暁が燃えるとき

宇土為名

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 呼ばれて振り向くと、同僚の荻野がファイルを手に廊下を走って来るところだった。エレベーターホールで待つ人たちが何事かと、こちらを振り返る。
 久我さん、と弾んだ声で持っていたファイルを差し出された。
「こーれ!室長からですっ」
 間に合ってよかったと笑顔で荻野は言った。
「ありがとう」
「いいえー、行ってらっしゃい!」
 階をひとつ上がり会議に参加するだけなのだが、まるで出張にでも行くように見送られる。思わず僕は吹き出した。
「えっ、え?何ですかっ?」
「いや、なんでも」
 笑いを噛み殺しながら、それじゃ、とやって来たエレベーターに乗り込む。扉が閉まる前に見た荻野はひどくきょとんとした顔で僕を見ていた。


 会議が終わり総務室に戻ったのは昼休み直前だった。
 ランチを食べに外に行くという女性陣と入口ですれ違った。
「お疲れさま久我くん、長引いたね。一緒に行く?」
 先輩同僚が誘ってくれたが、まだやることが残っていたので断った。
「すみません、また今度」
「うん。じゃ行ってくるね」
 和気あいあいと廊下を行く彼女たちの後ろ姿を見ながらオフィスに入ると、室長の前原はまだデスクに残っていた。
「おーおかえり」
 パソコンに目をやったまま僕に手を挙げた。
「あれ、室長はいいんですか?」
「いいよ、今日は弁当だしな」
「へえいいですね」
 デスクに戻り、パソコンで社内メールを確認していく。緊急なものはない。報告書や諸々のことは午後に回すかとパソコンをスリープさせ、立ち上がった。
「久我も昼食ってこいよ」
「ああ、はい」
 オフィスに設置されているカフェスタンド(と女性陣が呼んでいるお茶コーナー)でふたり分のお茶を淹れ、弁当の包みを開いている前原のデスクに持って行った。
「あ、悪い──何、おまえも弁当?」
 驚いた顔で前原は僕を見上げた。
「コンビニのですけどね」
「じゃあこっちで食う?そこ片そうぜ」
 前原はそう言ってオフィスの片隅に設置された小さな応接セットを指さした。言うが早いがさっと立ち上がり、テーブルの上に散らばっていた資料を自分のデスクに移し始める。やけに手慣れていて、少しおかしい。
「室長、家でやってるんですか」
「そうよ?今どきお手のものよ」
 テーブルの上を素早く拭いて、それぞれの弁当と飲み物を置き、ようやくふたりして座る。
 お茶を飲み、前原が言った。
「最近なんかいいことあった?」
「え?いえ、特には…」
「ふーんそう?」
 唐突に聞かれて答えると、前原はなぜか小さく首を傾げながら頷いた。話はそれで終わり、そのままお互いに黙々と食べることに集中する。
 見るともなしにテーブルの上を見た。
 僕のは本当に朝適当に選んで買ったコンビニ弁当だが、前原の弁当は実に凝っていて、彩もよく、美味しそうだ。こんなものを作ってもらえるほど家庭が円満なのだと思えた。
「旨そうだろ?」
 いつの間にか、気がつかずに僕は前原の弁当をじっと見ていたらしく、前原が箸でご飯を突きながら言った。
「はい、あ、すみません見ちゃって」
 いいって、と前原はきれいに巻かれた卵焼きを口に放り込む。
「羨ましいなーとか思ってる?」
「は?ええ、まあ…」
「ふーん」
 もぐもぐと口の中のものを噛みながら、前原はにやりと笑った。
「これ作ったの俺よ」
「えっ」
「しかも3人分」
「さんにん…」
 確か前原のところは共稼ぎだと聞いたことがある。中学生の娘と3人暮らし…
「今度ロールキャベツ作るんだよ」
 俺がね、と前原は弁当を食べ続ける。
 朝早くから3人分の手の込んだ弁当を作るため、キッチンで格闘する前原を想像してみる。
 エプロンが意外に似合いそうだ。
「娘の誕生日リクエストでさ」
 それは…なるほど。
「お疲れ様です」
「うん、ありがとう」
 心を込めて言うと、にやりと笑ったまま前原が頷いた。


