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父の転勤

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認証登録して以来、先生の留守中でも 論文や原稿の校正を頼まれて 
通っていると、居心地がよくてついつい数日逗留してしまっている。もちろん、家族には一人暮らしの友人の世話と一緒に勉強するためと大嘘をついている。  そんなバレバレの嘘ですら信用されるほど私は真面目一筋に22年間生きてきた。  まさか中年バツ1の肉食オヤジにイレ込んでいるなんて家族は夢にも思っていない。
退院以来、弟は順調に回復し、受診間隔も3ヶ月に1回のペースになった。  黒崎先生に出会うまでの年月は一体何だったのだろう。
これからは、病院で先生に会う機会も弟の回復に合わせて 少なくなってくる。  だからと言って、先生の家に入り浸っていても…会えるのは、数時間…か先生の都合次第。  ところが、不思議なことに、寂しく思う事は無い。 会いたい時は、先生の家でじっと待っていれば、必ず帰って来てくれる。  帰って来た時は、たとえ疲れていても愛してくれる。

私にとって、叔母の家以上に安心できる唯一の場所になっていた。


7月の司法書士試験に向けて 受験勉強も、先生の家なら追い込んだ勉強が出来そうとたかを括っていた。


このままずっと先生の帰りを待つ暮らしに憧れる。でも現実はそう簡単には行かない。叔母の家には 弟もいる。出来るだけ帰るようにしている。自分の勉強に集中したい時…は先生の家に行く。その方が数段、勉強が捗り先生と会えて精神的にも落ち着いた。弟は最近になり 、中学を休む事なく友達も自宅に連れてくるようになってきた。そんな時期 …によりにもよって父に関西へ異動の内示があった。
父は、これが最後の異動だろうと話す。私は、弟の病気の事もありこのまま叔母宅で居たいと希望した。神戸には、祖母が一人で住んでいるが、この先、長男である父が 面倒を見るつもりでいるらしい。この異動の真相は、父自ら、内々に異動願いを出していたのだ。
叔母は今迄、私達の父親に代わり再々神戸の祖母の様子を見に行ってくれていた。

父親と叔母 私の意見は一致していた。
弟も その選択に従うものと思っていた。

夕食の食卓で父の異動を弟に伝えた。弟の選択は、私達の考えていたものとは違っていた。

「よっしっ !父ちゃん甲◯大学附属に編入出来るようにしておいてよ!絶対」弟の即決に一同 唖然とした。

東京に来る前 、私達は、神戸の父の実家で暮らしていた。あれから五年の月日が経っていた。弟は、附属小学4年生の時に転校して神戸の事などすっかり忘れているものと…思っていた。しかし…彼は甲◯大学附属…と希望まで口にした。


 「もう 転校は無しだよ父ちゃん! 附属の編入試験頑張る!」

  弟の決意は固い。

…父親の仕事は弟の面倒を見れるような余裕は無い。父は弟の選択に困惑して、私に  ‘何とかしろ’  と目配せする。


(あ…弟一人で神戸には行かせられない )

「タダシ…病気はどうするの? 黒崎先生から別の先生に代わっても平気なの?」

弟が先生の手元から離れる事は… 私は混乱する。もしも先生と離れなければならないとしたら胸が…

(張り裂け…そう   息苦しい…)



6月初旬を迎える頃には三日に一度は雨がふり、曇り空 の毎日が続く。欝っとおしいと思うのは人間だけで、生き物は恵みの季節に命の息吹を謳歌している。大学の桜並木も、眩しい新緑のアーチで 学生達を迎えてくれる。あれから…私は東京を離れる事は考えないようにしながら、目前に迫った司法書士試験のために…先生との別れの日を忘れるために…   試験対策に没頭しようと決めた。  弟は 私とは正反対に、生き生きして附属中学の編入試験の勉強を苦にする事なく取り組み始めている。  弟が何故神戸に戻りたいのか…

転校してからも 小学生時代の友達とビデオ通話で繋がっていたからだった。 やっと やる気になった弟の望むことは、姉として叶えてやりたい…

(簡単なこと…)


