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第一章 春の花
アジュガ
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久保明日香は、ところどころに桜が咲く道をてくてくと歩く。満里奈は部活。希美はアルバイト。帰宅部の明日香はまっすぐ家に帰ることがほとんどだ。昨日が楽しかったせいもあって一人の帰り道はなんだか寂しい。
学校帰りによく立ち寄る本屋の自動扉を通る。昨日の夜に読んでいた小説を読み終わってしまったのを思い出したのだ。本屋独特の、紙のいい匂いがする。明日香がよく読むのは恋愛小説、ミステリー小説、心理学や哲学の本だ。文芸コーナーにきれいに並べられた背表紙を見る。
あ、これおもしろそう。
一冊の本を手に取った。だいたい本はタイトルと表紙のデザイン、裏表紙のあらすじをみて直感的に買ってる。ある意味適当な買い方はなんかちがうな、となることもたまにある。けれど面白いと思えるものがほとんどだ。
お小遣いをもらって、スマートフォンのお金出してもらい、進学のお金の心配もない。言葉にしたら当たり前のことのようにも感じるけど、とてつもない贅沢だ。そしてある程度のやりたいことも決まっている。おそらく将来、一人暮らしをしていくくらいのお給料は貰えるだろう。満里奈や希美を見ていたらいかに自分が恵まれているかわかる。でもわたしはそれだけ。二人ほどの熱量はない。
本屋で会計を済ませて自宅へ帰る。家には誰もいない。白と黒の家具で統一された明日香の部屋。窓際に寄せられた白のシーツがかかったベッド。黒のラグの上に乗る白い丸テーブル。白と黒のストライプのカーテン。そして二つ並ぶ大きな本棚。一見すると男の部屋か女の部屋かわからない。ピンクの女の子らしいものは嫌い。幼いころはよく母親を困らせていた。せっかく買ってくれたかわいい服を着たくないとダダこねた。だからといってヒーローや男らしいものが特別好きなわけではない。
紫のスカーフをほどき、しわにならないようにハンガーにかける。セーラー服が掛けられたことによってこの部屋は女の子の部屋なんだなとやっとわかるようになった。部屋の隅に置かれた姿見が黒の下着姿の明日香を移す。胸は大きくヒップも張り出し、大人の女そのものの体。その体に嫌悪を感じるわけではないけれど、スタイルを褒められても特別うれしくはない。
黒いスウェットに着替えて勉強机に向かう。嫌いな教科からやってしまおうと現代文の参考書を開いた。明日香は心理学科のある大学を目指している。心理学科に入学して児童福祉士の資格を取るつもりだ。ほかにも取れそうなものはとって、就職のことは入学してから考えても遅くない。
二時間ほど勉強して頭が疲れてきた。外はもうすっかり暗くなっている。白い勉強机から立ち上がり窓のほうへ向かう。カーテンを閉めるとき誰かが走っているのが見えた。暗いうえに一瞬だったのでだれかはわからなかった。けれど、ポニーテールを揺らして走るその姿に大切な友達の顔が浮かんだ。
おなか減ったな。カーテンを閉め、部屋の電気を消して台所に向かう。母はまだ帰ってきていない。明日香の母親、久保容子は児童相談所の職員を務めている。毎日忙しく帰りは遅い時間になることもしばしばだ。父親は仕事と育児にかかりっきりの母に愛想をつかして出て行った。そのため中学二年生から明日香は母親と二人暮らしをしている。父親ともそれなりに仲が良く月に一度は二人で食事に行っている。先月あったときは三年生の進級祝いと言ってちょっといい焼肉に連れて行ってくれた。
冷蔵庫を開けると中にはたくさんの作り置きが入っている。休みの日にたくさん作って置いたのだろう。肉じゃがと冷ご飯のタッパーを取り出して、電子レンジで温める。その間にトマトのへたをとってレタスをちぎり、簡単なサラダを作った。忙しくても容子はご飯の作り置きをしてお弁当も作ってくれる。コンビニで買ってと言われるのはよっぽど忙しい時くらいだ。高校生になったとき、お弁当は自分で作ると提案したがそれは母親の仕事だとあっさり断られた。よその子のために働いて自分の子供をほっといたら本末転倒だから、だそうだ。
電子レンジが温め終わりましたよ、と音を鳴らす。テーブルに運び、テレビをつける。これを食べるだけで血液がさらさらになって痩せます。そんなウソかほんとかわからない情報が垂れ流されている。そんな特に面白いとも思わないテレビを見ながら肉じゃがを口に運んだ。食べ終えて食器を流し台に下げたところで鍵が開く音がした。
「おかえり、お母さん」
「ただいま」
グレーのスーツに身をつつんだ母、容子が帰ってきた。片手にはコンビニの袋を下げている。
「これ、希美ちゃんとこで買ってきたよ」