 終業時間になった。30分程残業しキリのいい所で仕事を終わらせ、パソコンを落とす。近頃は定時帰宅が推奨されていて、よほどのことがない限り残業は出来ないのが社の方針だ。明日に回せるものは明日でも構わなかった。今日は金曜日だ。急ぎのものもなく、来週でも良しということにする。
 デスクの上を片付けていると、オフィスに残っていた何人かも同じように帰り支度をし始めていた。
「あ、久我。ちょっといいか」
 デスクを立ったところで前原に呼ばれた。前原も帰るようで、既に上着を羽織り鞄を手にしていた。
「はい」
 デスクに向かう僕の横を同僚たちが口々にお疲れ様です、と言って帰っていく。僕も前原もお疲れ様、と返した。
「お疲れ様です」
「お疲れ様」
 最後に荻野が僕を見て会釈をした。何か言いたそうだったけれど、前原がいるのか何も言わず、そそくさと同僚たちの後を追っていった。
 その後ろ姿を眺め、前原に向き直った。
「何でしょうか」
 前原はじっと僕を見て、ふっと笑った。
「いや別に」
「…は?」
「おまえが困りそうだったからさ、呼んでみたんだけど」
「困りそう、ですか?」
「ん、まあ帰りながら話そうか」
 首を傾げると前原は僕の背を押して、一緒にオフィスを後にした。
 エレベーターで一階まで下り、会社を出ると前原に促されて歩いた。駅とは違う方向で、こちらに行けば遠回りになってしまう。道すがら話すのなら少しでも距離がある方がいいのかと、僕は黙って前原に従った。
 自然と並んで歩くようになる。
「荻野さんがさあ」
 前置きもなく前原が言った。語尾に吐き出した息が白く、冷たい空気に溶けた。
「今日おまえに笑いかけられたって、はしゃいでてさ」
 え、と目を見開いた。そんなことがあっただろうか。
「午前中、エレベーター、覚えてない?」
 出されたキーワードはふたつ。
 考えを巡らせて、思い出す。
「──あ」
「思い出した?」
「ああ…まあ」
 そうだった、そういえば会議に行く前にそんなこともあった。よほど困惑した顔をしていたのだろうか、前原が苦笑いして僕の顔を覗き込んできた。
「そういうこと。自覚ないんだな、おまえ」
「いや、だって、ちょっと笑っただけですよ?」
「だからだろ。日頃大して笑わないやつがいきなり自分ににっこり笑いかけてみろよ、好意があるならなおさら、舞い上がって嬉しくて色々間違ったりもするだろ」
「そんなに無表情ですか?」
 人並みに感情は出しているつもりだったが、そんなにも笑ったりしなかっただろうか。
 足の止まった僕を、前原は数歩先で振り返る。
「いや、人並みだよ」
 ただ、と前原は付け加えるように言って、目線で僕に歩くように促した。
 帰宅をする多くの人たちが側をすり抜けていく。並んで歩き出す。
「こないだの忘年会んときぐらいからかなあ…前よりも警戒心って言うの?なんかそれが消えて、雰囲気が柔らかくなってるからさ」
「え?」
「そういうのって自分じゃ気がつかないもんだよ、本当。よく見てでもしなけりゃさ」
「えーと…」
「俺は上司だから、部下のことはよく見てるのよ、これでも」
 前原は笑いながら言った。
「恋人でも出来た?」
「──」
 ぐ、と一瞬言葉を詰まらせた僕を、横目でちらりと見て、含むように前原は笑う。
「まあだからさ、それはいいんだけど。めでたいしな」
「あの、いや…」
 違うと言い切れない僕を見て、にやりと口の端を持ち上げる。
「めでたいな?」
「やめてくださいよ」
「なんで?可愛い部下が幸せなのに」
「いや本当、そういうのじゃ…」
 否定しようと見上げるも、可笑しそうに笑われていては効果はないも同然だった。まあだからさ、とふと真面目な口調になって、前原は少しだけ声を落とした。
「俺が分かるくらいだし、荻野さんはおまえをずっと目で追ってるんだから、とっくにちゃんと気づいてるよ」
「…はい。ですね」
 僕の背中を見る荻野を、前原がそれとはなしに気に掛ける様がありありと想像できる。彼は実際、オフィス内の人間関係には常に気を配る人だった。信条は、そう、円満かつ平穏に、だ。
 確かにそうだ。
 心の機微に疎い僕がうっかり彼女に期待を持たせてしまったのだとしたら、それは良くないだろう。
 はっきりと言わねばならないと分かっていた。やんわりと言うだけでは伝わらない。
 彼女にとってもそのほうがいいのだ。いつまでも僕を想うことは彼女の時間を削り取っていくだけで、不毛だった。何も実を結ばない。
 荻野さんが望むようなことにはならないのだ。
 本当のことを言う覚悟を、僕は決めなければいけなかった。
「殴られたら湿布貼ってやるから」
「やめてくださいよ」
 茶化すのを笑って窘める。上司ではあるが、この人は年の離れた友人のように気の置けないところがあった。
「今日これから彼女と会うなら、うちの女性陣に気をつけろよ」
 飲みに行くって言ってたぞ、と笑う。
 僕は前原の横顔を見た。面白そうに目を細めている。
 この人になら言えるだろうか。
 自分のことをきちんと打ち明けられることが出来たなら、僕も、誰かの思いに報いることになるだろうか。
 荻野さんに言う前に、前原には伝えておきたい。
 自分で言わなくても、知られるときは来る。いつかは、きっとある。出来ることなら自分の口で、人を介して伝わることだけは避けておきたかった。
 居心地のいい場所はなくなるかもしれないけれど。
 笑って、僕は言った。
「彼女じゃなくて彼氏ですよ」
「ふーん」
 一拍のち、口の端を持ち上げた前原と目が合った。

