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序奏

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入院前の学生生活にやっと戻れたような気がした。   毎日大学に通い、必要な講義を受講するため、キャンパス内を自転車移動する。3年に復学、…といっても 国籍が違うため、アメリカ人黒崎ミチルとして…   結婚式前に二度、体外受精した卵子を、代理母の胎内に戻し…二回目に無事 代理のお母さんの子宮に着床した。   先生と私のベビちゃんは順調に育っている。   出産まであと、7カ月弱…。


その間、私は大学生活を日本でおくる事ができる。サヤカは、4年に進級し、そのあとCH大学のロー・スクールに進学する予定でいる。就活の心配なく、要領の悪い私に 効率的な単位取得の極意を伝授してくれている…。   私は、アメリカから帰国後すぐにダメ元で予備試験の短答式試験に挑戦してみた。


「ミチルって、マジ   チャレンジャーだよねぇ~、全く勉強してなくて普通ぅ予備試験にいっちゃうぅ~?考えらんないぃ~」


久しぶりに学食で昼食を取りながらサヤカに冷やかされた。



「なんとでも言って頂戴っ。  とりあえず 体の調子がいい間は何にでも挑戦しようって、決めたのっ」

定番のカツ丼を注文する。 

アメリカで臍帯血のドナーが見つかりしだい移植準備に入る。  成人の再生不良性貧血の臍帯血移植の定着率の成果が日本では思わしくないらしい。    宗方先生もこの際アメリカまで来てくれる事になっていると、先生が言っていた。


事情の知らない サヤカは、呑気に


「ふ~ん…でさっ  午後からぁ渋谷とか…ダメ?」

サヤカは、カレーのルーをスプーンでクチャクチャ混ぜながらご飯と一緒に掬う。


「ダメに決まってるじゃん!  論文試験来週だよっ」

(私には時間がないんだって…)

「論文なんてぇ~  調べたってぇさぁ…あくまで一般教養範囲じゃんっ、短答式で決まるって~ねっ、ねっ」


サヤカの強引さにはいつも負ける。


渋谷で久しぶりに買い物をした。  目に留まるのは、先生の服や生まれてくる赤ちゃんのグッズばかり…。

「なんだか…すっかり主婦だねミッチ」

サヤカがニヤつく。


「だって…やっぱり モノは、あっちより日本製だよ!コットンだって肌触りが違うもん」



メンズショップとベビーショップを手当たり次第に買いまわりまとめて 国際宅急便でサンフランシスコへ送った。  旦那様のカードでお買い物なんて…なんだかムフフな感じ…。  サヤカと別れ、帰宅が午後8時を過ぎていた。


「ミチルちゃんっ、連絡の一つくらいしてよねっ   心配するからぁっ」


叔母が台所から帰った私に注意する。


去年と変わらない日常の光景……。



「ごめ~ん今度から気をつけま―すっ」


叔母さんの顔も見ず2階の部屋に飛び込んだ。直ぐにパソコンを開けメ―ルを確認する。


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[真面目に勉強しているか?   お前の事だから、時間ばかり喰って効率は上がって無いだろうが。    来月、帰って来れる日を知らせてくれ。飛行機予約しておくから!    受診忘れるなよ]


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(はっ…!?   たったこれだけ…)


先生は6月30日の退職日を待たずに、5月の末に渡米した。二人で暮らしていたマンションは、今は他人に貸している。私は叔母の家で、再び厄介になっていた。    先生は、退職の日、挨拶回りで一旦は日本に戻って来たが、すぐにアメリカに帰国してしまった。    私とほとんど一緒にいる時間も無く…。   なので予定としては、夏休みの8月から10月までアメリカで過ごす。体調がよければ タクヤ君の進学お祝いをかねてドイツに行き、帰りにオーストリアを経由してクリムトを見に行く。


こんな調子だからこれからも私が大学を卒業するまでは、先生の都合に合わせた暮らしが続く。 



  新しいメ―ルが画像貼付けて着信した。



サンタモニカ―    (クリスティンからだっ!)

幸せそうな、夫婦と2人の男の子。    4人家族の画像

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[親愛なるミチルへ 新しい命に出会い私は今凄く幸せです。家族みんなで半年後の幸せな光景を心待ちに暮らしています。貴方もお体を大切に、ご病気が一日でも早く治りますよう、お祈りしています次回再会を楽しみに…     ]

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「ミチルちゃ~ん  早くっ、ご飯かお風呂すませて」


(はいっ はい…と)

[good-bye,  Until we see you   next time.]

