大奥~牡丹の綻び~

翔子

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第二章 お姫様教育

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 江戸城大奥は、徳川将軍家の血脈を永久に繋げるための大切な聖域だ。その数、千人、最盛期には三千人とまで言われる奥女中が、たった一人の将軍に傅く。

 ところが、大名と奥女中たちの間で横行した賄賂、食事や衣装に惜しげも無く金子きんすを使う過度な贅沢、寺への代参の後に饗される物見遊山や芝居見物など、大奥の風紀は乱れに乱れ、それは止まる所を知らず、ご公儀の財政は赤字続きであった。

 我慢の限界を感じた、時の将軍・徳川家達は大奥に粛清を下した。

 質素倹約を旨とする新たな【大奥法度】を定め、赤字からなんとか脱却しようと目論んだ。しかしそれは、更なる反発を生んでいくことになる。
 養母として実権を握っていた大御台所・天璋院が表へ乗り込んで来、反論を呈した。女中たちが一生奉公の厳しい規則に解き放たれる瞬間は、俸禄以上の贅沢と豊かな生活であると説いたのだ。
 しかし家達は、たとえ天璋院の頼みといえども一度出した条令を覆すことはなかった。成す術も無くなった天璋院は大奥から立ち退き、西ノ丸へ隠居し、まつりごと一切に関与することはなくなった。

 天璋院が去ってもなお、大奥の力は絶大であった。
 家達の思惑通りには事は運ぶことはなく、贅沢さは華美を増して行った。それは、天璋院が去った大奥で新たに頂点に立った御台所・泰子ひろこの存在であった。公家出身であることをいいことに、都から取り寄せた豪華な西陣織や友禅染めを着て、大奥中に都風をいくえにも広めたことが贅沢さに拍車をかけたのだ。

 妻に頭が上がらなかった家達は、大奥について今後一切、触れることは無くなった。

───────────────────────

 麗らかな日和が顔を出した四月。鷹司家下屋敷・万寿御殿ますごてんでの生活が始まった藤子は、和やかな教育の時が始まるのかと思いきや、想像以上に神経をすり減らす日々を送っていた。
 初めての対面を果たしてから数日もしない内に、藤子は祖母と相対しながら、立派な姫君としての教育が始まった。

「まずは、言葉がいかに大切な物であるかを話すとしよう。上に立つ者は、低い声での呟きや、独り言は固く諫められておる」

何故なにゆえです?」

 おっとりとした声で訊ねる藤子に万寿子は首を振った。京訛りを止めよと、つい先日注意されたばかりだった。

「な……何故ですか?」

 藤子はびくびくと震えながら、訛りを失くした口調で訊き直した。万寿子はにべもなく続けた、

「家来衆は『え?』聞き返す事が許されておらぬ。無礼に値するゆえな。よって、曖昧な発言をすれば、相手方が困り果ててしまうだろう!」

 万寿子は六十も半ばながら、空気を裂くほどの大声で話した。藤子は顔を歪ませ耳を塞ぎ「声が大きい……」と呟いた、

「それじゃ!! 呟きはならぬと言うておる先から何たる事!!」

 扇を目の前に突き付けられ、藤子は飛び上がった。万寿子は口を真一文字に結び、咳払いをひとつした、

「続ける──頂点に立つ方の言いつけは、決して取り消せぬ。一旦口に出したことは、必ず成さらなければ家来衆の信頼をたちどころに失う。その事を、しかと肝に銘じるのだぞ!」

 藤子が心許なげに頷くと、扇が再び空気を裂いた。

「きちんと返事をせよ!! 黙って頷いただけでは、家来衆も理解しておるのかどうか分からぬではないか!」

「は、はい……」

 目に涙を浮かべながら藤子は力なく返事をした。優しかったのは最初だけで、祖母はあれから厳しく接して来た。恐怖で身体を強張らせる毎日で、夜はすぐに眠りに付けるが、朝起きる度に気が滅入った。

