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第一部
番外編 ルネ・マリオールの失恋 後②
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しばらくして、もう一度スカートの裾を乾かそうと前に回ってしゃがんだ彼を見下ろして、その半袖から伸びる剥き出しの腕に鳥肌がたっているのを見つけた。よく見ると、微かに震えているようにも見える。
「もう、大丈夫。中に戻りましょう」
私は慌てて彼の手を止めて、館の方へ彼の手を引いた。
「でも、まだ少し濡れてるよ」
「もういいのよ。誰かに聞かれたら、あのダメ男に落とされたって言ったっていい」
無駄に顔の広いあいつの家門に喧嘩を売るのは避けたかったが、でもこれ以上彼を冷たい庭に置いておくわけにはいかない。
私に腕を引かれた彼は、剥がしたスカートや落とした小物をくるくるとまるめて、素直に私についてきた。
「そういや、俺このまま中に入れないな。不審者だな、これ」
彼が自分の格好を見下ろしてそう言うので、私はたまらず吹き出した。
確かに、隠密みたいな真っ黒な薄い服を着て、長い編み込みの髪をなびかせる低いヒールの男がパーティー会場にいたら、不審者以外の何者でもない。
「そうね。貴方は庭を回ってこっそり館の裏門から出た方がいいかも」
「そうするよ」
頷いた彼が私を最初に出てきたガラスの扉まで送ってくれる。外向きに開く扉を開けて、私を中に入れてくれた。私は館の中に一歩踏み出してから彼を振り向く。
「ありがとう」
不思議なことに、少し前にこの扉を通った時に感じていた感情が、今の私にはなかった。
代わりに、なんともいえない別れ難い思いを彼に抱く。
「あの、もし良ければ、貴方の名前を」
その時、私たちのいるガラスの扉からちょうど見える位置にある部屋の扉が開いた。
その部屋から出てきたグウェンドルフ様とフォンドレイク様が、庭から廊下に入ろうとしていた私と、私を見送って後ろに立っている彼に気づく。
「げ」
彼がまたうめいた。
私の後ろにいる彼の有様とずぶ濡れになった彼の足を無言で見て、そのあと私の少し湿ったドレスと肩にかけている彼のボレロに視線を移したグウェンドルフ様は、大きく息を吐いた。
「君はまた、何をやっている」
「いやーあのね、俺が噴水に落ちそうになったところを彼女が助けてくれてね」
あっさりと嘘をつく彼の顔を見た。
彼は私と目が合うとさりげなく小さくウインクしてくる。
グウェンドルフ様は私たちのやり取りを見て、また軽く息をついた。
「ご令嬢、彼が迷惑をかけた」
「いいえ。私の方が、この方に助けていただいたんです」
私の口から、素直にそう言葉が漏れた。
少し驚く彼に、私は微笑んで頷く。
もしあのダメ男との騒動が噂になっても、もういいかという気持ちだった。そのくらいは彼に感謝していた。
「……君は、もう帰るように言っただろう。フォンドレイク副団長、騎士団の馬車を裏門に回してくれ」
私たちを見ていたグウェンドルフ様が少し強張った顔で副団長様に指示した。おそらくこんな姿になってしまった彼をこっそり連れて帰るつもりなんだろう。
ご自身の騎士服の上着を脱ぎながらグウェンドルフ様が彼の正面に歩み寄って、包み込むようにそれを彼の肩にかけた。
「了解しました」
「あ、フォンドレイク副団長、彼女の家の馬車も裏門に来てもらえるように探してもらっていいですか? 彼女も少し濡れてるから、早く帰って着替えた方がいい」
私の横から、彼がフォンドレイク様を呼び止める。
「彼女は、えーっと」
そこで彼は私の名前を知らないことに気付いたように、私の顔を見た。
「私」
「ルネ・マリオール嬢だ」
私が言う前に、グウェンドルフ様が告げた。
私は弾かれたようにグウェンドルフ様の顔を見上げる。
知っていた。
グウェンドルフ様が、私の名前を。
