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9巻
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◇
あまりの内容に、俺たちは呆れかえり、言葉を発することができなくなっていた。だが、擁彗の話は終わっていなかった。
「私と兄上は事の真偽を天樹国に……センティリオ様に確認するまでは公にはできないと考え、緘口令を敷きました。兄上も、甲竜街衛兵団第一分団の副長に部隊を付け、急ぎ天樹国へ派遣する手はずを整えていたのです。しかし、そんな我々の動きを嘲笑うかのように、アモリッツアが街中で、街にいる妖精族にセンティリオ様のお言葉を伝えると称して、書簡の中身を喧伝してしまいました。しかも、まるで妖精族の者たちを煽るように、『栄えある妖精族の諸君。これまでの屈辱を晴らすときが来た。愚かなる甲竜街の領主はその分を弁えず、センティリオ様のお書きになられた書面を偽書と疑い、詰問状を送ろうとしている。これまで、我ら妖精族に辛酸を嘗めさせてきた甲竜街領主が、自らの言動所業を顧みず、さらにセンティリオ様の御心を踏みにじろうとしている。天樹国に籍を置きし我らが同朋よ! 今こそ天樹のもとに集い、ともに怒りの烽火を上げようぞ!!』と檄を飛ばして。実際、甲竜街を訪れていた多くの妖精族は彼の言に従い、天樹国へと向かいました。もちろん、長年甲竜街に居を構えていた妖精族までついていくことはなかったのですが、公にされてしまった書簡の内容に街民は激怒し、妖精族を見る目が厳しくなっていて……」
沈痛な面持ちを浮かべて言葉を濁す擁彗。
隣に控えていたダッハートが表情を暗くし、話を引き継いだ。
「とまあそのような状況で、妖精族の中でも天樹国の防人として名高いダークエルフ氏族が、それも二人も姿を現したとなれば、街門を護る衛兵が血相を変えるのも仕方あるまい。時期が悪かったと思って許してもらえると助かる。怒るならば騒動を引き起こした天樹国からの使者にして欲しいところじゃな。それはさておき、先程の紹介の中に、響鎚の郷にその人ありと謳われたダンカン・モアッレ殿の名があったようじゃが、儂の聞き間違いかな?」
やはり年の功か、ダッハートは、麗華の苛立ちの矛先を甲竜街からアモリッツアへ変えさせ、話題も変えた。その彼の声に反応して、サビオの背中で横になっていたダンカンが体を起こす。
「ダッハート殿、このようなところから申し訳ない。儂がダンカン・モアッレじゃ。以前は響鎚の郷の鍛冶総取締役をしてきたが、今は郷を捨てた、しがない老鍛冶師じゃ。縁あって驍廣殿と知り合い、ここまで同道させていただいた。それで、妻のエレナより甲竜街から依頼された鑑定の仕事に手間取り、帰郷が遅くなるという手紙が届いたのじゃが、何かご存じありませんかのぉ?」
回復してきているとはいえ、いまだ万全とは言いがたい体調のダンカンではあったが、声を掛けられた機を捉え、甲竜街を訪れた一番の目的を口にした。
ダッハートは、一瞬険しい表情を浮かべたもののすぐに元に戻し、親しい友人に会ったときのように相好を崩すと、ダンカンに大きく両手を上げた。
「おお、そちらにおられたのか! ダンカン殿の名を耳にしたのに姿が見えなかったので、どこにおられるのかと思っておったのだ。それに、こちらの方こそ謝罪を申し上げなければ。随分と長い間エレナ殿を甲竜街に留め置き、申し訳ない。エレナ殿は儂の工房に滞在しておられ、今も甲竜街ギルドの方で精力的に仕事をしていただいておる。実はエレナ殿も、十日ほど前から響鎚の郷に文を出しても返信がなく、ダンカン殿に何かあったのではと心配しておられたのだ。お願いしていた鑑定も今日か明日には目処が付き、終わり次第急ぎ帰ると話しておられたところだったのだ。今日、ダンカン殿から訪れてくださり、本当によかった。数日遅ければ行き違いになるところじゃったわい。擁彗様、積もる話もあると思うが、まずはエレナ殿が仕事をされておられる甲竜街ギルドに向かい、ダンカン殿と引き合わせてはいかがであろうか?」
ダッハートの提案に、擁彗は即座に頷く。
「そうですね、それがいいと思います。では驍廣殿や他の方々はいかがなさいますか? 長旅でお疲れのことと思います。こちらで用意した宿でお休みいただき、後で改めて甲竜街にお呼びした理由をお話ししたいと思うのですが……」
擁彗はそう言ってくれたが、俺は首を横に振った。
「お気遣い感謝いたします。ですが、皆それほど疲れているわけでもありませんし、旅の仲間の目的が一つ達せられる様子を見逃すというのも残念ですから、もしよければ俺たちも甲竜街ギルドに同道させてください」
俺の申し出に、擁彗は嫌な顔一つせず、むしろ満足気に大きく頷いた。
「そうですか。そう言われるのではないかと思っておりました。もちろん、否はありません。ではともにギルドに参りましょう。ご案内いたします」
そう言うと擁彗は俺たちの先頭に立ち、皆を先導するように街門を潜った――
「ほぉ~、これまた立派な街並みだ」
「そうだね、翼竜街は街の中央を貫く天竜通りはあったものの、そこから伸びる支道は結構入り組んでいて、迷路みたいにゴチャゴチャした感じだったもんね。それに比べて甲竜街は整然と並んでいて綺麗だね」
甲竜街のギルドに向かう途中、街並みを見た俺と紫慧は溜息交じりに声を上げた。
甲竜街は、街門を抜け一歩足を踏み入れると、足元には石畳の路が碁盤の目のように東西南北に走り、その路の両側には石造りの家々が建ち並んでいた。
ちなみに、翼竜街の街並みは土壁と木で作られ、豊樹の郷は通りの両脇に花壇のようなものがあり木造の家が立ち並んでいた。響鎚の郷も石造りではあったが、甲竜街はそちらよりも建物の配置が整然としていて、他の郷や街とは趣の違う風情を漂わせていた。
そこへ麗華が、少し拗ねたような声を上げた。
「それは仕方のないことですわ。翼竜街は、人間の国からの侵攻に備えて作られた砦としての機能を兼ね備えているのですから。シュバルツティーフェの森を抜けて侵攻してきた人間の軍勢に、容易に突破されないように形成されているのです。中央の天竜通りさえ閉ざしてしまえば、複雑に入り組んだ支道によって町全体が迷路と化し、侵入者を惑わすことができるのですよ」
それを受けて、擁彗が補足する。
「麗華殿の仰る通りです。翼竜街と甲竜街では全く違う考えをもとに街が作られています。翼竜街が砦なら、甲竜街は街で生産された武具や防具をはじめとする製品を、効率よく天竜賜国内に流通させるために、誰もが道に迷わないように整えられているのです。しかも、生産されたものを運ぶ荷車などが行き交いやすいように道幅を広くし、石畳を敷き詰めているのですから、余計違いを感じるのだと思いますよ」
俺は、そんな二人の様子にピンと来た。
「なるほどなあ。それぞれ街の目的によって街並みが変わるのか。しかし、麗華の説明にさっと補足を入れる擁彗殿の姿がなんとも堂にいっているというか……阿吽の呼吸とでもいうのか。もしかして擁彗殿と麗華は、リリスとルークスのようによく知った仲だったり……?」
少し『下衆の勘繰り』ってやつをしてみると、途端に麗華は頬を赤く染めた。
「な、なにを言い出すのですか! わたくしと擁彗様は、同じ天竜賜国の街を預かる領主の子女という立場上、会う機会が多いだけですわ。その……確かに知り合いではありますが、特に親しいというわけでは……」