希美のアルバイト先のコンビニは容子の職場と自宅のちょうど間くらいにある。満里奈も希美も時々明日香の家で遊んでいるので容子とは顔見知りだった。袋の中には新作のコンビニスイーツが入っている。
「それで、その黒崎さんって子と仲良くなりたいんだけど、どうしたらいいのかなぁ」
はぁ、とコーヒーを飲みながらため息をつく。スイーツは底にカラメルが塗られている濃厚なチーズケーキだった。
「そういう子ってクラスに一人くらいいたりするのよね。お菓子とかあげてみたら?意外と甘いものでほだされてくれるかも」
テーブルに肘を乗せてマグカップの取っ手に指をひっかけながらアドバイスをくれる。多分今の発言に心理学は関係ないのだろうがなんとなく説得力がある気がしてしまう。それは姉妹のように仲の良い親子関係を築けているせいもあるだろう。自分のやりたい仕事をして、家事も手を抜いてない。休みの日に一緒に買い物に出かけることもある。どうして父が離婚をしたのか明日香は心底不思議だった。
ゆっくりお風呂につかり自室に戻る。帰り道で買った本を取り出てしベッドに寝っ転がった。明日香は現代文の授業は嫌いだが本を読むのは好きだった。ただ自分が感じたことを人に公開して点数を付けられるのが嫌なのだ。
小説の内容は恋をしたことのない女の子が恋に落ちる。その恋した相手は女の子だった。そんなラブストーリーだ。
冒頭で「雷に打たれたように恋に落ちた」そんな文言があった。明日香はまだ恋をしたことがない。本を読むのは好きだし、満里奈と希美のことも好き。でもそれは恋じゃない。きっと甘いものを好きだと言っているのと同じだ。男の子と付き合えば自然と恋に変わるかと思って中学の時、告白してきた男の子とつきあったことがある。
結果は全然興味など持てず、振ってしまった。あの男の子にはかわいそうなことをした。それ以来、誰とも付き合ったことはない。あのときわたしは何て言って振ったんだっけ。全然覚えてないや。物語と思考の間を漂っているとだんだん睡魔が襲ってきた。
自分の心もわからないのに作者の心情なんてわかるわけない。心理学科に進みたいのは「恋」や「愛」の意味を知りたいから。子供に暴力をふるう親の心が知りたいから。わたしの心を知りたいから。ただそれだけの理由だった。児童福祉士はすぐそこにある目標だから目指しているだけ。容子のように子供たちのため、とかそんな高尚な理由じゃない。わたしっていつからこんな自己中心的な人間になっちゃんだろう。
煌々と照らすLEDの下、気が付いたら眠りに落ちていた。翌朝、目が覚めると体には布団が掛けられ部屋の電気は消えていた。カーテンの隙間から差し込む朝日が眩しい。
学校帰りによく立ち寄る本屋の自動扉を通る。昨日の夜に読んでいた小説を読み終わってしまったのを思い出したのだ。本屋独特の、紙のいい匂いがする。明日香がよく読むのは恋愛小説、ミステリー小説、心理学や哲学の本だ。文芸コーナーにきれいに並べられた背表紙を見る。
あ、これおもしろそう。
一冊の本を手に取った。だいたい本はタイトルと表紙のデザイン、裏表紙のあらすじをみて直感的に買ってる。ある意味適当な買い方はなんかちがうな、となることもたまにある。けれど面白いと思えるものがほとんどだ。
お小遣いをもらって、スマートフォンのお金出してもらい、進学のお金の心配もない。言葉にしたら当たり前のことのようにも感じるけど、とてつもない贅沢だ。そしてある程度のやりたいことも決まっている。おそらく将来、一人暮らしをしていくくらいのお給料は貰えるだろう。満里奈や希美を見ていたらいかに自分が恵まれているかわかる。でもわたしはそれだけ。二人ほどの熱量はない。
本屋で会計を済ませて自宅へ帰る。家には誰もいない。白と黒の家具で統一された明日香の部屋。窓際に寄せられた白のシーツがかかったベッド。黒のラグの上に乗る白い丸テーブル。白と黒のストライプのカーテン。そして二つ並ぶ大きな本棚。一見すると男の部屋か女の部屋かわからない。ピンクの女の子らしいものは嫌い。幼いころはよく母親を困らせていた。せっかく買ってくれたかわいい服を着たくないとダダこねた。だからといってヒーローや男らしいものが特別好きなわけではない。
紫のスカーフをほどき、しわにならないようにハンガーにかける。セーラー服が掛けられたことによってこの部屋は女の子の部屋なんだなとやっとわかるようになった。部屋の隅に置かれた姿見が黒の下着姿の明日香を移す。胸は大きくヒップも張り出し、大人の女そのものの体。その体に嫌悪を感じるわけではないけれど、スタイルを褒められても特別うれしくはない。
黒いスウェットに着替えて勉強机に向かう。嫌いな教科からやってしまおうと現代文の参考書を開いた。明日香は心理学科のある大学を目指している。心理学科に入学して児童福祉士の資格を取るつもりだ。ほかにも取れそうなものはとって、就職のことは入学してから考えても遅くない。
