あなたの糧になりたい

仁茂田もに

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 鴻上暁斗が篠田律と出会ったのは、大学の学園祭でのことだった。

 毎年、秋に開かれる学園祭は芸術大学に通っていた暁斗にとって、一年を通して作って来た作品を自分たちの好きな形で発表できる文字通り、お祭りのようなものだった。
 その当時の暁斗は油絵を専門に学んでいて、当然学園祭で展示するのは油絵の具で描いた絵画だ。

 その日、暁斗がその場にいたのは本当に偶然だった。
 展示室として使われている各教室にひとりずつ配置される監視員は、油絵コースの学生が持ち回りで担当していて、そのときたまたま暁斗が監視員を務めていたのだ。

 律に声をかけたのは暁斗の方からだった。
 別に律の容姿が気に入って声をかけたとか、連絡先を知りたかったとか、そういう意図ではなかった。

 単純に気になったのだ。ものすごく。
 というか、あのときの律を見れば、誰だって気になるに決まっている。

 だって、自分が描いた絵の前で号泣しているのだ。
 他人にさして興味を持たない暁斗ですら、この人どうしたんだろう、と思ったし、強く興味を引かれた。引かれすぎて、その泣きすぎて真っ赤になった顔に汚れたタオルを差し出してしまったくらいだ。

 タオルに油絵の具が付いていることに気づいたのは、律の涙をそのタオルで拭ってからのことだった。綺麗な白い頬に、まだ乾いていなかった緑色の絵の具が付いた。

 それに気づいて慌てたのは周りの学生で、けれど当の律は何が面白かったのか声を上げて笑っていた。

 涙で濡れた大きな瞳が楽しげに弧を描く。眩しいほどのその笑顔が可愛くて、そのとき暁斗は初めて人間を描きたいと思った。

 だから連絡先を聞かれても素直に教えたし、その後度々来る律からのメッセージに珍しくちゃんと返事をしていた。おそらく律は知らないだろうが、他人に全く興味を抱かない暁斗にとって、それは特別以外の何物でもない対応だった。

 律は可愛い。
 就職が決まったと嬉しそうに報告してきたときも、わざわざ卒業制作を見に来てくれたときも、屈託なく笑う律を暁斗は可愛いと思っていた。

 暁斗にとって大切だったのは絵を描くことだったけれど、その次くらいに律のことは気に入っていた。

 律は煩わしくなくて、うるさくも無い。これまでの暁斗にとってオメガやベータの女のことは、自分のことばかり押し付けるとても面倒な存在だった。けれども律は全然違ったのだ。

 暁斗の見た目や実家にばかり興味を示すやつらとは全く違う。そもそも律は暁斗自身よりも暁斗の描く絵に関心があるようで、暁斗との会話の内容はいつだって絵についてのことだった。

 自分勝手で押しつけがましく、利己的な両親に育てられた暁斗にとって、その距離感はひどく心地よかった。他人と関わることは苦手だったけれど、律だけは一緒にいると息が楽になる存在だったのだ。

 その上、暁斗にとって律はとんでもなく都合がよかった。



 大学卒業を目前にして暁斗は実家を勘当された。芸術大学への進学を許してもらう条件だった実家の経営する会社への就職を拒否したからだ。

 暁斗の両親は暁斗のことを愛してくれる存在ではなかった。元々、跡取りとして期待されていたわけでもない。それなのに彼らが暁斗が跡取りだと言い出したのは、長男である兄の二次性がベータだったからだ。

 アルファ至上主義の実家において、跡取りはどうしてもアルファでなければいけなかったらしい。兄はベータではあるが、絵しか描けない暁斗よりもよっぽど優秀な人物だった。それなのに両親は、そんな兄を置いて暁斗を無理やり跡取りにしようとするのだ。

 絵も今後一切描くなと言われた。そんなの耐えられるはずがない。

 家には帰らない。会社にも就職しないと言えば、当然のことながら両親は烈火のごとく怒り狂った。借りていたマンションを追い出され、仕送りも止められた。

 不幸中の幸いだったのは、暁斗が勘当されたのは四年生の二月のことで、大学の学費は全て納金された後だったことだろう。大学に在籍していた三月の終わりまでは教室で寝泊まりし、何とか卒業制作を完成させることが出来た。

 卒業後は数少ない友人の家々を転々としていた。彼らは暁斗に同情的だったが、友人たちとて暁斗と状況はあまり変わらない。みな就職したての社会人一年目であったり、もしくは売れない芸術家としての一歩を踏み出したばかりだったり。

 つまるところ、自分の生活に精一杯で金がなかった。出て行けとは言われなかったが、それでもあまり長く居着くわけにも行かず、暁斗の宿はあっという間になくなってしまった。

