あした魔法が解けたなら

宇土為名

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 痛い。
 頭…
 痛い。
 今朝飲んだ頭痛薬、全然効いてない気がする。
「…あー」
 堪らずに声が出ると、向かいで作業していた川野がモニターの陰からこちらを覗いた。
「何ですか先輩、また怪我したんですか?」
「いや頭痛」
「あー飲み会でしたっけ金曜」
「……っ、う」
 なーんだ飲み過ぎですか、という何気ない言葉に死にたいほどの嫌な記憶が蘇り、千鶴は頭を抱え込んだ。
「あああ…」
 やらかした。
 やらかした、やらかしたやらかしたやらかした…!
「…死にてえ」
「死ぬほどなんだ」
「いや…、もう死んだ」
「? そんなに酷いんですかあ?」
「ひどい」
「もー、ほんとどれだけ飲んだんですか…」
 キーボードを打つ手を止め、遠藤はデスクの引き出しを開けた。がさごそと何かを探し出し、そしてはい、と千鶴に何かを投げてきた。千鶴の目の前に落ちる。モニター越しに寄こされたそれは二日酔いの市販薬だった。
「それ効きますよ、飲んでしっかりしてください」
 指先に摘まんで、千鶴は遠藤を見た。
「え、なんでこんなの持ってるの、きみ酒豪だろ」
「まあそうですけど」
 社内の飲み会で遠藤がありえない量の酒を飲むことは有名だ。だが一度も酔い潰れたことがない。顔色が赤くなるわけでも青くなるわけでもなく、いつもの顔で水のように淡々と酒を飲み、最後には毎回泥酔して歩けなくなった同僚を当然のように家に送り届けていた。千鶴も一度だけ世話になったことがある。去年の忘年会だったか…
 そんな彼女もやはり二日酔いになるのだろうか。
 遠藤は眼鏡のブリッジを指で上げた。
「ま、人間何が起こるか分からないですしね」
「………ぅ」
 息を詰まらせた千鶴をちらりと上目に見る。何か察しているようだが、決して口にはしない。
 後輩のくせに千鶴よりもよっぽどしっかりしている。
「用心するに越したことはないんです」
「ですね…」
 それは分かってる。
 分かってるけど。
「ちょっと水、買ってくる」
 分かっているくせに全然実行出来ない自分が情けなくて仕方がない。これ以上遠藤に言われるのも辛く、千鶴は特大のため息を吐いて椅子から立ち上がった。
 いくら飲まされたとはいえ、あんなことになるなんて。

 ***
 
 目が覚めると視界は白かった。 
 どこだろう、ここ。
 俺、何してたんだっけ。
 ひんやりとしたシーツの感触。
 気持ちいい…
 ベッドの中だ。
「んー…」
 ごろりと寝返りを打った。シーツを這った指先が何かに触れて、千鶴はそれを無意識に引き寄せた。
「……ん」
 シャツだった。
 寝るときに脱いだんだっけ。
 くしゃくしゃのそれを掛け布団ごと抱き締めて顔に押し付けた。息を吸い込むと、かすかな香水の香りがした。
 閉じた瞼を開く。
 香水?
 俺は香水なんてつけない…
 じゃあ──誰の?
 誰…
「…っ!」
 飛び起きた千鶴はあたりを見回した。ざあ、と血の気が引く。
 どこだここは?
 全然知らない場所だ。
 知らない部屋。白い壁。
 何も見覚えがない。
 ベッドの足元に備え付けのキャビネットがあった。小さな机とテレビ、窓際のテーブル。空調の効いた室内…
 明るい光の差し込む真っ白なベッドの上で、音を立てて再びどっと千鶴の血の気が引いた。
 ここって…
「ホテ…」
 ホテル。
 ホテルだ。
 自分で来た覚えはない。全く、何も、記憶がない。
 だとしたら──
 そのとき部屋のドアが開き、千鶴は跳ね上がった。
「あー、起きた?」
 聞き覚えのある声に振り返る。
「な──」
 なんで。
 なんで?!
「おはよう」
「…っ」
 そこにいたのは時枝だった。
「朝飯買って来たけど食べる?」
 ラフな格好で片手にコンビニのレジ袋を提げ、眩しい朝の光の中で爽やかに笑っていた。