しどろもどろで必死に誤魔化そうと言葉を連ねるものの、表情と態度からは少なくとも麗華が好意を持っていることは一目瞭然。しかも、リリスが意地悪そうに笑いながら追い打ちをかける。
「なに言ってるの。同じ領主の子女ってだけでなく、小さい頃からの幼馴染だし、麗華にとって擁彗様は憧れのお兄様だったでしょ。まあ、仕方ないわよね。今は天竜賜国の竜都・竜賜にお出での麗華の二人のお兄様は、ともに非常に活発な悪戯小僧だったし、擁掩様もそれに輪を掛けた傍若無人な人だったでしょ。そんな中、擁彗様だけは物静かで、いつも書物を読んでいて思慮深く、子供の頃に私たちが遊びに行っても優しく接してくれていたから、麗華がほの字になるのも当然と言えば当然かもしれないわね。いつだったか、豊樹の郷でルー君と三人で遊んでいたときに『どうしたら擁彗お兄様ともっと仲よくなれるのでしょうか?』なんて訊ねてきたじゃない。それに擁彗様だって翼竜街を訪れた際に、私が麗華と仲が良いことをどこかで耳にされたのね。わざわざ翼竜街ギルドに訪ねていらして『麗華殿はどのような男子に好意をもたれるのだろうか? 麗華殿に喜んでいただくにはどうしたらよいのだろうか?』とお訊ねになって。両者の心の内を知って、私は随分やきもきしたものよ。でも、麗華が魔獣討伐者を始めるにあたって、ギルド職員として何度も意思の確認をする私に力強く語ったことは、よく覚えているわよ。『わたくしは擁彗お兄様のように皆を諭し導く力はありませんが、幼い頃から鍛えてきた武の力で、お兄様をお守りすることはできるかもしれません。ただ、今のわたくしでは経験が足りない。少しでもお兄様の御力になれるよう、魔獣討伐者として翼竜街の民を護るとともに、腕を磨きたいのです!』ってね♪」
トンデモナイ暴露発言が炸裂し、麗華の顔は溶ける寸前まで熱の入った鉄のように真っ赤になっていた。しかも、リリスの発言を聞いて顔色を変えたのは、麗華だけではない。擁彗も麗華と同じように顔を真っ赤に染めていた。ただし、恥ずかしそうに顔を伏せる麗華と違い、擁彗は堂々と顔を上げて嬉しそうに照れて笑っていた。
「なるほど! ようやく納得したわい。次男とはいえ甲竜街の公子であるのに浮いた話が一つもなく、妻を娶ってもいい年となるのにそういった話を持ちかけられても一向に首を縦に振らなかったのは、そのような理由があったのじゃな。しかし理由が分かってよかった。ワシらの中では、擁彗様は女性に興味がないのではという噂まで出はじめていたのじゃからな。ガ~ハッハッハッハ♪」
豪快に笑いホクホク顔のダッハートに対し、擁彗は苦虫を噛み潰したような渋い顔に変わった。
「ダッハート殿、くれぐれもこの件は内密にお願いいたします。実は……麗華殿とは時期が来たら竜賜におられる父上に相談をしようと話していたのですが、なかなかその機が訪れず、男として情けない限り。とはいえ、このことが下手に兄上の耳に入りますと、厄介なことになりかねません。なにしろ、兄上は麗華殿のお父上である安劉様に対して並々ならぬ対抗心をお持ちですから……」
「分かっておる、分かっておる。なに、擁掩殿もいつも陰に日向に支えてくれておる弟君の幸せを願わぬはずはない。ただあのご気性じゃから、妙なところからこの話を耳にすると、どうされるか分からん。それに、裏であることないこと吹聴する輩が出るとも限らん。擁彗殿が気にかけておられることはこの朴念仁でも理解しておるよ。安心なされよ、今の話は聞かなかったことにしておくわい。じゃが、めでたい話じゃ! 実はこのワシも擁彗殿のことを案じておったのじゃが、幼き頃の想いを大事にし、人知れず育んでおったとは、まことに良い話を聞いたぞ。がっはっはっはっは♪」
厳つい顔を綻ばせて笑い続けるダッハートに、さらに顔を赤くする麗華と渋い顔を崩して笑い出す擁彗だった。
俺たちは擁彗と麗華を冷やかしながら、街門から東西に抜ける大通りを歩いていく。
この大通りはどうやら商店街らしい。この街で生産されたと思われる様々な産物を売る店や、人々の胃袋を満たす食堂、それに街を訪れた商人たちを呼び込む宿などが建ち並んでいる。まさに、天竜賜国の生産拠点として表の顔となる区画だった。
そんな賑やかな街路を通り抜けてさらに進んでいくと、徐々に建物の趣が変わってきた――
「……うん? なんだかこれまでとは違う音が聞こえてきたな」
ルークスの声に導かれるように俺たちの耳に聞こえてきたのは、カンカンと金属を叩く鎚音や、パッタンパッタンいう機織りなどの、働く音だった。
「そう言われてみれば、なんだか段々と騒がしい、活気のある場所になってきたな♪」
「ああ。微かにだが、あちらこちらから鎚の音や物を削る音が聞こえてくる」
「そうですニャ。やっぱり僕はこんな風に『物』が生み出される『音』が聞こえてくる場所に来ると、気持ちが落ち着きますニャ♪」
俺だけでなく、アルディリアや斡利も嬉しそうにしている。
すると、先頭を歩いていたダッハートが俺たちの方へと笑顔を向けた。
「さすがはダークエルフ氏族の若頭を務める御仁じゃ。良い耳をしておられる。もう少しで、甲竜街の心臓部とも言うべき職人街がある区画に入る。そこでは、開け放たれた窓や扉の奥から、甲竜街の者たちの働く姿が見えることじゃろう」
そう言いどこか誇らしげな表情をして、そのまま歩を進めた。
そして、ここからは『職人街』であると伝えるように立つ街灯を通り抜けた瞬間、それまで微かにしか聞こえていなかった鎚音などの作業音がいきなり大きくなった。
あまりの大きさで、耳の良いリリスやルークスはとっさに両手で耳を塞いでしまうほどで、喧騒のような作業音に慣れていない麗華やレアンも驚いた顔をしていた。一方、俺や斡利、ダンカンの三人は、目を輝かせて少し興奮する。そんな俺たちの様子を見て、紫慧とアルディリアと擁彗の三人は苦笑していた。
甲竜街の『職人街』は、木を切り削る音に金属を打つ音、機を織る音など様々な音に溢れている。しかも、働く職人たちが作業音に負けじと声を張り上げてやり取りしている。何も知らずに迷い込んだ者には、喧嘩でもしているのか? 暴動でも起こっているのか? と勘違いをさせるほど騒然としていた。ある意味ではそれほどまで活気に溢れていると言える場所だった。
そんな区画の最も奥に、一目で他とは違うと分かる三階建ての石造りの大きな建物があった。その開け放たれた扉の奥から、男性と女性の言い争う一際大きな声が、俺たちの耳に飛び込んできた。それにいち早く反応したのはダンカンで、
「うん? この声はエレナか、一体どうして怒鳴り合っておるのじゃ?」
と、少し呆れ顔で呟く。そこへアルディリアが追随する。
「エ、エレナ母さんったら、興奮して……でも一体誰と言い争いになっているの? 恥ずかしい……」
少し顔を赤くするといった、これまで見せたことのないアルディリアの表情に、翼竜街からの仲間たちは『貴重なものが見られた!』と、少し驚きつつも感動していた。そんな二人の言葉から、大きな建物の中で大声を上げている一人が、エレナ・モアッレだということが分かった。
一方、俺たちとは違って、肩を落としてゲンナリしているのはダッハートだった。
「またか……全くあの者たちは何を考えているのやら……」
彼は溜息を吐くと、すぐに自らを鼓舞するように深呼吸をした後、足に力を入れて一歩また一歩と地面を踏みしめつつ、問題の建物へ歩を進めた。