サンタモニカの代理母家族。   メールでのやり取りも三ヶ月。   代理クリスのお腹には、先生と私のもうすぐ四ヶ月になる赤ちゃんが順調に育っている。


私は直ぐさま、先生の無愛想なメールに返信した。

[今日渋谷で、お買い物をしました。 宅配便で送ります。まだ、夏休みが 何時からかわかりません。 わかり次第お知らせします。    ミチル]

愛想の無いメールには無愛想に返事する。   私は階下へ降りて、お風呂に先に入った。


「…ったくぅ   ふぁ~~ん  眠い…はぁ…」

ちょっと、うとうとしだす。  寝ちゃだめなんだけど…すごく眠い…目が開かない瞼が……重い……



     ミ チ   ルちゃん …     ミ  チル    ちゃ   ん…………
……………………


約五ヶ月の間…私の弱い身体は良くもってくれた。私はその夜、T大学附属病院血液内科病棟に緊急入院した。  気がついた時は顔なじみの病棟看護師長の笑顔が真っ先に視線の中に入ってきた。  何時もの個室と雰囲気が違う。宗方先生が

「黒崎さん、気分は悪くないですか…?」
マスクの下の穏やかな笑顔で問い掛けてくれる。私はわずかに頷く。  酸素マスクが、私の鼻と口を塞いで…声を出すとマスクが白く曇る。


「黒崎さん、話さなくてもいいですよ…」


両手は点滴と血中酸素濃度の測定で塞がれていた。背中に僅かな違和感があり視界がクリア―になってくると無菌病棟にいる事が何となく判ってきた。


(……移植とか?     死にかけた?…)


叔母の家の浴室が蘇り…   “お前っ!だいたい風呂が長いんだよっ”

……先生の怒った声が頭の中を巡る。       


…会いたいよぉ


目尻から耳へ冷たい物が伝う……。



治療の内容はその時の私が 説明を受ける状態でも無く、穏やかな宗方先生や病棟勤務の職員さん達の表情からは何も伺えない。暫くすると、ガウンとキャップ、マスクをした一団がガラス越しに私の様子を伺いに来た。   目だけでだいたい誰だか検討がついた。


鎌倉のお母さん。ミチコさん。叔母さん。神戸から駆け付けた父…

…そう言えば、結婚式のブーケはどうしてか…父親の手元に飛んでいった。周りの列席者がどっと沸いたので、父親はバツが悪く近くにたまたまいた鎌倉のお母さんに手渡す一幕が私の脳裏に蘇る。


(……あの時のお父さんったら、―――笑っちゃう)


何時も、笑わせてくれるお父さん。  十代の頃は好きじゃ無かった。


仕事、仕事で 私やタダシの事はほったらかし………。何でもかんでも叔母任せ、叔母に申し訳くて、私は自分達の事は出来るだけして来た。  今はそんな事も懐かしい。   よく考えてみれば全て自分の為になった。


お父さん…ありがとう。


そして… ごめん




この時、五ヶ月の間、体力をある程度保ったまま在宅で暮らせた事と、造血幹細胞(臍帯血)のドナーが見つかった事で、急遽移植前処置を行う事になった。   アメリカの先生と緊密に連絡を取っての判断だった。    私は全身に巡る白血球を根絶するため三日間全身に放射線照射を受けた。   この治療は正常な細胞も痛めつける。   私はそのあと数日後、激しい副作用に苦しむことになった。


入院当初、私は先生に会いたい気持ちを辛抱し、“私は大丈夫”と宗方先生に伝えて貰っていた。


胃が空っぽなのに 激しい吐き気に襲われ、口内炎で口の中が痛み水も飲めなくなる。   髪の毛が毎日束で抜け始めてきた…。

「ミチルさん、  黒崎先生が今成田に着いたそうですよ、もう直ぐ会えますよ」

担当ナースは私が喜ぶと思って伝えてくれた。    喉の激しい痛みで声も出せず頭髪どころか、眉毛や睫毛まで抜け落ちてしまっている。 今の姿を先生に絶対見せたくなかった。

