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第一章 春の花
アセビ
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コンビニの自動扉が開くと同時に軽快なメロディが流れる。人が出入りするとセンサーが反応して音が鳴る仕組みになっている。松坂希美は折り畳みコンテナ、従業員は折コンと略す青い箱からスイーツを取り出して商品棚に並べていた。品出しをしながらもメロディが流れると反射的にいらっしゃいませ、もしくはありがとうございました、と言う。入店と退店のメロディは違うので音だけでどちらを言えばいいのかすぐにわかる。品出しが終わり、折コンを片付けようとしたとき希美ちゃん、と声をかけられた。
「明日香のお母さん。こんばんは」
「いるかなーって思って寄ってみたの。久しぶり」
声のほうを向くと久保明日香の母、久保容子がいた。グレーのスーツ姿に黒のビジネスバッグを持っている。容子は昔から時々このコンビニで買いものをしている。よく行くコンビニで娘の友達が働いているのを見つけた時は驚いた。
「あの子いつも勉強頑張ってるからたまには甘いのでも買っていってあげようかな。小難しい本ばっかり読んでるし、頭疲れちゃいそう」
ふふ、と笑いながら言う顔はとても五十歳近いとは思えない。ナチュラルメイクが施された顔に目立つしわはほとんどない。明日香から年齢を教えてもらったとき、希美は心底驚いた。思わず私のお母さんのほうが若いはずなのになぁ、と愚痴をこぼしてしまった。
「この新作のチーズケーキおいしいですよ」
「ならそれいただくわ」
希美のおすすめを二つ棚から取り、一緒にレジへと向かう。
「じゃあがんばってね。またうちに遊びにおいでね」
容子は会計を済ませ、明日香の待つ家に帰っていった。退店したときのメロディが鳴る。ありがとうございました、と言い、ついでにちらりと時計を見た。時刻は十九時半。あと数時間で希美も帰れる。今度は入店のメロディが鳴り、小学校中学年くらいの男の子が一人ではいってきた。首にはストラップを付けたスマートフォンがぶら下がっている。塾の帰りかな。こんな時間なのに親のお迎えとかないのかな。
男の子はお菓子コーナーをよく吟味して一つだけお菓子をとった。そのままぐるっと店内を回って、乳製品が置いてあるコーナーの前で立ち止まる。レジに来た時、子供ながらに大きい手には牛乳とチョコレートを一つずつ持っていた。お母さんに塾の帰りに牛乳買ってきて。ついでに好きなお菓子も一個だけ買っていいわよ。と言われたのだろう。
男の子は首から下げたスマートフォンを電子マネーの読み取り機にかざす。ピッと音がして会計が終わった。希美は今どきの子は小銭を持つ必要がないのか、と感心する。確かにお金を持たないほうが落とす心配もないし、足りないという心配もない。幼いころ、母にいくらかの小銭を持たされておつかいに行った。頼まれたものと好きなお菓子を一つだけ買って帰る。お駄賃、といってもらったおつりの百数十円がなぜかとてもうれしかったのを思い出した。きっとこの子はそのうれしさを知らないのだろう。
タイムカードを押して制服に着替えた。すっかり夜になった帰り道。冷たい光を放つ街灯の下で春風に吹かれた桜の花びらが落ちている。家に帰ると両親が六人掛けの食卓テーブルに向かい合って座っていた。
「おかえり、のんちゃん」
「ただいま」
両親は希美のことをのんちゃん、と呼ぶ。幼いころからそうだった。それを真似して妹達ものんちゃんと呼んでいる。母親が明るく話しかけてくるがさっきまで家計の話をしていたのは明らかだった。
希美には両親と三人の弟妹達がいる。この春、小学校三年生になった妹、小学校に入学した双子の弟たち。いまどき四人兄弟は多いほうだろう。