「だ、か、らぁ! 何度言ったら分かるのかねえ、この石頭の甲竜人は。そもそも、こんないい加減な精錬をしたミスリル鋼にいくら大量の精霊石を加えたって、望むような効果を得ることなんて無理だって、なんで分かんないのかねえ。しかも『鍛造』ならまだしも、『鋳造』でなんて……あたしゃ呆れてものが言えないよ」
「またそのようなことを! 今、鑑定をしていただいた武具や防具は、遠方より来られた鋳造武防具職人から直接お教えを請い、入手した鋳造法を用いて作られているのだ。その鋳造武具職人は、我らが見ている前で、生み出した長剣で魔獣の灰狼をまるで薄い紙を切るように容易く斬り裂き、さらには断末魔の叫びとともに吐き出した炎までも斬り伏せてみせたのだ! 今まで鍛造武具を至上と決めつけていたが、鋳造でも方法次第で十分に良いものが生み出せるのだと感心させられた。しかも、鋳造法を用いれば鍛造法よりも短い時間で、より多くの武具や防具を生み出せる。今、甲竜街衛兵団では、これまで使っていた旧式の筒袖鎧から、最新の防具である歩人甲へ切り替えを急いでいる。この時期に優れた鋳造法が甲竜街にもたらされたのはまさに天の助け。教えられた鋳造法を用いて製作した武具や防具が間違いのないものだと確証を得るために、エレナ殿に鑑定していただいているのだ。それなのに、武具の良し悪しについて言及せずに、鋳造に用いる金属鋼のことばかりを問題視するとは、一体何を考えておられるのだ!!」
「あ゛~もう何度言ったらわかるんだろうねえ! いいかい? どんな鋳造法だろうと、その大本となる金属鋼が、まともに精錬されていない不純物の多いものだったら、端から駄目なんだよ。わざわざ帰郷する途中に呼びつけといて、いい加減人の話をちゃんと聞きなっ!!」
開け放たれた扉の奥で、唾を飛ばして怒鳴り合う壮年の甲竜人族とドワーフ氏族の女性に、建物内にいる者たちはオロオロするばかりで、二人を止められずにいた。
そんな『修羅場』と言って差しつかえない状況に、俺たちは目を丸くし、ダンカンは額に手をやって嘆息、擁彗は『処置なし』とばかりに肩を落として力なく首を左右に振る。
そして、俺たちを案内した当のダッハートはというと、目の前で行われている狂騒にワナワナと小刻みに体を震わせ――
「いい加減にせぬかこの大馬鹿者が~!!」
言い争いを続ける二人に一際大きな声が襲いかかった。その怒声は周囲の空気を震わせ、開け放たれている扉から入って建物全体を揺らし、職人街中に響き渡ると、それまで鳴り響いていた職人たちの作業音までも沈黙させ、一瞬の静寂をもたらした。だが、ほどなくして『いつものことか』とでもいうかのように再び熱意のこもった作業音が奏でられ、喧騒と活気に溢れる職人街へと戻ったいった。
俺たちがダッハートに案内された建物は、甲竜街のギルドだった。翼竜街では街門からそれほど離れていない、天竜通りからすぐの支道脇に設置されていた。しかし甲竜街では天竜賜国の一大生産拠点という成り立ちから、実際に生産活動を行う職人たちが集まる職人街にあった。
職人街では、武具や防具から、食器類や家具などの木工製品や、各街の衣服へと姿を変える織物まで、天竜賜国で使われている多くのものが生み出されていた。それらは全て、甲竜街ギルドに報告・記録される。ゆえに、産物の品質管理も、甲竜街ギルドの重要な仕事となっているという。
ダッハートはそのギルドで、一職人というだけでなく、長年この街で武具を鍛え、また多くの弟子を育ててきたことから、鍛冶についての相談役という立場にも就いていた。
そんな彼である。持ち込まれた相談事や未熟な鍛冶師の仕事に対して銅鑼声を張り上げるのはよくあることで、職人街の住人にとっては日常茶飯事だった。しかも、つい最近甲竜街ギルドの支配人に新しく秦正路が就いてからは、支配人として未熟な彼に対する叱咤激励であるダッハートの銅鑼声は、もはやギルドの『名物』となっていた。
もちろん正路にとって、それは歓迎すべきもので、甲竜人族とドワーフ氏族と種族は違えど、親子とは言わないまでも、至極円満な関係を築き上げていたそうだ。
――とはいえ、職人街の人たちにとっては『日常』かもしれないが、初めてダッハートの銅鑼声という甲竜街ギルドの洗礼を浴びた俺たちにとっては、非常に堪えがたきものだったわけで……
「うっ……耳が……」
ルークスとリリスは呻き声を上げながら、両耳を手で覆って蹲る。俺は二人ほど辛くはないが、強烈な轟音の一撃にキーンと耳鳴りがしていた。
「……くぅぅぅ。これは、とんでもない銅鑼声だったなあ、耳鳴りがなかなかおさまらないぞ。耳の良いダークエルフ氏族の二人には、この爆音は辛かっただろう」
「驍廣や! 別にリリスとルークスだけが特に辛いわけではないぞ。儂にとってもこれは堪らぬわ。危うく目を回してお主の頭の上から転げ落ちるところじゃったわい」
そうボヤキ、頭を左右に振るフウ。彼の言葉で視線を動かし、アルディリアの足元で腹這いになり、前脚を使って自分の両耳を押さえて悶絶している牙流武の姿に目を奪われていると――
「炎、どうしちゃったの? しっかりして~。大変だよ、驍廣。炎が……炎がぁぁ~!!」
紫慧が悲鳴のまじった声を上げた。慌てて声のする方を見れば、力なくグッタリした炎を両手で抱きかかえた紫慧が、顔を青くしてオロオロしている。俺も、紫慧の呼びかけに応じず目を閉じている炎の姿に焦りを感じ、駆け寄った。しかし、何をどうしていいか分からず、紫慧と一緒にオロオロしてしまう。すると、頭上にいるフウがなぜか感心していた。
「なんじゃ? 炎のやつは。確かにトンデモナイ声ではあったが、目を回して気を失うとは精進が足らんのぉ。紫慧、大丈夫じゃ! 突然の大きな銅鑼声に目を回しただけじゃ。しばらくすれば目を覚ますじゃろう、心配せんでもよいわ。しかし、ドワーフ氏族の怒声は皆大きいものじゃが、ダッハートとやらの声は一段と迫力があるのぉ。響鎚の郷でもこれほどの銅鑼声を上げられる者はそうはおらなんだぞ。ある意味大したもんじゃわい!!」
悠長なことを言うフウに、紫慧は非難の視線をぶつけたが、すぐに気を失っている炎が少しでも早く目覚めるようにとその体を撫ではじめた。
他の仲間たちも痛む耳を庇いながら、炎やリリス、ルークスを心配していたが、この惨状を引き起こした当の本人は、それに気付いていなかった。彼はそのまま口論をしていた二人に近付くと、岩石のような握り拳を振り上げ、やはり銅鑼声を浴びて動きを止めていた彼らに振り下ろした。
そんなダッハートに対して、擁彗は冷たい視線を向けていた。
「……ダッハート殿……」
彼はポツリと呟いただけなのだが、聞いた瞬間、俺の背中に緊張が走った。しかし、ダッハートはそれにも気付くことなく、二人に説教を始めていた。
「まったくお主らは……ワシが顔を出す度に怒鳴り合いをしおって。いい加減折り合いをつけることができんのか? 子供の喧嘩でもあるまいし、互いに協力しあったらどうなのじゃ! まったく……驍廣殿、お見苦しいところに案内してしまい申し訳……いかがなされた?」
説教を終えて振り向いたダッハートの目に飛び込んできたのは、自身が放った銅鑼声に苦しむ者たちの姿と、非難の視線だった。そして――
「『いかがなされた?』ではありませんよ、ダッハート殿。いつも言っているではありませんか。あなたの『声』は尋常ではないのだと……起こしてしまったことは仕方ありませんが、後で少しお話があります。良いですね」
