最優先事項~Barter.4~

志賀雅基

文字の大きさ
上 下
51 / 61

第50話

しおりを挟む
 たびたび嘔吐に苦しみ解熱剤でも下がらない高熱を併発した霧島は徐々に消耗しつつあった。元々シャープだった頬のラインが削げてきている。
 そんな霧島を前にして京哉は自分の落ち込みを見せず、精一杯の看護をしながら話し相手を務めた。

 入院して十日も経った頃、退院が先延ばしになるかも知れないとナースステーションで言われた京哉は、病室に戻るなり退院後の話として霧島にねだった。

「ねえ忍さん。今度僕を貴方のご実家につれて行って貰えませんか?」
「お前を霧島の本家にか? お前にとっては何ひとつ面白くないと思うがな」
「塩とか撒かれちゃったりするんでしょうかね?」

「いや、皆が揃いも揃ってお上品だからな。それはないと思うが、急にどうした?」
「だって妻としては夫の実家に挨拶くらいしておきたいじゃないですか」
「居心地の悪い思いをしても知らんぞ」
「じゃあつれて行ってくれるんですね? わあ、忍さんと旅行なんて初めてだ!」

 手放しで喜んでみせる京哉を霧島は灰色の目を眇めて見ると、久々に笑みを浮かべる。点滴を刺した右腕を持ち上げて京哉の長めの前髪を指先で嬲った。

 そこで京哉のポケットから振動が伝わる。携帯にメールが入ったらしい。京哉が取り出して操作し読み取るうちに白い顔が曇って霧島も身を乗り出した。

「どれ、【如月咲夜が検察送致の際に逃走。現在行方を捜索中】とは、やられたな」
「今どき脱走なんて……それも女性の身で」
「あれは本物のシリアルキラーだ。危険だぞ」

 気分は極端に重たくなったが入院中の霧島にはどうすることもできない。できない筈だが京哉の見守る前で霧島はベッドから降り、勝手に点滴を止めると針を抜いた。更に左肩を固定していた装具まで外しだす。
 京哉は思わず大声で留めた。

「待って下さい! どうして貴方まで咲夜を捜しに出なくちゃならないんですか!」
「咲夜が狙うとすれば連行した私か、そうさせた富樫だ」
「何を言って……誰を狙うか分からないのがシリアルキラーでしょう!」
「確かにそうだが可能性だ。私は行く」

 思うに霧島は自ら動くためのきっかけを待っていたのだ。こじつけとも思える予断を展開してまで自分の手で富樫を緊逮するきっかけを。
 だが躰も治っていない状態で如月咲夜は非常に危険、手下が取り巻いている富樫は更に危険だった。

 けれど霧島に何らかの決着をつけさせてやりたい気持ちは京哉にもあった。いつかこうなる予感は常にしていたのだ。そうでなくても切れ長の目を煌めかせている霧島を留める手立てがないのは一目瞭然である。
 京哉は長身を見上げて頷いた。

 着替えを手伝い始める。
 マンションから持ってきてあったドレスシャツに袖を通させ、銃入りのショルダーホルスタを装着させた。タイを締めてチャコールグレイのスラックスとジャケットを身に着けさせる。手錠ホルダーと特殊警棒の付いた帯革を締めてやると出来上がりだ。

 京哉も同じく準備を整える。低く静かな声が降ってきた。

「お前もキレる寸前だっただろう。いつ富樫が狙撃されるかひやひやしていた」
「そうでしたか。僕としては桜木さんに頼んだ銃が無駄になるのは残念ですけど」
「気持ちだけ受け取る。だから私に嘘はついてくれるな」

「何も積極的に騙す気はありませんよ。でも貴方に信念があるように、僕にも譲れないものがあるんです。僕が信じるのは貴方、霧島忍だけ。唯一絶対の貴方に手出しされて許す訳にはいきません。これから先も同じです。……じゃあお供します」

 少々固い顔をした霧島と頷き合い、まずは一ノ瀬本部長にメールしてガードの制服警官二名に撤収して貰う。それから病室を出てナースステーションで外出する旨を申し出た。抜糸も終わっているので許可は下りたが明日の朝には戻れと厳命される。

 廊下を辿りエレベーターに乗り込んで京哉が霧島に念押しした。

「あんまり無茶するようなら何があっても退かせますからね」
「ああ。だが可能なら気の済むようにさせてくれ」
「可能な範囲内で気が済むまでどうぞ。背中は任せて下さい」

 エントランスから出ると列を成したタクシーの先頭に乗り込んで霧島が「水明会記念病院まで」と告げる。現在時、十八時二分。天根市内の水明会記念病院に着く頃にはすっかり日が落ちているだろう。

「でも富樫には組対も捜一も張り付いてるんですよね?」
「しかし女だと思って咲夜を舐めていると大怪我をするからな」

 一緒にダンスまで踊った如月咲夜は京哉も覚えていた。身を包んでいた真っ赤なドレスには既に県会議員の娘の血が染み込んでいた筈なのだ。気を引き締める。

 白藤市から天根市内の水明会記念病院は遠く、近所でタクシーを止めた時には十九時をとうに過ぎていた。料金を支払って先に京哉は降りると霧島に手を貸す。
 だが全身の傷の抜糸も済ませた霧島は不調を感じさせない、しなやかな動きで歩道に降り立った。通りの向こうの水明会記念病院へと向かう足取りにも不安はない。

 病院は同輩たちが二人一組で張り込み中だ。出入り口の見える各所に立つ同業者は一瞥して分かる。彼らの職掌を侵すのは御法度で少々離れた場所に二人は立った。

「看護師長さんにどやされますから、ちゃんと今晩中に気を済ませて下さい」

 京哉は釘を刺したが霧島はもう病院のエントランスを見つめて返事もしない。溜息をついて京哉も辺りの人影に目を凝らした。
 病院は二十時まで夜診をしている。次々とエントランスに吸い込まれてゆく患者や見舞客をじっと注視し続けた。

 他の張り込み人員に遠慮して二人が陣取ったのはエントランスから十五メートルほども離れた街路樹の傍だった。歩道を挟んで病院の並びにはコンビニもあり店の軒先には灰皿付きという京哉には有難い環境である。

 同輩たちは割と堂々としたもので霧島と京哉の存在にも気付いていた。張り込みとはいえ富樫側に姿を隠さなくていいのだから当然だ。
 こちらの存在を知りつつ籠城している富樫が粘り負けして出てくるのを警察サイドは待っているのである。
しおりを挟む

処理中です...