働いてもらってごめんねとか進学させてやれなくてごめんねとか、そんな話が始まりそうな気がした。疲れているからとさっさとシャワーを浴びて自室に行く。自室と言っても希美だけの部屋ではない。妹との二人部屋だ。賃貸マンションで一部屋をもらう余裕などなく、希美と妹の部屋。双子の弟たちの部屋と別れている。
勉強机が二つと二段ベッドが並ぶ部屋。赤いランドセルが置いてある机の隣。そこに自分のスクールバッグを置いて、制服をハンガーにかけた。机の反対側に置かれた二段ベッドの下で妹の奏美がすやすやと眠っている。歳が離れているせいもあってか希美は妹達がかわいくてしかたなかった。
ふと、コンビニに来た男の子を思い出す。多分あの子と奏美は同じくらいの年頃だろう。奏美は塾に行ってもいないし、スマートフォンも持っていない。希美は仕事の連絡が取れないと困るという理由で一番安いスマートフォンをもっている。もちろんその料金は自分で払っている。いまどきの小学生はほとんどの子がスマートフォンを持っているのだろう。持っていないからという理由でいじめられたりしていないだろうか。子供は残酷だ。自分たちと少し違うからというだけで仲間はずれにする。
スマホ、安い奴ならもう一台ぐらい払えるかな。
まるで母親のような心配事が頭に浮かんだ。希美は自分が就職してもっとお金を稼げるようになれば何とかしてやれると思っている。かわいい妹たちのためなら自分の進学などどうでもよかった。
今日はなんだか疲れた。梯子をのぼって二段ベッドの上に上る。布団をかけ近くなった天井を眺めると、絵はもういいの?叔父の声が脳内で勝手に再生された。その声をかき消したくて横向きに縮こまって頭まですっぽり布団をかぶった。そうしても声は消えてはくれない。
中学二年生の春、今からちょうど四年前。父の勤める会社が倒産した。それまで美術部で毎日楽しく絵をかいていた希美の日常は一変した。家計は火の車。専業主婦をしていた母は少しでもお金を稼ぐためパートにでた。認可保育園には空きがなく、仕方なしに弟たちは無認可保育園に入園した。どんなに働いてもパート代の半分は保育費用で消えていく。幼稚園に通っていた奏美はあと一年で卒園。友達と引き離すのはあまりにかわいそうだと、お迎えは希美がすることになった。家事もできるだけ手伝った。そうすると必然的に勉強する時間も絵を描く時間も少なくなる。
それまで将来は美大に進学して絵で食べていきたいと漠然と考えていた。それが美大どころか高校の学費が払えるかわからない。父はなんとか再就職したものの収入は激減。子供四人も育てていけるのかと両親が話し合う声を何度も聞いた。
奇跡的に希美の進学する年から高校の学費が無償化した。おかげで希美は進学することができたが、そのころには美大進学はしないと決めていた。そして入学と同時に叔父のコンビニの面接を受けた。
両親にお金を渡してもプライドなのかわからないが受け取ってはもらえない。なので妹たちに直接、服や文房具やお菓子を買ってあげることにした。結果的に家計は助かることになる。両親には気にしないでくれと何度いっても定期的に謝られる。
高校に入学してからすぐの美術の授業。希美の絵を見た先生から美術部に誘われたが断った。アルバイトがあるから。それに高いお金を出して美大に進学しても絵で食っていける人なんて一握りだ。ネット社会の今、自分の絵をみてもらう場はたくさんある。成長するにつれて考え方も変わった。もう少し大人になってもっとお金を稼げるようになったらパソコンを買ってSNSに描いた絵をのせよう。友達の笑顔やきれいな風景を楽しく描く。希美にはそれで十分だった。きっと仕事になったら楽しいことばかりではいられないだろうから。
目覚ましの音で目を覚ます。朝のまだぼんやりした頭で慎重に梯子に足をかける。希美は二回この梯子から落ちたことがあるので注意して下りた。無事床に降りると伸びをしてカーテンを開ける。晴れやかないい天気だった。多少の光や物音では起きない妹を起こす。希美の日課だ。