凍りつくような笑みを浮かべる擁彗に、ダッハートは誰が見ても気の毒になるほど萎縮し、顔色を真っ青にしながら一言、
「はっ、はひ……」
と、返事をするのがやっとだった……
壌擁彗――いつも優しく温厚で柔和な笑みを浮かべている好人物として知られている。しかし、一度怒らせると、完膚なきまでに相手を論破し、精神的に追い詰め、最後には相手が泣いて許しを請うため、後に『冷笑の審問官』とも『天下のご意見番』とも呼ばれることになる傑物である。
張り扇を振るう紫慧やアルディリアとともに、俺の暴走を止められる希有な人物として後世に語り継がれることになるのだが、まだこのときにはそんな関係になるなどとは夢にも思わなかった。ただ、俺の背中に流れる冷や汗は、そういった未来を予見していたのかもしれない……閑話休題。
「エレナ殿、それから正路支配人。このところいつも、ギルド内にお二人の声が響いていると聞いていますよ。お互いそれぞれの見地から譲れないことがあるのだとは思いますが、ほどほどにお願いします。後でそのことについてはお話をお聞きしますが……今日は、大切なお客様をお連れしました。特にエレナ殿にとっては、会いたいと願っていた御仁もおいでですよ」
擁彗は冷笑から、いつもの日向で寝ている猫のような柔らかな笑顔に戻ると、これまた穏やかな口調で、俺たちをギルドの中へと招き入れた。
ギルドに足を踏み入れた俺たちは、建物の広さに驚いた。
翼竜街ギルドでは、入ってすぐのところに、待合室のような空間があり、その奥にそれぞれの案件に対応するための窓口が並んでいた。
甲竜街ギルドの方は扉を抜けて中に入ると、翼竜街の何倍もある空間が広がっている。そこでは先程のエレナと正路のように、そこかしこで商談やら、職人たちの技術交流やらが賑やかに行われていた。ただ、通常の家屋の数階分もありそうな非常に高い吹き抜けのおかげで、喧噪は上にあがっていくため、論議が白熱しても、お互いの言葉が聞き取りづらくなることはなさそうだった。
そんな広々とした空間に、俺たちは物珍しそうに周りをキョロキョロと見回しながら入る。続いて病み上がりのダンカンと彼に手を貸しながら扉を潜ったアルディリアに、エレナが気付いた。
「あんた! 一体どうしたんだい!? アリア、あんたまでここに来るなんて何があったんだい!!」
まだ足元の覚束ないダンカンに、血相を変えて駆け寄るエレナ。
そんな彼女に、アルディリアは抑え気味の口調で答えた。
「落ち着いてエレナ母さん。ワタシは翼竜街ギルドの職員として、業務で甲竜街を訪れただけだから。でも、ダンカン父さんは、響鎚の郷で謂れのない疑いをかけられて、鍛冶総取締役の任を解かれ、しかもやってもいないことを自白するよう拷問を受けていたの。それでも罪を否定し続けたダンカン父さんに業を煮やしたヨゼフ族長が、無理やり断罪しようとしていたときに、ワタシたちが居合わせて――」
饗鎚の郷での顛末を聞いたエレナはもちろん、ダッハートや擁彗それに正路支配人までもが、ダンカンに対する非道に義憤を抱き、怒りの表情を浮かべた。
「まったく、あの大馬鹿者は何を考えてんだい! ……しかし、厄介だねえ。住み慣れた地を離れることになるってわけか。まあ、あたしは鑑定人として依頼があればどこへでも出向いていたんで、郷愁の念ってやつはそれほど強くないんだけど……。うちの人は、郷に鍛冶場を構えていたから、喪失感はアタシなんかの比じゃないだろうね。これからどうしたもんかねえ」
思案しはじめたエレナを見た正路支配人は、これは場所を移した方がいいと考えたようだ。ギルドの一室に卓と椅子、お茶などを職員に用意させると、俺たちにそこへ移動するよう促した。
正路支配人の厚意に感謝しつつ、俺たちは部屋を移り、一息つく。
そうしたところで、リリスとルークスの二人が、エレナとダンカンの前に進み出た。
「エレナ殿、響鎚の郷を離れたこの後のことなのですが……」
二人がいきなり目の前に来たことに、エレナは怪訝な顔をした。そこへ、隣に座るダンカンが、卓の上で強く握りしめられている彼女の手の上に優しく自らの掌を重ねる。愛する夫の突然の行動に少し驚きつつも頬を染めるエレナに、彼は大きく頷いた。これでエレナは落ち着いたようだ。
「実は、お二人がよろしければ、豊樹の郷へいらしていただけないでしょうか?」
突然のリリスの提案に、またも疑いの目を向けるエレナ。すると、今度はルークスが口を開いた。
「こら、リリス! いきなりそう言っても、俺たちが何者なのか告げてからでなければ、信憑性も何もないだろう。失礼をいたしました、エレナ・モアッレ殿。俺は豊樹の郷の郷守衆若頭を務めるルークス・フォルモートンと申します。そして――」
「すみませんでした。私は今は翼竜街でギルド職員として働いていますが、父が豊樹の郷の族長を務めるリリス・アーウィンと申します。もちろん、私の申し出は豊樹の郷の族長リヒャルト・アーウィンの命によるものです」
エレナはさらに困惑の表情を深くし、顔見知りである俺やアルディリアに『本当なのか?』という視線を向けてきた。そこで、俺は笑顔を返し、アルディリアも大きく頷いた。
「もちろん、お二人のご意思を尊重させていただいた上での話なのでご安心ください。今後、豊樹の郷は天樹国の方針とは一線を画し、朋友である翼竜街をはじめとした天樹国以外の街や国との共生の道を模索していきます。ですが、今まで武具や防具の調達を響鎚の郷に頼り切っていた豊樹の郷が天樹国との間に一線を引くとなると、それらの供給が甚だ心もとない状態となってしまいます。朋友である翼竜街でも、自身の街で必要とされる品を揃えるのに手一杯で、我々の分まで用意することは厳しいのが現状です。豊樹の郷としましては、自己の安全保障の観点から、我々のために武具や防具を鍛えてくださる鍛冶師をお招きしたいと切に願っているのです。いかがでしょうか、エレナ殿。ダンカン殿とともに豊樹の郷にお越し願えませんか?」
リリスは言い終えると、ルークスとともに深々と頭を下げた。その姿にエレナは気圧されたのか目を白黒させていたが、いつまでも頭を上げようとしない二人に困り、ダンカンに助けを求めた。
「あ、あんた、どうしよう……。そうだ! あんたはどう考えてるんだい? 一緒に甲竜街に来たってことは、この話を前に聞いているんだろ。あんたはどう思ってるんだい?」
普段は肝っ玉母さん然としているエレナでも、いきなり別の氏族が住む郷への移住を提案されると、心穏やかでいられなかったようだ。しかし、ダンカンは落ち着いた様子で答える。
「うむ。儂はリヒャルト殿をはじめ豊樹の郷の方々の招きを受けても良いと思うておる。老いたりとはいえ、儂もまだまだ現役の鍛冶師。そんな儂の腕を買ってくれる者がおる限りは要望に応え、儂の武具を使いたいと思うてくれる者の力となりたい。そして、その者が大切にしているモノを外敵から護れる武具を作りたい。それこそが武具鍛冶師の本懐ではないかのぉ。それに、向こうから郷に招きたいと言ってくれておるのじゃ、鍛冶師として職人冥利に尽きるというものじゃよ」
ダンカンをジッと見つめていたエレナは、しばしの時を置き……いつもの肝っ玉母さん的な顔でにこりと笑った。
「そうかい。あんたがそう言うならアタシに異存はないよ。アタシは、あんたについて行くだけさね♪ アタシが響鎚の郷一番の鍛冶師と認め嫁いだダンカン・モアッレのいるところが、アタシの居場所なんだからね」