***
 
 最寄り駅で降り、スーパーでいつものように週末分の買い出しを済ませた。今日は少し量は多めだ。
 坂を上がり、マンションの入り口が見えてくる。
 エントランスを抜け、エレベーターに乗り、部屋のある階に着く。
 通路の奥に人影が見えた。
 足音に気づいてその人影が振り向いた。
「おかえり」
 白い息がふわっと広がる。
 僕は苦笑した。
「入っておけばいいのに」
 渡した鍵を彼はなかなか使おうとはしない。僕は鍵を取り出してドアを開けた。
「どうぞ」
 お邪魔します、と常盤が律儀に言い靴を脱ぐ。その後に僕は続いた。
 今日は彼が来る日だった。


 あれから3週間あまりが過ぎ、僕たちは大体の週末をほとんど僕の家で過ごすようになった。
 常盤は一度家に戻ったが、来年からは上京し、こちらで仕事をするようだった。今はその準備期間で諸々のことに追われている。
 その話を最初に聞いたのは常盤が帰る日、日曜日の夕方、駅に向かう車の中でだった。
 辺りはもう陽が落ちる間際の藍色の闇に包まれていた。
「え?」
 僕は驚いた。
 なぜ父親の写真館があるのにわざわざ上京するのかと問うた僕に、常盤は事もなげに言った。
「あそこは元々再開発の話があってさ、古い商店街だろ?今どき誰も来ないし、残ってるのはもうウチくらいのものだったんだ。それにちょうど従妹が別の場所で写真の仕事を始めたいって言うんで、機材やらなんやら欲しいものは持ってってもらったんだよ」
 従妹?
「って言ってもまだ学校出たばかりのやつでさ。何も出来ないんだけど。まあ将来的には物はないよりもあったほうがいいだろってことで。でも俺がこっちにいる間店番させてたんだけど、態度悪くて全然使えなくて…」
「きみ、こっちにいたのか?いつ?」
 常盤は驚いたように僕を見た。
「え…と、直さんが帰って、通夜の後少し…それからまた来て、真紀さんを探すのもあったから行ったり来たりしてた」
 結構な期間だ。
「写真館には今…その従妹の人が?」
「ああ、最初だけ。電話だけ残ってて、あとはもう転送にして、携帯に掛かるようにしてたんだ」
「……」
 僕はようやく納得した。
 常盤の電話を折り返して掛けたときに出た女性は、その従妹だったのだと。
 ひどくほっとしていた。自分で思うよりもどこかで引っ掛かっていたらしい。
 気づかれないように息を吐いた。
「仕事はどうするんだ?」
 もう決めてあるよ、と常盤は笑った。
「こっちで仕事してた期間の方が長いから、知り合いも多くて。で、前のとき世話になってた人からずっと誘われてた仕事があるんだ。条件もいいし、そこにするよ」
「そう」
 よかった、と僕は呟いた。
 それから、常盤は週末ごとに上京してくるようになった。
 実家である写真館の後始末をつけるため今まで縁のあった人たちに廃業の挨拶状を書いて送り、土地の引き渡しのことなどやることは山のようにあるようだったが、少しもその大変さを見せないのが彼らしかった。
 先週は僕の誕生日をふたりで過ごした。
「明日荷物届くんだけどよかった?」
「いいよ?どうせ家にいるし」
 キッチンで夕飯の用意をしていると常盤が後ろから覗きこんできた。
 彼は来月から、住む場所が決まるまでこの部屋にいることになった。幸い、少し狭いが書斎として使っている空き部屋があるので、そこを彼に明け渡した。仕事場の近くは時期的なものか手ごろな部屋の空きがなく、来年の春まで待ったほうがいいかという結論になったからだ。もちろん、もっと早くに見つかることもある。
「食べようか」
 テーブルの上に出来たものを並べていく。ひとりでは持て余していた大きさのテーブルもふたりならちょうどよかった。
「これ──」
 よそおった皿を持ち、常盤に渡そうと振り返ろうとした瞬間。
 ワイシャツの襟を引かれ、うなじに口づけが落ちてくる。
 後ろから抱え込まれて、手に持っていた皿が傾き何かが落ちた。トマトだ。
「こらっ馬鹿っ、ちょっ、落ち──」
「──」
 ご飯は後でいいかと問う声が耳元でした。


