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 放課後の教室には、その日は四条を含めた撫子たち四人しか残っていなかった。
 机を向かい合わせにして四人一組を作る。男女に分かれて対面に座ってそれぞれ自由に勉強に励みつつ、分からないことがあれば積極的にみんなで相談し合った。
 向かいでは咲恵が隣の美南を手招きで呼び、一つの参考書を覗き込んでいる。撫子はそんな二人の様子を見て、自分もやらなければと奮起して教材に向かうものの、どうしても頭が働かない。
 だましだまし問題を解いていたが、ついに自分の迷いと向き合えとでも忠告するように、シャープペンの芯がポキリと綺麗に折れてノートに歪な線を描いた。
 ハッとして折れた芯を指で払いのける。しかし、再び問題に向き合おうとしても、もう腕は動かない。
 完全に集中力の切れた自分に内心でため息を落とし、折れた芯で引っ張られた線を消していく。
 その最中、横に座る四条をチラリと見た。彼は真面目に試験範囲の復習をしていて、それがあまりにいつも通りだから、詩織に告白されたというのも嘘なんじゃないかとさえ思えてしまう。
(四条くん、好きな人いるの……?)
 たったそれだけのことが、棘となって胸に刺さって抜けないのだ。なにをしていてもぐさぐさと痛みを伴って存在を主張してくるので、心の奥にしまい込んで忘れることも出来ない。
 かといって、その短い言葉を直接訊くことも出来ないのだ。臆病な自分が心底いやになった。
(好きな人って、宇崎くん? でもあれは恋じゃなかったって……じゃあ、新しく好きな人が出来た?)
 とたん、ズキンと痛んだ自分の胸に内心で苦笑が滲む。ああもう、どうしたらこの気持ちを諦められるのだろうか。誰か知っているのなら教えて欲しいと胸中で天を仰いだとき、向かいから「なっちゃん?」とにわかに大きな声で呼ばれてハッと顔を上げた。
 見ると、咲恵と美南が心配そうに眉を下げて撫子を見ていた。
「ご、ごめん。聞いてなかった」
「いいのいいの。ちょっと英語で分かんないところがあってさ、訊こうと思っただけだから」
 どこ? と身を乗り出すと、咲恵が教材をこちらに向けて一つの問題を指さした。見覚えのある文章に撫子は自分の教科書を開き、「ここ」と例文を示した。
「これと同じ文法だよ。たしか先生がくれたプリントにもっと詳しいのがあったはず」
 二人はまじまじとページに眼を走らせると、「ああ~」と納得の声を上げる。
「これ、あのときにやったやつか~」
「なんとなく見覚えはあったんだけどねえ……ありがとね、なっちゃん。助かった」
 鞄を漁ってプリントの束から目当ての物を引き出しつつ、二人が笑顔で礼を言ったので頷いて返す。そうやって再び問題に向き直ったかと思ったが、ふと美南がなにか気づいたように時計を見て「あれ?」と口をついた。
「なっちゃん、もうこんな時間だけど今日はいいの?」
 心配げに言われて慌てて時間を確認すると、いつも解散する時間をすでに過ぎていた。今からじゃ普段の下校バスに間に合わない。下手すると、もう一本遅いのでさえ危ないかもしれない。
「ご、ごめん! 俺もう帰るね」
「……なんだ香月、もう帰るのか?」
 いそいそと鞄に放り入れて帰り支度をする撫子に、四条が不思議そうにゆっくりと瞬きをした。
「なっちゃんはいつも夕飯のお手伝いするからこの時間には帰んないといけないの」
「こう見えてなっちゃんは料理上手いんだからね~?」
「香月がいつも飯作ってるのか?」
「なっちゃん、家事はなんでもできちゃうスーパーマンだから。おうちの手伝いたくさんしてて偉いでしょお?」
 なぜか二人が自慢げに言うが、それに丁寧に返している余裕もなく、撫子は教材を詰め込んだ鞄を手に三人に手を上げて別れた。
 教室を飛び出て学校前の通りのバス停に足早に向かい、到着してから時計を見てほっとした。どうにか二本目を逃すことなく帰れそうだ。
 息を整えていると、遅れて駆けてくる足音に気づき顔を上げた。すると、どうしてか四条が道路を渡って撫子の隣に来るものだから困惑した。
「四条くん? なんでここに……?」
 四条もバス通学ではあるが、撫子とは反対方向だから同じバス停を使うはずがない。なんで? と疑問のまま問いかけると、彼はどうしてか難しい顔をして「なんか思い詰めた顔してたけど」と答えになっていないことを言い出した。