 気に入ってはいるがさして親しくはない。そんな間柄の律に連絡したのは、あのときの暁斗が本当にぎりぎりだったからだ。

 ネットカフェに寝泊まり金もなくなり、そろそろスマホも解約しなければいけない。たぶん、いや間違いなくあと三日もすれば暁斗は路上で生活するしかなくなるだろう。

 それくらい追い詰められていたときに、もうどうしようもなくて暁斗は律にメッセージを送った。スマホを解約して連絡が取れなくなる前に、一度律の顔を見ておきたいという気持ちもあったのだと思う。

 その日の食事を食べさせてくれて、数日家に泊めてくれればと思っていた暁斗だったが、暁斗の現状を知った律は驚くような提案をしてきた。

 ――狭いし古いけど、それでもいいならうちに住んで欲しい。

 その上、絵を描くための金銭的な支援もしてくれるという。
 律の家は彼の言うとおり、お世辞にも綺麗とは言い難くて、彼の生活にあまり余裕がないことは見ただけで分かった。
 きっとここで自分が頷けば、律の負担になることは分かっていた。

 けれどもそのときの暁斗に選択肢はなかった。いや、あるにはあったがその二択が律の世話になることか、路上で生活することだったのだ。

 断ることが出来ず、暁斗が律の申し出を受け入れると律は嬉しそうに微笑んだ。
 その裏表がない笑顔を見て暁斗は律のことを可愛いな、と思った。

 律は可愛い。本当にかわいい。
 丸い頭と大きな瞳。鼻と口は小さくて、顎と首は驚くほど細い。
 人を描くのが嫌いな暁斗が、律だけは描きたいと思うくらい律は可愛い。

 しかも律は、住む家がなくて困っていた暁斗を拾って住まわせてくれただけではなく、身の回りの世話を焼いて生活費まで出してくれた。挙句の果てに、溜まった性欲の発散まで付き合ってくれるのだから始末が悪い。

 初めて身体を重ねたのは、律と暮らし始めてひと月がたった頃。梅雨が終わり、本格的な夏が始まった季節のことだ。

 その日、暁斗は律の家に来て以来取り掛かっていた一枚の絵を完成させた。落ち着いた場所で思い切り描くのはひどく久しぶりで、暁斗は製作に夢中になってしまった。

 描くことに夢中になると暁斗は寝食を忘れる悪い癖がある。食事をとらず眠ることもせず、ただ一心不乱に絵を描いて、それが完成したとき暁斗の精神はひどく昂っていた。

 けれど、おそらくそれはきっかけにすぎなかった。たぶん暁斗はずっと律をそんな目で見ていたし、ずっと触れたいと思っていたのだ。

 律の細くてしなやかな身体を組み敷くと、彼は甘い声で鳴いた。抵抗なんて全くなくて、むしろ律はその身体で暁斗のことを柔らかく包み込んでくれた。

 それ以来、暁斗はたまに律を抱く。
 けれども自分たちは恋人ではなかった。

 そもそも、まともな恋愛をしたことがない暁斗には恋人とはどういうものなのか分からない。しかし、少なくとも自分たちの関係がそれに当てはまらないだろうということは何となく理解していた。

 律は暁斗に何も求めない。
 金銭的ものは当然として、誠実さすら求めないのだ。そんな関係は恋人とは到底言えないだろう。

 同居当初、ベータの女の誘いに気まぐれに乗ったことがあった。女は自らの痕跡をわざと残す生き物だし、暁斗はわざわざそれを隠すような気づかいが出来るわけではない。

 一緒の家に住んでいるから外泊したことは隠しようもなかったが、朝帰りをした暁斗に律は何も言わなかった。

 知らない女とホテルにいたことは察しているはずだ。それなのにあまりにもあっさりとした様子でおかえり、と笑うから、その執着心のなさに暁斗の方が傷ついたくらいだった。

 それ以来、暁斗は律以外を抱いてはいない。
 そのことを律が理解しているのかは分からないし、抱いたところで律は気にしないと思うのだけれど、律以外を抱きたいとは思えなくなっていた。

 暁斗は昔から絵を描くことが好きだった。
 絵さえ描いていられれば、自分は生きていける。ずっとそう思っていた。

 しかし、最近では絵だけでは生きていけないだろうと気づいてしまった。
 暁斗はきっと律がいなければ、生きていけない。

 律の存在は、暁斗にとって空気のようにそこにあるのが当たり前で、なくては生きていけないものだ。人が生きる上で必ず酸素を必要とするように、暁斗には律が必要だった。

 律がいなければ暁斗は、きっと息すら出来ずに死んでしまうだろう。



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