 当の万寿子は、孫娘の素振りに呆れ果てていた。いつも言葉を発する度にびくつかせ、尻込みしているのが伝わる。たった幾日で江戸言葉が上達するとは初めから期待していなかったが、教える側もたまったものではない。
 優しく接することは簡単だが、彼女が入る大奥はすこぶる厳しい場所である。絢爛で衣装や菓子の事ばかり考えていると思い込んで、嫁いで行った公家の姫宮たちの後悔の叫びが偲ばれる。同様の思いを藤子にだけはさせたくない。その一心だった。

 言葉遣いから立ち居振る舞い、江戸の流儀、さらには江戸の奏楽師らを呼び寄せては琴や鼓、舞の稽古。そして江戸の学者からご公儀の成り立ち、大名家についての講義を受けさせるなど、様々なことを学ばせた。

 万寿子の熱心的な教育方針に、藤子は気後れを感じながらも夜になるまで休む事なく励もうとした。だが、慣れない生活が祟り、藤子は寝込んでしまった。

 三日後には全快したが、一度病んではまたぶり返すのではないかと藤子は不安になり引き籠るようになってしまった。しかし、万寿子はそんな藤子に配慮するつもりはなかった。全快してすぐ、万寿子は床の前に山ほどの書物をどんと置いた、

「身体は起き上がれずとも、読むことは出来るであろう。少しでも史書を読んでおくのだ」

 そう言って万寿子は打掛を捌いて去って行った。

「龍岡ぁ……」

 今にも泣きだしそうになる姫宮に、傍にいた龍岡は慰めた、

「ご案じ召されますな宮さん? きっとこん中に面白い御本がきっとありますえ? どれ──」

 手近な書物を取り上げて、最初の文字に目を通した龍岡は無言でそっと閉じた。──曰く、学びて時にこれを習う。亦説よろこばしからずや、遠方より来る── と書かれてあった。

 論語である。

───────────────────────

 数日後、淑子としこが【万寿御殿】を訪れた。藤子に会うためではなく万寿子に呼ばれたのだ。

「義母上様、お呼びでございましょうか」

「うむ、そなたに頼みがあってのう。藤子の婚礼調度を誂えてもらいたいのじゃ」

 耳を疑った。公家の妻に過ぎない自分に、江戸へ嫁ぐ娘の婚礼道具一式を手配させようというのか。万寿子の意図が掴めず、理由を尋ねた。

「出来ることなら私が手配したいのじゃが、藤子の教育について色々といとまがない。傍で暮らしておったそなたなら、娘の好みが分かると見込んでこうして頼んでおる」

 確かに娘の好みは分かる。袿の雛形本を見て「これが欲しい」とねだられた事があった。だが明日の生活が苦しい状態ではどうにも買い与えてやることは出来ず、幾度も心を痛めていた昔だった。
 しかし懸念することがある。当てが無いのだ。婚礼道具ならば徳川との品位を合わせなければならない。問屋を知らない淑子はどうしたものかと考えあぐねていると、それを見透かしたのか、万寿子は付け加えた、

「案ずるでない。近衛家お抱えの調達役を存知ておる。その者に文を書く故、何かと尋ねるが良い」

 責任ある役目だが、淑子は快く受け入れた。余所者に任せるよりは、娘の好みの柄や趣きを理解している母が務めるのが筋であると、気を引き締めたのだった。


 その帰り、万寿子の計らいで藤子に会わせてくれた。たった数日しか離れていなかったのにも関わらず、藤子は十年ぶりの再会かのように、「おたあさん!」と呼んで勢いよく抱き着いて来た。

