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第6話 魔法辞典

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 店の奥を案内されているとき、俺は思い切ってミルの母親に聞いてみた。
「あなたのお名前、教えてもらってもよろしいですか?」
「ええ、もちろん。アデレードです」
 すんなりと返事がきた。

 名前を教わっただけでも嬉しくなった。こんな薄汚いゴブリン相手に、人間として(いや、実際に俺は人間ではなく、モンスターなのだが)、接してくれている彼女の気持ちが嬉しかったのだ。

「さあ、この部屋を使ってください」
 アデレードさんは、扉を開いて俺を部屋に招き入れた。
「ずっと使ってなかった部屋ですが、掃除もしてあるので大丈夫だと思います。問題があれば遠慮なく言ってください」

 部屋は、六畳ほどの広さがあり、ベッドと机が置かれている。机の横には、背の高さほどある本棚が置かれてあり、そこには、びっしりと本が並べられていた。

「こんな素敵な部屋を使わせてもらっていいのですか?」

「実はここ、亡くなった夫の部屋なのです。まだ、夫の物が置きっぱなしなのですが、邪魔な物はすぐに片付けます。まずはここでゆっくりと身体を休めてください」

 ミルは、アデレードさんが独身だと言っていたが、理由は離婚とかではなく、夫が亡くなってしまったからなのだ。
 でも、どうして夫は亡くなってしまったのだろう。気になったが、会ったばかりの人に、興味本位でそんなことは聞けなかった。

 ただ、アデレードさんの夫がどんな人なのかは想像がついた。本棚に並ぶのはほとんどが料理の本だ。これだけ料理を研究していたのだから、きっと真面目な性格の人に違いない。

「素敵な本がたくさんありますね。読ませてもらってもいいですか?」

「ええ、もちろん。すべて夫の本です。はずかしながら私は本をあまり読みませんので、読んで頂ける人がいると夫もあの世で喜んでいると思います」

「大切に読ませていただきます」
 ハッピーロードは、料理のシーンなどまったく出てこないゲームだった。この世界、つまりゲームの世界での料理がどんなものなのか、俺は興味津々だった。

「では、なにか困ったことがありましたら遠慮なく言ってください。お疲れでしょうから、ゆっくりとしてくださいね」
 アデレードさんはそう言うと、軽くお辞儀をして部屋を出ていった。

 素敵な女性だな。

 俺は彼女が出ていく後ろ姿を眺めながらそう思った。
 いくら娘を助けたからと言って、ゴブリンの俺を、怖がることもなく一人の人間として、いやモンスターとして……、とにかく命ある生き物として大切に扱ってくれているのだ。
 そんなことを思いながら、俺はさっそく本棚に並ぶ料理本を手に取った。
 パラパラと流し読みをすると、その内容に驚いた。
 あまりに初歩的な調理方法しか載っていないのだ。中には、これは間違っているだろうという記述もある。
 たまたまこの本が初心者向けのものだったのだろうか。そう思い、別の本も手に取ったが、どれも似たような内容で、大ざっぱに、煮たり焼いたりする料理しか載っていない。

 こんな単純な料理を本に記載するなんて、一体どういうことだろうか。
 ふと、思った。
 ハッピーロードの世界では、それほど料理は重要視されていないのだ。あくまで、魔王を倒すゲームなので、料理などどうでもいいのだろう。だから、この世界では料理の分野はあまり進化しておらず、料理本もこの程度のものが主流になっているのだろう。

 視線を下にやると、本棚の一番下の段、左端にひときわ分厚い本が置かれているのに気づいた。茶褐色に塗られた背表紙には何も書かれておらず、存在感なくひっそりとその場に佇んでいるかのような本だった。
 俺はその本を手に取り、表紙を広げた。

 明らかに他の料理本とは表装が違う。これは、何の本だろうか。

 本を開けてみた。すると、その本は、今までの料理本とは全く違う内容のものだった。
 表紙をめくると、小さく細い文字でこう書かれていたのだ。

『魔法辞典』

 不思議な気持ちで1ページ目をめくった。
 魔法の歴史か何かが書かれているかと思ったが違った。
 まず、丸い模様に文字が並べられている図柄が出てきた。

 何の図柄だ?

 横に書かれている文章を読んでみる。
『ブロック:攻撃、防御ともにすぐれている。魔法陣自体は複雑なものではないため、初歩的な魔法に分類されるが、ブロックの扱いは難しく、自在に操るためには熟練の技が必要である』

 次のページに進む。
『スピア:攻撃魔法。スピアに纏う炎の種類は属性によって変化する。以前は複雑だった魔法陣も、時代とともに進化し現在ではかなり簡略化されている。威力は習熟度に左右される』

 ここまで読むと、本に書かれている円形の文様が何なのか、はっきりと分かった。
 丸い図柄は、魔法陣だ。魔法陣とその説明が簡単に記されているのだ。
 そんな魔方陣の種類が、ずっと最後のページまで続いている本だった。いや、最後のページは違っていた。図柄ではなく、魔法陣そのものの作り方が書いてあったのだ。土に細い棒を使い描く方法が一番初歩的なやり方だそうだ。そして、最高難度のやり方として、指で空中に魔法陣を描いてしまう方法も紹介されていた。

 記されている内容は、本当のことなのだろうか。
 この通りにすると、本当に魔法が使えるのだろうか。

 料理本はあまりにお粗末な内容だった。
 この魔法辞典にしても、面白おかしく記載してあるだけで実用性のないものにも思える。

 試してみたくなった。

 なぜだかわからないが、回復魔法を使えた俺だ。魔法を使う能力があるかもわからない。
 この本に書かれている魔法陣を描くと、いったい何が起こるのだろう。好奇心でいっぱいになってくる。
 初級の、土の上に描く魔法陣なら、今すぐにでも試せるのでは。
 そう思った俺は、魔法辞典を脇に抱え、部屋を出た。
 しかし、実際に外へ出ると、魔法陣を描く場所がそう容易くは見つからないことに気づいた。
 きれいな円と文字を描くには、それなりの砂場が必要になってくる。けれど、歩けど歩けど、そのような場所は見つからなかった。どこもデコボコした荒れ地しかない。これでは、とても魔法陣など描けそうになかった。

 あきらめるしかないか。

 そう思い、エルフィンへと戻る途中、一つの方法が頭に浮かんできた。

 確か、魔法陣を空中で描く方法があったはずだ。

 最高難度の技らしいので出来なくて当たり前なのだが、試してみる価値はありそうだ。
 人目のつくところでゴブリンが変な行動をしているのもどうかと思い、誰も居ない雑草だらけの荒れ地を見つけ、そこに足を踏み入れた。
 雑草から、植物特有の青く湿った匂いがした。

 どうせ何も起きないだろうと、たかをくくりながら、魔法辞典に書かれている通りの呪文を唱えた。

「アーカナム、サークラム、クレーレ!」
 軽い気持ちでつぶやいてみる。

 ほら、なにも出てこない。

 そう思った時だった。
 俺の右手人差し指が白く輝き出したのだった。
 呆気に取られた俺は、人差し指を立てながら、その光をじっと眺めていた。
 そっと指を動かしてみる。
 すると、指の先から光の線が描かれた。線は、灰色に輝いている。

 空中に魔法陣を描く最高難度の技と書かれていたが、その技を初めて試した俺が、成功しているということか。
 描けている。
 俺は今、魔法陣を指で描くことができている。

 白く光る指を動かし、俺はゆっくりと空中に魔法陣を描き始めた。
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