エレナが少し恥ずかしそうに頬を染めると、ダンカンも満更でもないのか、照れ臭そうにしながら不器用な笑みを浮かべた。
あまりの内容に、俺たちは呆れかえり、言葉を発することができなくなっていた。だが、擁彗の話は終わっていなかった。
「私と兄上は事の真偽を天樹国に……センティリオ様に確認するまでは公にはできないと考え、緘口令を敷きました。兄上も、甲竜街衛兵団第一分団の副長に部隊を付け、急ぎ天樹国へ派遣する手はずを整えていたのです。しかし、そんな我々の動きを嘲笑うかのように、アモリッツアが街中で、街にいる妖精族にセンティリオ様のお言葉を伝えると称して、書簡の中身を喧伝してしまいました。しかも、まるで妖精族の者たちを煽るように、『栄えある妖精族の諸君。これまでの屈辱を晴らすときが来た。愚かなる甲竜街の領主はその分を弁えず、センティリオ様のお書きになられた書面を偽書と疑い、詰問状を送ろうとしている。これまで、我ら妖精族に辛酸を嘗めさせてきた甲竜街領主が、自らの言動所業を顧みず、さらにセンティリオ様の御心を踏みにじろうとしている。天樹国に籍を置きし我らが同朋よ! 今こそ天樹のもとに集い、ともに怒りの烽火を上げようぞ!!』と檄を飛ばして。実際、甲竜街を訪れていた多くの妖精族は彼の言に従い、天樹国へと向かいました。もちろん、長年甲竜街に居を構えていた妖精族までついていくことはなかったのですが、公にされてしまった書簡の内容に街民は激怒し、妖精族を見る目が厳しくなっていて……」
沈痛な面持ちを浮かべて言葉を濁す擁彗。
隣に控えていたダッハートが表情を暗くし、話を引き継いだ。
「とまあそのような状況で、妖精族の中でも天樹国の防人として名高いダークエルフ氏族が、それも二人も姿を現したとなれば、街門を護る衛兵が血相を変えるのも仕方あるまい。時期が悪かったと思って許してもらえると助かる。怒るならば騒動を引き起こした天樹国からの使者にして欲しいところじゃな。それはさておき、先程の紹介の中に、響鎚の郷にその人ありと謳われたダンカン・モアッレ殿の名があったようじゃが、儂の聞き間違いかな?」
やはり年の功か、ダッハートは、麗華の苛立ちの矛先を甲竜街からアモリッツアへ変えさせ、話題も変えた。その彼の声に反応して、サビオの背中で横になっていたダンカンが体を起こす。
「ダッハート殿、このようなところから申し訳ない。儂がダンカン・モアッレじゃ。以前は響鎚の郷の鍛冶総取締役をしてきたが、今は郷を捨てた、しがない老鍛冶師じゃ。縁あって驍廣殿と知り合い、ここまで同道させていただいた。それで、妻のエレナより甲竜街から依頼された鑑定の仕事に手間取り、帰郷が遅くなるという手紙が届いたのじゃが、何かご存じありませんかのぉ?」
回復してきているとはいえ、いまだ万全とは言いがたい体調のダンカンではあったが、声を掛けられた機を捉え、甲竜街を訪れた一番の目的を口にした。
ダッハートは、一瞬険しい表情を浮かべたもののすぐに元に戻し、親しい友人に会ったときのように相好を崩すと、ダンカンに大きく両手を上げた。
「おお、そちらにおられたのか! ダンカン殿の名を耳にしたのに姿が見えなかったので、どこにおられるのかと思っておったのだ。それに、こちらの方こそ謝罪を申し上げなければ。随分と長い間エレナ殿を甲竜街に留め置き、申し訳ない。エレナ殿は儂の工房に滞在しておられ、今も甲竜街ギルドの方で精力的に仕事をしていただいておる。実はエレナ殿も、十日ほど前から響鎚の郷に文を出しても返信がなく、ダンカン殿に何かあったのではと心配しておられたのだ。お願いしていた鑑定も今日か明日には目処が付き、終わり次第急ぎ帰ると話しておられたところだったのだ。今日、ダンカン殿から訪れてくださり、本当によかった。数日遅ければ行き違いになるところじゃったわい。擁彗様、積もる話もあると思うが、まずはエレナ殿が仕事をされておられる甲竜街ギルドに向かい、ダンカン殿と引き合わせてはいかがであろうか?」
ダッハートの提案に、擁彗は即座に頷く。
「そうですね、それがいいと思います。では驍廣殿や他の方々はいかがなさいますか? 長旅でお疲れのことと思います。こちらで用意した宿でお休みいただき、後で改めて甲竜街にお呼びした理由をお話ししたいと思うのですが……」
擁彗はそう言ってくれたが、俺は首を横に振った。
「お気遣い感謝いたします。ですが、皆それほど疲れているわけでもありませんし、旅の仲間の目的が一つ達せられる様子を見逃すというのも残念ですから、もしよければ俺たちも甲竜街ギルドに同道させてください」
俺の申し出に、擁彗は嫌な顔一つせず、むしろ満足気に大きく頷いた。
「そうですか。そう言われるのではないかと思っておりました。もちろん、否はありません。ではともにギルドに参りましょう。ご案内いたします」
そう言うと擁彗は俺たちの先頭に立ち、皆を先導するように街門を潜った――
「ほぉ~、これまた立派な街並みだ」
「そうだね、翼竜街は街の中央を貫く天竜通りはあったものの、そこから伸びる支道は結構入り組んでいて、迷路みたいにゴチャゴチャした感じだったもんね。それに比べて甲竜街は整然と並んでいて綺麗だね」
甲竜街のギルドに向かう途中、街並みを見た俺と紫慧は溜息交じりに声を上げた。
甲竜街は、街門を抜け一歩足を踏み入れると、足元には石畳の路が碁盤の目のように東西南北に走り、その路の両側には石造りの家々が建ち並んでいた。
ちなみに、翼竜街の街並みは土壁と木で作られ、豊樹の郷は通りの両脇に花壇のようなものがあり木造の家が立ち並んでいた。響鎚の郷も石造りではあったが、甲竜街はそちらよりも建物の配置が整然としていて、他の郷や街とは趣の違う風情を漂わせていた。
そこへ麗華が、少し拗ねたような声を上げた。
「それは仕方のないことですわ。翼竜街は、人間の国からの侵攻に備えて作られた砦としての機能を兼ね備えているのですから。シュバルツティーフェの森を抜けて侵攻してきた人間の軍勢に、容易に突破されないように形成されているのです。中央の天竜通りさえ閉ざしてしまえば、複雑に入り組んだ支道によって町全体が迷路と化し、侵入者を惑わすことができるのですよ」
それを受けて、擁彗が補足する。
「麗華殿の仰る通りです。翼竜街と甲竜街では全く違う考えをもとに街が作られています。翼竜街が砦なら、甲竜街は街で生産された武具や防具をはじめとする製品を、効率よく天竜賜国内に流通させるために、誰もが道に迷わないように整えられているのです。しかも、生産されたものを運ぶ荷車などが行き交いやすいように道幅を広くし、石畳を敷き詰めているのですから、余計違いを感じるのだと思いますよ」
俺は、そんな二人の様子にピンと来た。
「なるほどなあ。それぞれ街の目的によって街並みが変わるのか。しかし、麗華の説明にさっと補足を入れる擁彗殿の姿がなんとも堂にいっているというか……阿吽の呼吸とでもいうのか。もしかして擁彗殿と麗華は、リリスとルークスのようによく知った仲だったり……?」
少し『下衆の勘繰り』ってやつをしてみると、途端に麗華は頬を赤く染めた。
「な、なにを言い出すのですか! わたくしと擁彗様は、同じ天竜賜国の街を預かる領主の子女という立場上、会う機会が多いだけですわ。その……確かに知り合いではありますが、特に親しいというわけでは……」
しどろもどろで必死に誤魔化そうと言葉を連ねるものの、表情と態度からは少なくとも麗華が好意を持っていることは一目瞭然。しかも、リリスが意地悪そうに笑いながら追い打ちをかける。