「藤子さん、お元気さんであらしゃいましたか?」

 背中を優しく叩きながら聞くと、藤子は洟を啜り上げながら首を横に振った。何となく予想がついていた。対面した日のあの恐れようだ、共に暮らして息が詰まるのも当然だ。

「藤子さんったらそないに泣かはって。もう十八でおざりましょう? みたいに泣いたらあきませんえ」

「けれどおたあさん、もう無理です。お祖母さまが怖いのや……びくびくするのも疲れるんどす」
 
 悩んだ淑子は、ある場所へ藤子を連れて行った。手を引かれるまま、二人は御殿の北東にある離れに着いた。そこには目を見張るものが並べられていた。

 屏風、衝立、壁画、襖……それぞれに見事な絵が描かれ、天井は鏡天井に唐紙が貼られ、その唐紙には鷹司牡丹と絡まる唐草の趣向は何と言っても細やかで美しくあった。入口の杉戸にも松竹梅や鳥の絵があしらわれており、都には無い、淡々とした、しかし粋な画風がこの部屋には溢れていた。

 龍岡と共に感動していた藤子は部屋中を歩き回り、一つひとつに目をやった。幼少のころから華やかさよりも落ち着いた色柄が好きな藤子にとってはすべてが輝いて見えた。

「これらは、お祖母様が取り寄せた江戸の調度品です。亡くならはったご先代さんがお許しにならはって、ちょっとずつ集めたのやそうや」

 螺鈿細工の置物から目を上げ、母を見た。漆塗りの衣桁に触れながら淑子は続けた、

「お祖母様が今日こんにちまで江戸風を貫いたんは、いつか鷹司家から徳川さんへ嫁がはる御台所さんがもう一度生まれるとお考えになってのことです」

 首を傾げる藤子を淑子は見つめ返した。その目はいつになく力強さが感じられた。

「鷹司から出はった御台さんを知ってはるなぁ? 孝子さん、信子さん、そして任子あつこさん。三代の孝子さんは、公方さんに疎んじられて御台所さんという称号をはく奪されてしまわれた。五代の信子さんは、姑である桂昌院さんと側女そばめに蔑まれて誇りを踏みにじられた挙句、公方さんと刺し違えたという噂が残ってます」

 おぞましい話を聞き、藤子の表情が興味から恐怖に変わった。

「十三代の任子さんは御台所さんではあらしゃりませなんだが、御廉中さんのまま若くして亡うなりました。皆、立派な五摂家の姫宮として生まれながら、悲しい最後を迎えはったのや──これを聞いてどない思われます? 藤子さん」

 急に問われ、藤子は困惑した。淑子は畳みかけるように訊いた、

「嫁ぎたいと思わはった? それとも逃げ出しとうなった?」

 はっきり言って逃げ出したい。このまま徳川の要望を白紙にして、尼寺へ飛び込もうかとも考えた。しかし、言葉がつっかえ答えられずにいた。淑子はそっと跪き、藤子を見上げた、

「立ち向かうのです。ご先祖さんの無念を晴らすのや。どの御台さんよりもあなたさんが、立派な御台さんになるのえ」

「厳しくても……?」

「厳しくてもです。お祖母様が言うてはりましたやろ? 江戸城大奥の女は恐ろしい、と。冷ややかで心の通っていない者ばかりやと。その者たちに屈せぬお方にならはるよう、お祖母様が厳しくなさってはるのやで。強うおなり、負けてはなりません」

 頬を伝う涙を袖で拭ってあげながら、淑子はふっと優しい笑みを見せた。藤子は急に今までの怠惰な考えと行動が恥ずかしく思え始めた。藤子の心に何かが生まれるのを感じ、これからも逃げないと心に決めた。

 何があっても立ち向かい、負けないと母に誓ったのだった。

 それからの藤子は見違えるように万寿子からの教育を一心に受け入れた。挫けそうになれば、北東の調度部屋へ足を運び、疲れた心と身体を癒してから次の日の活力とした。

 急に熱心になった藤子を見て万寿子は驚くどころか拍車をかけ、学ぶ内容を難しくさせた。それでも藤子は逃げることなく突き進んだのである。

────────────────────

 寒さが収まり、ぽかぽかとした陽気のある日の事。藤子は龍岡を連れ立って御庭を散策した。

 女中によれば、万寿御殿の庭も江戸風に整えられているらしかった。確かに、御所にあるような大きな池はなく、小さな池が拵えてあり、鹿威しと呼ばれる水受けが軽快な音を響かせて、なんとも心地が良い。

