大奥~牡丹の綻び~

翔子

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第三章 出立前夜の真実

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 京の三条大橋と江戸の日本橋を繋ぐ道を【東海道】と呼ぶ。その路は片道二週間は掛かるほどの長い道程であるが、各地に宿場が五十三設けられ、旅をする者達はその宿で休息を取り、それぞれの行く先へと目指す。

 整備された広い道には松並木が両端に植えられ、江戸や京にも無い自然の絶景を楽しむ民たちで溢れていたという。その風景や人々の営みは数々の絵師によって描かれ、有名なのは、歌川広重の【東海道五拾三次】だろうか。

────────────────────

 季節は、春の暖かさから初夏へと移り変わり始めた六月のこと。

 ご公儀は、江戸時代初期に建てられた街道筋にある御用御殿を修繕させ、周囲の警護をより厳重にする準備が進められた。予定の二週間より長く時が掛かる事を鑑み、御台所となる鷹司藤子の御道具類や調度品は先んじて江戸城大奥へ送られる手筈となった。

 江戸城では、将軍継嗣たる徳川家正が西ノ丸から本丸へと移り、六月二十日には将軍宣下を受けて十七代将軍と正式に決められた。
 先代将軍の徳川家達は大御所として西ノ丸に入れ替わるように移ったが、正室・泰子ひろこは大御台所として引き続き、本丸大奥に残った。

 いよいよ、一ヶ月後に迫った江戸城入りが近付き、藤子は万寿御殿ますごてんで学んだ琴、鼓、茶の湯をそつなくこなし、師範顔負けの上達ぶりを見せた。言葉訛りも目立たなくなり、もはや京の姫君ではなく、江戸の姫君と見紛うまでになっていた。


鷹司家・上屋敷 ───────

 万寿子は藤子を連れ立って上屋敷へと赴いた。
 母・淑子としこが選りすぐった婚礼調度がすべて整ったとの報せがあったからだった。母が自分の婚礼道具を調達してくれていたことをその日初めて聞かされ当惑したが、その思いは一気に覆された。

 【表道具七品】と云われる──長柄ながえ・駕籠・長刀なぎなた挟箱はさみばこ・お茶弁当・煙草盆・薬用おもく茶碗。その他、数百に上る打掛と長着。数多の簪・櫛類。香道具、茶道具一式などなどが上段、下段、次の間に至るまで並べられており、その光景は圧巻だった。
 息を呑むほどの新品の調度品を、これまで見た事が無かった藤子は驚き入ったが、これらを取り揃えた母の隠された慧眼に感服するしかなかった。

「これらは全て、宮さんの物なんでございますねえ。ひやぁ素晴らしい!」

 龍岡も付いてきていた。煌びやかな光景に目を取られていた藤子はどこか上の空だった。

「吟味を始める」
 
 語気を強めて万寿子が言うと、藤子は背筋を伸ばした。淑子とその女房・能登は固唾を呑みながら、万寿子の少し後ろを付いて行った。

 祖母は、厨子棚ずしだなの上に乗せられた動物のような形をした置物を手に取り、念入りに顔を近付けている。棚を、引き出しを開けてまわり、漆塗りに金蒔絵が施されている所までめ回すように見た。
 その後も念入りに先ほどの表道具七品を改め、衣桁に掛けられた打掛も、織り難や縫い損じなどが無いかどうかを確かめて回った。