何の感情も浮かんでいない彼の黒い瞳と目が合う。この扉から出る前の私だったら飛び上がって喜んだはずなのに、私は今自分の中に、驚きと微かな憧憬以外の感情が湧かないことに気がついた。
横にいる彼は私の名前を聞いて、なぜか驚いていた。
「マジかよ」と小さくつぶやく彼の声を聞いて、もしかしたら私の名前をどこかで聞いたことがあるのかしら、と思った。そうしたら、グウェンドルフ様に名前を知られていた時よりも自分の中に大きな感動が生まれる。その自分の感情に戸惑った。
さっきから、私はやっぱりおかしい。
「マリオール侯爵家ですよね。わかりました」
フォンドレイク様が頷いて廊下の先に駆けて行った。
その姿を見送って、私はまた彼の顔を見る。
「あの、やっぱり貴方の名前を」
「マリオール嬢」
私の言葉をグウェンドルフ様が遮った。
話しかけられたことに驚いてグウェンドルフ様を見ると、彼は眉間に皺を寄せて私を見ていた。
少し不機嫌そう。
こんな顔も初めて見た。
「君は、私たちが出てきた部屋で待っていなさい。あの部屋は騎士団が借りた部屋で、今中には誰もいない。その方が身体が暖まるだろう」
二人が出てきた部屋を指し示すグウェンドルフ様。彼が私の横で頷いた。
「うん。その方がいいよ。ルネさん」
ルネさん。
彼にそう名前を呼ばれて、私は確かに喜びを感じた。
本当に、私はどうしたんだろう。
とんでもなくおかしな格好をした彼の、緑の瞳が月明かりに反射してキラキラと輝いているのを見て、とても綺麗だと思うなんて。
「マリオール嬢」
とグウェンドルフ様に促されて、私は頷いて足を踏み出した。
「あ、ルネさん。これ」
くん、と私の袖を引いた彼が、ごそごそと丸めたスカートの中から何か取り出す。
「良かったこれ濡れてないわ。もしよければ今度感想教えて。新商品なんだ」
彼が差し出してきたのは、小さな丸い缶だった。ラベルにはフレイバークリームと書いてある。もしかしたら、さっき会場でラケイン卿に渡したのと同じものかもしれない。
「ちょっと薬効もあるみたいだから、足がかじかんでたら塗ったらいいよ」
そう言って笑った彼の顔をまじまじと見つめた。
今度、感想を教えてと言った。
もう一度会えるのかしら。
そう思って私は微笑んだ。
「ええ。ありがとう」
どうやら彼の名前を聞くのはグウェンドルフ様が許してくれないらしい。さっきから消えないグウェンドルフ様の眉間の縦皺をくすりと見上げて、私は見せつけるように彼にとっておきの笑顔を見せた。
「また、お会いしましょう」
「うん。気をつけてね」
何の含みもない彼の笑顔を目に焼き付けてから、私はゆっくり部屋の扉に向かった。
「君、私の懐中時計はどうした」
「え? 入れるところなかったから落とすの怖いし、商会に置いてきたよ」
後ろで話す二人の会話が耳に聞こえてくる。
彼の返事を聞いたグウェンドルフ様が「……ちゃんと持っていてくれ」と嘆息しながら言う声も微かに聞こえた。
懐中時計。
私だって叡智の塔の卒業生だ。その意味くらい知っている。
部屋の扉を開けた私は、中に入ると後ろ手に扉を閉めた。
本当に、今日はおかしな一日。
同じ日に、二度も失恋した気分を味わうなんて。
後日、ラケイン卿がクリームを皆に見せながら、それがどこの商会の商品なのか聞いて回っていた。その商会にいる女性のことを尋ねて回りながら。流行に詳しいラケイン卿がそんなことをするから、皆はこぞってそのクリームを探し求め、クリームの販売元であるボードレール商会はかなり潤ったらしい。
同じ時期に、社交界である噂が流れた。
グウェンドルフ・フォンフリーゼ団長が、エリス公爵家の次男と婚約するというあまりに衝撃的な、本当かどうかすら怪しい噂。
私はそれを聞いて、あの日の彼の名前をようやく知った。
彼が何者なのかがわかったから、私はひっそりと安堵して、ようやく胸のもやもやを手放すことができた。
