82 / 102
第九章《赫姫と国光》
【一】
しおりを挟む
滴る血が地面に色をつけた。
何が起こったのか、瞬時に理解はできなかった。
苦しげに呻く弥生の腹に刺さった小刀を握りしめる人物──レンの存在を前に、紅子は青い顔で立ち尽くす。
「……なぜ、どうして、弥生様を……?」
「なぜって問いかけて、絶対に相手は答えてくれるのかい?お姫様」
嫌味たらしく振り返った彼女に、紅子は怯む。
「君は、いいよね。いつだってどこだって、君が愛される。君が選ばれる」
その声に嫌悪感はなかった。
妬み、嫉みを口にしてはいるものの、その口調はひどく柔らかい。悟った人間でいるかのような口ぶりだ。
「だけどわかるんだ。君みたいなまっすぐな人、そういない。だから憧れるし、守ってあげたくもなる。わかってる。だけど私はそうなれない。だからずっと、私は振り向いてもらえない」
わかってるんだ、と彼女は繰り返す。
切れ長の目が寂しげに細められた。手元と哀愁漂う表情がリンクしない。
──それになんだか、さっきから話が噛み合わない気がする。
いま、このときの話ではないような語り方だ。
すくみそうになる足を無理に一歩前へ踏み出し、
「……どうして、ノアと弥生様を刺したのですか」
「君に絶望してもらいたいって思ったからっていうのもなくはないけど、それだけじゃない。そうだな……理由を教えたら、おとなしくしてくれるのか?」
決まった答えを促すように、レンは目を細めた。その仕草には覚えがあった。髪は伸びたし、口調も、まとう雰囲気もちがう。
──けれど……。
「桜さん、もうやめてよ」
気丈に振舞おうとするも、視界が勝手にぼやける。声がかすれてしまう。
かつての塾生で友人の桜は、見た目こそ冷たく映ることが多かったが、面倒見がよく、他人に思いやりをもてる人間だった。彼女の雰囲気にもその優しさは現れていて、自然と人が集まった。
レンは、薄く笑いながら言った。
「なんだ。友人だったの」
吐かれた言葉の意味がわからず、紅子は唇を震わせる。
「変な感じがするなと思った。そういうことだったのか。だから君を心の底から憎むことができなかったんだ。なるほど、この子にとって君は、心の拠り所の一つだったんだね」
「……この子?」
嫌な予感に胸が軋む。
絶望を望むように、レンは晴れやかな顔で、
「君の友人は、もうだいぶ前に死んでるよ」
弥生に突き立てた小刀を引き抜いた彼女は、瞬きの合間に紅子に寄る。
すぐそこに、瞳がある。
仄暗く、惹き込まれるような瞳が。
その目の奥に、桜ではない、なにかが見えた。
「……蓮の君──?」
紅子の声だが、紅子の記憶ではなかった。
もっと以前の、もっと古い記憶。紅子として生まれる前の記憶が目の裏を駆けた。
「やっぱり覚えてるんだ。お久しぶりですね、紅姫様」
蓮の君──かつて、曾祖父の弟である国光の妻だった女の呼び名だ。
御簾の先にいる彼女は、俳句を嗜み、ときに琴を奏でてと、風流で、当時はこれ以上ないとされた貴族の娘。位と美貌、加えて謙虚な性格を併せ持つ彼女は、領主の嫁候補の筆頭だった。
しかし赫姫というイレギュラーな存在の登場により、彼女は次男の嫁となった。
そしてその次男もまた、そのぽっと出の女に執着した。
誰にも肯定されない初めての経験に、蓮の君は耐えきれずに自殺した。それでも長男次男ともに彼女を省みることはなかった。
「私は死んでもずっとずっとこの地に、あの人たちに縛られていた。なにを呪っていたのか、なにを望んでいたのか、全てを忘れていたというのに。だけど私の前に、この子が現れた」
つと、自分の胸に手を滑らせる。