 庭には小さな茶室が備えられている茶屋があり、藤子は修練がてら束の間の気分転換を嗜んだ。どこか懐かしいように感じたが、それは江戸の書物で見た絵草紙のせいであろうと思い直し、作法を行った。お茶を点てながら、藤子が口を開いた、

「龍岡、わたしは覚悟を決めた。御台所となる覚悟を」

 真剣な眼差しになりながら、藤子は作法に則った通りに点てていく。

「一時はどうなるかと思うたが、こうしてしばらく暮らしていると、江戸もなかなか良い場所では無いかと思うて来てのう。もう、くよくよするのは止める事にしたのや」

「左様にございますか。それを聞いて、わたくしめも安心にございます。日に日に、ご上達されるお琴やお鼓、江戸のお言葉もお見事なものにございます!」

 あれから二十日、すべてが変わった。どんなに恐怖に震えた江戸言葉も少しは話せるようになり、恰好も袿姿から江戸風の姿へと改めた。乳母の龍岡もだ。好奇心旺盛の彼女は快く受け入れ、御殿女中がする髪型、【片外し】を大層気に入っていた。

 今日の調子はよく、泡はきめ細やかで上出来だと言えた。龍岡が一口啜ると「お見事にございます!」と褒めてくれ、頬が緩んだ。「もう一服どうじゃ?」と藤子が調子よく訊いたのと同時に、女中の声が掛かった、

「ご無礼仕ります姫宮様。大方様がお呼びでございます。急ぎ、お部屋までお越しくださいませ」

 何事かと龍岡と目を合わせたが、藤子は後片づけを女中に任せて、御殿へと急いだ。

万寿御殿・万寿子の部屋 ───────

「お祖母さま、藤子にございます」

 緊張しながら、両手を付いて部屋の外から呼びかけるとすぐに「入るがよい」と返事があった。龍岡が襖を開けると、万寿子が上座に座って書状に目線を落としている。下座に座ると龍岡も後ろに控えた。

「呼び立ててすまぬのう。茶室にいたと聞いた。励んでおるか?」

「はい。まだまだではございますが、暇を見つけては茶を点て、史書を読むなどして過ごしておりまする」

「良いことじゃ── それで話なのだが、江戸からの便りがあった。すぐにそなたに伝えねばと思うてのう」

 江戸からの便り……それを聞いて、御台所破談でなければ良いがと藤子は生唾を呑んだ。

「公方様が政から退かれ、来月には御継嗣の家正様が次の将軍となられる」

 ちょうど今の桜が満開する前の頃── 、十六代将軍・徳川家達が老中らを呼び寄せ、次期将軍は嫡男に譲ると宣言した。嫡男とは無論、藤子の夫となる徳川家正のことである。

「御台所が定まったからと言って、斯様に早くご隠居されるとは……。藤子、もはや時が無いぞ。婚儀の日まで四月よつきも無い、三カ月みつき後には城に入るのじゃ。まだ訛りもいささか抜け切れておらぬ。なお一層励むのじゃぞ」

 言葉を発する隙も与えず、凄みを含む目で激励する万寿子に対し、藤子は臆することなくはっきりと「はい!」と返事をした。今となっては数日前の姫宮はそこには居らず、気を引き締めて修練に取りかかろうとする一人の姫となっていた。


鷹司家・上屋敷 ───────

 ところ変わって鷹司家上屋敷では、婚礼調度一切の支度を任された淑子が女房・能登と共に奔走していた。淑子は袿と長袴の装いを脱ぎ去り、小袖に着替えて下ろしていた髪も結い上げ、都中を駆け巡った。楽な格好のおかげで、誰も彼女が鷹司家の御前とは思わず、変な噂が立つことは無かったのがせめてもの救いであった。