失恋というにはあまりにおかしな出来事だった。思い出すと今も笑いが込み上げてくるくらい。
それでも私は、いつか彼にクリームの感想を伝えられる日が来ることを、密かに心待ちにしている。
「もう、大丈夫。中に戻りましょう」
私は慌てて彼の手を止めて、館の方へ彼の手を引いた。
「でも、まだ少し濡れてるよ」
「もういいのよ。誰かに聞かれたら、あのダメ男に落とされたって言ったっていい」
無駄に顔の広いあいつの家門に喧嘩を売るのは避けたかったが、でもこれ以上彼を冷たい庭に置いておくわけにはいかない。
私に腕を引かれた彼は、剥がしたスカートや落とした小物をくるくるとまるめて、素直に私についてきた。
「そういや、俺このまま中に入れないな。不審者だな、これ」
彼が自分の格好を見下ろしてそう言うので、私はたまらず吹き出した。
確かに、隠密みたいな真っ黒な薄い服を着て、長い編み込みの髪をなびかせる低いヒールの男がパーティー会場にいたら、不審者以外の何者でもない。
「そうね。貴方は庭を回ってこっそり館の裏門から出た方がいいかも」
「そうするよ」
頷いた彼が私を最初に出てきたガラスの扉まで送ってくれる。外向きに開く扉を開けて、私を中に入れてくれた。私は館の中に一歩踏み出してから彼を振り向く。
「ありがとう」
不思議なことに、少し前にこの扉を通った時に感じていた感情が、今の私にはなかった。
代わりに、なんともいえない別れ難い思いを彼に抱く。
「あの、もし良ければ、貴方の名前を」
その時、私たちのいるガラスの扉からちょうど見える位置にある部屋の扉が開いた。
その部屋から出てきたグウェンドルフ様とフォンドレイク様が、庭から廊下に入ろうとしていた私と、私を見送って後ろに立っている彼に気づく。
「げ」
彼がまたうめいた。
私の後ろにいる彼の有様とずぶ濡れになった彼の足を無言で見て、そのあと私の少し湿ったドレスと肩にかけている彼のボレロに視線を移したグウェンドルフ様は、大きく息を吐いた。
「君はまた、何をやっている」
「いやーあのね、俺が噴水に落ちそうになったところを彼女が助けてくれてね」
あっさりと嘘をつく彼の顔を見た。
彼は私と目が合うとさりげなく小さくウインクしてくる。
グウェンドルフ様は私たちのやり取りを見て、また軽く息をついた。
「ご令嬢、彼が迷惑をかけた」
「いいえ。私の方が、この方に助けていただいたんです」
私の口から、素直にそう言葉が漏れた。
少し驚く彼に、私は微笑んで頷く。
もしあのダメ男との騒動が噂になっても、もういいかという気持ちだった。そのくらいは彼に感謝していた。
「……君は、もう帰るように言っただろう。フォンドレイク副団長、騎士団の馬車を裏門に回してくれ」
私たちを見ていたグウェンドルフ様が少し強張った顔で副団長様に指示した。おそらくこんな姿になってしまった彼をこっそり連れて帰るつもりなんだろう。
ご自身の騎士服の上着を脱ぎながらグウェンドルフ様が彼の正面に歩み寄って、包み込むようにそれを彼の肩にかけた。
「了解しました」
「あ、フォンドレイク副団長、彼女の家の馬車も裏門に来てもらえるように探してもらっていいですか? 彼女も少し濡れてるから、早く帰って着替えた方がいい」
私の横から、彼がフォンドレイク様を呼び止める。
「彼女は、えーっと」
そこで彼は私の名前を知らないことに気付いたように、私の顔を見た。
「私」
「ルネ・マリオール嬢だ」
私が言う前に、グウェンドルフ様が告げた。
私は弾かれたようにグウェンドルフ様の顔を見上げる。
知っていた。
グウェンドルフ様が、私の名前を。
何の感情も浮かんでいない彼の黒い瞳と目が合う。この扉から出る前の私だったら飛び上がって喜んだはずなのに、私は今自分の中に、驚きと微かな憧憬以外の感情が湧かないことに気がついた。
横にいる彼は私の名前を聞いて、なぜか驚いていた。