「この子が初めて私を見つけて、手を握ってくれたんだ。そして、もう戻れない身体を私にくれた。まさか私も入れるだなんて思わなかったからびっくりしたよ。けど……あの子は、なんとなくわかっているような口ぶりだった。なんでかは、知らないけど」
言葉を切ったレン──否、蓮の君は儚い笑みを浮かべた。
その表情をしまい、パチリと手を合わせた。
「さて、無駄話はおしまい。君以外にも逝かせなきゃいけない人たちがいるんだ。だからあんまり抵抗しないでほしいな」
シャン、と風を切る音がした。
間一髪、右に避ける──も、かわしきれなかった左肩に赤い一線が入った。
けれど鈍い痛みすら感じない。むしろ高揚感がある。感じたことのある、危険な高揚感。意識がだんだん遠のいて、誰かが代わりに口を開く感覚。
任せてしまえば、楽になる。
「蓮の君は、……随分、お変わりになったのですね」
ギリ、と唇を噛む。
柔いそこが切れて、鉄の味を舌にのせた。
「お淑やかから随分離れてらっしゃるじゃないですか。いったいなにがあったのです?」
「なにもないよ。正体を隠すためってだけだもの。まぁでもこっちの姿の方が気楽ではあるけどね」
「正体を?」紅子の声に疑問が混ざる。
「私の正体をあの人が知ったときの反応が怖くてね。まったく別の人間のふりをしてるってわけだよ」
恐怖を感じている、というよりは、傷つくのを避けているような──そんな気がした。
「……貴方、国光様を好いてらっしゃるんですね」
相対する蓮の君の目が見開かれ、やがて眉を下げながら微笑した。
溢れ出そうになる思いを口にできない、もどかしさと辛さと、どこか嬉しそうな感情とが女の瞳に宿っていた。
何が起こったのか、瞬時に理解はできなかった。
苦しげに呻く弥生の腹に刺さった小刀を握りしめる人物──レンの存在を前に、紅子は青い顔で立ち尽くす。
「……なぜ、どうして、弥生様を……?」
「なぜって問いかけて、絶対に相手は答えてくれるのかい?お姫様」
嫌味たらしく振り返った彼女に、紅子は怯む。
「君は、いいよね。いつだってどこだって、君が愛される。君が選ばれる」
その声に嫌悪感はなかった。
妬み、嫉みを口にしてはいるものの、その口調はひどく柔らかい。悟った人間でいるかのような口ぶりだ。
「だけどわかるんだ。君みたいなまっすぐな人、そういない。だから憧れるし、守ってあげたくもなる。わかってる。だけど私はそうなれない。だからずっと、私は振り向いてもらえない」
わかってるんだ、と彼女は繰り返す。
切れ長の目が寂しげに細められた。手元と哀愁漂う表情がリンクしない。
──それになんだか、さっきから話が噛み合わない気がする。
いま、このときの話ではないような語り方だ。
すくみそうになる足を無理に一歩前へ踏み出し、
「……どうして、ノアと弥生様を刺したのですか」
「君に絶望してもらいたいって思ったからっていうのもなくはないけど、それだけじゃない。そうだな……理由を教えたら、おとなしくしてくれるのか?」
決まった答えを促すように、レンは目を細めた。その仕草には覚えがあった。髪は伸びたし、口調も、まとう雰囲気もちがう。
──けれど……。
「桜さん、もうやめてよ」
気丈に振舞おうとするも、視界が勝手にぼやける。声がかすれてしまう。
かつての塾生で友人の桜は、見た目こそ冷たく映ることが多かったが、面倒見がよく、他人に思いやりをもてる人間だった。彼女の雰囲気にもその優しさは現れていて、自然と人が集まった。
レンは、薄く笑いながら言った。
「なんだ。友人だったの」
吐かれた言葉の意味がわからず、紅子は唇を震わせる。