私はノートにはっきりと、

【会いたくない!】と、書いて見せた。

本心は会いたくて、会いたくて狂いそうでも、醜い姿を見られたくなかった。   放射線の副作用の辛さに死んだほうがましだと思っていた。


(会っても ガラス越しに…見世物だよ)

涙が溢れる。


安定剤がないと夜は眠れない。


なんで、何であたしだけ‥
ううん 違うでしょ? ミチル‥素敵な人達に出会えて 幸せでしょ?
そうだけど‥こんなに辛い 苦しい ‥
それはね‥本当の幸せへの通過点なのよ‥  
やだ、先生とずーと一緒に居たいよ
お母さん‥




悪性細胞を根絶し 免疫細胞を除去するため強力な抗がん剤治療も並行して行う。   ひどい口内炎と嘔吐で口から栄養や水分が取れない為に、鎖骨下静脈から高カロリーの点滴で栄養を補わなければならなかった。    私は生きる屍のような状態のまま、厳重に隔離された無菌室で、その日を迎えた。


       造血幹細胞移植。

移植自体は白血球の型が一致したドナーの造血幹細胞を含んだ血液を静脈に点滴注射する短時間済む治療だった。

「ミチルさん、よく頑張りましたね、あとひと踏ん張りです。これから造血幹細胞が骨髄に到着して新しい血を造り出すまでミチルさんの躯には白血球 赤血球、血漿板がほとんど無い状態が続きます。  極端に細菌やウイルスに対して抵抗力が落ちます。   つまり、簡単に感染症になり、命にかかわる症状になる事を忘れないで下さい。」


「むな…かた先生   あたら…しい血は いつ…るのです…か?」


私はひりつく喉から声を絞り出した。


「まずは一週間から二週間は 生着と言うのですが、新しい幹細胞が骨髄内で根を下ろしたか、確かめます。 それまでは血漿板も無いので出血すれば血は止まりません。その時に備え輸血をしていきます。」


「あの…そ…いう…で死ぬ…もあるので…すね」

私は再生不良性貧血で命を落とす前に風邪や鼻血で死ぬかもしれない危険な状態らしい。



放射線照射の副作用はこの後もずっと 私を苦しめた。   結局、私は黒崎先生と会う事を拒み、先生は私に会わずにアメリカに帰国した。

そんな意固地で情けない私に、先生は病室でも利用可能なタブレット端末を用意していってくれた。

【ミチル…いつでも連絡してこい。  俺は仕事辞めてでも、お前の傍にいたい。 会いたくなったら直ぐに連絡しろ! 何を置いても飛んで行くからな…連絡待っている】


【せんせい…ごめんね。ガラス越しなんて、会った事にならないから!  次は絶対先生とハグできるようになってるから、早く連絡できるように頑張るね   ミチル    】


私が先生のメールに返信した後、   先生の返事は以前のようなおざなりな内容では無くなった。   毎日の先生の暮らしぶりや、女子学生にいかにモテているか、何より クリスティンに会って、7ヶ月のお腹とツーショット写メに私は笑った。


(病気になんて負けられない…私達の子供が育っている。この手で抱くんだ)



私の場合、“生着”  が確認されるまで約4週間近くかかった。  その間、体中の常在菌も除菌しなければならなかった。   消化管の除菌の為抗生剤を飲み、体は毎日隅々まで洗うか清拭してもらっていた。   無毛姿に慣れてくると、眉毛や頭髪が抜け落ちている自分のことを‘尼さん’と、自虐ネタで人を笑わせた。


シスコの黒崎先生に初めて、今の私のありのままの姿を送信したが、先生の反応が恐ろしく気になる。


(キモイって思うよ…何たって体毛無いんだもん…)

【写メ見たぞっ!ヤバいっぞっ、お前 !メガ級のエロさだ…なっ 。
俺の息子がビンビンだぞっ ガラス越し病室からでたら、会いに行くから…それまで毛を生やすなよっ、ツルツルが見たいっ】

【わかった…特別に先生だけにツルツルピカピカ見せてあげる。早く逢いたいなぁ~   今は少しづつ新しい血が増えてきてます。  一週間に一回骨髄検査うけてます。   この検査、大嫌いっ (涙)】


