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第三十六話 未練 -2
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ルインを一瞥して、ヴィクトルは満足そうに眼を細めた。しなやかな腕が肩に回って、抱き寄せられる。抵抗する隙すらない、なんとも自然な動きだった。
「君がこのまま戻って来なかったら、私がルインと結婚しようかなって話だよ」
ヴィクトルが言った嘘とも本気ともとれる言葉に、今度はルインが声を上げた。
「はぁ!?」
「そんなに驚くこと? だって、君はもう待たないんだろう?」
「それは……」
そうですけど、と口の中だけで呟くと、ヴィクトルは満足そうににんまりと笑った。
「出撃したまま帰らなかった親友の大切な恋人を、私が責任もって幸せにしてあげようって話じゃないか。これ、なかなかの美談じゃない?」
「ヴィクトル、お前……!」
気色ばむシグルドが、ヴィクトルの胸元を掴んだ。
傍から見るとシグルドの行動は立派な軍機違反だったが、彼らは気の置けない友人同士である。気分を害した様子もなく、笑いながらヴィクトルはシグルドの手首をつかみ返した。
「死んだら何にもならないんだ。戦場で簡単に人は死ぬ。それは後方で指揮を執っている私よりも前線で戦う君の方がよく分かっているだろう。どれほど生きたいと思っても死んでしまうときだってある。けれどもね、最初から生きることを諦めている男に、彼は勿体ないと思わないか」
――生きて帰ってこい。
そう強く言ったのは、ヴィンターベルク城塞の最高司令官ではなかった。
このときのヴィクトルはただシグルドの友人だった。おそらく、彼は士官学校時代からずっとシグルドの危うさを知っていたのだろう。
夢に引きずられて生き急ぐような飛び方をするシグルドは、いつ死んだっておかしくなかったはずだ。
いつになく真剣なヴィクトルの言葉に、何を思ったのだろうか。
ぐっと唇を噛みしめたシグルドは、乱暴な仕草でヴィクトルの服を離した。そのままルインの腕を掴んで、ぐいぐいと足を進める。
「シグルド……ッ」
司令室から続く廊下を進み、狭い階段を下りていく。
石造りの城塞はところどころかがり火が焚かれてはいるが、やはり人通りの少ない場所は薄暗かった。
「ルイン……」
緩やかに螺旋を描く階段の途中で、ようやくシグルドは立ち止まった。
城塞の北端に位置する指令室の周辺は、一般の兵士は滅多に足を運ぶことはない。決まった時間に巡回する警邏の兵士も、今の時間帯にはいないはずだ。
振り向いたシグルドは、ひどく苦しそうな顔をしていた。
けれどもそれは、ヴィクトルが言ったとおり指令室を出てきたときのシグルドよりもずっと生気のある表情だった。
「俺は、死にに行くあなたを待つつもりはないけど。あなたが絶対に帰って来るっていうなら、少しだけ待ってもいいです」
愛している。だから絶対に帰ってきて欲しい。
それが難しいことは分かっているけれど、どうしてもそう願わずにはいられなかった。
「これまで、たくさんの命を奪って来たんだ」
「はい」
「空を飛ぶのは守るためで、殺すためじゃない」
「はい」
「そう、自分に言い聞かせても結果は何も変わらない。俺は人殺しで、俺が殺した人たちはみんな、きっと今の俺みたいに絶対に帰りたいと思っていたはずだ」
「……そうですね」
シグルドはアーベントに騎乗できるたったひとりの竜騎士だ。
誰よりも速く飛び、縦横無尽に空を駆ける。
誰よりも強いが故、常に最前線にいて、誰よりも敵と相対する機会が多かった。
それでも今彼が生き残っているということは、出会った敵を全て撃墜してきたからだ。
殺さなければ殺される世界で、優しい彼はこれまでどれほどその心を殺してきたのだろうか。フェリを探すのと同時に、シグルドはいつだって自分の死に場所を探しているような飛び方をしていた。
彼の中にある罪悪感を、癒す方法をルインは知らない。――けれども。
「俺だけ、生きたいなんて言えるはずがない」
「そんなことはないです」
今にも泣きだしそうなその青い瞳に、ルインはそっと手を伸ばす。右目は包帯で隠れているから、触れたのは左目だ。薄い瞼をなぞるように辿って、眦を擦った。
「誰だって死にたくないに決まってる。あなたがそう思うのは、当たり前のことだ」
「それでも、俺は死ななければ」
「そりゃ、生きてりゃ死にますよ。いつかね。でも今じゃない」
これから何十年と生きて、うんざりするほど一緒に過ごしてもらわなくては困る。「フェリ」が望んだ叶わなかった未来を、このときルインは初めて願った。
「あなたは確かにたくさんの敵兵を殺したんだろうと思う。その数だって、俺が想像してるよりもずっと多いんだろう。でも、その数だけ俺たちは守られたんだよ」
シグルドが人を殺したのは、味方を守るためだ。ルインがシグルドに命を救われたあのとき、彼が引き金を引かなければ死んでいたのはルインだった。
「俺は、あなたの『未練』になりたいよ……」
――優しいあなたが、生きたいと思えるように。
シグルドの胸に額をつけて、ルインは俯いた。
ヴィンターベルク城塞から六騎の竜が飛び立ったのは、それから間もなくのことだった。
それぞれ傷ついた身体を押し、竜たちは月のない夜空を滑るように飛んでいく。あっと言う間に見えなくなっていく竜の姿を見送って、ルインはただひたすら祈っていた。
黒い翼で舞い上がった竜騎士が無事に帰ってくるように、と。