(くっそ…最悪)
 思い出しただけで胃がせり上がって来る。
 なんで、よりにもよって。
「あいつなんだよマジで…」
 川野に飲まされて潰れた後、誰かが時枝を呼び戻したらしいのだ。仲が良かったことを知っていたからという理由みたいだが、本当に余計なことをしてくれた。いや、そうじゃなくて…、そもそも潰れるまで飲んでしまった自分がいけないのだが。
「あー…」
 フロアの奥の休憩所で千鶴はため息をついた。自販機で水を買い、ベンチに座った。のろのろとキャップを捻り、もらった薬を冷たい水で流し込んだ。
 駄目だ。
 人の好意に八つ当たりをするようになったらお終いだ。
 プライベートの自分たちのことを誰も知らないのだから仕方がない。皆ただの先輩と後輩だと思っている。
 それはそうだ。
 誰が、元彼だなんて思うだろう。
「…はああああ…」
 誰も想像しない。男同士だ。そういう思考に始めからならない。
(ならないよな)
 ずっと隠して生きてきた。
 誰にも言ったことはない。
 家族にさえ、自分の性的嗜好のことは慎重に隠してきた。今もそうだ。
 それを最初に見抜いたのは時枝だったのだ。
 飲み込んだ薬のかすかな苦みが喉の奥に残った。千鶴はもう一度ペットボトルの水を飲んだ。
 飲み込んで、いや、と思い直した。
 違う。
 そうだ、時枝は二番目だ。死ぬまで一生誰にも言わないと決めていた秘密を、最初に暴かれたのは、もっと、昔──
(まずい)
 嫌なことを思い出してしまい、千鶴は顔を顰めた。なんでこんなことを考えてしまったのか──溢れ出してきた記憶を、想像の両手で胸の奥の奥の隙間にぎゅうぎゅうに押し込んでいく。
 思い出したくない。
 もう誰にも好意なんて抱かない。
 好きにならなければ苦しむこともないのだ。
 あんな、バイの男なんか…
「…くそ」
 ずきずきと腹の底が痛む。
『起きた?』
 そう言って笑った時枝の顔が忘れられない。
 付き合っていたときと同じだ。千鶴が起きるといつも先に起きていて、ああやって笑っていた。
 最悪だ。
「あー…、」
 ペットボトルを持って冷えた手のひらで両目を覆った。その心地よさに目の奥がジンとする。このまま眠りたいところだが、今日は月曜日、仕事はまだまだ始まったばかりだ。
「よし仕事仕事」
 嫌なことは忘れて仕事をしよう。そうだ、時枝はもういないのだし。あいつはもう大阪だ。よし、と気合を入れ直して、千鶴は勢いよく立ち上がった。
「三苫」
 ここにいたのか、と言われ顔を向けると上司がこちらに向かって来ていた。
「お疲れ様です」
「お疲れ、休憩?」
 上げた片手には電子煙草を持っていた。奥の喫煙ブースに来たのだろう。
「はい、もう行きます」
「そうか? コーヒー奢るのに」
「はは、また今度」
 この人はいつも何かしら人に奢っていると千鶴は内心で苦笑した。奥さんから貰える小遣いは少ないらしいが大丈夫なんだろうか。
「あ、そうだ三苫」
 フロアに戻ろうとした千鶴に上司は声を掛けた。
「決まったぞおまえ」
「? はい?」
 振り返ると上司は喫煙ブースの扉を開けていた。
「例の和久井の新規プロジェクト、明後日からだって。頑張って来いよ」
「え?」
「資料置いてあるから」
 デスクの上に、と閉まる扉の隙間から上司が言った。嘘だろ、と駆け戻った自分のデスクの上に見覚えのないものが置かれている。
 新規プロジェクトの資料だ。
 なんで俺が?
 誰が決め──
「それさっき角田課長が置いてましたよ」
「──」
 資料を捲った千鶴の手がぴたりと止まった。
 書かれた文字に目を見開く。
 プロジェクト参加者一覧。
「ちゃんと薬飲みましたー?」
「なんで…」
「はい?」
 なんでだ。
 帰るって言ったくせに。
「ちょっと、せんぱーい?」
 何なんですかもう無視ですかありえないんですけど、と遠藤の声が耳を素通りしていく。
 ありえない?
 いや、それはこっちの台詞だ。
 信じられない。
 プロジェクト参加者の中に、時枝の名前が入っている。
「あれ、またどこ行くんですかー?」
「トイレ!」
 千鶴はスマホを取り出し、時枝に掛けた。