 近衛家の調達役から、道具屋、染め師、仕立て所の職人を紹介してもらい、練りにねって考えた打掛と調度品の柄行きを相談し、後は二月ふたつき後に仕上がるのを待つばかりだった。
 慣れない手配に、予想外な出来事が降りかかることもあったが、淑子は決して苦労だとは思わなかった。大事な娘の嫁入り道具を用意できることに幸せすら感じたのだった。

 職人が屋敷へ度々訪問するので、古い屋敷が軋むのに苛立っている一人の姫宮、長姉の正子が怪訝そうに濡縁から右往左往する人間たちを眺めて言った、

「下劣な手繰り人を屋敷に呼ぶなんぞ、おたあさんも愚かさんなことをしたもんや。何故に藤子にだけ特別扱いすんのやろか」

 心無い中傷に、乳母の篠田が菓子を摘まみ上げながら同意を示した、

「ほんに。もっと正子さんの事を気に掛けてくれはらしまへんのやろか」

 篠田は正子の嫁入りがいつになるのか、主筋である淑子に直談判が出来ないことを歯がゆく思っていた。時ばかりが過ぎて行き、正子同様、焦りを感じていた。

「そいえば、佐登子はどないしてはるんえ? せっかくお菓子のお余りがあるというんに」

 藤子宛てに届けられた、公家と武家衆からの輿入れ祝いの菓子を、正子と次姉・佐登子さとこがもったいないからと言ってこっそり食べていた。忙しく行き来する淑子には、菓子の存在なんて忘れているので気付かれることは無かった。
 お目にかかれないだろう高級な菓子を摘まみながら、正子は当初、お余りしか受けられない事にぼやきながらも、嬉しそうに口に運んだものだ。
 今日も二人で食べてしまおうと先日話していたのに、今日は朝から佐登子の姿がなかった。

「そういうたら中島なかじまさんも見当たりまへんなぁ」

「中島まで? どこ行ったんひゃろなぁ。今日は参内しない日やのに」

 ふたりの行方を気にしながら、正子は藤をかたどった落雁を愛でるように眺めた後、口に運んだ。


鷹司家下屋敷・万寿御殿 ───────

 一方、佐登子は母と姉に内緒で、乳母の中島と共に万寿御殿の門前に立っていた。主の許しなく外出してしまったが、このご時世、今更誰に責められようか。宮中に参内する身分である佐登子は、三姉妹の中で唯一物怖じしない性格だ。悪く言えば、無鉄砲ともいえる。
 つい先ほど、金をせびってくる者たちを傘で追っ払ったところだ。

「ここがお祖母さまのお屋敷かぁ。広いのお」

 大きな門構えと玄関にあっけにとられながら佐登子は無邪気に胸を膨らませた。

「ほんに!」

 上屋敷より群を抜く程の豪華な設えに、中島も感嘆の声を上げて手を叩いた。

「じゃ! ちょいと失礼して── 」

 佐登子が玄関を通ろうとすると、中島が袖を引っ張って止めた、

「なりまへん、宮さん! お玄関だけって言うたやないですか。入ってしもたらこの私が能登さんと篠田さんに叱られてしまいます!」

「ちょいとだけや、ちょいとだけ」

 わらべの様な含み顔になって、佐登子が玄関に足を踏み入れた。次の瞬間、怒号が響き渡った、

「何者じゃ!!!」

 裾引きの小袖と打掛を着た女官が、鬼の形相で玄関へと駆け付け、佐登子と中島を見下ろした。

「あぁ……えっと、私らは決して怪しい者やない……その──」

 必死に佐登子が取り繕おうとするも、中島は「だから言わんこっちゃない」と広袖を掲げて隠れた。人を呼ばれる! そう思って身構えたが何も起きない。ふと顔を上げると、女官が平伏していた、