「かなちゃん、おはよ。朝だよ」
「のんちゃんおはよぉ」
まだ子供の体を揺らしながら声をかけるとゆっくりと目を開ける。小さな手で目をこする寝ぼけ眼のかわいらしい妹。毎日見ているはずのその顔が今日は特別かわいらしく思えた。今日の授業中はこの顔を書いて時間をつぶそう。
「明日香のお母さん。こんばんは」
「いるかなーって思って寄ってみたの。久しぶり」
声のほうを向くと久保明日香の母、久保容子がいた。グレーのスーツ姿に黒のビジネスバッグを持っている。容子は昔から時々このコンビニで買いものをしている。よく行くコンビニで娘の友達が働いているのを見つけた時は驚いた。
「あの子いつも勉強頑張ってるからたまには甘いのでも買っていってあげようかな。小難しい本ばっかり読んでるし、頭疲れちゃいそう」
ふふ、と笑いながら言う顔はとても五十歳近いとは思えない。ナチュラルメイクが施された顔に目立つしわはほとんどない。明日香から年齢を教えてもらったとき、希美は心底驚いた。思わず私のお母さんのほうが若いはずなのになぁ、と愚痴をこぼしてしまった。
「この新作のチーズケーキおいしいですよ」
「ならそれいただくわ」
希美のおすすめを二つ棚から取り、一緒にレジへと向かう。
「じゃあがんばってね。またうちに遊びにおいでね」
容子は会計を済ませ、明日香の待つ家に帰っていった。退店したときのメロディが鳴る。ありがとうございました、と言い、ついでにちらりと時計を見た。時刻は十九時半。あと数時間で希美も帰れる。今度は入店のメロディが鳴り、小学校中学年くらいの男の子が一人ではいってきた。首にはストラップを付けたスマートフォンがぶら下がっている。塾の帰りかな。こんな時間なのに親のお迎えとかないのかな。
男の子はお菓子コーナーをよく吟味して一つだけお菓子をとった。そのままぐるっと店内を回って、乳製品が置いてあるコーナーの前で立ち止まる。レジに来た時、子供ながらに大きい手には牛乳とチョコレートを一つずつ持っていた。お母さんに塾の帰りに牛乳買ってきて。ついでに好きなお菓子も一個だけ買っていいわよ。と言われたのだろう。
男の子は首から下げたスマートフォンを電子マネーの読み取り機にかざす。ピッと音がして会計が終わった。希美は今どきの子は小銭を持つ必要がないのか、と感心する。確かにお金を持たないほうが落とす心配もないし、足りないという心配もない。幼いころ、母にいくらかの小銭を持たされておつかいに行った。頼まれたものと好きなお菓子を一つだけ買って帰る。お駄賃、といってもらったおつりの百数十円がなぜかとてもうれしかったのを思い出した。きっとこの子はそのうれしさを知らないのだろう。
タイムカードを押して制服に着替えた。すっかり夜になった帰り道。冷たい光を放つ街灯の下で春風に吹かれた桜の花びらが落ちている。家に帰ると両親が六人掛けの食卓テーブルに向かい合って座っていた。
「おかえり、のんちゃん」
「ただいま」
両親は希美のことをのんちゃん、と呼ぶ。幼いころからそうだった。それを真似して妹達ものんちゃんと呼んでいる。母親が明るく話しかけてくるがさっきまで家計の話をしていたのは明らかだった。
希美には両親と三人の弟妹達がいる。この春、小学校三年生になった妹、小学校に入学した双子の弟たち。いまどき四人兄弟は多いほうだろう。
働いてもらってごめんねとか進学させてやれなくてごめんねとか、そんな話が始まりそうな気がした。疲れているからとさっさとシャワーを浴びて自室に行く。自室と言っても希美だけの部屋ではない。妹との二人部屋だ。賃貸マンションで一部屋をもらう余裕などなく、希美と妹の部屋。双子の弟たちの部屋と別れている。
勉強机が二つと二段ベッドが並ぶ部屋。赤いランドセルが置いてある机の隣。そこに自分のスクールバッグを置いて、制服をハンガーにかけた。机の反対側に置かれた二段ベッドの下で妹の奏美がすやすやと眠っている。歳が離れているせいもあってか希美は妹達がかわいくてしかたなかった。
