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しおりを挟む翌日、上司に呼ばれた千鶴は、プロジェクトに参加するための準備をするようにと正式に命じられた。参加初日を明日に控え、スケジュールはタイトなものだったが、研修中同僚に引き受けてもらった業務をそのまま引き継ぐだけなので、その作業は予想よりも早く片付きそうだった。
「じゃあまたしばらくはそっちに専念だな」
ファイルを捲りながら緒方が言った。研修中、一番厄介なところを引き受けてくれた彼にこのまま任せることになり、引継ぎ先の決まらなかったもう一件も請け負ってくれた。今はその営業先の資料を緒方に見せているところだ。本当は他の人間にと上司からアドバイスを貰ったのだが、その人物にはすげなく断られたため、緒方には本当に感謝しかない。
彼の問いに千鶴は頷いた。
「本当に悪いな」
和久井のプロジェクトは来年の春に本格始動だが、今回先行しているのはその開拓事業だ。千鶴たちは来年の春までその業務を担わなければならない。
「気にするなよ。こっちはほとんどオレのところと被ってるし、問題ないよ」
気負いのない声に、ほっと千鶴は胸を撫で下ろした。
「なにか埋め合わせするよ」
何がいい?と訊くと緒方は目を輝かせた。
「じゃあ、飯行こうぜ。肉が美味い、いい所見つけたんだよ」
子供のようなはしゃぎように千鶴は笑った。
「分かった。じゃあそこな」
「当然おまえの奢りでな?」
「分かった分かった」
他愛のない会話を挟みながら、緒方とふたりで営業先の共有をしていく。
ミーティングルームの机に広げた資料はかなりの量だ。千鶴にとっては馴染みでも緒方にとっては新規の客になる。だが相手側にはそんなことは関係なく、今までと同じサービスが求められ、そのニーズを満たし出来ることならその先を事前に把握しておかなくてはならない。データの受け渡しだけで済めば楽だろうが、そうもいかないことは多い。特に千鶴と緒方の所属する営業三課は大手を相手にする一課とは違い、個人事業主や小売店、ネット通販事業者など規模こそ小さいが販売形態が一貫していないところばかりだった。
緒方は真剣に千鶴の話を聞き、パソコンにメモを取り自分なりに資料を纏めていった。
「よし──、まあ、こんなもんか?」
あらかた共有し終えたころ、緒方がそう言って手を止めた。唸りながら腕を上げ、大きく伸びをする。千鶴も背中を伸ばし、固まった体を伸ばした。
「あー、結構時間過ぎたな」
「ほんとだ」
開始したのは午後、緒方が外回りから帰って来てからだった。遅いスタートだった。時計はすでに十八時を指そうとしている。
いつの間にか終業時間を過ぎてしまっていた。
「休憩しよう」
そして片付けて、今日はもう終わりだ。
「おう、コーヒー買ってくるわ。飲むだろ?」
緒方が立ち上がったのを、千鶴は慌てて止めた。
「あ、俺が行く──」
「いいって、オレに気を遣ってどうすんだ」
千鶴の負い目を緒方は気づいていた。自分の仕事を他人にさせる罪悪感。それを笑い飛ばし、緒方は手でぞんざいに座れと千鶴に示した。
「何がいい?」
「あー、うん」
浮かしかけた腰をまた下ろして頷いた。身体は疲れていたが、気分はそれほど甘い物ではなかった。コーヒーもたまになら飲めるかもしれない。
「同じの、砂糖入れて」
「わかった」
飲み物は休憩室の横で買うか、自分で淹れられるようになっている。緒方が部屋を出て言った途端、千鶴は深く息を吐いた。未だ先週の酔いを引きずっているような気がするのはなぜなのか。なんだかずっと体が重い。
気持ちの問題もあるかもしれないが──
いや、多分にそうなのかもしれない。
「……」
その他大勢の中に時枝がいる。
たったそれだけのことが、自分をこんなにも憂鬱にさせている。
「仕事だろ、仕事」
言い聞かせるように呟き、手のひらで顔を覆い、ごしごしと擦った。
必要以上に話さなければいいだけだ。
出来る。ちゃんと出来る。
子供じゃあるまいし。
手持無沙汰になりテーブルの上を片付け始めた。散らばった資料を纏め、元のファイルに戻す。休憩スペースはこの一階上だから緒方が戻ってくるまで少し時間がかかるだろう。
片付けも終えてしまうとすることもない。千鶴は椅子に座り直し、背を投げ出した。
何気なくスマホを取り出してみる。メッセージアプリに通知は二件、どちらも公式からのものだった。何の興味もなく見もせずに消す。連絡先が並ぶその中に時枝の名前があるのを、複雑な思いで千鶴は眺めた。
昨日思わず解除してしまったブロック。画面は昨日の通話を除けば、二年前のやり取りで終わっている。
最後にあるのは時枝からのものだ。
『理由は?なんでって言えないの?』
「……」
そう、これが最後だった。
別れる理由を、結局千鶴は言わなかった。言ったところでといった思いもあり、このまま見えないようにした。時枝は既に異動の通達通り大阪に行っていた。引っ越しやその他諸々の手続きの中言い出したのは、何もタイミングを図っていたわけではなく…
見てしまったもの、感じた違和感は何をしても消えないと思ったからで。
「……時枝なんか…」
「──えっ」
驚いて顔を上げると緒方が立っていた。
「な、何?」
緒方はぎょっとした顔でその場に立ち止まった。それがちょっとおかしくて千鶴はふっと声を漏らして笑った。
「何でもないよ」
テーブルの上に広げた資料を寄せると、空いたスペースに緒方が飲み物を置いた。
紙コップに入ったコーヒーとココア。
ココア?