父親は 8月には 引き継ぎの為 先に関西に旅立つ。 弟の編入試験が 無事合格したとしても 私は …大学を休学するか関西から通うか、中途退学。  休学して再び来春からの復学か、関西の大学へ編入…一番まともな選択肢。 時間の流れは時々嫌な事を忘れさせてくれる。
手続きの忙しさもあって 先生の事が 意識の外に払えるようになってきた。先生からはその間も、何度か校正の依頼があったが試験勉強が押して 来ていると返事して、直接私のパソコンに原稿を送って貰った。出来上がり次第返信する事にしている。直接顔を見ず声を聞かないで済む。  後は 関西圏で弟の病気に対応してくれる病院を黒崎先生に紹介してもらうしかない。



7月の第一週に司法書士試験がある。今年は8月5日から大学の夏期休業に入るから、引っ越しはその後 ということになる。私の編入試験を、10月になんとか神◯大学で決めたい。ダメなら 秋から休学して センターを受け一年生から出直す…?


(はぁ…私 、司法試験合格までに おばあちゃんになっちゃう。)

予備試験受けて 在学中に 司法試験に挑戦するか…もう…考えるのも…嫌…になってくる。つい この前まで…黒崎先生との事だけ思って
夢うつつだったはずなのに、いきなり 現実を突き付けられて…


    ( 不運だ…)

私は大学の図書館でひたすら 目の前の問題解決に取り組むことで黒崎先生への気持ちを遠ざけていた。 悶々としながら試験勉強に逃げ込んでいた私の肩をトントンと叩いたのは、

   「サヤカ!」



サヤカは 私の横に来て浮かない顔で腰掛ける。

「なんで 相談ないかなぁ」

(えっ?)

「学生課で聞いたよ、引っ越すんだぁ…ついて 行くんだ…」
サヤカは 意地悪く言い放つ。
弟の希望や病気の事があるから母親代わりが あと暫く必要だと説明するが納得してくれない。


「弟君だって もう中学生だよ  一々 お姉さんだよりなんて!信じらんないわ   ほらっ 、香川君だって 中学からずっと親元を離れお祖父さん達と暮らしたから、 しっかり者に なったんじゃん!…だいたいさぁ   過保護すぎなんじゃないの   ?」

「……」


 「弟君の病気も普段はあっちで診て貰ってさ、いざという時は飛行機でも 新幹線でも使ってほら何とかって名医に診て貰えばいいじゃん !神戸なんてあっという間の距離だよ」

サヤカはフンと顎を突き出し 説教する。

 「肝心なのはミチルがそれでいいのか⁈ って事じゃないの!弟君だって後からミチルに後悔されたって迷惑だよね」

  「…」
わざわざ大学辞めて、相変わらず無駄な事ばっかり…サヤカは怒り心頭 と言わんばかりに私を睨んだ。

( 私の望みは…)


( 一枚も二枚も上手だよ…サヤカは ! 私ったら なに自分勝手に物事を決めていたんだろう…バカなわたし!私を必要か どうかは弟が決める事だよ  今、私に必要なのは  私の望みは…先生の近くに
居たい。   離れたくない。一番先に 相談すべき人は先生だった…)

先生が 神戸に行けと言うなら行こう。
 “たとえ近くにいなくても 絆で繋がっている絶対離さない。”

先生はそう言ってくれた。涙を指先で拭う。



「サヤカぁ サヤカのおかげで大切な事忘れるところだったよ 今から行ってくるわっ!」


「…えっ ミチル どこ行くのよ‼︎」

私はサヤカを残して、図書館を飛び出した。



先生とは ここ3週間事務的なメ―ルのやり取りしかしていない。
先生の家にも  神戸行きの話しが出て以来 行ってなかった。



駐輪場で  パソコンを開き メールを送る。

  [ miss you ]と…
先生の家まで自転車で 3,40分の道のりを めちゃくちゃにペダルを踏む。講義も全てドタキャンした。 

その頃 、黒崎先生は 大学で臨床の講義中だった。
月一回の先生の90分の講義は 学生に人気で 受講者で講堂はあふれ返っていた。受講者が多い人気講義はしばしば大講堂を使う。 先生の講義は学生のみならず、外部聴講生も列をなす盛況ぶりで 講義も白熱しながら終盤近く  パワーポイントで 説明中 メールが入った。
手許のパソコンのモニターに映るミチルのアドレス。