ふと、コンビニに来た男の子を思い出す。多分あの子と奏美は同じくらいの年頃だろう。奏美は塾に行ってもいないし、スマートフォンも持っていない。希美は仕事の連絡が取れないと困るという理由で一番安いスマートフォンをもっている。もちろんその料金は自分で払っている。いまどきの小学生はほとんどの子がスマートフォンを持っているのだろう。持っていないからという理由でいじめられたりしていないだろうか。子供は残酷だ。自分たちと少し違うからというだけで仲間はずれにする。
スマホ、安い奴ならもう一台ぐらい払えるかな。
まるで母親のような心配事が頭に浮かんだ。希美は自分が就職してもっとお金を稼げるようになれば何とかしてやれると思っている。かわいい妹たちのためなら自分の進学などどうでもよかった。
今日はなんだか疲れた。梯子をのぼって二段ベッドの上に上る。布団をかけ近くなった天井を眺めると、絵はもういいの?叔父の声が脳内で勝手に再生された。その声をかき消したくて横向きに縮こまって頭まですっぽり布団をかぶった。そうしても声は消えてはくれない。
中学二年生の春、今からちょうど四年前。父の勤める会社が倒産した。それまで美術部で毎日楽しく絵をかいていた希美の日常は一変した。家計は火の車。専業主婦をしていた母は少しでもお金を稼ぐためパートにでた。認可保育園には空きがなく、仕方なしに弟たちは無認可保育園に入園した。どんなに働いてもパート代の半分は保育費用で消えていく。幼稚園に通っていた奏美はあと一年で卒園。友達と引き離すのはあまりにかわいそうだと、お迎えは希美がすることになった。家事もできるだけ手伝った。そうすると必然的に勉強する時間も絵を描く時間も少なくなる。
それまで将来は美大に進学して絵で食べていきたいと漠然と考えていた。それが美大どころか高校の学費が払えるかわからない。父はなんとか再就職したものの収入は激減。子供四人も育てていけるのかと両親が話し合う声を何度も聞いた。
奇跡的に希美の進学する年から高校の学費が無償化した。おかげで希美は進学することができたが、そのころには美大進学はしないと決めていた。そして入学と同時に叔父のコンビニの面接を受けた。
両親にお金を渡してもプライドなのかわからないが受け取ってはもらえない。なので妹たちに直接、服や文房具やお菓子を買ってあげることにした。結果的に家計は助かることになる。両親には気にしないでくれと何度いっても定期的に謝られる。
高校に入学してからすぐの美術の授業。希美の絵を見た先生から美術部に誘われたが断った。アルバイトがあるから。それに高いお金を出して美大に進学しても絵で食っていける人なんて一握りだ。ネット社会の今、自分の絵をみてもらう場はたくさんある。成長するにつれて考え方も変わった。もう少し大人になってもっとお金を稼げるようになったらパソコンを買ってSNSに描いた絵をのせよう。友達の笑顔やきれいな風景を楽しく描く。希美にはそれで十分だった。きっと仕事になったら楽しいことばかりではいられないだろうから。
目覚ましの音で目を覚ます。朝のまだぼんやりした頭で慎重に梯子に足をかける。希美は二回この梯子から落ちたことがあるので注意して下りた。無事床に降りると伸びをしてカーテンを開ける。晴れやかないい天気だった。多少の光や物音では起きない妹を起こす。希美の日課だ。
「かなちゃん、おはよ。朝だよ」
「のんちゃんおはよぉ」
まだ子供の体を揺らしながら声をかけるとゆっくりと目を開ける。小さな手で目をこする寝ぼけ眼のかわいらしい妹。毎日見ているはずのその顔が今日は特別かわいらしく思えた。今日の授業中はこの顔を書いて時間をつぶそう。
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