 自分の上げた声が部屋に響いた。
 まだ夜になったばかりだというのに。
「…あ、も、もう…っや、あぁ…!」
「駄目、まだだよ」
 我慢して、と低く甘い声で言われ、背筋が震えた。
「こっち向いて、ほら」
 思えば僕はこの声にどこまでも弱かったのだ。ぐずぐずに溶け、抗いきれずに背けた顔を向けると、深く口の中を貪られ思うさま犯される。
 同じ夜をなぞるように僕たちは繰り返していく。
 週末が終わり、常盤が帰っていった部屋の中はがらんとしていた。届いた荷物を結局ほどく事もなく、ずっと部屋に引き籠って過ごした。邪魔もされず、誰も訪ねて来ない──一度だけ来た運送業者には常盤が対応していた。僕はそれを眠りの中で聞いていた気がする。
 緩やかな時間だけが流れる。
 何もかもがまるでなかったかのように過ぎていく。
 気がつけばもう年の瀬だった。
 来週末からの年末年始の休みは、僕が常盤の元に行くことになっている。
 窓の外は夜の闇だ。
 満月に少し足りない月がカーテンの隙間から見える。
 あの町にまた、僕は行くのだ。そのことを思った。
 そのことだけを考える。
 けれど、その前にひとつ、僕にはやるべきことが残っていた。

***

 仕事納めの今日は誰もが足早に帰っていく。
 いつもよりも早い終業時間。
 挨拶をして外に出ると、雪でも降りそうな空模様だった。重く垂れこめた雲が見える限りの空を覆っている。今にもその隙間から白い雪が落ちてきそうだ。
 見上げていると、ぽん、と背中を叩かれた。
「くーがさん、駅まで一緒に行きましょ!」
 僕は振り向いて苦笑した。
「すごい格好だね」
「ええっ、だって寒いじゃないですか」
 荻野が目元までマフラーに埋もれた顔を上げて抗議する。軽く睨まれて、ごめんと言うと、荻野は悪戯を思いついたように目を細めた。
「じゃあいい加減彼の写真見せてくださいよ」
 僕にだけ聞こえるように小声で言うのは、彼女なりの配慮らしいが、すぐそばを大勢同じ会社の人たちが通り過ぎていく今は、少しどきりとして心臓に悪い。
「外では言わないんだよ」
 笑いながら言うと、荻野はしまったというように目を丸くして、両手で僕を拝んだ。
「うわーすみませんっ」
 基本は口の堅い彼女だが、こうした戯れのように時々口にしてしまうのは、僕がいつまでたっても荻野の望みを叶えていないからだった。
「じゃあ写真の件はなしだね」
「ええーっ!そんなあ」
 荻野は僕が彼女に自分のことを告白したそのときから、僕の相手の顔をひどく見たがっていた。
「久我さん約束っ」
「ペナルティで来年に持ち越しだね」
「ええっ」
 ぐるぐるに巻いたマフラーの中で頬を膨らませている荻野は、数日前から僕の秘密を知る人になった。