私は一時的に以前の元気を取り戻しつつあり、前向きな気持ちも手伝って移植は大成功だと思っていた。


少しづつ…具合が良い方に向かっている気がしている。あれ程苦しんだ吐き気も、随分と楽になってきた。  この頃には口内炎の痛みも和らぎ柔らかい物なら食べられる。   入院も二ヶ月に及ぶ頃には、目覚める度に身体が軽くなる事だけは確かに感じる。   ただ、未だ無菌室から一般病室には移れ無いでいた。    宗方先生の説明では、初期の大きな山場はクリアしたが、  これから移植した細胞が活発に活動を始めると、元々宿主じゃない私の体を外敵とみなし白血球やリンパ球が攻撃を始め出すとのいう。   それがが次の問題になる。  対処する方法は、移植医療でよく言われる免疫抑制剤の使用。   私の場合、強い免疫
抑制剤を使用していく事になるらしい。

そしてもうひとつの大問題。   ウイルス感染のリスクが高くなる事この問題は長く続き、移植後半年間が特に注意が必要だという。   この間、肺炎などの合併症になった場合、死に至るケースが多く報告されていた。   そうならないようにしなければいけない。   そのために適切な免疫抑制と感染予防のバランス、つまり薬のコントロールが大事だと説明を受けた。

宗方先生が長年研究しアメリカで良好な成果を揚げた免疫抑制剤を使用してみては、と先生からの申し出を私は受け入れた。   その薬は日本では未認可薬ながら臨床で治験薬の指定を受けていた。   宗方先生の説明を聞いた後、私はひどく疲れた。

(どこまで苦しめるの…もうっ厭っ)

いつになれば自由になれるのか、絶望的な心境になっていた。



そんな時は、直ぐに先生に助けを求める。  どんなに忙しくても先生は、その時 できる最短のタイムラグで応答に出てくれた。


「どうしたっ!」

「今どこ?」

液晶画面の先生の表情が焦って見える。

「トイレだっ」

「トッ トイレぇ~  やだぁぁ!!!」

トイレにまでパソコンを持ち込んでいる先生が笑える。

「何かあったか?」

「先生ぇ 大 小どっち?」

「バカヤローッ 言わすかぁっ…!  …だ…い  だよっ」


「あ”ぁもういいっ   ごゆっくり!」


私はげらげら笑った。笑いが止まらなかった。



日にちの記憶も忘れるくらい入院している。   ベッド周りには無機質なタブレットひとつがあるだけ。

(…ああ―カレンダーあったらな)


ささやかな希望も湧いてきた。


「黒崎さん、お熱計って下さい 採血しましょうか…」


いいタイミングで若い男性の看護師が入ってきた。


「今日は僕が夕方まで担当します、佳川です」


「…香川ぁ?」

「はいっ、よしかわって良く間違われるんですよ…」


(…佳川くん!)   名札を見せてくれた。

懐かしい響き。香川君とは、もうずうっと会っていない。元気だろうか…?   メルボルンへ行ったきり結婚式にも連絡が無かった。 恋人のクラリス先生はナオミ先生と列席してくれていたのに…


私は佳川看護師に何日?と聞きたかった。  でも、声を出すのが面倒くさい。テキパキと予定の作業を熟す佳川看護師。


「後で点滴を替えに来ますから」


病室を出ていった。


(ああ…香川君に会いたいな)


私は先生には醜い姿を生で絶対見せたく無いと思ったのに、香川君に対してその感情は湧かなかった。


香川君…あなたにはこんな情けない姿を見せた事が無いから…きっと気味悪るがるかな…   彼の心配顔も想像すると…悪戯心が湧いてくる。 死と隣り合わせの私…一人でいると、不思議と恐怖は感じない。それは…多分独りで居るから…


毎日家族や友人達と楽しく過ごしていたならきっと……怖くて怖くて泣き叫ぶかも…先生と離れていてよかった。きっと旅立つ寸前は…不安を口走り先生を、家族を困らせるかも…忙しい先生、大丈夫だから仕事頑張って!