「なに言ってるの。同じ領主の子女ってだけでなく、小さい頃からの幼馴染だし、麗華にとって擁彗様は憧れのお兄様だったでしょ。まあ、仕方ないわよね。今は天竜賜国の竜都・竜賜にお出での麗華の二人のお兄様は、ともに非常に活発な悪戯小僧だったし、擁掩様もそれに輪を掛けた傍若無人な人だったでしょ。そんな中、擁彗様だけは物静かで、いつも書物を読んでいて思慮深く、子供の頃に私たちが遊びに行っても優しく接してくれていたから、麗華がほの字になるのも当然と言えば当然かもしれないわね。いつだったか、豊樹の郷でルー君と三人で遊んでいたときに『どうしたら擁彗お兄様ともっと仲よくなれるのでしょうか?』なんて訊ねてきたじゃない。それに擁彗様だって翼竜街を訪れた際に、私が麗華と仲が良いことをどこかで耳にされたのね。わざわざ翼竜街ギルドに訪ねていらして『麗華殿はどのような男子に好意をもたれるのだろうか? 麗華殿に喜んでいただくにはどうしたらよいのだろうか?』とお訊ねになって。両者の心の内を知って、私は随分やきもきしたものよ。でも、麗華が魔獣討伐者を始めるにあたって、ギルド職員として何度も意思の確認をする私に力強く語ったことは、よく覚えているわよ。『わたくしは擁彗お兄様のように皆を諭し導く力はありませんが、幼い頃から鍛えてきた武の力で、お兄様をお守りすることはできるかもしれません。ただ、今のわたくしでは経験が足りない。少しでもお兄様の御力になれるよう、魔獣討伐者として翼竜街の民を護るとともに、腕を磨きたいのです!』ってね♪」
トンデモナイ暴露発言が炸裂し、麗華の顔は溶ける寸前まで熱の入った鉄のように真っ赤になっていた。しかも、リリスの発言を聞いて顔色を変えたのは、麗華だけではない。擁彗も麗華と同じように顔を真っ赤に染めていた。ただし、恥ずかしそうに顔を伏せる麗華と違い、擁彗は堂々と顔を上げて嬉しそうに照れて笑っていた。
「なるほど! ようやく納得したわい。次男とはいえ甲竜街の公子であるのに浮いた話が一つもなく、妻を娶ってもいい年となるのにそういった話を持ちかけられても一向に首を縦に振らなかったのは、そのような理由があったのじゃな。しかし理由が分かってよかった。ワシらの中では、擁彗様は女性に興味がないのではという噂まで出はじめていたのじゃからな。ガ~ハッハッハッハ♪」
豪快に笑いホクホク顔のダッハートに対し、擁彗は苦虫を噛み潰したような渋い顔に変わった。
「ダッハート殿、くれぐれもこの件は内密にお願いいたします。実は……麗華殿とは時期が来たら竜賜におられる父上に相談をしようと話していたのですが、なかなかその機が訪れず、男として情けない限り。とはいえ、このことが下手に兄上の耳に入りますと、厄介なことになりかねません。なにしろ、兄上は麗華殿のお父上である安劉様に対して並々ならぬ対抗心をお持ちですから……」
「分かっておる、分かっておる。なに、擁掩殿もいつも陰に日向に支えてくれておる弟君の幸せを願わぬはずはない。ただあのご気性じゃから、妙なところからこの話を耳にすると、どうされるか分からん。それに、裏であることないこと吹聴する輩が出るとも限らん。擁彗殿が気にかけておられることはこの朴念仁でも理解しておるよ。安心なされよ、今の話は聞かなかったことにしておくわい。じゃが、めでたい話じゃ! 実はこのワシも擁彗殿のことを案じておったのじゃが、幼き頃の想いを大事にし、人知れず育んでおったとは、まことに良い話を聞いたぞ。がっはっはっはっは♪」
厳つい顔を綻ばせて笑い続けるダッハートに、さらに顔を赤くする麗華と渋い顔を崩して笑い出す擁彗だった。
俺たちは擁彗と麗華を冷やかしながら、街門から東西に抜ける大通りを歩いていく。
この大通りはどうやら商店街らしい。この街で生産されたと思われる様々な産物を売る店や、人々の胃袋を満たす食堂、それに街を訪れた商人たちを呼び込む宿などが建ち並んでいる。まさに、天竜賜国の生産拠点として表の顔となる区画だった。
そんな賑やかな街路を通り抜けてさらに進んでいくと、徐々に建物の趣が変わってきた――
「……うん? なんだかこれまでとは違う音が聞こえてきたな」
ルークスの声に導かれるように俺たちの耳に聞こえてきたのは、カンカンと金属を叩く鎚音や、パッタンパッタンいう機織りなどの、働く音だった。
「そう言われてみれば、なんだか段々と騒がしい、活気のある場所になってきたな♪」
「ああ。微かにだが、あちらこちらから鎚の音や物を削る音が聞こえてくる」
「そうですニャ。やっぱり僕はこんな風に『物』が生み出される『音』が聞こえてくる場所に来ると、気持ちが落ち着きますニャ♪」
俺だけでなく、アルディリアや斡利も嬉しそうにしている。
すると、先頭を歩いていたダッハートが俺たちの方へと笑顔を向けた。
「さすがはダークエルフ氏族の若頭を務める御仁じゃ。良い耳をしておられる。もう少しで、甲竜街の心臓部とも言うべき職人街がある区画に入る。そこでは、開け放たれた窓や扉の奥から、甲竜街の者たちの働く姿が見えることじゃろう」
そう言いどこか誇らしげな表情をして、そのまま歩を進めた。
そして、ここからは『職人街』であると伝えるように立つ街灯を通り抜けた瞬間、それまで微かにしか聞こえていなかった鎚音などの作業音がいきなり大きくなった。
あまりの大きさで、耳の良いリリスやルークスはとっさに両手で耳を塞いでしまうほどで、喧騒のような作業音に慣れていない麗華やレアンも驚いた顔をしていた。一方、俺や斡利、ダンカンの三人は、目を輝かせて少し興奮する。そんな俺たちの様子を見て、紫慧とアルディリアと擁彗の三人は苦笑していた。
甲竜街の『職人街』は、木を切り削る音に金属を打つ音、機を織る音など様々な音に溢れている。しかも、働く職人たちが作業音に負けじと声を張り上げてやり取りしている。何も知らずに迷い込んだ者には、喧嘩でもしているのか? 暴動でも起こっているのか? と勘違いをさせるほど騒然としていた。ある意味ではそれほどまで活気に溢れていると言える場所だった。
そんな区画の最も奥に、一目で他とは違うと分かる三階建ての石造りの大きな建物があった。その開け放たれた扉の奥から、男性と女性の言い争う一際大きな声が、俺たちの耳に飛び込んできた。それにいち早く反応したのはダンカンで、
「うん? この声はエレナか、一体どうして怒鳴り合っておるのじゃ?」
と、少し呆れ顔で呟く。そこへアルディリアが追随する。
「エ、エレナ母さんったら、興奮して……でも一体誰と言い争いになっているの? 恥ずかしい……」
少し顔を赤くするといった、これまで見せたことのないアルディリアの表情に、翼竜街からの仲間たちは『貴重なものが見られた!』と、少し驚きつつも感動していた。そんな二人の言葉から、大きな建物の中で大声を上げている一人が、エレナ・モアッレだということが分かった。
一方、俺たちとは違って、肩を落としてゲンナリしているのはダッハートだった。
「またか……全くあの者たちは何を考えているのやら……」
彼は溜息を吐くと、すぐに自らを鼓舞するように深呼吸をした後、足に力を入れて一歩また一歩と地面を踏みしめつつ、問題の建物へ歩を進めた。
「だ、か、らぁ! 何度言ったら分かるのかねえ、この石頭の甲竜人は。そもそも、こんないい加減な精錬をしたミスリル鋼にいくら大量の精霊石を加えたって、望むような効果を得ることなんて無理だって、なんで分かんないのかねえ。しかも『鍛造』ならまだしも、『鋳造』でなんて……あたしゃ呆れてものが言えないよ」