「なんか悩んでることあるのか?」
 言い当てられ、ドキリとした。表情を取り繕うのは得意だったはずなのに、こと四条への恋心に関してはとんと上手くいかなくなる。
 戸惑い閉口した撫子だったが、もういっそこの機会に訊いてしまった方がいいのではと思い直した。
 だが、まるで遮るようにバスが到着して、撫子は慌てて定期券を手に乗車する。残念なような助かったような複雑な気持ちで振り向いて四条に手を振ろうとしたとき、車内の真後ろに彼がいて声も出せずに驚いた。
「四条くんなんで……え、だってバス停あっちじゃ……」
 反対方向に向かう道路を挟んだ停留所をそろそろと指さすが、彼は珍しく歯切れ悪い様子で「……送ってく」と絞り出したように言った。
 今考えたような言い草に、撫子の頭に再び疑問符が増えた。
 結局そのまま撫子の最寄りの停留所で二人は揃ってバスを降りた。
「本当に家まで送るの?」
 頷かれて撫子はほとほと困った。
 どうして四条がそんなことをするのか、まるで分からない。うんうんと頭を悩ませる撫子の横で、ふいに四条が静かに言う。
「おれ、今日ほかのクラスの女子に告られた」
 足を止めた四条は、少し戸惑うように唇を震わせてから、
「最近、あいつと一緒にいたよな。相談されてたのか? ……相手が俺だって、お前知ってたのか?」
 振り返った撫子は、居心地の悪さに視線を泳がせた。責められている気分になるのはなぜだろう。まるで浮気現場でも見られたような気分だ。
 四条は撫子が彼を好きだとは知らないはずなのに、まるで不義を働いた者を見るような痛みの走った瞳が注がれる。
 やがて撫子は小さく、そしてゆっくりと頷いた。瞬間、四条は傷ついたように肩を落として「そっか」と笑った。
 そんな彼に声をかけたいのに、その傷ついた原因が分からない。なんて言ったらいいのか言葉が出てこず、もどかしさに顔を歪めた撫子の肩を四条が軽く叩き、帰るぞと促した。その笑顔には、もう傷ついた様子はなかった。
「大丈夫だ。分かってたことだし、そんな簡単に上手くいくとも思ってないから」
「なにが……?」
「お前は気にしなくていいよ」
 ふわりと柔らかくなった口許と目尻に、撫子の心臓がぽっと熱くなった。だが、今はそんな場合じゃないと気を引き締めた。
「今日、ここまで一緒に来たのと関係あること?」
「関係……あるといえばあるけど」
「けど? あ、着いちゃった」
 ふと目の端を過った自宅に、撫子はあっと口を開けて足を止めた。撫子の視線を追うように、四条は香月の自宅の全貌にゆるりと視線を巡らせた。
「ごめんね、俺夕飯の準備しないといけないから」
 本当はもっと話していたいけれど、時間も時間だ。腕時計を見て時間に追われるようにそそくさと玄関に向かおうとすれば、焦った様子の四条に手をとられた。
「あ、あのさ!」
 それは咄嗟に口をついたようだ。呼び止めたはいいが、言葉を探すように口が何度も開いては閉じ、痺れを切らした撫子がその手を引き抜いて声をかけようとすると、逃げられるとでも思ったのか腕の力を強くして彼が言った。
「きょ、今日! お前んち泊まってってもいいか!?」
「ええ?」
 突拍子もない言葉に戸惑いの声が出た。そして、撫子の背後でも同じように驚きの声が上がる。
「ま、眞梨ちゃん」
「その人、お兄ちゃんの友達?」
 知らない男の姿に、眞梨が玄関から顔を出しておずおずと訊ねる。その瞳の奥は、どことなく非日常的な雰囲気を感じ取ってキラキラとしていた。
 撫子が頷くのと同時に、四条が丁寧に頭を下げたあと、眞梨の警戒を解くためか口の端を上げて名乗った。
「きみのお兄ちゃんと同じ学校の四条丞です。えっと、きみは眞梨ちゃん?」
 チラリと視線で確認するように四条の眼が兄妹の間を揺れた。こくりと、兄妹は揃って頷いた。さっきまでの恐々とした様子が消え、眞梨は瞳の奥の輝きを前面に出した。くるりと背を向けてバタバタと家の中に戻ったと思えば、閉じかけた玄関扉の奥から
「お兄ちゃんが男の友達連れてきたー!」
 と、ずいぶんとうきうきとした声が大きく響いた。
 ビックリして思わず四条と眼を合わせた。慌てて眞梨の後を追って声をかけようとしたが、撫子が扉を開けるよりも早く内側から開くと、今度は雅海や尚紀まで揃って外に顔を出した。