 週のはじめ、僕は荻野に自分のことを告白した。
 それは終業後、オフィスに残った彼女とふたりで退社をしたときだった。
 駅に向かう道すがらゆっくりと歩く彼女に僕は歩調を合わせた。
 雰囲気が変わりましたね、と荻野が言った。
 そうかもしれないね、と僕は言った。
 世間話のように。
『彼氏が出来たんだ』
 沈黙が落ちた。
 横を歩いていた彼女が足を止め、僕を見上げた。
『僕はそういう人間なんだよ』
 呆けたようにじっと荻野は僕を見ていた。
 やがてぽつりと言った。
『どうして…私に言うんですか?そんな大事なこと、なんで私に言っちゃうんですか?』
『荻野さんにはずっと言おうと思ってたんだ』
『…え?』
『でも怖くて、言えなかった』
『そんな……』
 呟いて俯いた荻野の目から、ぽつりと涙がひとつ落ちた。そばを行き過ぎる人たちが何事かと目を向けていく。恋人同士の別れ話かと傍目には見えているのだろう。僕は通行する人たちから彼女が見えないようにした。
 やがて彼女は手の甲で目元をぐっと拭い、顔を上げた。
『久我さん、私、分かりました』
 ごめん、と言いかけてぐっとそれを飲み込む。それはあまりにも自分勝手に思えて、言えないと思った。謝られたところで、荻野にはどうすることも出来ない。
『誰にも言いませんよ、私。私と久我さんだけの秘密ですね』
 そうだね、と僕は言った。だけ、ということはもうなくなったが──前原も知っているのだし──だが、お互いにその話題は出さないだろう。
 確かに、僕と荻野の秘密だった。
『ありがとう』
『いえ、こんなことを打ち明けてもらえて、私、幸せですよ!』
 ばん、と背中を痛いくらいに叩かれる。
『それに私、BL好きなんですよねっ』
 ちょっと違う気がする。
 まだ少し濡れた目尻を拭いながら荻野は笑った。
『今度こそちゃんと写真見せてくださいね』
『そのうちにね』
 と僕も笑って言った。


 じゃあまた、と言って荻野と駅で別れる。
「よいお年を」
「荻野さんも」
 手を振る彼女を見送って、僕は自分の乗る路線の方へと足を向けた。
 改札を抜け、まだそう人の多くない駅の構内をホームに向かって歩く。ふと視線の先を見覚えのある人がこちらに向かって歩いてくる。
 朝倉だった。
『友達になろう』
 そう言って渡された、インクの滲んだペーパーナプキンは今も僕の家の本の間に挟んである。
 3度目の偶然とは出来すぎている気がした。
 なぜか目が離せずに見ていると、相手もふと目線を上げ、僕に気づいた。目元が緩んだ笑顔になる。
「やあ」
「どうも」
 会釈をすると、朝倉は一瞬目を瞠り、それから微笑んだ。
「無視しないんだな」
「…そんなことしないよ」
「連絡待ってたのに」
 からかうような口調で朝倉が言う。
「相手が出来た?」
「え…?」
 そんなに僕は分かりやすいのだろうか。
 目を瞠ると、くすっと朝倉は笑った。
「残念だな。本当に友達になりたかったのに」
 本当に、ひどく残念そうに朝倉は言った。それが彼の手なのかもしれないが、僕は思わず笑っていた。
 構内に電車の入ってくる音が響く。
「お互い名前も知らないのに?」
 朝倉は偽名だろうと言うと、彼は苦笑した。
「じゃあ4度目があったら、そのときは教え合おうか」
「あればね」
 そんなことはもうきっとないだろう。
 別れ際、朝倉はじっと僕を見て、言った。
「俺はあの店に大抵いるんだ。何かあったらいつでもおいで」
「うん…ありがとう」
 そう、状況さえ違えば、僕たちはきっといい友達になれただろう。
 けれど僕の手の中にはもう望むものが入っていた。
「じゃあまた」
 と彼は言った。
 僕は笑みを返し、背を向けてホームに向かった。

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