二時間ほど勉強して頭が疲れてきた。外はもうすっかり暗くなっている。白い勉強机から立ち上がり窓のほうへ向かう。カーテンを閉めるとき誰かが走っているのが見えた。暗いうえに一瞬だったのでだれかはわからなかった。けれど、ポニーテールを揺らして走るその姿に大切な友達の顔が浮かんだ。
おなか減ったな。カーテンを閉め、部屋の電気を消して台所に向かう。母はまだ帰ってきていない。明日香の母親、久保容子は児童相談所の職員を務めている。毎日忙しく帰りは遅い時間になることもしばしばだ。父親は仕事と育児にかかりっきりの母に愛想をつかして出て行った。そのため中学二年生から明日香は母親と二人暮らしをしている。父親ともそれなりに仲が良く月に一度は二人で食事に行っている。先月あったときは三年生の進級祝いと言ってちょっといい焼肉に連れて行ってくれた。
冷蔵庫を開けると中にはたくさんの作り置きが入っている。休みの日にたくさん作って置いたのだろう。肉じゃがと冷ご飯のタッパーを取り出して、電子レンジで温める。その間にトマトのへたをとってレタスをちぎり、簡単なサラダを作った。忙しくても容子はご飯の作り置きをしてお弁当も作ってくれる。コンビニで買ってと言われるのはよっぽど忙しい時くらいだ。高校生になったとき、お弁当は自分で作ると提案したがそれは母親の仕事だとあっさり断られた。よその子のために働いて自分の子供をほっといたら本末転倒だから、だそうだ。
電子レンジが温め終わりましたよ、と音を鳴らす。テーブルに運び、テレビをつける。これを食べるだけで血液がさらさらになって痩せます。そんなウソかほんとかわからない情報が垂れ流されている。そんな特に面白いとも思わないテレビを見ながら肉じゃがを口に運んだ。食べ終えて食器を流し台に下げたところで鍵が開く音がした。
「おかえり、お母さん」
「ただいま」
グレーのスーツに身をつつんだ母、容子が帰ってきた。片手にはコンビニの袋を下げている。
「これ、希美ちゃんとこで買ってきたよ」
希美のアルバイト先のコンビニは容子の職場と自宅のちょうど間くらいにある。満里奈も希美も時々明日香の家で遊んでいるので容子とは顔見知りだった。袋の中には新作のコンビニスイーツが入っている。
「それで、その黒崎さんって子と仲良くなりたいんだけど、どうしたらいいのかなぁ」
はぁ、とコーヒーを飲みながらため息をつく。スイーツは底にカラメルが塗られている濃厚なチーズケーキだった。
「そういう子ってクラスに一人くらいいたりするのよね。お菓子とかあげてみたら?意外と甘いものでほだされてくれるかも」
テーブルに肘を乗せてマグカップの取っ手に指をひっかけながらアドバイスをくれる。多分今の発言に心理学は関係ないのだろうがなんとなく説得力がある気がしてしまう。それは姉妹のように仲の良い親子関係を築けているせいもあるだろう。自分のやりたい仕事をして、家事も手を抜いてない。休みの日に一緒に買い物に出かけることもある。どうして父が離婚をしたのか明日香は心底不思議だった。
ゆっくりお風呂につかり自室に戻る。帰り道で買った本を取り出てしベッドに寝っ転がった。明日香は現代文の授業は嫌いだが本を読むのは好きだった。ただ自分が感じたことを人に公開して点数を付けられるのが嫌なのだ。
小説の内容は恋をしたことのない女の子が恋に落ちる。その恋した相手は女の子だった。そんなラブストーリーだ。
冒頭で「雷に打たれたように恋に落ちた」そんな文言があった。明日香はまだ恋をしたことがない。本を読むのは好きだし、満里奈と希美のことも好き。でもそれは恋じゃない。きっと甘いものを好きだと言っているのと同じだ。男の子と付き合えば自然と恋に変わるかと思って中学の時、告白してきた男の子とつきあったことがある。
結果は全然興味など持てず、振ってしまった。あの男の子にはかわいそうなことをした。それ以来、誰とも付き合ったことはない。あのときわたしは何て言って振ったんだっけ。全然覚えてないや。物語と思考の間を漂っているとだんだん睡魔が襲ってきた。
自分の心もわからないのに作者の心情なんてわかるわけない。心理学科に進みたいのは「恋」や「愛」の意味を知りたいから。子供に暴力をふるう親の心が知りたいから。わたしの心を知りたいから。ただそれだけの理由だった。児童福祉士はすぐそこにある目標だから目指しているだけ。容子のように子供たちのため、とかそんな高尚な理由じゃない。わたしっていつからこんな自己中心的な人間になっちゃんだろう。
煌々と照らすLEDの下、気が付いたら眠りに落ちていた。翌朝、目が覚めると体には布団が掛けられ部屋の電気は消えていた。カーテンの隙間から差し込む朝日が眩しい。
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