「ん?」
「わり、コーヒー切れたわ」
「え?」
「だからココアにした」
どうぞ、と促されて千鶴は紙コップを手に取った。ココアの表面に自分の影が落ちる。コーヒーが切れることなんてあるんだろうか。皆コーヒー目当てで休憩するのに?
「総務に連絡しないと」
「ん、ああ、メール入れといた…っ」
「?そう?」
緒方が持って来てくれたココアは自販機のものだが、温かくて美味しかった。いつも飲む味にほっとする。
「美味い」
「んん」
「でも、俺の好みよく分かったな」
向かいでコーヒーを飲んでいた緒方が、ごふ、と軽く咳をした。
「ぐ…、まあ、まあな」
付き合い長いからな、とむせながら続ける。
「大丈夫か?」
「ん、っ平気」
ぐっと紙コップを煽り、緒方はコーヒーを飲み干した。手の甲で口元を拭う彼に、熱いのに大丈夫だろうかと心配になる。
「まあ、まあでもこれでおまえも安心だよな」
「…何が?」
「え? いやー、その、そう!引継ぎも済んでさ!気持ちよくチームに加われるっていう」
急にテンションが上がった緒方に千鶴は目を丸くした。ははは、と大きな声で笑うと片付けたファイルをまたパラパラと捲り出す。
落ち着かない緒方に、なんだと首を傾げた。
「別に気持ちよくはないだろ…?」
「いやいやいやいや!後はオレに任せて頑張れって!」
「? ああ、…うん?」
なぜか何度もファイルを捲る緒方に眉を寄せ、千鶴はココアを飲んだ。よく分からないやつだ。知り合ったころからお調子者のところがあり、よく羽目を外しては上司や同僚たちに怒られていた。
だがそのキャラクターのせいか誰にも憎まれたり疎まれたりしないのが緒方のいいところだ。千鶴も色々助けてもらっている。
今回の事も、ありがたかった。
それから以前助言した取引先との話をした。経営者である大村とは案の定野球の話で盛り上がり、無事に打ち解けることが出来たらしい。よかった、と安堵する千鶴の肩をばしばしと叩き、これでもう大丈夫と緒方は笑った。
「今度設備入れ替えのときはオレに任せてくれるらしい」
「そうか」
あの人に気に入られたなら安心だ。
フロアに戻りまだ残っていたそれぞれの仕事に戻る。緒方はこのあと営業の接待に出なければならず、千鶴は残りの雑務を片付けなければならなかった。
気が重い。だがやらなければ終わらない。
「…はあ」
今日も残業だ。千鶴は自分のデスクのモニターに向かってため息をついた。
***
「はい、では後ほど」
営業先に連絡を入れながら緒方はエレベーターに乗り込んだ。予定より少し遅れそうだったが、相手のほうも仕事が押したようで結果緒方のほうが待たされそうだ。待つのは慣れている。呼び出しておいてわざとこちらの動向を窺うように待たせる営業先も少なからず経験済みだ。誰もが善良な人とは限らない。上辺だけではなにごともわからないものだ。
「…、っ」
動き出した箱はすぐに下の階で止まった。開いた扉の向こうに男性社員が立っていて、ぎくりとする。お疲れ様です、と会釈されて緒方はすぐに胸を撫で下ろした。
違う。
「お疲れ様です」
ただ背格好が似ていただけだ。
彼はこちらに背を向け閉まるボタンを押した。扉は閉じ、再び下がり始める。
見る気が失せたスマホを、緒方は上着のポケットに仕舞った。
男性社員に気取られぬよう無意識に詰めていた息をそっと吐き出す。
(びっくりさせんなよ)
本当に勘弁して欲しい。
エレベーターが一階に着いた。開くと同時に社員は足早に出て行った。残された緒方ものろのろと外に出た。
はあ、とため息を吐く。
「冗談じゃないっての…」
エントランスを横切りながら、またスマホを出した。仕事のメールをもう一度確認しようとして、通知がひとつ付いていることに気付く。
誰からか見て、思いきり顔を顰めた。
本当に勘弁して欲しい。
「マジでさあ…」
言いたいことがあるなら自分で言えばいいじゃん。
「わざわざ自販機の前にいたりすんなよ」
素早く返事をし、外へ出る。
面倒なことになった。
三苫に何か言うべきだっただろうか?
「はあぁ…」
いや、ないな。
それはない。
ない。
「ない、ないないない…」
知らないほうがいい。
知らないほうがオレも三苫も平和だ。
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