―――――――――――――――――――――――
最後の一文を追記しました。(2023/4/29)
「君がこのまま戻って来なかったら、私がルインと結婚しようかなって話だよ」
ヴィクトルが言った嘘とも本気ともとれる言葉に、今度はルインが声を上げた。
「はぁ!?」
「そんなに驚くこと? だって、君はもう待たないんだろう?」
「それは……」
そうですけど、と口の中だけで呟くと、ヴィクトルは満足そうににんまりと笑った。
「出撃したまま帰らなかった親友の大切な恋人を、私が責任もって幸せにしてあげようって話じゃないか。これ、なかなかの美談じゃない?」
「ヴィクトル、お前……!」
気色ばむシグルドが、ヴィクトルの胸元を掴んだ。
傍から見るとシグルドの行動は立派な軍機違反だったが、彼らは気の置けない友人同士である。気分を害した様子もなく、笑いながらヴィクトルはシグルドの手首をつかみ返した。
「死んだら何にもならないんだ。戦場で簡単に人は死ぬ。それは後方で指揮を執っている私よりも前線で戦う君の方がよく分かっているだろう。どれほど生きたいと思っても死んでしまうときだってある。けれどもね、最初から生きることを諦めている男に、彼は勿体ないと思わないか」
――生きて帰ってこい。
そう強く言ったのは、ヴィンターベルク城塞の最高司令官ではなかった。
このときのヴィクトルはただシグルドの友人だった。おそらく、彼は士官学校時代からずっとシグルドの危うさを知っていたのだろう。
夢に引きずられて生き急ぐような飛び方をするシグルドは、いつ死んだっておかしくなかったはずだ。
いつになく真剣なヴィクトルの言葉に、何を思ったのだろうか。
ぐっと唇を噛みしめたシグルドは、乱暴な仕草でヴィクトルの服を離した。そのままルインの腕を掴んで、ぐいぐいと足を進める。
「シグルド……ッ」
司令室から続く廊下を進み、狭い階段を下りていく。
石造りの城塞はところどころかがり火が焚かれてはいるが、やはり人通りの少ない場所は薄暗かった。
「ルイン……」
緩やかに螺旋を描く階段の途中で、ようやくシグルドは立ち止まった。
城塞の北端に位置する指令室の周辺は、一般の兵士は滅多に足を運ぶことはない。決まった時間に巡回する警邏の兵士も、今の時間帯にはいないはずだ。
振り向いたシグルドは、ひどく苦しそうな顔をしていた。
けれどもそれは、ヴィクトルが言ったとおり指令室を出てきたときのシグルドよりもずっと生気のある表情だった。
「俺は、死にに行くあなたを待つつもりはないけど。あなたが絶対に帰って来るっていうなら、少しだけ待ってもいいです」
愛している。だから絶対に帰ってきて欲しい。
それが難しいことは分かっているけれど、どうしてもそう願わずにはいられなかった。
「これまで、たくさんの命を奪って来たんだ」
「はい」
「空を飛ぶのは守るためで、殺すためじゃない」
「はい」
「そう、自分に言い聞かせても結果は何も変わらない。俺は人殺しで、俺が殺した人たちはみんな、きっと今の俺みたいに絶対に帰りたいと思っていたはずだ」
「……そうですね」
シグルドはアーベントに騎乗できるたったひとりの竜騎士だ。
誰よりも速く飛び、縦横無尽に空を駆ける。
誰よりも強いが故、常に最前線にいて、誰よりも敵と相対する機会が多かった。
それでも今彼が生き残っているということは、出会った敵を全て撃墜してきたからだ。
殺さなければ殺される世界で、優しい彼はこれまでどれほどその心を殺してきたのだろうか。フェリを探すのと同時に、シグルドはいつだって自分の死に場所を探しているような飛び方をしていた。
彼の中にある罪悪感を、癒す方法をルインは知らない。――けれども。
「俺だけ、生きたいなんて言えるはずがない」
「そんなことはないです」
今にも泣きだしそうなその青い瞳に、ルインはそっと手を伸ばす。右目は包帯で隠れているから、触れたのは左目だ。薄い瞼をなぞるように辿って、眦を擦った。
「誰だって死にたくないに決まってる。あなたがそう思うのは、当たり前のことだ」
「それでも、俺は死ななければ」
「そりゃ、生きてりゃ死にますよ。いつかね。でも今じゃない」
これから何十年と生きて、うんざりするほど一緒に過ごしてもらわなくては困る。「フェリ」が望んだ叶わなかった未来を、このときルインは初めて願った。
「あなたは確かにたくさんの敵兵を殺したんだろうと思う。その数だって、俺が想像してるよりもずっと多いんだろう。でも、その数だけ俺たちは守られたんだよ」
シグルドが人を殺したのは、味方を守るためだ。ルインがシグルドに命を救われたあのとき、彼が引き金を引かなければ死んでいたのはルインだった。
「俺は、あなたの『未練』になりたいよ……」
――優しいあなたが、生きたいと思えるように。
シグルドの胸に額をつけて、ルインは俯いた。
ヴィンターベルク城塞から六騎の竜が飛び立ったのは、それから間もなくのことだった。
それぞれ傷ついた身体を押し、竜たちは月のない夜空を滑るように飛んでいく。あっと言う間に見えなくなっていく竜の姿を見送って、ルインはただひたすら祈っていた。
黒い翼で舞い上がった竜騎士が無事に帰ってくるように、と。
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最後の一文を追記しました。(2023/4/29)
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