「マジかよ」と小さくつぶやく彼の声を聞いて、もしかしたら私の名前をどこかで聞いたことがあるのかしら、と思った。そうしたら、グウェンドルフ様に名前を知られていた時よりも自分の中に大きな感動が生まれる。その自分の感情に戸惑った。
さっきから、私はやっぱりおかしい。
「マリオール侯爵家ですよね。わかりました」
フォンドレイク様が頷いて廊下の先に駆けて行った。
その姿を見送って、私はまた彼の顔を見る。
「あの、やっぱり貴方の名前を」
「マリオール嬢」
私の言葉をグウェンドルフ様が遮った。
話しかけられたことに驚いてグウェンドルフ様を見ると、彼は眉間に皺を寄せて私を見ていた。
少し不機嫌そう。
こんな顔も初めて見た。
「君は、私たちが出てきた部屋で待っていなさい。あの部屋は騎士団が借りた部屋で、今中には誰もいない。その方が身体が暖まるだろう」
二人が出てきた部屋を指し示すグウェンドルフ様。彼が私の横で頷いた。
「うん。その方がいいよ。ルネさん」
ルネさん。
彼にそう名前を呼ばれて、私は確かに喜びを感じた。
本当に、私はどうしたんだろう。
とんでもなくおかしな格好をした彼の、緑の瞳が月明かりに反射してキラキラと輝いているのを見て、とても綺麗だと思うなんて。
「マリオール嬢」
とグウェンドルフ様に促されて、私は頷いて足を踏み出した。
「あ、ルネさん。これ」
くん、と私の袖を引いた彼が、ごそごそと丸めたスカートの中から何か取り出す。
「良かったこれ濡れてないわ。もしよければ今度感想教えて。新商品なんだ」
彼が差し出してきたのは、小さな丸い缶だった。ラベルにはフレイバークリームと書いてある。もしかしたら、さっき会場でラケイン卿に渡したのと同じものかもしれない。
「ちょっと薬効もあるみたいだから、足がかじかんでたら塗ったらいいよ」
そう言って笑った彼の顔をまじまじと見つめた。
今度、感想を教えてと言った。
もう一度会えるのかしら。
そう思って私は微笑んだ。
「ええ。ありがとう」
どうやら彼の名前を聞くのはグウェンドルフ様が許してくれないらしい。さっきから消えないグウェンドルフ様の眉間の縦皺をくすりと見上げて、私は見せつけるように彼にとっておきの笑顔を見せた。
「また、お会いしましょう」
「うん。気をつけてね」
何の含みもない彼の笑顔を目に焼き付けてから、私はゆっくり部屋の扉に向かった。
「君、私の懐中時計はどうした」
「え? 入れるところなかったから落とすの怖いし、商会に置いてきたよ」
後ろで話す二人の会話が耳に聞こえてくる。
彼の返事を聞いたグウェンドルフ様が「……ちゃんと持っていてくれ」と嘆息しながら言う声も微かに聞こえた。
懐中時計。
私だって叡智の塔の卒業生だ。その意味くらい知っている。
部屋の扉を開けた私は、中に入ると後ろ手に扉を閉めた。
本当に、今日はおかしな一日。
同じ日に、二度も失恋した気分を味わうなんて。
後日、ラケイン卿がクリームを皆に見せながら、それがどこの商会の商品なのか聞いて回っていた。その商会にいる女性のことを尋ねて回りながら。流行に詳しいラケイン卿がそんなことをするから、皆はこぞってそのクリームを探し求め、クリームの販売元であるボードレール商会はかなり潤ったらしい。
同じ時期に、社交界である噂が流れた。
グウェンドルフ・フォンフリーゼ団長が、エリス公爵家の次男と婚約するというあまりに衝撃的な、本当かどうかすら怪しい噂。
私はそれを聞いて、あの日の彼の名前をようやく知った。
彼が何者なのかがわかったから、私はひっそりと安堵して、ようやく胸のもやもやを手放すことができた。
失恋というにはあまりにおかしな出来事だった。思い出すと今も笑いが込み上げてくるくらい。
それでも私は、いつか彼にクリームの感想を伝えられる日が来ることを、密かに心待ちにしている。
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