「これは、ご無礼仕りました! どうぞ、中へ」

 呆気に取られたが、咎められるわけでもなく中へ通され、佐登子は上機嫌で女官に付いて行った。中島は今にも生きた心地がしなく、胸に手を当てほっと息を吐いた。

 二人は客座敷で待つように言われた。

 上屋敷とは違う、間仕切りが丁寧にされ、几帳も何も無く、江戸風の粋な意匠に心打たれた。ここ十年間、江戸風を嫌う流れが都に蔓延っているが、佐登子は一種の憧れを抱いていた。簡潔ですっきりとした趣きが気に入り、先ほどの女官の出で立ちも、後ろからまじまじと眺めたほどだ。衿を後ろに抜くという感覚はどういったものなのだろう、と。
 しばらく経った後、衣擦れの音がし、我に返った佐登子は両手を付いて平伏した。

「そなたが佐登子か……久方ぶりじゃのう」

 上座の襖から現れた祖母に対し、佐登子ははっきりとした口調で返事をした、

「はい、十四年ぶりと相成ります。前触れも無く罷り越しましたる事、どうかお許しくださいませ」

 先ほどの童の様な面持ちとは打って変わり、真剣な表情になって謝罪を述べた。それも、都言葉ではなく江戸の言葉であった。

「ほう、そなた、江戸言葉を学んでおるのか」

 驚き入った様子の万寿子は、今時の若い娘にしては、と感心した。

「畏れながら、わたくしは中宮さんにお仕えしておりまして。見習いの折、共に江戸へ下った事もございます」

 当時の日本は【尊皇】という志を蔑ろにしている者が多く、帝の地位は揺らぎに揺らいでいた。

 長年続く、ご公儀が定めた事を朝廷へ許しを得るという形は実質消滅し、天皇御自らを江戸へと下らせ、勅認する儀式を江戸城内で行うという次第となった。

 慶応から安久あんきゅうに改まる改元の儀式も江戸城で執り行い。中宮を連れ立って出府した折、まだ女官見習いであった佐登子も江戸へ共にした経験があった。当時十歳であったが、御所についての話を洩らさない決まりがあるため、家族も知らずにいる。

 天皇を江戸城へ下らせるという新たな規則によって朝廷でもやむを得ず、江戸言葉を習うという決まりが成されるようになった。天皇、中宮のみならず、女官や公卿に至るまで江戸言葉を習わせた。その所以は、奏上の折に言葉にする都言葉の独特な抑揚を嫌ったという、江戸ご公儀のご都合主義であった。

 佐登子は現在典侍ないしのすけとして後宮へ参内し、中宮からは厚い信頼を得る地位にいる。

「左様か。して、参った本当の用向きはなんじゃ? 藤子に会いとうて参ったのか?」

「い、いいえ……お祖母さまのお屋敷がどの様な所であるか、拝見致したくて参りました」

 十四年前の初対面は上屋敷でのことで、万寿御殿へ訪れたのは今日が初めてであった。

「なるほど。して、どうじゃ? 一度江戸へと下ったという、そなたの目から見て」

 万寿子は先ほどの真剣な表情から急に無邪気な表情になる孫を面白く思った。

「とっても見事な設えで、感動致しました!! お祖母さま、もしよろしければ、私に江戸風のお着物を一つや二つ、頂戴してもよろしゅうございますか?」

 場を和ませようとした佐登子の冗談であったが、万寿子は途端に高笑いをし出した。

「はははは、そうか……構わぬぞ? 私の物を少しでも持って行くがよい、若い時のがまだ残っておるはずじゃ。じゃが、周煕と正子辺りは、江戸の装束を嫌うのでは無いのか?」

「大事ありませぬ。今、屋敷では、母上は調度支度に奔走、父上は趣味に没頭、姉上は公家の方たちから頂戴した菓子のつまみ食いに夢中で、私の事など見向きすることはありますまい!」

「ふふふ、そなたは面白いのう」

 互いに笑い合っていると、奥女中が「畏れながら申し上げます」と前置きした後に言葉を発した、

「大方様、お琴の師範がお帰りになられます」

「そうか。では挨拶に出向こう。のう、佐登子、そなたも参るが良い」

「へ?」

 急な呼び立てに佐登子は素っ頓狂な声を上げた。風のように歩き去る万寿子に佐登子は断る隙も与えられず付いて行った。
 先程、自分たちが入って来た玄関に戻ると、友禅を着た気品ある女性にょしょうが、万寿子に向かって頭を下げた、

