俺の何気ない日常が少し重くなった。

志賀雅基

文字の大きさ
18 / 20

第18話・走った海

しおりを挟む
 いつもと変わらぬ帰路なのに、何処をどうやって走らせたか記憶もないまま家に到着すると、ガレージには車を入れず停めっぱなしで家の中に駆け込んだ。水槽のある元リビングで今は大和のねぐらと化した部屋に突進する。

「プー助は!?」

 大声を出しながらも既に水槽を覗き込んでいた。プー助は優美でふっくらとした魚体を全体的に白っぽくしていた。今もバランスが取れないのか斜めに泳ぎ、それでも大和を認めたらしくガラス蓋の切り欠きまで泳いでくる。

 そんな仕草の間にも何度かガラス面に体側を擦るようにぶつけていた。
 お蔭であんなに透明で瑕ひとつなかったヒレは幾重にも裂け、破れ欠けてさえいた。

「プー助、いいからさ、プー助、じっとしていろ」

 それでもプー助は大和に対して弱々しくも水をピューピューと吹いて見せる。

 情けないなどと思う余裕もなく大和は涙ぐみながらクリルを半分に割って与えた。嬉し気にクリルを吸い込んだプー助だが、一瞬後には呑み込めないのか吐き出してしまう。もう、それを追うこともせず、ただプー助はガラスと海水越しに大和をじっと見つめていた。

「プー助……プーよ、海に還りたいか?」

 返事など無いのを承知で訊いた大和は、立ち上がると急いで車からあれこれと持ち出してくる。まずはクーラーボックスに水槽の水を半分入れ、減った分の海水を水槽に新しくポリタンクから満たした。

 今はヒーターなどで水温調節もしていない時期なのが有難い。クーラーボックスにも少しポリタンクの水を足す。そうして水槽にそうっと両手を差し込むと、いつもの掃除と同じくプー助は大人しく大和の手のひらに載った。

 けれど挙動は同じであれどプー助の魚体は普段よりぬめりが酷かった。
 きっと傷付いた身体を守るための分泌液だ。それとも死んだ魚を捌く時に感じるあの……いや、違う。プー助は俺が海へ連れてゆく。

 どれだけ大和が自分に可能な限り最高の環境を整えてやっていても、あの広い大海原に敵うものはないだろう。

「プー助、海に還ろうな。だから、それまで頑張ってくれ!」

 大和はエアレーションの装置を付けたクーラーボックスの中のプー助に囁くと、ボックスのフタを閉めて金具をロックした。何も言わずに見ていた母が頷いたのに頷き返し、大和は靴を履くと車に飛び乗った。

 助手席の足元にクーラーボックスは置いてある。
 海までの間、ずっと大和はプー助に語りかけていた。

「なあ、プー助。広い海なんだしさ、次は誰にも釣られるなよ」
「好きに泳いで、好きなものを食べたら……治るよな?」
「頼むから、海まで生きててくれよ、頼むよ、なあ――」

 滲む視界をたびたび袖で擦っては確保し、ようやく低い堤防が長く伸びた場所まで辿り着いた。もう大和は涙と鼻水で見られたものではない表情となっていたが、構わず空き地に車を停めると助手席の足元からクーラーボックスを持ち上げる。

 沖に向かって長く伸びた堤防は間遠ながら外灯があって、歩くのに支障ない。

 もし今、プー助の命の火が消えてしまったら。そんな怖さで大和の足取りは早くなる。だがクーラーボックスの水を揺らさないよう慎重だ。

 そして大事なプー助に何度も何度も大和は言葉を掛け続ける。

「ありがとうな、プー助。愉しかったよ、お前がいてくれて――」

 急いだのに堤防の突端に辿り着いてしまったのが惜しくて堪らないような気持ちになった大和だったが、ためらいなくクーラーボックスのフタのロックを解いた。少し離れて背後に外灯があり、ボックスを傾けるとプー助が未だヒレを動かしているのが分かった。

 それでも海水はぬめりで粘性を帯び、プー助自身も白っぽく斜めになっている。
 ここで大和はせめて釣り用の水汲みバケツを持ってきていれば、プー助を静かに海へ還してやれたのにと後悔した。だが仕方ない。

 どうやら満潮らしく水面も近い。ラッキィだ。クーラーボックスの水ごと、ゆっくり流し込んでやれば衝撃も与えずにプー助を海に還してやれるだろう。

 そう思いながらも誰かが背後に立ったのに、ふと気が付いた。こんな時間に夜釣りでもなく大男がしゃがみこんで泣いていれば誰でも不審に思うだろう。見回りの警察官かも知れない。
 それにしてはコンクリートに浮いた砂を踏む音ひとつせず、唐突な出現だったが。

 普段の大和なら飛び上がっていたかも知れないほど本当に静かで気配も薄かった。
 だが不審に思う余裕もない大和に対し、背後から穏やかにかけられた声は聞き覚えのあるものだった。

「何で最期まで看取ってやらないんですか?」

 それはあの青年、金魚屋でパンクロッカーの彼の声だった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

三十年後に届いた白い手紙

RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。 彼は最後まで、何も語らなかった。 その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。 戴冠舞踏会の夜。 公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。 それは復讐でも、告発でもない。 三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、 「渡されなかった約束」のための手紙だった。 沈黙のまま命を捨てた男と、 三十年、ただ待ち続けた女。 そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。 これは、 遅れて届いた手紙が、 人生と運命を静かに書き換えていく物語。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

さようなら婚約者

あんど もあ
ファンタジー
アンジュは、五年間虐げられた婚約者から婚約破棄を告げられる。翌日、カバン一つを持って五年住んだ婚約者の家を去るアンジュ。一方、婚約者は…。

ト・カ・リ・ナ〜時を止めるアイテムを手にしたら気になる彼女と距離が近くなった件〜

遊馬友仁
青春
高校二年生の坂井夏生(さかいなつき)は、十七歳の誕生日に、亡くなった祖父からの贈り物だという不思議な木製のオカリナを譲り受ける。試しに自室で息を吹き込むと、周囲のヒトやモノがすべて動きを止めてしまった! 木製細工の能力に不安を感じながらも、夏生は、その能力の使い途を思いつく……。 「そうだ!教室の前の席に座っている、いつも、マスクを外さない小嶋夏海(こじまなつみ)の素顔を見てやろう」 そうして、自身のアイデアを実行に映した夏生であったがーーーーーー。

悪役断罪?そもそも何かしましたか?

SHIN
恋愛
明日から王城に最終王妃教育のために登城する、懇談会パーティーに参加中の私の目の前では多人数の男性に囲まれてちやほやされている少女がいた。 男性はたしか婚約者がいたり妻がいたりするのだけど、良いのかしら。 あら、あそこに居ますのは第二王子では、ないですか。 えっ、婚約破棄?別に構いませんが、怒られますよ。 勘違い王子と企み少女に巻き込まれたある少女の話し。

つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。 舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。 さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。 リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。 ――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。

処理中です...