直接電話で話したい。



GVHD…移植片対宿主病。移植後、ほとんどの場合起こる免疫機能の自身への攻撃。  体調も落ち着いてきたかに思えた矢先、宗方先生が第二の山場と説明していたGVHDの症状と思われる数字が血液検査で判った。   CRP(炎症反応)と白血球の数値が上昇している。  それを示すような体調変化が表れる。

発熱と倦怠感。  皮膚の痒み…    絶対安静。
ベッドの上で寝かされたまま、思考もゆっくりと停止に向かう。


看護師さん達の出入りが激しくなり、病棟担当ドクター数人が私の様子を見に来た時だけ、昨日までの体調と違う事を知る。   宗方先生は、免疫抑制剤の説明をした日以来一度も病室に来ない。

(私の症状は宗方先生でもお手上げ?)


リノ先生に至っては、入院以来一度も病室に来る事は無かった。前の入院ならもっと賑やかに人の出入りもあったが…無菌室だから外部からの出入りは厳しく制限されていた。


(これからどんな治療をするの…か、先生が言ってた治験薬の免疫抑制剤の投与…)

移植後の問題。   弱い常在菌でも免疫抑制状態では、簡単に感染し肺炎に繋がる。特にGVHDの発生後肺炎のリスクが高くなる。



(移植が上手くいったのに 私は死んでしまうの?………………
せんせいっ!  私達の赤ちゃんに会わずに死ねない)