 撫子の隣にいる四条に気づくと、養父母はそっと髪をかけ直したり撫でつけたりといそいそと居住まいを正した。
「あらあらいらっしゃい」
「外寒いだろう? ほら、早く中に入って」
「四条くんだって。今日うちに泊まるらしいよ」
 中へと促す両親の間で、眞梨がにっこり笑って言うものだから、撫子はもちろん言い出した本人である四条も慌てた。
 さすがに急な訪問で泊まりとは、非常識だという自覚があったらしい。四条が早口で言った。
「初めまして。同じ学校の四条丞です。その、撫子くんとは今日は一緒に帰ってきただけで……」
「えーさっきは泊まりたいって言ってたのに」
 四条の弁明は、口を尖らせた眞梨の声にかき消された。
「あら、お泊まりいいじゃない」
「明日は土曜日で学校はないし、服は撫子くん……のは無理でも僕のがあるしね」
「私も学校でのお兄ちゃんの話ききたーい!」
 当人たちよりも乗り気な家族に、押され気味で二人はたじたじになった。勢いに流されるがまま「お世話になります」と頷いた四条を、三人はそれは嬉しそうに笑って家へと招き入れたのだ。
「作り過ぎちゃったと思ったけど、ちょうど良かったわ~」
「四条くんの分は新しいお茶碗を出そうか」
 軽い足取りでキッチンへと戻る三人を玄関口で見送った撫子は、ハッと我に返って四条に頭を下げた。
「ご、ごめん……なんか三人ともすっごく乗り気で」
「いや、言い出したのは俺だし。親には一応連絡したから大丈夫だ」
 むしろ俺のほうこそごめん……と、四条は珍しく落ち込んだ様子で謝罪した。
 ここまで来たのだからと大人しく家に上がり、キッチンのほうへと撫子が先導しようとすると、また手を掴まれて呼び止められる。さっきよりも弱い力と声で、密やかに低い声で言った。
「お前の母親ってあの人なのか? ……その、隣の男は父親?」
 困惑したヒソヒソ声に、撫子は内心で「ああ」と得心がいった。
(そういえば、四条くんにはお母さんに捨てられたことは言ってなかったんだっけ……)
 だから件の母とその恋人が、雅海と尚紀ではないかと誤解している。ただ、想像していた人物と違ったからかなり困惑しているのだ。
「えっと、あの人たちは俺を引き取ってくれた人たちで……・」
 自然と言葉が濁ってしまう。
 だが、あんまりここでうじうじしていたら、気にした三人の内の誰かが呼びに来てしまうかもしれない。そのときにこの話を聞かれるのもまずい。
 まだ母に未練があるなんて勘違いされたら、それこそ家族の輪には入れなくなってしまう。
 たった一言だ。なんてことない。――そうやって自分を奮い立たせ、でも表面上はなんでもないことのようにさらりと口にする。
「おれ、六歳の時にお母さんに捨てられちゃったんだ。香月の人たちはそんな俺を家族に入れてくれた優しい人たちなの」
 どんな反応するか内心でビクビクしていたが、四条は大きな動揺はなく
「なんだ……そっか」
 と気が抜けたように言った。
「お前、家事とかほとんどやってるってあの二人が言ってたから、てっきりあの母親にやらされてるんだと」
「違うよ! 俺が役に立ちたくてやってるだけ。雅美さんとかは無理しないでって言ってくれるし、眞梨ちゃんもよく手伝ってくれるから」
 向こうの三人には聞こえないように小さく、けれど必死に弁明した。
「けどお前、今日ずいぶん悩んでたみたいだから……なにかあったのかと思ったんだよ」
「それは……家族とは関係ないことだよ」
 答えた後に、撫子はふとある可能性に気づいた。
「もしかして、俺が心配だから家まで来てくれたの……?」
 驚愕に眼を見開き、まさかとばかりに撫子は言った。
 言いながら、半分冗談でもあった。だってそんな都合の良いことあるはずがない。それなのに、恥じるように頬に赤みをさした四条が照れつつも頷くから、胸がいっぱいになってふと泣きたくなった。
「ふ、ふふ……それで家まで着いて来ちゃったの? ほんとに?」
 吹き出すように眉尻を下げてクスクスと笑う撫子だが、その声はかすかに震えてる。気づいた四条が、そっともう一方の手で肩を抱こうとしたとき――。
「二人ともー? 温めたから早くいらっしゃーい」
 雅美に呼ばれて、ピタリと動きを止めた。ちらりと刹那に眼を合わせから、撫子が先導する形で三人の待つキッチンへと向かった。


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