 その姿はさながら、絵草紙に出てきた手相をみる卜者ぼくしゃのようだった。

 何刻か経ったろうか、陽が天の中央に差し掛かった折、万寿子は淑子たちの前に膝をついた。藤子は微睡みの中から気を取り戻し、祖母を見据えた。

「淑子」

「はい」

 じっと見つめる義母に呼ばれ、淑子は両手を付いて返事をした。しばらくの沈黙が流れた後、万寿子は微笑んだ、

「申しぶん無い! ご苦労であったな」

 万寿子の採用宣言に、淑子は緊張の糸が切れその場に倒れた。

御前ごぜんさん!」

 後ろにいた能登がすかさず背中を受け止めたおかげで傍らにあった文机に頭を打つことは無かった。

「おたあさん!」倒れる瞬間を目の当たりにした藤子が駆け寄った。「大丈夫にございますか?」

 虚ろな目を向けた淑子が藤子の顔を見た瞬間ほっとしたように微笑んだ、

「藤子さんがそないな話し方をなされると、なんとのう、けもじおすなぁ。お上手さんですえ」

 淑子は戯れを口にし、力なく笑った。藤子はこのまま母が死んでしまうのではないかと不安になり、思わず支えていた手に力を込めた、

「おたあさん、しっかりして」

「藤子さん……あなたさんのために、出来得る限りのことをしましたえ。この母の思いを受け取り、遠い江戸に移っても忘れないでいておくれ」

 母からの暖かい言葉を受け、藤子は目頭が熱くなるのを感じた。

 一部始終を黙って眺めていた万寿子は、この二人が、永久とわの別れになるやもしれぬことに無念を覚えた。御台所となった姫君は、その一生を大奥に骨を埋めるその時まで、故郷へ帰る事は許されない慣わしだ。下々に仕える女中ならいざ知らず、家族への面会もそう容易なものではなかった。

 万寿子はこの後、藤子に、江戸へと出立するまでの間、家族と共に過ごすことを許した。七月一日には都を離れるのだ。

────────────────────

「お祖母さま。今宵はどうなされるのでございますか?」

 吟味の後、藤子は場を移し、濡縁から庭を眺めていた。雑草が生えた小さな庭を見下ろしながら、万寿子は茶を飲んで応えた、

「これを飲んだらすぐ御殿へ戻る。わたくしは本来、隠居の身。上屋敷にいてはならぬのじゃ」

「お一人であの広い万寿御殿にいるのはお寂しゅうござりましょう。もしお祖母さまがよろしければ、ご一緒に上屋敷で暮らしませぬか?」

「何を申す……煩わしいだけであろう。それに私がおったら、周煕が甘えてくる。尤も、私がいなくとも頼りない当主であるがな」
 
 万寿子は、息子が博打にうつつを抜かしていることを知っていた。家の金子を使い、はたまた娘のために用意された支度金まで使おうとしていた話を、淑子から聞いていたのだ。
 注意することは簡単だが、昨今の公家の地位を思うと、立派な公家の当主などもはや必要ない。今更、しっかりせよと、尻を叩いたとて何になるものでもないのだ。

「そういえばそなた、私の事をきろうておったのではなかったのか?」
 
 万寿子が不敵な笑みを浮かべながら訊いた。藤子は突然の問いに顎を引き、上目遣いをした。

「正直なところ、嫌うておりました……。されど今は、わたしを変えて下さった恩人と思うておりまする。お祖母さまからご教育を賜らなければ、弱いわたしのままでございました」
 
 藤子は恥ずかしそうに指を弄んだあと、真っ直ぐと目を見つめた。
          
 いつ何時でも、親しみを感じさせない祖母の素振りや話し方には苦慮した藤子だったが、熱心な教育においては愛を感じていた。もはや恐れたり震えたりすることは無くなり、真反対である尊敬の念というものを万寿子に対し感じていた。
 
 屈託のない目で見つめられ、思わず万寿子は顔を背けた。この二月ふたつき、孫に対し鬼のように接して来た。そのことについて近頃、後悔を感じるようになっていた。どんなに冷たく扱っても、慕ってくれるのが孫なのだと改めて知り、嬉しく思った。