「せんせいっ」

GVHD発症から数日、医師達の懸命な治療もあって私の体は再び再生へ歩み出すことができた。



看護師が採血に入ってきた。

「黒崎さん、週明け 無菌病棟に移れる事になりましたよ!よかったですね」


無菌病棟…去年、先生と数ヶ月間暮らした個室のある病棟。
看護師は輸液の調節を確認しながら、

「宗方先生も泊まりこみで 黒崎さんの免疫抑制の治療について思案されていらっしゃいましたよ」


「あの…だいたい どれくらい入院しないといけないですか…」


「そうですね…少し長びきましたものね…後で宗方先生に聴いておきますね…」


看護師は必要な処置を手早く行う。


「なんだか、お腹空いて来ました。晩御飯が楽しみです」


「まぁ…それはよかった!でも、ごめんなさい。まだ一般食じゃなくて、お粥ですけど………」


看護師は記録をタブレット端末に入力しながら話しかけてくれる。


「いいえっ、充分ですっ」


月曜日。


思い出の一杯詰まった無菌病棟の個室に移動した。  その連絡を受けたミチコさんが、早速尋ねて来てくれた。


「ミチルさん、  お兄様に 早くお会いになりたいんじゃないですか…」


「ええ…でも!   私も少し 強くなりまして、 先生が近くにいると…多分冷静に現実を受け止められなかった気がします」


私のベッド周りは、透明シートのカーテンで囲われ、ミチコさんもガウン、とマスク、キャップを着用し、カーテン越しの面会だった。


「そう…」

ミチコさんは心なしか 淋しそうな表情をマスクの下にうかべ 話しを続けた。

「実は…お兄様も、あちらでミチルさんの入院の準備をしていましたの…」

ミチコさんの真剣な眼差しは、先生も遠からず私がこうなる事を予測していたということだった。


「…」


「時間が切迫していた事、ステージが上がって…いく事も 先生や皆さんは判ってたのですね」

移植が無事済んだ今だから 私は冷静に受け止められていた。


「そう…です。  宗方先生は、ドナーが見つかり次第日本でもアメリカでも 場所は問わず早急に移植をすべきだとお兄様に強く助言されていました」

「先生は…じゃあ…移植は納得してくれていたのですね」


「……それが」

ミチコさんが眉間に皴を寄せた。  私は先生が恐ろしく怒っている姿を思い浮かべて苦笑いする。    私の前では、少なくともスカイプの先生は優しくおおらかなのに…。


「実は、ミチルさん…お兄様がー」

「判っています ミチコさん。向こうで怒っているんでしょ…周りの方々に迷惑をかけているんだ」


「貴女の体調がある程度戻ったら、どんな手段を使ってでも、アメリカに連れ戻すって、聴かなくて…」


ミチコさんも手が付けられないと言う。



「ミチコさんお願いがあります」

「なっ、何ですか?  私で出来る事が有るなら何でも致します」


「あのぉ、メルボルンにいる香川タカシさん、何とか、呼び戻す事は出来ませんか…」


「かっ香川君っ   あの 香川君?」


ミチコさんは、意外だと言わんばかりに私を見た。


「はい…先生を上手く納得させられるのは彼しかいないと思います。彼と会わせて下さいませんか?」


ミチコさんは、私の真意を探るかのようにじっと私の目を見つめる。


「うふっ、香川君なら簡単に呼びよせられますよ!   貴女が危篤だと嘘をつけばっ」

ミチコさんが悪戯っ子のように笑った。


「やだぁ、もうミチコさんたらっ  まるで先生みたいウフフフッ」

「そりゃぁ、黒崎ヒカルの妹ですから、で…ミチルさん、その企ての段取りを教えて下さいませんか?」



「はいっ、実は…」


私は、ミチコさんとちょっとした企てを決行した。  香川君は今後、先生にとっては、無くてはならない存在だから……


メ○○○ン大学。医科学研究所


日本人の青年がラボのパソコンに届いたメールに顔色を無くす。 K大学医学部法医学教室の池田ミチコ准教授からのダイレクトメール。

※ミチコさんは春に准教授に昇格
 
{香川タカシ先生御待史

香川先生ご無沙汰致しております。  取り急ぎお知らせしたい事がございます。 貴方様もご存知の通り、この春私に義姉が出来ました。 その方が今、T大学病院で入院されております。大変お伝えづらいのですが義姉 黒崎ミチルの容態が思わしく無く、緊急に移植治療が必要な状態です。内々にご相談いたしたく失礼は承知で電子メールを送らせていただきました。   貴方が現在所属されているラボの主研究が免疫学と言うこともあり、是非義姉に会って頂き貴方様より直接移植治療の説得をお願いしたいのです。………………………………………
…………… 以上の事情はくれぐれも他言無く。  一度日本に御帰国をお願いしたく、宜しくご考慮下さい。         池田ミチコ拝}



(……綾野さん!何故僕なんだっ?クロセンッ…何やってんだ…ざけんじゃねぇぞっ   )


時差1時間のメルボルン、季節は真冬の南半球。  香川君は、ラボの責任者ナオミ.ホワイト博士に 日本の祖父が急病だと嘘をつきその日のうちに空路東京に向かった。   翌早朝、羽田空港に降り立った香川君は、荷物を世田○の祖父宅に預ける為に立ち寄った。


「只今ぁーっ、只今ぁ…お祖父さん?」


香川君は、8時間かけてオーストラリアから帰って来たとは思えない気軽な格好で、お祖父さんに挨拶する。  庭で、ゴルフクラブを振り回し、オリジナルの体操をする香川君のお祖父さんは、御歳80歳の現役内科医師。  一人娘が、T女子医大生時代外交官を目指して浪人していた香川君のお父さんと知り合い…駆け落ちしてしまった。  以来、跡取りも居ないまま夫婦で開業医をしていたが、数年前に妻…香川君のお祖母さんが、亡くなり今は、通いのお手伝いさん、看護師さん事務員さんと暮らしている。香川君が医者になったので一人娘…、香川君のお母さんとは良好な関係に戻っている。


「タカシっ、お前っ  オーストラリアの研修はどうした?」


香川君の祖父、  脇坂源之助医師は自慢の孫が娘同様途中で、挫折しないか心配でならない。


「病院の仕事で、T大学病院へ今から行くので、荷物を暫く預かって欲しいんです」


「そうか…仕事か、  遠路大変だな…泊まって行くんだろ」

源之助翁は、タオルで汗を拭いながら軒先まで戻ってきた。



「いえ…話しが早く済むなら今日中にメルボルンへ戻ります」


「なんだと…オーストラリアへとんぼ返りか…」

源之助翁は、驚きつつも 内心、孫が医学の道一筋に邁進している事が嬉しくて仕方なかった。


「お祖父さん、ゆっくり出来なくてすみません」


香川君が、恐縮していると、

「まあ…、朝メシはまだなんだろ?食べてから、T大へ行きなさい  まだ 7時過ぎだ」


「はい、そうさせて貰います」


「ところで、お前は今どんな研修を積んでいるんだ…?将来はどうする大学に残るか?残れなければ脇坂を継いだっていいのだよ…脇坂の家は代々…………………………」


源之助翁の話しは朝食の間 延々と江戸時代の御殿医だった先祖を語り、根気よく笑顔でその話しを聞く香川君は、高齢者対象の開業医としても大成する器の持ち主かもしれない。




通常、面会制限のかかる無菌病棟。

あかの他人が、面会出来る訳もないが、 ミチコさんが、主治医宗方先生に事情を説明し、スムースな面会が出来るよにお膳立てしてくれていた。  香川君は去年 同じ病棟に黒崎先生に呼ばれて訪れていた。


朝の回診前だが、病棟に連絡が入っていたので、看護師が香川君の身許を確認すると、病室に案内してくれた。  約半年ぶりの再会。


「黒崎さん、面会ですよ」


「やあ…」

(かがわくんっ!)