「またそのようなことを! 今、鑑定をしていただいた武具や防具は、遠方より来られた鋳造武防具職人から直接お教えを請い、入手した鋳造法を用いて作られているのだ。その鋳造武具職人は、我らが見ている前で、生み出した長剣で魔獣の灰狼をまるで薄い紙を切るように容易く斬り裂き、さらには断末魔の叫びとともに吐き出した炎までも斬り伏せてみせたのだ! 今まで鍛造武具を至上と決めつけていたが、鋳造でも方法次第で十分に良いものが生み出せるのだと感心させられた。しかも、鋳造法を用いれば鍛造法よりも短い時間で、より多くの武具や防具を生み出せる。今、甲竜街衛兵団では、これまで使っていた旧式の筒袖鎧から、最新の防具である歩人甲へ切り替えを急いでいる。この時期に優れた鋳造法が甲竜街にもたらされたのはまさに天の助け。教えられた鋳造法を用いて製作した武具や防具が間違いのないものだと確証を得るために、エレナ殿に鑑定していただいているのだ。それなのに、武具の良し悪しについて言及せずに、鋳造に用いる金属鋼のことばかりを問題視するとは、一体何を考えておられるのだ!!」
「あ゛~もう何度言ったらわかるんだろうねえ! いいかい? どんな鋳造法だろうと、その大本となる金属鋼が、まともに精錬されていない不純物の多いものだったら、端から駄目なんだよ。わざわざ帰郷する途中に呼びつけといて、いい加減人の話をちゃんと聞きなっ!!」
開け放たれた扉の奥で、唾を飛ばして怒鳴り合う壮年の甲竜人族とドワーフ氏族の女性に、建物内にいる者たちはオロオロするばかりで、二人を止められずにいた。
そんな『修羅場』と言って差しつかえない状況に、俺たちは目を丸くし、ダンカンは額に手をやって嘆息、擁彗は『処置なし』とばかりに肩を落として力なく首を左右に振る。
そして、俺たちを案内した当のダッハートはというと、目の前で行われている狂騒にワナワナと小刻みに体を震わせ――
「いい加減にせぬかこの大馬鹿者が~!!」
言い争いを続ける二人に一際大きな声が襲いかかった。その怒声は周囲の空気を震わせ、開け放たれている扉から入って建物全体を揺らし、職人街中に響き渡ると、それまで鳴り響いていた職人たちの作業音までも沈黙させ、一瞬の静寂をもたらした。だが、ほどなくして『いつものことか』とでもいうかのように再び熱意のこもった作業音が奏でられ、喧騒と活気に溢れる職人街へと戻ったいった。
俺たちがダッハートに案内された建物は、甲竜街のギルドだった。翼竜街では街門からそれほど離れていない、天竜通りからすぐの支道脇に設置されていた。しかし甲竜街では天竜賜国の一大生産拠点という成り立ちから、実際に生産活動を行う職人たちが集まる職人街にあった。
職人街では、武具や防具から、食器類や家具などの木工製品や、各街の衣服へと姿を変える織物まで、天竜賜国で使われている多くのものが生み出されていた。それらは全て、甲竜街ギルドに報告・記録される。ゆえに、産物の品質管理も、甲竜街ギルドの重要な仕事となっているという。
ダッハートはそのギルドで、一職人というだけでなく、長年この街で武具を鍛え、また多くの弟子を育ててきたことから、鍛冶についての相談役という立場にも就いていた。
そんな彼である。持ち込まれた相談事や未熟な鍛冶師の仕事に対して銅鑼声を張り上げるのはよくあることで、職人街の住人にとっては日常茶飯事だった。しかも、つい最近甲竜街ギルドの支配人に新しく秦正路が就いてからは、支配人として未熟な彼に対する叱咤激励であるダッハートの銅鑼声は、もはやギルドの『名物』となっていた。
もちろん正路にとって、それは歓迎すべきもので、甲竜人族とドワーフ氏族と種族は違えど、親子とは言わないまでも、至極円満な関係を築き上げていたそうだ。
――とはいえ、職人街の人たちにとっては『日常』かもしれないが、初めてダッハートの銅鑼声という甲竜街ギルドの洗礼を浴びた俺たちにとっては、非常に堪えがたきものだったわけで……
「うっ……耳が……」
ルークスとリリスは呻き声を上げながら、両耳を手で覆って蹲る。俺は二人ほど辛くはないが、強烈な轟音の一撃にキーンと耳鳴りがしていた。
「……くぅぅぅ。これは、とんでもない銅鑼声だったなあ、耳鳴りがなかなかおさまらないぞ。耳の良いダークエルフ氏族の二人には、この爆音は辛かっただろう」
「驍廣や! 別にリリスとルークスだけが特に辛いわけではないぞ。儂にとってもこれは堪らぬわ。危うく目を回してお主の頭の上から転げ落ちるところじゃったわい」
そうボヤキ、頭を左右に振るフウ。彼の言葉で視線を動かし、アルディリアの足元で腹這いになり、前脚を使って自分の両耳を押さえて悶絶している牙流武の姿に目を奪われていると――
「炎、どうしちゃったの? しっかりして~。大変だよ、驍廣。炎が……炎がぁぁ~!!」
紫慧が悲鳴のまじった声を上げた。慌てて声のする方を見れば、力なくグッタリした炎を両手で抱きかかえた紫慧が、顔を青くしてオロオロしている。俺も、紫慧の呼びかけに応じず目を閉じている炎の姿に焦りを感じ、駆け寄った。しかし、何をどうしていいか分からず、紫慧と一緒にオロオロしてしまう。すると、頭上にいるフウがなぜか感心していた。
「なんじゃ? 炎のやつは。確かにトンデモナイ声ではあったが、目を回して気を失うとは精進が足らんのぉ。紫慧、大丈夫じゃ! 突然の大きな銅鑼声に目を回しただけじゃ。しばらくすれば目を覚ますじゃろう、心配せんでもよいわ。しかし、ドワーフ氏族の怒声は皆大きいものじゃが、ダッハートとやらの声は一段と迫力があるのぉ。響鎚の郷でもこれほどの銅鑼声を上げられる者はそうはおらなんだぞ。ある意味大したもんじゃわい!!」
悠長なことを言うフウに、紫慧は非難の視線をぶつけたが、すぐに気を失っている炎が少しでも早く目覚めるようにとその体を撫ではじめた。
他の仲間たちも痛む耳を庇いながら、炎やリリス、ルークスを心配していたが、この惨状を引き起こした当の本人は、それに気付いていなかった。彼はそのまま口論をしていた二人に近付くと、岩石のような握り拳を振り上げ、やはり銅鑼声を浴びて動きを止めていた彼らに振り下ろした。
そんなダッハートに対して、擁彗は冷たい視線を向けていた。
「……ダッハート殿……」
彼はポツリと呟いただけなのだが、聞いた瞬間、俺の背中に緊張が走った。しかし、ダッハートはそれにも気付くことなく、二人に説教を始めていた。
「まったくお主らは……ワシが顔を出す度に怒鳴り合いをしおって。いい加減折り合いをつけることができんのか? 子供の喧嘩でもあるまいし、互いに協力しあったらどうなのじゃ! まったく……驍廣殿、お見苦しいところに案内してしまい申し訳……いかがなされた?」
説教を終えて振り向いたダッハートの目に飛び込んできたのは、自身が放った銅鑼声に苦しむ者たちの姿と、非難の視線だった。そして――
「『いかがなされた?』ではありませんよ、ダッハート殿。いつも言っているではありませんか。あなたの『声』は尋常ではないのだと……起こしてしまったことは仕方ありませんが、後で少しお話があります。良いですね」
凍りつくような笑みを浮かべる擁彗に、ダッハートは誰が見ても気の毒になるほど萎縮し、顔色を真っ青にしながら一言、
「はっ、はひ……」
と、返事をするのがやっとだった……