 ホテルで目覚めた後、パニックになっていた千鶴に時枝は言ったのだ。夕方にはここを出ると。
『もう必要なくなったし、大阪に帰るけどチェックアウトは今日中にしておけばいいって話だから』
 時間は関係ない、だからまだゆっくり寝てていいと笑った。
『ね、寝ない…! 寝るわけないだろ! ふざけんな!』
『千鶴』
『俺は帰…っ』
 ベッドから降り、少し歩いたところでぐにゃりと膝から崩れ落ちた。途端にぐらぐらとするほどの頭痛に襲われ、千鶴はその場に蹲る。
『──~~っ…!』
『ほら、無理だって』
 呆れたように時枝の声が落ちてくる。すぐそばの気配に顔を上げれば、時枝は千鶴を抱えようとしていた。抵抗しようにもがんがんと頭蓋を金槌で叩かれるような痛さにはなすすべもない。
『よーいしょ』
『や……っ』
『暴れないの』
『やだ、綾人っ』
 くすりと時枝が笑った。
『軽』
 時枝の指。
 久々に感じた体温に息が止まった。抱き上げられた自分の脚を見て千鶴はぎょっと身をこわばらせた。
(うそ…っ)
 むき出しの肌。
 下に何にも着ていない。
 羽織っているのはバスローブと下着だけだ。しかも寝ている間に外れたのか、バスローブははだけきっていて、紐はだらりとぶら下がっているだけだ。
 まずい、と慌てて前を掻き合わせた瞬間、柔らかなベッドの上に降ろされた。すぐに布団をかけられ、ぽんぽん、と頭を撫でられる。
『何もしないよ?』
『──』
『それとも、…してほしかった?』
 カッ、と全身が火を噴いたように熱くなった。
『っうるさい!』
 千鶴は勢いよく頭から布団を被った。
 そうじゃない!
 そうじゃなくて…!
『二日酔いの薬、置いておくからあとで飲んで? 水はそこに入ってる。俺ちょっと外に出るからさ』
 丸まって背を向けた千鶴に時枝はそう言った。着替える音がしんとした部屋にやけに響く。そしてしばらく部屋の中を動き回ったあと、時枝は本当に出て行った。
「──」
 そこまで来て千鶴ははっとした。
 いや違う、そうじゃなくて。
 余計なところまで思い出してしまいひとりで悶絶する。そうじゃないしそこじゃない。今重要なのは時枝が帰ると言ったところだ。
「どういうことだよ、っこれ!」
 バン!とファイルを机に叩きつけた衝撃で、机の上のペンが転がって落ちた。
 時枝が千鶴をゆっくりと見上げる。まるで余裕だ。そういうところが本当に嫌だ。
「どういうことって?」
「大阪に帰るんだろ?」
 もういないと思っていた時枝は普通に社内にいた。どこにいるのかと問うた千鶴に、時枝は自分の居場所を言った。休み時間になるのを待って行けば、以前所属していた営業一課であっさりと見つかった。しかも依然と変わらない場所にデスクを貰っている。
 こいつ──
「俺に言ったよな!?」
 今は昼休み、課に残った社員たちが何事かとこちらをちらちらと窺っている。だが、千鶴にはそんな他人の視線はどうでもよかった。
「言いましたか? そんなこと」
「そ…っだって」
 そんなこと?
 顎の下を指先で掻いてから、ああ、と時枝は言った。
「大阪のマンションの様子を見に、帰るとは言いましたけどね」
「はあ?!」
 ぐっ、と千鶴は睨み下ろす目に力を入れた。
「勘違いじゃないですか?」
「…っ」
 忘れたな、とうそぶきながら時枝はカップに入ったコーヒーを飲んだ。どこか明後日の方を向いたその仕草に、千鶴はきつく奥歯を噛みしめた。
 やっぱり何も変わってない。
 二年経っても同じ。
 平気で適当なことばかり言う。
「決まったことはもうどうしようもないですよ」
 確かにそうなのだ。冷静になってみれば、時枝に文句を言う筋合いではない。上の決定なのだから、彼には関係なかった。千鶴に
「……」
 感情だけで来たのが間違いだ。
 とにかく、と千鶴は深く息を吐いた。
「俺はもうおまえと必要以上のことは話さないから」
 言いたいことはそれだけだ。
「先輩」
 さっと向けた背中に時枝が言った。
「具合は? どうなんですか?」
「…もう大分いい」
「いいの?本当に?」
「……」
「まだ顔色悪いですよ? 薬飲みました?」
「……だ」
「え?」
「…うるさい」
 振り向かずに答え自分のフロアに戻った。デスクにつくとどっと疲れが押し寄せてきた。
 今朝コンビニで買ったパンがデスクの上にあるが食欲はなかった。
「何やってんだろ…」
 冷静になって、自分が嫌になる。
 仕事は仕事なのだ。
「…痛」
 結局、頭痛は終業時間になるまでうっすらと頭の端にしつこく居座り、千鶴をうんざりとさせた。


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