透明シート越しの半年ぶりの再会。


「えっ…?」


香川君の顔が見る間に深い苦悶の皴を刻み出した…。   切れ長の爽やかな二重瞼の瞳から、涙が溢れ出す。  香川君は頭をうなだれ両手で顔を覆った。


「香川君っ…泣かないでぇっ、私なら大丈夫だからっ…」

私は慌ててベッドから半身を起こす。

香川君にこの姿はちょっと刺激的過ぎたかもしれない。  体毛は抜け落ち、目の回りはどす黒いクマ。 かろうじてマスクで皮膚の色が見えない事だけでも助かった。   皮膚は色素沈着が甚だしく、顔のあちらこちらに赤茶けたシミが点在していた。


「ごっ、ごめん   やっぱダメだ…っ  君のこんな姿なんて見てられない」

香川君は、悲壮な表情で私を見た。


「今すぐ、君を抱きしめたい!  愛しているっ、黒崎なんかに任せるんじゃなかったっ」


「かがわくん?」

香川君はいきなりシートをめくり、中に入ると、私を強い力で抱きしめた。


「かっ、香川君…」

彼は、マスク越しに 私の耳元に唇を寄せ甘く熱く囁いた。



「愛しているっ  君を失いたくない絶対にだっ、 たとえ黒崎と結婚していても…、僕は永遠に君を愛し続ける!  死なないでくれっ  お願いだ…」


香川君の、胸に頬をよせると僅かに嗚咽する呼吸音が私の耳に響く。私は香川君をしっかりと抱きとめた。


「死なないよっ! 死ぬわけないじゃん…香川君も、先生も、私が大事に思っている人達を残して逝けるわけないでしょっ」


「香川君…のハグすごく安心する」

私の体に顔を落とした香川君の顔を見上げてマスク越しに笑顔を送る。


「それって、褒め言葉だよね」

香川君の瞳が笑っている。

「勿論よっ、最上級の褒め言葉よ」


(僕は…いつも君に振り回されてる、それでも、このまま君を連れさってでも、振り回されていたい)



「香川君…先生の次に愛している」


「っ…一世一代の告白をしても…二番目とかぁ、あり得ない 」


目の前の香川君にもう悲壮感は無い。



「お邪魔だったかなぁ…」



「宗方先生っ」


………


「お取り込み中 悪いね…」


宗方先生は、相変わらず金縁の眼鏡が厭味でなく良く似合っている。香川君は、バツが悪そうに頭を掻いた。


「先生っ、全く取り込んでなんかいませんよ、香川君と私は、恋人以上の間柄なんです」


「これは聞きづてならないなあ」


香川君の眼が見開いた。宗方先生は、おどけながら…ちらっと香川君を見る。


「冗談は、さておき   で…、香川君  君はどちらの方?」


宗方先生は、香川君の事をまだよく知らなかった。


彼が自己紹介を始めると…


「なるほどぉ…随分変わり種の経歴ですね…僕の大学の後輩!池田研究室の元学生でー、ホワイト先生の研究所で免疫学を研修中…、9月からスタ○○○ドで黒ちゃんの助手…ふぅん…研究者にとっては超エリートコース輝かしいスタートだ…」


宗方先生は、ニヤつきながら香川君を値踏みしていた。


「まだ…黒崎先生の所でお世話になるかは、…勿論、黒崎先生次第ですが、僕自身が決めかねています」


スタン○○○行きについて香川君はまだ迷っていた。


「なるほど…恋仇だからかな…わかるなぁ!   その気持ちっ…僕もその点では黒崎先生に痛い目にあっているから…」


「えっ?」

宗方先生と、初対面の香川君、事情を知るはずもない。   黒崎先生は、あちこちで女性の心を虜にするだけでなく、その女性を取り巻く男性にも迷惑な騒動を吹っ掛けている。そのいい犠牲者が、宗方先生と香川君。  当の黒崎先生は、全く気にも止めず我が物顔で皆を振り回している。