「大方様。本日、宮様は大変ご上達遊ばしておられました。まもなく、私がいなくともそつなくこなせることでしょう!」

「先生のご教育の賜物でございます。次は少々難しい曲の稽古をつけてくだされ。あの子は呑み込みが早いですから」

「承知いたしました。では、七日後にまた」

「お気を付けて」

 丁寧な挨拶とお礼の言葉を万寿子はへりくだりながら琴の師範と対等に語り合っていた。公家の大方という身分をひけらかすわけでもなく、平等に話すその姿勢に、佐登子は感銘を受けた。改めて、祖母は凄まじい人物だと実感した。宮中にさえ存在しない、威厳と慈しみを携えるお人だと。

「お祖母さま、少しお訊ねしてもよろしゅうございましょうか?」

 廊下を渡り、座敷へ続く廊下を戻りながら、佐登子がふいに訊ねた、

「なんじゃ?」

「何故、藤子が御台所として決まったのでございましょうか?」

「それは……どういう意味じゃ?」

 声色を低くしてこちらを振り向いて言った。佐登子は一瞬怯んだが、臆せずに胸の内で感じた疑問を吐いた、

「たとえ将軍継嗣殿と歳が近いとて、御台所となる理由にはならぬかと存じまして。何か、深い理由があるのでございますか」

「誰にでもなれる訳ではない……立派なお家柄と、その方の才覚が肝要である」

 考えるように小さな庭を見下ろしながら、万寿子が静かに続けた、

「そなたは側近くに居過ぎて気付かぬやもしれぬが、あの子にはその才覚がある。それをご公儀が見出されたのであろう」

「左様で……ございますか」

 納得のいかない様子の佐登子の反応に、万寿子はすぐに見透かした、

「不服そうじゃのう。そなたが御台所になりたかったのか?」

「いいえ、滅相もない事でございます」

 慌てて否定した佐登子だったが、なぜ藤子が選ばれたのかという疑問は深く残った。遠い江戸の地から、どうやってそのとやらを見出したのか。祖母がなにか隠し事をしているのは察したが、これ以上追求する気も起きなかったのだった。

「そなたに十数年ぶりに会うて嬉しかった。またこれからも色々と語り合おうぞ」

 その後、万寿子から若い頃の着物を賜った。初めは遠慮した佐登子だったが結局戴き、その数、十五枚。中島は重そうに風呂敷を抱えている。
 玄関まで見送ってくれた祖母に佐登子は笑顔で返事をした。

「はい、楽しみにしておりまする」

 姉が下屋敷へ参っている事を知らぬまま、藤子は師範が帰ったあとでも、琴の稽古を続けた。夕餉が出来上がりました、という龍岡の声が耳に届かぬほどに集中し、肩を叩かれるまで自分が空腹なのも気付かなかったのだった。

 まだ見ぬ夫、徳川家正のいる江戸へと思いを馳せて、京に心残り無いように過ごすべく、必死で修練をものにした藤子であった。


つづく
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いずもカリーシ
歴史・時代
国を、民を守るために、武田信玄は独裁者を目指す。 独裁国家が民主国家を数で上回っている現代だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。 【第壱章 独裁者への階段】 純粋に国を、民を憂う思いが、粛清の嵐を巻き起こす 【第弐章 川中島合戦】 甲斐の虎と越後の龍、激突す 【第参章 戦争の黒幕】 京の都が、二人の英雄を不倶戴天の敵と成す 【第四章 織田信長の愛娘】 清廉潔白な人々が、武器商人への憎悪を燃やす 【最終章 西上作戦】 武田家を滅ぼす策略に抗うべく、信長と家康打倒を決断す この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。 (前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です))

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