「お祖母さま?」と藤子は首を傾げた。

「いや、何でもない。目に塵が入っただけじゃ」

 藤子に気付かれぬよう涙を拭った万寿子は、真顔で取り繕った。
 
 束の間の、祖母と孫のひと時だった。

────────────────────

 ここは都から遠く離れた、江戸城の西に位置する【吹上ノ庭ふきあげのにわ】。

 四季折々に咲き乱れる花園や築山つきやま、広大な池と東屋が設けられており、大奥で過ごす女中も御三家御三卿の御廉中やその姫君さえも訪れる憩いの場だ。

 大御台所となった泰子ひろこはその吹上ノ庭で大きな祝宴を催した。【大御台所御着任】【世子征夷大将軍御就任祝い】と書かれた垂れ幕が掲げられ、拵えられた小さな舞台では御次による舞が披露されていた。

 泰子はまさに我が世の春を謳歌していた。盃を傾けて華やかな舞に心が酔い痴れ、かなりの上機嫌であった、

「はぁ~~良い眺めや!! 家達いえさと様が将軍の折は、斯様なことは出来なんだ故、清々せいせいするわ。節約、倹約と忌々いまいましい! なあ?」

 泰子が傍に控えていた上臈に向かって言うと、「ほんに」と同意し、他も後に続いて激しく頷いた。大奥の風紀はこの大御台所が乱していたといっても過言では無かった。公家の生まれであるゆえか、かなりの贅沢好きであった。侘しい生活をしていた幼い時分の憂さを晴らす思いで、この大奥で贅沢三昧の日々を過ごしていたのだった。

 大御台所の言葉は絶対であり、時の将軍でさえも礼を尽くす相手である。それ故に、奥女中のみならず幕閣老中でさえも頭が上がらなかった。

 しかし、この人物だけは違っていた──、

「大御台様」

東崎とうさき……」

 泰子の顔を曇らせ、一瞬にして酔いを醒まさせたのは、大奥総取締・東崎局とうさきのつぼね。女中たちからは〈爪を隠した虎〉──、そう陰で呼ばれている。

めよ!!」

 東崎の一声で、演奏と舞が中断された。舞を眺めていた女中らは東崎の来訪に気付き、身を正して頭を垂れた。

「何をしておるんや、続けなされい!」

 大御台所の叫びも空しく、女中たちは顔を床に突っ伏している。東崎は泰子を見上げた、

「大御台様、斯様な宴を開きになるのはお控え下さいませ」

何故なにゆえや? 私の大御台所と、上さんの将軍御就任のお祝いであるぞ? 儀式の一つであると言うても大袈裟ではあるまいに」

 持参した脇息に寄りかかりながら、勢いよく扇を開き自身を煽いだ。東崎は眉を吊り上げた、

「今、大奥は表方から何と呼ばれておるかご存知でございまするか?」

 ふいに問われて、泰子は舞うように扇を回し始めた、

「公方様の~……御子おこをお育て申し上げる~~……大切な御殿──」

「〈金食い虫〉にございまする!」

 東崎が泰子の言葉を一蹴してはっきりというと、奥女中らはたちまち怯み上がった。常々、表方から言われ続けていた事であったが、彼女らはあえて法度を無視し、限りない贅を尽くしていた。本日の宴のために皆、打掛や髪飾りを新調し、キラキラと陽の下で輝かせている。

「度重なる贅沢にうつつを抜かしておられる時ではございませぬ。極力お控え遊ばされませ。それに、【将軍宣下】が正式な御就任祝いにございます! 大御台様たる御方が、わざわざ催されることではござりませぬ!」

 東崎がそう説教すると、泰子はしかめっ面になりながら扇を開いたり閉じたりを繰り返した。泰子は大奥の頂点に立ってはいるものの、東崎の取り締まりの厳しさに追従する事しか出来ないでいた。
 ふうっと息を吐いた東崎は背筋を正して膝を進め、両手を付いた、