“ 女一人モノに出来ない情けない奴…”  なんて暴言を平気で言い兼ねない。

宗方先生も、リノ先生の事で黒崎先生に対して長い間イライラさせられたに違いない。


「ところで池田先生から聞きましたが、黒ちゃんが向こうで随分怒っているとか…」

宗方先生は話題を私に振りながらまたニヤつく。


「…らしいです。私が先生の面会を断ったから…です多分…」

「ほう…また どうして?」

「その話しの前に香川君に謝らないと…」

ちらっと香川君を見た。  香川君は宗方先生を見ていたが私に視線を向る。

「あの…ね…移植の事なんだけど…一ヶ月前に…したの…無事この通り…」

香川君を呼び寄せる為に嘘をついた。


「マジっ!  生着っしたぁ!?」


香川君が驚き、私と先生に生着を確認する。

「まあ何とか、いいタイミングでドナーが現れてくれて…」

慎重な宗方先生は、香川君のように手放しで喜べない。


「かっ、香川くぅっ  ヒャッ!」

香川君は小躍りして私を抱きしめた。

「よかったっ、本当よかったっ」

「かっ、香川くぅんっ  ダメだって、まだ接触は…」


「そうなんだっ、ちょっと慎重さにかけてるぞっ君!  まだ予断が許さないんだよ…GVHDの発症が見られる…」


香川君は私から飛びのいた。


「すみませんっ」

冷静さを欠いた行動を起こした香川君を私は好きになった。


「まぁ油断はできないが、今日の血液検査で見る限り、免疫抑制が旨く働いているよ、僕の報告に満足してるハズなんだが、何故、黒ちゃんは臍を曲げているんだ…わからないね」



「ええ…私が先生無しで 前処置や移植を無事終えれた事が…多分」


次の言葉を宗方先生が代弁する。
「気に入らない。   頼りにされなくて寂しいのか…」


宗方先生は今更の子供っぽい黒崎先生に呆れる。


「先生、黒崎先生って そんなだから、いつも新しい事に迷わず挑戦できるんだと思います。   他人じゃ無く、自分の気持ちに嘘がつけない方なんです」

(香川君…先生を擁護している)

「先生がミチコさんに、直ぐ、私をアメリカに引き取ると言ってるらしくて…」

一旦こうと決めたら梃子でも引きさがらない…。


「君はどうしたい?」


(日本なら、叔母も ミチコさんも、鎌倉のお母さんだって、いざとなったら何かと面倒見てくれるけど…アメリカとなるとーー頼りは、あの…自己中の先生だけ。  すぐに、お金や権威に物を言わせて解決しようとするし  最後は、自己満足の挙げ句勝手に自己完結だもの…)

私が疲れる。

「わたし、先生の近くにいると…頼り過ぎて、一人で何もできないヒトになりそうで…赤ちゃんが生まれるまで、日本で…治療を続けたい」


「あっ、赤ちゃん!」



私は香川君が日本にいない間に宗方先生を交えて子供が欲しいと訴えたことや 私が妊娠することはほぼ不可能なこと…………………………代理母出産に至った結論を香川君に話した。

「わかった、綾野さん  僕がアメリカへ立ち寄り、先生に君の気持ちを伝えてくる。   先生だって、今の綾野さんを移動させるリスクをわからなハズがない。   いつもながら拗ねているだけだと思うな」



( 香川君…  ヤッター!)


これをきっかけに、先生と仲直りして欲しい。




【 香川タカシ様

香川君…ごめん  私はいつも君を振り回して、今度の事も君を利用したんだよ。 私 最低だよね…でもね、私が万が一の時、他の誰よりも
先生の近くには、貴方に居て貰いたい。私の心からの願い…………いつか、この気持ちが香川君、貴方に伝わるように…心の中で願っています。    先生は、タフだから多分、切り替えられると信じています。でも先生が心配です。  私は香川君が先生には必要だと思っています。

何もかも香川君に託してごめんね。   この手紙は私が妻として、母として役割が果たせなくなった時、貴方の手元に届くようにします。

                                                                               黒崎ミチル】








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