「変な感じがするなと思った。そういうことだったのか。だから君を心の底から憎むことができなかったんだ。なるほど、この子にとって君は、心の拠り所の一つだったんだね」
「……この子?」
嫌な予感に胸が軋む。
絶望を望むように、レンは晴れやかな顔で、
「君の友人は、もうだいぶ前に死んでるよ」
弥生に突き立てた小刀を引き抜いた彼女は、瞬きの合間に紅子に寄る。
すぐそこに、瞳がある。
仄暗く、惹き込まれるような瞳が。
その目の奥に、桜ではない、なにかが見えた。
「……蓮の君──?」
紅子の声だが、紅子の記憶ではなかった。
もっと以前の、もっと古い記憶。紅子として生まれる前の記憶が目の裏を駆けた。
「やっぱり覚えてるんだ。お久しぶりですね、紅姫様」
蓮の君──かつて、曾祖父の弟である国光の妻だった女の呼び名だ。
御簾の先にいる彼女は、俳句を嗜み、ときに琴を奏でてと、風流で、当時はこれ以上ないとされた貴族の娘。位と美貌、加えて謙虚な性格を併せ持つ彼女は、領主の嫁候補の筆頭だった。
しかし赫姫というイレギュラーな存在の登場により、彼女は次男の嫁となった。
そしてその次男もまた、そのぽっと出の女に執着した。
誰にも肯定されない初めての経験に、蓮の君は耐えきれずに自殺した。それでも長男次男ともに彼女を省みることはなかった。
「私は死んでもずっとずっとこの地に、あの人たちに縛られていた。なにを呪っていたのか、なにを望んでいたのか、全てを忘れていたというのに。だけど私の前に、この子が現れた」
つと、自分の胸に手を滑らせる。
「この子が初めて私を見つけて、手を握ってくれたんだ。そして、もう戻れない身体を私にくれた。まさか私も入れるだなんて思わなかったからびっくりしたよ。けど……あの子は、なんとなくわかっているような口ぶりだった。なんでかは、知らないけど」
言葉を切ったレン──否、蓮の君は儚い笑みを浮かべた。
その表情をしまい、パチリと手を合わせた。
「さて、無駄話はおしまい。君以外にも逝かせなきゃいけない人たちがいるんだ。だからあんまり抵抗しないでほしいな」
シャン、と風を切る音がした。
間一髪、右に避ける──も、かわしきれなかった左肩に赤い一線が入った。
けれど鈍い痛みすら感じない。むしろ高揚感がある。感じたことのある、危険な高揚感。意識がだんだん遠のいて、誰かが代わりに口を開く感覚。
任せてしまえば、楽になる。
「蓮の君は、……随分、お変わりになったのですね」
ギリ、と唇を噛む。
柔いそこが切れて、鉄の味を舌にのせた。
「お淑やかから随分離れてらっしゃるじゃないですか。いったいなにがあったのです?」
「なにもないよ。正体を隠すためってだけだもの。まぁでもこっちの姿の方が気楽ではあるけどね」
「正体を?」紅子の声に疑問が混ざる。
「私の正体をあの人が知ったときの反応が怖くてね。まったく別の人間のふりをしてるってわけだよ」
恐怖を感じている、というよりは、傷つくのを避けているような──そんな気がした。
「……貴方、国光様を好いてらっしゃるんですね」
相対する蓮の君の目が見開かれ、やがて眉を下げながら微笑した。
溢れ出そうになる思いを口にできない、もどかしさと辛さと、どこか嬉しそうな感情とが女の瞳に宿っていた。
0
お気に入りに追加
13
あなたにおすすめの小説

【完結】内緒で死ぬことにした 〜いつかは思い出してくださいわたしがここにいた事を〜
たろ
恋愛
手術をしなければ助からないと言われました。
でもわたしは利用価値のない人間。
手術代など出してもらえるわけもなく……死ぬまで努力し続ければ、いつかわたしのことを、わたしの存在を思い出してくれるでしょうか?
