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第二章 侯爵家の舞踏会と図書室での密会
七
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帰宅して三、四十分後の、九時を回ったころだった。
伯爵夫妻が外出した日の屋敷はのんびりとした空気に包まれている。
まだ年若い家丁のなかには、こっそり夜の街に出かけていく者もいた。
美津に手伝ってもらって着替えを終え、机に座って書き物をしていたとき、窓を叩く小さな音がした。
「桜子」
小さな声だけれど、聞きまちがえるはずがない。
愛しい、天音の声。
「天音! 天音なのね」
「しっ。声をたてないで。10分ほどしたら、洋館の図書室に来てもらえるかい」
「ええ、必ず」
「ではのちほど」
それだけ言うと、天音はさっと立ち去った。
桜子はすぐに美津を呼んだ。
「いい。お父様とお母様がお戻りになってわたくしをお呼びになったら、『気分が悪いのでもう休んだ』と言ってちょうだい」
「わかりました。お嬢様」
「そうだわ、これ、お前にあげる」
そう言って、桜子は舞踏会の引出物の、砂糖菓子の入った美しい意匠の缶を取り出した。
美津の目が輝く。
「中島侯爵に頂いた大切なお菓子をわたしに?」
「かまわないのよ。でもけっして、他の者に見せびらかしたりしないでね」
「はい。わかりました、お嬢様」
美津を下がらせ、桜子はそっと部屋を出て、図書室へと向かった。
***
図書室は、英国の大学図書館の一室をまねて作らせた、父の自慢の部屋である。
所蔵されている本は和書と洋書が半々。
桜子は天音が読書家であることを知っていた。
英語の書物も読めるらしく、たまに父に頼まれて翻訳もしているそうだ。
それで、彼は特別に図書室の合鍵を預かっていた。
何しろ、この家の使用人のなかで、もっとも目を惹く美しさを備えている天音。
彼は年若な女中たちの憧れの的であり、彼のことはどんな些細なことでも噂になった。
翻訳ができるという話を聞いたとき、桜子はとても誇らしい気持ちになった。
なんて利発なのだろう、彼は。
彼のような人こそ、学校に通って学ぶべきなのに、と桜子は思う。
身分っていったいなんなのだろう。
御維新後、士農工商という身分制度はなくなったけれど、いまだに、身分の違いは人々の間に厳然と存在している。
伯爵の娘と使用人。
生まれた家が違うだけで、どうして差をつけられなければならないのか。
わたくしたちはただの天音と桜子なのに。
そんなことを考えながら、図書室の前まで来た。
伯爵夫妻が外出した日の屋敷はのんびりとした空気に包まれている。
まだ年若い家丁のなかには、こっそり夜の街に出かけていく者もいた。
美津に手伝ってもらって着替えを終え、机に座って書き物をしていたとき、窓を叩く小さな音がした。
「桜子」
小さな声だけれど、聞きまちがえるはずがない。
愛しい、天音の声。
「天音! 天音なのね」
「しっ。声をたてないで。10分ほどしたら、洋館の図書室に来てもらえるかい」
「ええ、必ず」
「ではのちほど」
それだけ言うと、天音はさっと立ち去った。
桜子はすぐに美津を呼んだ。
「いい。お父様とお母様がお戻りになってわたくしをお呼びになったら、『気分が悪いのでもう休んだ』と言ってちょうだい」
「わかりました。お嬢様」
「そうだわ、これ、お前にあげる」
そう言って、桜子は舞踏会の引出物の、砂糖菓子の入った美しい意匠の缶を取り出した。
美津の目が輝く。
「中島侯爵に頂いた大切なお菓子をわたしに?」
「かまわないのよ。でもけっして、他の者に見せびらかしたりしないでね」
「はい。わかりました、お嬢様」
美津を下がらせ、桜子はそっと部屋を出て、図書室へと向かった。
***
図書室は、英国の大学図書館の一室をまねて作らせた、父の自慢の部屋である。
所蔵されている本は和書と洋書が半々。
桜子は天音が読書家であることを知っていた。
英語の書物も読めるらしく、たまに父に頼まれて翻訳もしているそうだ。
それで、彼は特別に図書室の合鍵を預かっていた。
何しろ、この家の使用人のなかで、もっとも目を惹く美しさを備えている天音。
彼は年若な女中たちの憧れの的であり、彼のことはどんな些細なことでも噂になった。
翻訳ができるという話を聞いたとき、桜子はとても誇らしい気持ちになった。
なんて利発なのだろう、彼は。
彼のような人こそ、学校に通って学ぶべきなのに、と桜子は思う。
身分っていったいなんなのだろう。
御維新後、士農工商という身分制度はなくなったけれど、いまだに、身分の違いは人々の間に厳然と存在している。
伯爵の娘と使用人。
生まれた家が違うだけで、どうして差をつけられなければならないのか。
わたくしたちはただの天音と桜子なのに。
そんなことを考えながら、図書室の前まで来た。
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