マイクを持ち、先生はユーモアを交え ながら、

「講義の途中ですが、緊急のメールが入りまして…実は実験中の結果を待っているところです。どうやら今、出たらしく…すぐに 開けて、確認したいのですが学生諸君 よろしいか?」

受講者聴講生は拍手で答える。


「ありがとう 諸君の寛大なる良心に感謝する」


先生の指先がボックスを開ける。

                          miss you 

先生は操作を誤って、講堂の大スクリーンに文字が浮かんだ。
講堂全体が ざわめきや笑い声に包まれたが、先生は慌てるそぶりなく、マイク片手に

  「どうやら実験中のミッションも  ゴールしたようです!少し予定より早いですが、本日の講義はここまでとします。 次回はこの続きを…
本日の講義内容は、400字3枚程度のレポートで提出して下さい。
聴講ありがとう!」


最後のご愛嬌も手伝って、大講堂は拍手喝采に包まれる。
先生はパソコンをリュックに仕舞うと 事務職員に 後片付けを任せ 講堂を出る。 急ぎ足で大学を後にした。



医学部の駐車場へ向かう道すがら 先生は 最近の 事務的なミチルのメール内容を多少気にしていたが、試験も近いし忙しいんだろう程度に放置していたことを少なからず 後悔した。

(あいつにしては、珍しいエキセントリックなメール
…miss you…  “逢いたい 淋しいぃ”  ったくぅ!  手の焼ける女
……………何か あったのか?)

車の前まで来たところで院内携帯が鳴る。

「クソッ!」  先生は足元の砂利を蹴散らした。

「もしもし…… わかったっ  整形の田村先生と 血液内科笠原先生
応援 頼んで!」


(っくぅ…こんな時にっ)

崖から転落した内臓損傷…の疑いがありそうな大腿骨開放骨折…の患者をヘリコプターが搬送してくるとの連絡。 他の救命のドクターは、別の急患で対応中。  先生は、原先生にも応援を頼んだ。原先生は今のオペが済み次第すぐ応援するとの返事。 

手術場へ直行した。


  (長丁場になるか…開放骨折っ  めんどくせぇなぁ………………)




手術場に着くと すでに 患者のバイタルを安定させるため気管挿管し人工心肺に切り替えられていた。麻酔科医が 出払っているため 笠原先生が担当し 輸血も受け持ってくれていた。

  「ったくぅ 黒崎 ぃ 遅いっよ! あんた無しで始めるところだったのよっ」 笠原先生が睨む。

  「わりぃ  わりぃ!… 田村先生よろしくお願いします。え…と…」

右側に居る若い先生は、黒崎先生が初めて見る顔だった。


  「胸部外科の 三浦先生よ」  笠原先生が紹介する。

  「三浦先生 お願いします」

  「患部洗浄済んでます」

  「………」

  「電メス」



黒崎先生の声が  緊張感漂う手術場に響く。



そうとはしらない私は、メールしたあと夢中で先生のマンションまで来ていた。3週間ぶりの目の前の光景。洒落た高級住宅が並ぶ町並み。その中でも一際目立つお洒落な集合住宅。


先生の自宅に入る。 リビングの隅々から先生の息使いが聞こえる仕事で忙しいと判っているのに あんな感情的なメールを送った事を後悔した。壁の時計は午後1時を指していた。ここで待てば いつか帰って来ると 信じる。パソコンを開いてもメールの返信は来ていない。        (当然か…)

先生が帰ってくるまで試験の過去問に取り掛かり、難題に手こずっているうちに時間はあっという間に過ぎていた。


 ‘グゥー’とお腹が鳴る。そういえば朝、パンを食べたきり何も口にしていないことを思いだした。キッチンに何か食べ物が無いか 、冷蔵庫から引き出しまで覗いてみるが すぐに食べられそうなものがない。      (買い物行こう…)

時間は午後4時を過ぎていた。私は 、マンションを出てすぐ近くの
成城○井へ 行く。カレーが食べたい。その思いつきはすぐに実行に移した。スパイス類だけは何故か先生宅のキッチンに揃っていた。
とりあえず 鳥肉 、ヨーグルト 、小袋の小麦粉、玉ねぎ 、にんじん 
ズッキーニ 、茄子 、トマト…玉ねぎ  以外は 残らないように一個ずつ買う。ロゼの安いワイン。あと 雑穀米800g袋をマンションに持ち
帰ると 早速キッチンに入った。