「本日罷り越しましたる訳は、もう一つござりまする」

「なんや」

「これより、きたる七月十一日に御入城遊ばされる、鷹司家の姫宮様を御迎えに上がりに、江戸を発ちまする」

 東海道を渡り、道中の警備の強化と姫君が停泊する御殿の最終確認も兼ねて、本日から一月ひとつき半早くに出立する事となっていた。これは、姫君の夫となる、家正の名代としての大奥総取締の大事な務めであった。

「おおぉ、そうであったのう~。御台さんとならしゃる鷹司の藤子さん、どぉうご教育致そうかのぅ……ふふふふ」

 にやりと笑う泰子を見やりながら、東崎はそのことに触れるでもなく「失礼仕ります」と言って立ち去った。地味な銀鼠打掛が消えるのを見計らって、泰子は扇を掲げて演奏を再開させた。

「さぁ!! 騒いで、呑みなされ!」

────────────────────

鷹司家・上屋敷 ───────

 上屋敷に戻ってから、藤子は姉達と悔いなく過ごそうと積極的に話しかけた。次姉の佐登子は喜んで貝合わせをしたり、江戸風の装束を着せ合ったり、同じ布団で寝たりなどした。ところが、正子を交えて歌詠みに興じていた時のこと……、

「夏きたる 馳せじと願ふ武蔵野の 思ひし人に 悲しみ見せむ」

 藤子の歌である。まだ見ぬ江戸の人(将軍家正)に思いを馳せないよう、今はただ京を去る悲しみをこの夏に流し尽くす── そう詠んだ。
 佐登子が、いいお歌やなぁ。愛らしゅうて、健気でなぁ、と褒めてくれた。礼を述べて、ふと正子の方を見やると檜扇で自身を煽ぎながら、ふんっと鼻を鳴らした、

「何がや。〈悲しみ見せむ〉なぞ、本音は私らと離れることに清々しとるんやろ?」

「姉上様……そのような……。わたしは姉上様たちの事を──」

「けったいな江戸言葉を使うんやない!」

 正子は声を張り上げて、檜扇を畳に叩きつけた。
 藤子は、祖母から江戸言葉を崩さないように固く言いつけられていた。藤子がそう説明しても、聞く耳を持ってはくれなかった。重い空気に耐えきれなくなった次姉は、

「おねえさん、しようがあらへんやろ? 藤子はな、御台さんにならはるために精一杯やっておるんやさかい」

 姉に向かって、佐登子が藤子のために弁明した。しかし、正子は頑としてしかめ面を緩めてはくれなかった、

「要は、いう事やろ。せめて都におる間は都の言葉でいてほしいもんや」

「京言葉に戻したかて、藤子のことを冷たくあしらう気ぃやないの。ねえさんはただ── 」

 「藤子が先に嫁入りが決まって恨んでるだけやろ」──そうあとに続く言葉を言う前に、それを察してか正子がきっと佐登子を睨みつけた。鷹の前の雉とはよく言ったものだ。
 姉二人が言い争うのを見て、藤子は痺れを切らして口を開いた、

「姉上様、どうか話を聞いてくださいませ」

「せやから、江戸言葉は──」

「お聞きください!!」

 真剣な表情になって藤子は懇願するように正子を見つめた。初めて声を荒らげる妹に驚き、目を丸くした。

「わたしが御台所となれば、もう二度と姉上様たちとお会いする事が叶わぬやもしれませぬ。どうか……最後は笑顔で……お別れがしとうございます」

 出立まで五日しか時が残されていなかった藤子は、涙ぐみながら必死に許しを請うた。しかし、正子は再び聞く耳を持たず、颯爽とその場を立ち去って行ってしまった。

 去っていく姉の後ろ姿を見て、藤子は佐登子の胸に飛び込んで泣いた。泣くことは二度とないと誓ったのだったが、どうしても涙が溢れて止まらなかった。

────────────────────

 六月も末となり、嫁入り道具が先行して江戸城へ運ばれることになった。

 淑子が選りすぐった調度品は鷹司牡丹が染められた長持や挟箱に丁重に入れられ、担ぎ手によって行列が丸太町通に出来上がって行った。ご公儀の管轄で通りは通行止めとなり、道中何が起こっても対処できるよう、警備の武士が花嫁道具の周りを取り囲みながら、行列は出発した。
 見えなくなるまで行列を見送った後、藤子は万寿御殿を訪れた。先日、万寿子より文が送られたのだ。なにやら話があるという。

