林檎を並べても、

ロウバイ

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主治医

帰り道

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狭い病室の中でどんどん弱っていく彼が、何度も休憩を挟みながらも必死に筆を動かしていた。
彼の命はもう長くない。重要な書類はすでに埋めているようだが、親類や友人への手紙は書ききることができないようだった。
最後の時間を生ききれなかった分まで記すように、白い紙を黒く染めていく。
 
「今度はどなたにですか?」
「はは、今度もあいつ宛です。」

あいつ。
そう言われて、私の頭に浮かんだのは彼と並行して担当していた渡山さんの顔だった。芸能人のように整った顔をしていて、何より彼の恋人だったため記憶に新しい。
記憶喪失でこの前まで入院していた渡山さんは、今は記憶が戻らないながらも元気に社会人として働いているという。

「先生、一つだけお願いをしてもいいですか。」
「…いいですよ。」

医者としての私は、本当は一人の患者に入れ込んではいけないことは分かっている。
それでも、彼の願いをできる限り叶えたいと思ってしまうのは。

きっと、彼がまっすぐに渡山さんのことを愛していたから。

私自身人を愛するということがよくわからないけど、彼の愛はドラマや映画で見るような愛とはどこか違っていることは理解できて、とても綺麗なものだと思った。

「俺は、林檎が嫌いで恋愛映画が好きなあいつが大好きだったんですよ。なんだかんだ俺のことを笑わせてくれる、あいつとの時間がすごく楽しかった。」

ぽつぽつとまるで撫でるように丁寧に彼は渡山さんのことを口にした。視線はずっと手紙に向けられていて、まるで彼自身に話しかけているようだと思う。
私は何も言うことなく、ただ静かにその話を聞いていた。
 
「あいつが、もしも記憶を取り戻したら、これを渡してもらえませんか。」

それが、俺からのお願いです。
話の締め括りに、そう言って彼は私に封筒を差し出した。心なしか手紙を持つ彼の手は小さく震えているような気がしたが、見なかったことにする。彼の手によって何よりも大切に完成された手紙を、私は確かに受け取った。
 
「わかりました。」

そう返事をすると、彼はほっとしたような顔をして体を倒す。きっと、今日も長時間無理をしていたんだろう。
彼の眠りを邪魔しないように、病室から去ろうと彼に背を向けようとしたときだった。

「でも、記憶を取り戻さずあいつが幸せそうにしていたら、この手紙は捨ててください。」

驚く言葉を付け加えられて、私の口からも素直に驚きの声が飛び出る。
 
「本当ですか?」

びっくりする私を見て、彼は静かに笑った。

「はい。あいつの幸せの邪魔だけは、したくないんで。」

その時、彼が少しでも眉を歪ませてくれていたらどれ程よかっただろうか。
彼の最後に見たその顔は、今までにないぐらい綺麗な人を愛する笑顔だった。



体調が優れないことを伝え、賑やかな結婚式会場を後にする。
スーツを着た群衆の中で一人だけ青いドレスを着た私は変に浮いていて、帰りたい一心で足を早める。地上の入り口から地下鉄の駅に入り、ホームまでの道を急いだ。
その途中で、滑り込むようにして私の目が設置されたゴミ箱を捉える。

はくり、と喉から無意味に呼吸がこぼれた。

私はゴミ箱の前で立ち止まり、鞄の中から手帳を取り出す。絶対に折れないようにと挟んでいた紙の厚さの違うそれは、すぐにページの間から飛び出てきた。
丁寧に綴じられた封筒には、差出人も受取人の名前も書かれていない。愛しい人を思って居なくなった彼の名も、大切な記憶を忘れて幸せになった彼の名も。
この世界でこの手紙が二人が恋人である証だったことを知っているのは、もう私だけなのだ。きっと。

ひりひりと痛む心を無視して、私はそっと駅のゴミ箱に二人の証を差し込んだ。
カタンと軽い音をたてて、その愛の形はあまりにもあっさりとゴミ箱へと飲み込まれていく。

それが、彼らの愛の終わり。
式場で並べられていた真っ赤な林檎の置物が私の頭に焼き付くようで嫌になる。

「ありがとうございます」

どこかで都季さんが、眉を歪ませながらそう言っているような気がする。振り返ってみたけど、当たり前に後ろには誰もいない。
私の手から、引き出物の紙袋が落ちる。

林檎が並んでいたのはやっぱり。

彼の愛した人も彼自身も跡形もなく消えてしまったことを示していたのだ。



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