な忠告に乗っかって、山瀬がそんな適当なことを口にした。
けれど、暁斗の耳には山瀬の声はあまりよく聞こえなかった。何故ならば、その直前に倉田が言った言葉が頭の中で響き渡っていたからだ。
――好き?
誰が、誰を。
倉田の言葉に暁斗が瞬いていると、それを見て倉田が再びひどく驚いた顔をした。
「え、鴻上、そこから?」
「はぁ~、想像以上に情緒が赤ちゃん」
山瀬が呆れたように言って、頭を掻く。どうやら珍しく彼も驚いているらしい。
「鴻上、だって好きでもない相手と一緒には暮らせないだろう?」
「そうそう。それで家に泊めてくれるっていう女の子たち、全部断ってたじゃん」
「……あれは、なんか嫌だったから」
「鴻上、わりと人嫌いなのにオメガちゃんとはずっと一緒に暮らせてるだろ。その意味をちゃんと考えた方がいい」
倉田の言うとおり、暁斗は人が苦手だった。人嫌いと言ってもいいかもしれない。
自分に無関心で兄だけを可愛がっていた両親は、兄がベータだと分かった瞬間兄を無視し冷遇した。それが暁斗が九つのときだ。
幼かった暁斗はその手のひら返しが心の底から恐ろしいと思ったし、両親がひどく醜いものに見えた。まだ成長途中の柔らかい心に植え付けられた人への不信は、暁斗が成長するにつれて大きくなった。
二次性がアルファと分かってからは、周囲の人間も信頼できなくなった。こちらの顔色を窺うような態度が気持ち悪かった。相手の持つステータスによって態度を変える人間を、幼くして暁斗は見すぎていたのだ。
人は醜くて恐ろしい。
他人と必要以上に関わりたくないし、信用できない。
幼い頃からそういう価値観で生きて来た。
絵に夢中になったのは、そんな環境で育ったからかもしれない。
自分の殻にこもって、誰にも邪魔をされずに自分だけの世界を描ける。そこでようやく暁斗は自由に息が出来た。
それでも数少ない友人がいて、それなりに対人関係も築けていると思っていた。
けれども、暁斗には「人を好きになる」という感覚がよく分からない。
若い身体は相応の欲を抱くから女を抱いたことはあるが、そこに気持ちなんてものは存在しなかった。一度肌を重ねて、それでお終い。二回以上関係を持つと面倒くさくなることは経験済みだったので、同じ相手を二度抱いたことはなかった。
例外は律だけだ。それでも、暁斗には自分が律へ向けている感情が一体どういうものなのかを理解出来なかった。
律のことは可愛いと思うし、彼がいないと自分はきっと生きていけない。
これが、好きということなのだろうか。
呆けたように言えば、倉田が慰めるように暁斗の背中を撫でた。
「好きかどうかは自分で決めることだけど、そんな難しく考えなくていいんじゃない。相手のことが可愛いなとか、旨いもの食べたときに食べさせてやりたいなとか、ふとしたときにそう思うだろ。好きって、そんな簡単なことだよ」
「そうそう。俺は皿が上手く焼けたときに、真っ先に見せたいと思うような相手のことだと思う」
「山瀬が珍しくまともなことを」
「鴻上だって、完成した絵を一番にオメガちゃんに見せたいと思うだろ」
言われて、暁斗はああ、そうか、と思った。
確かに山瀬の言う通りだったからだ。
暁斗が全身全霊で描き上げた絵を一番に見て欲しいと思うのは律だ。
色をキャンバスに乗せるたびに、無意識のうちに暁斗は律を想っている。この絵が完成したら、律はどんな顔をするだろうか。喜んでくれるだろうか。
そう思うから、命を削るように絵を描いている。
律に出会う前、絵は暁斗にとって、たったひとつ世界と自分を繋ぐための縁だった。
絵があればそれだけでよかった。けれど、今ではそんな感覚はもう思い出せなくなっている。
律がいなければ、きっと絵すら描けない。
気づいてしまえば、それはとても簡単なものだった。
暁斗は律のことが好きなのだ。いや、好きという言葉だけで片づけるには、この感情は少々重すぎるような気もした。
倉田が、好きならちゃんと態度で示した方がいい、と言った。
「ちゃんと……」
「日頃の感謝を伝えるとか?」
「オメガちゃんが喜ぶことしてみたら?」
ふたりからのアドバイスを元に、暁斗は思案する。
律は暁斗が絵を描けばそれだけで喜んでくれる。けれども、それではいつもと変わらない。
思えば、あれほど律に依存しているくせに、暁斗は何をすれば律が喜ぶのかなんて今まで考えたこともなかった。
律が何を好きで、何を喜ぶのか。
ただ彼のそばで絵を描いていただけの四年間では、何も知ることが出来なかったのだ。
無言で考え込んでしまった暁斗に助け舟を出してくれたのは倉田だった。
「うーん。じゃあ、とりあえず夕飯でも作ってみたら? 家事全般、オメガちゃんがやってくれてるんだろ」
俺の彼女はそれで喜ぶよ、と言われて、暁斗は頷いた。
――そうか。律を手伝えば、律は喜ぶのか。
確かに律は朝から夜遅くまで働いている。帰ってくるのは毎日日付が変わる前で、それから食事の支度をしてくれるのだ。もし、律が帰ってきたときにすでに夕飯があったら、彼はどう思うだろうか。少なくとも、嫌がったりはしないだろう。
それに幸いなことに僅かではあるが、現金が手元にあった。先ほど貰った、今日の給料だ。
料理を作ってみることをふたりに伝えると、山瀬が首を傾げた。
「鴻上、料理なんか出来んの?」
「したことない」
「わはは、こりゃ前途多難だな」
そう笑いつつも山瀬は買い物を手伝ってくれた。倉田からカレーなら初心者でもなんとかなるんじゃないか、とアドバイスをもらったが、暁斗にはその材料すら分からなかったのだ。
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