「お祖母さま、お久しぶりでございます」

 藤子は一ヵ月ぶりの祖母との対面に喜びを隠し切れず、顔を綻ばせた。

 今日の万寿子は、白の単衣小袖を着て腰に麻の紺打掛を巻きつけている。〈腰巻姿〉と呼ばれる出で立ちだ。大きく横に張り出した特殊な帯を締め、それに打掛の袖を通す。その異様でいて粋な姿が藤子には蝶のように見え、思わず見惚れた。

「久方ぶりじゃのう。どうじゃ、稽古は続けておるか?」

「はい。上屋敷にて変わらず、手を鈍らせぬ様にひたすら修練を続けてございまする」

「それは良かった」

 万寿子は、藤子の元へと寄ろうと立ち上がると、ふっとその場で頽れた。

「お祖母さま! 大丈夫でございますか?」

 目の前で均衡を崩した祖母を見て駆け寄ろうとするが、上段へ上がるのは憚られ、膝立ちで様子を伺うことしか出来なかった。

「大事ない……近頃暑いせいであろう……案ずるでない」

 万寿子は額に滴る汗を拭いながら、手を振って制した。

「お祖母さま……どうかご自愛なされませ。わたしが江戸へ発ちましたら、必ずお休みなさってくださいませね?」

 高齢な身ゆえ、本来ならば心穏やかに暮らすべき所を、藤子のために直々に指南し、拙い所を力強く叱責して諫め、師範への挨拶回りを欠かさない姿を考えると、身体の負担は想像に容易い。藤子はしっかりと身体を休めてほしいと切に願った。
 しかし、万寿子は首を振った、

「何を申しておる。そなたの婚儀には私も参る故、色々準備をせねばならぬのじゃ。休んでおる暇はない」

 御台所の婚儀には、母役の人物を一人立てて参列することが認められている。実母であっても構わないというのが本当の所だが、母代わりが務めることが慣例として決められている。万寿子は、その大事なお役目を請け負うことをご公儀から既に承諾を得ていた。
 江戸へ発てば、二度と祖母には会えないと考えていたのもあって、藤子は寂しさが少し和らいだ。万寿子は、しっかりと足腰に力を入れて、藤子の座る下座を過ぎ、換気のために開け放っていた障子を閉めて回った。

「そなたをここへ呼び寄せたのは他でもない。御台所となる事について、その理由わけを話しておこうと思うたのじゃ」

 最後の障子を閉め終わり、万寿子はゆっくりと歩きながら語り始めた、

「半年程前のことであるか、十三代将軍の御台所であられ、十六代将軍・家達いえさと公の後見役にして、御養母であられる天璋院様が、御孫様である家正様の御正室候補について御悩みであられた。計らずも、上臈として仕えていた私のことを覚えていてくださり、便りが届いた。『どなたか、立派な公家の姫君はおられぬか』と。御台所選出は表向きはご公儀からの発表だったが、内々ないないに、私に御相談されて来られたのじゃ。私はこの鷹司家からもう一度、御台所を出したいと願っておった。──淑子から聞いておるであろう」

「はい、その話を聞いて感激致しました」

「それだけではないのじゃ。第一、そなたを見込んでおった。とうに忘れておるやもしれぬが、そなたは一度万寿御殿ここへ訪れたことがあるのじゃぞ。琴、茶の湯、書などをまだ五つにもならぬ、そなたに教えて参った」