壌擁彗――いつも優しく温厚で柔和な笑みを浮かべている好人物として知られている。しかし、一度怒らせると、完膚なきまでに相手を論破し、精神的に追い詰め、最後には相手が泣いて許しを請うため、後に『冷笑の審問官』とも『天下のご意見番』とも呼ばれることになる傑物である。
張り扇を振るう紫慧やアルディリアとともに、俺の暴走を止められる希有な人物として後世に語り継がれることになるのだが、まだこのときにはそんな関係になるなどとは夢にも思わなかった。ただ、俺の背中に流れる冷や汗は、そういった未来を予見していたのかもしれない……閑話休題。
「エレナ殿、それから正路支配人。このところいつも、ギルド内にお二人の声が響いていると聞いていますよ。お互いそれぞれの見地から譲れないことがあるのだとは思いますが、ほどほどにお願いします。後でそのことについてはお話をお聞きしますが……今日は、大切なお客様をお連れしました。特にエレナ殿にとっては、会いたいと願っていた御仁もおいでですよ」
擁彗は冷笑から、いつもの日向で寝ている猫のような柔らかな笑顔に戻ると、これまた穏やかな口調で、俺たちをギルドの中へと招き入れた。
ギルドに足を踏み入れた俺たちは、建物の広さに驚いた。
翼竜街ギルドでは、入ってすぐのところに、待合室のような空間があり、その奥にそれぞれの案件に対応するための窓口が並んでいた。
甲竜街ギルドの方は扉を抜けて中に入ると、翼竜街の何倍もある空間が広がっている。そこでは先程のエレナと正路のように、そこかしこで商談やら、職人たちの技術交流やらが賑やかに行われていた。ただ、通常の家屋の数階分もありそうな非常に高い吹き抜けのおかげで、喧噪は上にあがっていくため、論議が白熱しても、お互いの言葉が聞き取りづらくなることはなさそうだった。
そんな広々とした空間に、俺たちは物珍しそうに周りをキョロキョロと見回しながら入る。続いて病み上がりのダンカンと彼に手を貸しながら扉を潜ったアルディリアに、エレナが気付いた。
「あんた! 一体どうしたんだい!? アリア、あんたまでここに来るなんて何があったんだい!!」
まだ足元の覚束ないダンカンに、血相を変えて駆け寄るエレナ。
そんな彼女に、アルディリアは抑え気味の口調で答えた。
「落ち着いてエレナ母さん。ワタシは翼竜街ギルドの職員として、業務で甲竜街を訪れただけだから。でも、ダンカン父さんは、響鎚の郷で謂れのない疑いをかけられて、鍛冶総取締役の任を解かれ、しかもやってもいないことを自白するよう拷問を受けていたの。それでも罪を否定し続けたダンカン父さんに業を煮やしたヨゼフ族長が、無理やり断罪しようとしていたときに、ワタシたちが居合わせて――」
饗鎚の郷での顛末を聞いたエレナはもちろん、ダッハートや擁彗それに正路支配人までもが、ダンカンに対する非道に義憤を抱き、怒りの表情を浮かべた。
「まったく、あの大馬鹿者は何を考えてんだい! ……しかし、厄介だねえ。住み慣れた地を離れることになるってわけか。まあ、あたしは鑑定人として依頼があればどこへでも出向いていたんで、郷愁の念ってやつはそれほど強くないんだけど……。うちの人は、郷に鍛冶場を構えていたから、喪失感はアタシなんかの比じゃないだろうね。これからどうしたもんかねえ」
思案しはじめたエレナを見た正路支配人は、これは場所を移した方がいいと考えたようだ。ギルドの一室に卓と椅子、お茶などを職員に用意させると、俺たちにそこへ移動するよう促した。
正路支配人の厚意に感謝しつつ、俺たちは部屋を移り、一息つく。
そうしたところで、リリスとルークスの二人が、エレナとダンカンの前に進み出た。
「エレナ殿、響鎚の郷を離れたこの後のことなのですが……」
二人がいきなり目の前に来たことに、エレナは怪訝な顔をした。そこへ、隣に座るダンカンが、卓の上で強く握りしめられている彼女の手の上に優しく自らの掌を重ねる。愛する夫の突然の行動に少し驚きつつも頬を染めるエレナに、彼は大きく頷いた。これでエレナは落ち着いたようだ。
「実は、お二人がよろしければ、豊樹の郷へいらしていただけないでしょうか?」
突然のリリスの提案に、またも疑いの目を向けるエレナ。すると、今度はルークスが口を開いた。
「こら、リリス! いきなりそう言っても、俺たちが何者なのか告げてからでなければ、信憑性も何もないだろう。失礼をいたしました、エレナ・モアッレ殿。俺は豊樹の郷の郷守衆若頭を務めるルークス・フォルモートンと申します。そして――」
「すみませんでした。私は今は翼竜街でギルド職員として働いていますが、父が豊樹の郷の族長を務めるリリス・アーウィンと申します。もちろん、私の申し出は豊樹の郷の族長リヒャルト・アーウィンの命によるものです」
エレナはさらに困惑の表情を深くし、顔見知りである俺やアルディリアに『本当なのか?』という視線を向けてきた。そこで、俺は笑顔を返し、アルディリアも大きく頷いた。
「もちろん、お二人のご意思を尊重させていただいた上での話なのでご安心ください。今後、豊樹の郷は天樹国の方針とは一線を画し、朋友である翼竜街をはじめとした天樹国以外の街や国との共生の道を模索していきます。ですが、今まで武具や防具の調達を響鎚の郷に頼り切っていた豊樹の郷が天樹国との間に一線を引くとなると、それらの供給が甚だ心もとない状態となってしまいます。朋友である翼竜街でも、自身の街で必要とされる品を揃えるのに手一杯で、我々の分まで用意することは厳しいのが現状です。豊樹の郷としましては、自己の安全保障の観点から、我々のために武具や防具を鍛えてくださる鍛冶師をお招きしたいと切に願っているのです。いかがでしょうか、エレナ殿。ダンカン殿とともに豊樹の郷にお越し願えませんか?」
リリスは言い終えると、ルークスとともに深々と頭を下げた。その姿にエレナは気圧されたのか目を白黒させていたが、いつまでも頭を上げようとしない二人に困り、ダンカンに助けを求めた。
「あ、あんた、どうしよう……。そうだ! あんたはどう考えてるんだい? 一緒に甲竜街に来たってことは、この話を前に聞いているんだろ。あんたはどう思ってるんだい?」
普段は肝っ玉母さん然としているエレナでも、いきなり別の氏族が住む郷への移住を提案されると、心穏やかでいられなかったようだ。しかし、ダンカンは落ち着いた様子で答える。
「うむ。儂はリヒャルト殿をはじめ豊樹の郷の方々の招きを受けても良いと思うておる。老いたりとはいえ、儂もまだまだ現役の鍛冶師。そんな儂の腕を買ってくれる者がおる限りは要望に応え、儂の武具を使いたいと思うてくれる者の力となりたい。そして、その者が大切にしているモノを外敵から護れる武具を作りたい。それこそが武具鍛冶師の本懐ではないかのぉ。それに、向こうから郷に招きたいと言ってくれておるのじゃ、鍛冶師として職人冥利に尽きるというものじゃよ」
ダンカンをジッと見つめていたエレナは、しばしの時を置き……いつもの肝っ玉母さん的な顔でにこりと笑った。
「そうかい。あんたがそう言うならアタシに異存はないよ。アタシは、あんたについて行くだけさね♪ アタシが響鎚の郷一番の鍛冶師と認め嫁いだダンカン・モアッレのいるところが、アタシの居場所なんだからね」
エレナが少し恥ずかしそうに頬を染めると、ダンカンも満更でもないのか、照れ臭そうにしながら不器用な笑みを浮かべた。
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