( 先生の台所を使うのは 初めて…)


雑穀米を炊飯器で仕掛ける。

スパイス
クミン 、ターメリック、コリアンダー 、パプリカ 、クミンシード
 フェンネル、オールスパイス、シナモン、ブラックペッパー 、唐辛子 、花山椒…先生のキッチンにあるスパイスを全部使う。

つまりなんでもいい…
みじん切り二個分の玉ねぎをオリーブオイルで炒める。五分の一ぐらいになったら、小麦粉とスパイスを入れて焦げないようにじっくり玉ねぎと混ぜ炒める。ゆっくり 水を混ぜながら小麦粉が、だまにならないように入れる。


(ここが勝負)すでに 部屋中にカレーの香り…


グゥ… (お腹空きすぎ!)なべの中の見た目は、お馴染みのカレール― 、あとは味付け 
塩  トマトケチャップ  ウスターソース ブイヨン  チヤツネ 
好みの味付けで ルー完成 …平行して 鳥肉 野菜の順に炒める。にんじんは薄切りにして、炒めた具材を ルーで煮込む か 食べる直前に
トッピングするか…

( 先生と一緒に食べたい )
先生が帰ってきたら、すぐに 食べられるように…それまでは過去問に取りくむ。 初夏の夕暮れは 日が長くまだ 外は明るい。

「お疲れ様でした!」およそ5時間の手術が終わり患者はICUへ運ばれる。原先生が途中応援に駆け付た頃には既に縫合に入っていた。

「早いなぁ!」原先生は最後の手技を見守る。

胸部外科の三浦先生の仕事ぶりに黒崎先生も感心する。


「黒崎ぃ 三浦君さ早いし正確でしょどうよ――」

笠原先生と並んでグローブを外しながら会話を交わす。

「ふん ヤバいくらい縫合早いな  最近の若手ではピカ一か」


“ちょっと ちょっとぉ”  笠原先生が 黒崎先生に肘で合図する。

「みっ三浦センセーぇ」笠原先生は手術場を後にする三浦先生を呼び止める。

「お疲れ様っす」マスクを外すと 精悍な顔から笑顔がこぼれる。



( ったくぅ またか …若いのを餌食にする気だな この肉食女は、)

黒崎先生は その場をさっさと切り上げたかった。

「三浦センセーこれから お食事いかがですかぁ?
黒崎先生も一緒ですよ♪」


(あっバカ! ッ リノ…‼︎)


「ワァー 嬉しいなぁ  第二外科の花形 黒崎先生と御一緒出来るなんて…俺、皆に 自慢できます!」



( …クッ ソ ッ 何ぃ 勝手にセッティングしてんだぁバカが!…)

ポカッと笠原先生の頭を弾くと、

「三浦先生  今夜は野暮用が …また 是非次の機会に」先生は苦々しく詫びる。
 笠原先生に「お前 !ったくぅ  相変わらず空気読めない女だな」小声で 言うと

「野暮用って 彼女ぉ~?」笠原先生の冷やかしを
無視してその場を足早に立ち去る。



(…図星かな )     ばつがわるい笠原先生は なんとか取り繕い改めて三浦先生と二人で食事に行くことを約束した。


日が暮れたのも気がつかないほど、 過去問がさくさくと解けた。
リビングの照明をリモコンでつけると、ここが先生の家で一番居心地がいい事を再認識する。メールが届く電子音

   (先生だ)

  [今終わった 待たせたな メシは?]

すぐに返信する。

  [カレー作ったから一緒に食べようよ]


[ 了解  あと20分で帰る  腹減った!]


私はカレーを温め始めながら階下に下りてお風呂の用意をする。
カレーの具材は煮込む事にした。たちまち部屋中カレーの香ばしい匂いが立ち込め始める。  レタスのちぎりサラダを作り、フレンチドレッシングを用意した。  アイランドシンクのカウンターに サラダとワイングラス、 スプーンに 箸をセッティングする。
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