 話を聞いていて、藤子は突然、記憶が洪水のように溢れてきた。

 万寿御殿を訪れた四月、慣れぬ江戸風に嫌悪と恐怖を感じ、記憶を呼び起こす暇も無かったが、住まいを移して、屋敷を探索するにしたがい、縁側から眺めた庭の景色、鹿威しの軽快な音、茶屋の内装にどこか懐かしく思えてならなかった。その懐かしさの正体が掴めぬまま、琴をつま弾いたり、茶を点てたりしていると、決まってある大きな人影が頭をよぎった。

「あの時の……あれは、お祖母さまだったのでございますか? 子供のころのわたしに琴や茶を教えてくだされたのは」

「思い出したか……そうじゃ。そなたが日に日に琴や茶の学びをそつなく上達させたは、才能であるのはもとより、幼き頃に経験したことが、身体に残っておったのじゃ」

 万寿子に対して感じていたとは、単なる思い違いであった。幼い頃に会っていたという万寿子の言葉は、自身が生まれた頃のこととばかり思い込んでいたが、五つの時分、既に世話になっていたのだ。

 万寿子はそして、腰巻を足で捌き、藤子の前に座った、

「そなたの実直さ、新しく学ぶことに恐れないその心が、御台所として相応しいと信じた。それゆえに、天璋院様にそなたを推挙したのだ。家族と別れさせるのは私も辛かったが。今の徳川にはそなたが必要だと考えたのだ」

 恐れ多い言葉に藤子は否定した、

「されど、お祖母さま、わたしは……お祖母さまの仰るような孫ではありませぬ。わたしは……姉上にさえ真っ向から相対することも出来ませなんだ」

「どういうことじゃ? 話して聞かせよ」

「はい……」
 
 藤子は歌詠みの時のことを万寿子に話した。万寿子は少し考えてから、口を開いた、

「されど、恐れずに言葉にして訴えたではないか。はじめは誰だって怖いぞ。私とて、そなたをかつての主に推挙したこと、淑子に嫁入り道具を用意させたことに身が震えた。じゃが、そなたも淑子も私の期待通りのことをやってくれた。結果がものを言うてしまうが、行動によって物事が大きく変わる。正子とのことについても同様じゃ。思うに、正子は妹に嫁入りを先越されたと考えていて、恨みに似た思いをそなたに抱き、心開く気がないのであろう」

 改めて、万寿子の目の付け所に感心した。やはりと思った。

 二条関白が、この屋敷を訪れるまでは姉妹は仲が良かった。共に布団を並べて寝起きし、夜通し化粧や着物の事について語ったこともあった。しかし今はどうだろう、藤子が御台所に選ばれたことで、姉が憎悪と嫉妬心を抱き、二人の間には大きな溝が隔たっている。
 藤子は邪心を持った姉を哀れに思った。

「正子には考える時が必要じゃ……私の孫であり、そなたの姉じゃ。我々の気付かぬところで、思う所があるのであろう。いずれ、そなたたちが分かり合える日が必ず来ようぞ」

 祖母の言葉を受け、藤子は心に決めた、

「お祖母さま、明日わたしは笑顔で、姉上様とお別れしとう存じます」

「その意気じゃ。そなたなら江戸城大奥で、御台所として立派に務まる。自信を持つのじゃぞ」

 万寿子に手を重ねられ、藤子は勢いよく頷いた。

────────────────────

 翌日、安久あんきゅう十年(1901)七月一日。藤子が京を去る日がやって来た。

「面を上げよ」

 藤子の父であり鷹司家の当主、鷹司周煕たかつかさちかひろが声を低く威厳ある風に言うと、下段に控えていた女性が「はい」と返事をして、両手をついたまま顔を上げた。

 少し下がった下段に着座していた藤子は、藤色の染振袖打掛を着て、髪は〈つぶいち〉に結いあげている。公家の若い姫宮が結う〈島田髷〉と似た髪型で、後ろ髱も〈葵髱〉に整えられた。
 眼前に座る東崎局なる人物は、唐草模様の銀色の打掛を着ており、威圧感があった。

「大奥総取締、東崎と申しまする。本日は公方様の名代として、姫宮様をお迎えに上がりましてございます。御城まで、ご案内役を相勤めさせて頂きまする」

 鋭い眉を上げながら、東崎ははっきりと透き通るような声で口上を述べた。

「ごくろ──「ご苦労である」

 周煕が言うより先に万寿子が労いの言葉を送ると、東崎が再び平伏した。藤子は万寿子よりも高圧的な人物を見るのは初めてであったが、無論、身体が恐怖に震えることは無かった。

 駕籠が停められている玄関へ着くと藤子は家族に別れの挨拶を一人ひとりに向けた、

「おもうさん、おたあさん、今日までの恩義、ほんまにありがとう」

 都言葉で話しかけたが万寿子はそれを咎めなかった。最後の別れの挨拶に江戸言葉に改めさせるのは無粋だ。

 淑子の前に立つと、泣くのを堪えているのか目を赤くしていた。

「藤子さん、慣れぬ江戸での暮らしは苦労があるやもしれへん。だからこそ、気をしっかり引き締めや。身体には気い付けて」

 徐に頬に手を添えられ、藤子は照れくさくなったが自分の手をそっと宛てがった。久しぶりに頬を撫でられると藤子は幼い時分を思い出した。この手の温もりを二度と感じられなくなると思うと寂しくなったが、抱き着くのを堪え、「どうかお元気で……」と言葉を添えた。

「藤子、この鷹司の事を忘れるんやないぞ」

 父の前に立つと、顎を突き出しながら藤子の肩に手を置いた。藤子は微笑みながら、

「おもうさんもお元気で。余り遊び過ぎたらあきまへんえ?」

 賭博のことについて触れられ、後がなくなった周煕はとうとう袖で顔を隠し静かに大泣きした。それを見て笑いながら、今度は姉たちの前に立った、

「正子ねえさん。どうか幾久しく、お元気であらしゃって」

 万寿子に宣言した通り、笑顔で別れを告げた。しかし、正子は返事もせず、焦点の合わない目をまっすぐと見据えたまま黙った。淑子が指摘するも、依然と口を開こうとしなかった。最後まで長姉の声を聞けず、藤子は残念に思った。
 そっと後じさり、佐登子の前に立った、

「佐登子ねいさん、どうかお元気で」

「藤子こそ……お達者で。文を送るなぁ。たとえ届かんくても送る。必ずなあ」

 そう言って佐登子は優しく手を握って抱き寄せた。長姉と妹の間で板挟みに合っていた次姉だったが、昔と変わらず優しく接してくれる。藤子は江戸に着いたら菓子などを送ろうと考えた。

 最後に、祖母の前に立った。

 別れの挨拶は前日に済ませたのでたった一言、「では……」と言って頷いた。万寿子は潤んだ瞳で微笑みかけながら頬を撫でた。初めて見せる優しい笑みに、今にも泣き出しそうになった藤子は、頬に当てられた手に触れ、「ありがとうございます」と礼をするにとどめた。

 黒漆塗金蒔絵くろうるしぬりきんまきえの駕籠には京と江戸を取り合わせた風景が描かれ、屋根には徳川家と鷹司家の家紋が施されている。雅やかでいて、しかし江戸風の粋と簡潔さが感じられた意匠だった。
 龍岡の手を借りながら、藤子は駕籠に乗り込んだ。引き戸が閉められるまでの間、藤子は家族の顔を目に焼き付けた。

「姫宮様、ご出立!!」

 幕臣の号令により、引き戸が閉められると六尺ろくしゃくと呼ばれる公儀直属の駕籠掻きの手によって駕籠が上がった。駕籠はゆっくりと進み、丸太町通を東に向かって進んだ。

 藤子を見送るため、沿道に出た万寿子は静かに行列を見送った後、倒れた。


つづく

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