少しでいいから誰かに愛されてみたい、死ぬまでに一度でいいから必要とされてみたい。
生きることを諦めた女の子の話です
★異世界のゆるい設定です
旦那様、前世の記憶を取り戻したので離縁させて頂きます
結城芙由奈@2/28コミカライズ発売
恋愛
【前世の記憶が戻ったので、貴方はもう用済みです】
ある日突然私は前世の記憶を取り戻し、今自分が置かれている結婚生活がとても理不尽な事に気が付いた。こんな夫ならもういらない。前世の知識を活用すれば、この世界でもきっと女1人で生きていけるはず。そして私はクズ夫に離婚届を突きつけた―。

10年間の結婚生活を忘れました ~ドーラとレクス~
緑谷めい
恋愛
ドーラは金で買われたも同然の妻だった――
レクスとの結婚が決まった際「ドーラ、すまない。本当にすまない。不甲斐ない父を許せとは言わん。だが、我が家を助けると思ってゼーマン伯爵家に嫁いでくれ。頼む。この通りだ」と自分に頭を下げた実父の姿を見て、ドーラは自分の人生を諦めた。齢17歳にしてだ。
※ 全10話完結予定

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません
ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは
私に似た待望の男児だった。
なのに認められず、
不貞の濡れ衣を着せられ、
追い出されてしまった。
実家からも勘当され
息子と2人で生きていくことにした。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
* 4万文字未満
* 完結保証付き
* 少し大人表現あり
転生悪役令嬢に仕立て上げられた幸運の女神様は家門から勘当されたので、自由に生きるため、もう、ほっといてください。今更戻ってこいは遅いです
青の雀
ファンタジー
公爵令嬢ステファニー・エストロゲンは、学園の卒業パーティで第2王子のマリオットから突然、婚約破棄を告げられる
それも事実ではない男爵令嬢のリリアーヌ嬢を苛めたという冤罪を掛けられ、問答無用でマリオットから殴り飛ばされ意識を失ってしまう
そのショックで、ステファニーは前世社畜OL だった記憶を思い出し、日本料理を提供するファミリーレストランを開業することを思いつく
公爵令嬢として、持ち出せる宝石をなぜか物心ついたときには、すでに貯めていて、それを原資として開業するつもりでいる
この国では婚約破棄された令嬢は、キズモノとして扱われることから、なんとか自立しようと修道院回避のために幼いときから貯金していたみたいだった
足取り重く公爵邸に帰ったステファニーに待ち構えていたのが、父からの勘当宣告で……
エストロゲン家では、昔から異能をもって生まれてくるということを当然としている家柄で、異能を持たないステファニーは、前から肩身の狭い思いをしていた
修道院へ行くか、勘当を甘んじて受け入れるか、二者択一を迫られたステファニーは翌早朝にこっそり、家を出た
ステファニー自身は忘れているが、実は女神の化身で何代前の過去に人間との恋でいさかいがあり、無念が残っていたので、神界に帰らず、人間界の中で転生を繰り返すうちに、自分自身が女神であるということを忘れている
エストロゲン家の人々は、ステファニーの恩恵を受け異能を覚醒したということを知らない
ステファニーを追い出したことにより、次々に異能が消えていく……
4/20ようやく誤字チェックが完了しました
もしまだ、何かお気づきの点がありましたら、ご報告お待ち申し上げておりますm(_)m
いったん終了します
思いがけずに長くなってしまいましたので、各単元ごとはショートショートなのですが(笑)
平民女性に転生して、下剋上をするという話も面白いかなぁと
気が向いたら書きますね
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

五歳の時から、側にいた
田尾風香
恋愛
五歳。グレースは初めて国王の長男のグリフィンと出会った。
それからというもの、お互いにいがみ合いながらもグレースはグリフィンの側にいた。十六歳に婚約し、十九歳で結婚した。
グリフィンは、初めてグレースと会ってからずっとその姿を追い続けた。十九歳で結婚し、三十二歳で亡くして初めて、グリフィンはグレースへの想いに気付く。
前編グレース視点、後編グリフィン視点です。全二話。後編は来週木曜31日に投稿します。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる