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第三章『悪魔と天使のはざま』

89 天使

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 ジョエルが歩くと、風が舞い踊り鳥が唄う。

「何を言っているの。おとぎ話じゃあるまいし」
「けれどアルトリア様がついに麗しい妖精になられたって下級生たちの話ではもちきりさ」
「ふぅん、くだらないな。そういうジーンは、君は夢を見たの?」

 それを訊くのはジョエルの口だ。
 ここは教室棟の一室。琥太郎とは別々のクラスに分かれており、同じ科目を専攻しているのはジーンだった。
 授業が始まる前の短いインターバルのお喋りである。

「夢? 見ちゃったよ。うん、なんか口調の雰囲気っていうの? みんなが君だって言うのわかるよ、ジョエルにすっごい似てたんだよね」
「へぇ、僕も見てみたいのに。僕のところには現れてくれないんだぁ。詳しく教えてよ」
「オメガの悩みに教えを説いてくれて、フィルは傾倒しかけてる」
「フィルが?」
「うん・・・・・・」

 ジョエルが知らない話じゃない。まさしくジョエルが導いた。
 卒業後、フィルを修道院に送るという案が持ち上がっているのだ。
 修道院はシーレハウス学園の直轄にあり、オメガ性の機能に異常がみられ嫁ぐことができない卒業生を預かる場所である。
 不自由ない衣食住と立場が保証されているシスターと異なり、修道院に入ると囚人と同じ扱いになる。義務を果たせない底辺の中の底辺のオメガと認識され、神に懺悔し続けるだけの運命を歩まされる。
 大切なジーンと一緒になれないなら、せめて自分は誰とも番わない人生を選びたいと、フィルは決心した。
 夢の中で伝授したフェロモンの操作術でヒートがこなくなったと偽り、フィルの家から派遣されてきたアルファの医師を完璧に騙してみせた。
 魔法術の筋が良かったのもあるが、強い意志と精神力が成した出来事だ。フェロモンを操作しようが、ヒート中の流涎ものの疼きが消えるわけではない。すさまじい演技力であるうえ、今後も独りで向き合わねばならないのは地獄の道である。

「ジーンも夢の力を借りてそうしたらいいのに。フィルと一緒に修道院に行こうと思わないの?」
「んー・・・」
「ジーン?」
「俺は言いなりになるのが怖いよ。妖精ってのはまだ可愛いけどさ、堕天使が天使の力を取り戻したんだって過激に信じているひとたちもいるじゃない?」
「ああ、ね」

 ジョエルは曖昧に頷いた。シスターの目を盗み、布教活動を推し進めてくれている連中がいる。ジョエルが導いた結果ではない。勝手に堕天使の解放者だと偶像化してくれ、崇拝し、騒いでいる。貴族の子息が中心になって活動しているようで、市民の子にまで広まり、ジョエルが直接夢を見せることなく他の寮に浸透した。

「フィルは優しいけれど大切なことを話してくれなくなった。きっと俺が反対するってわかってるんだ。せっかくコタローのおかげで仲が戻ってきていたのに」

 ジーンは唇を噛んでいた。血の滲んだ傷を見て、ジョエルは悲しくなる。

「ジーンは夢をもたらした天使が嫌い?」
「嫌いなのかな、俺はわからないけど、楽しかった日々を返してほしい」
「そっか」

 悲しいが、きっとジーンも、ジョエルやフィルの想いをわかってくれる日がくる。

「そういえばジョエルはコタローと最近一緒に行動してないね」
「うん。仕方ないんだ。彼は彼でここでの暮らしに慣れてきたんじゃないかな? 友だちが増えたみたいだから。僕のせいで怒らせてしまったし」
「温厚な君がひとを怒らせることなんてあるの?」
「はは、うん、約束をすっぽかしてしまったんだ」

 あの日以降、琥太郎から仕切り直そうという提案はなく、ジョエルからは何も言い出せずだ。朝晩の挨拶もするし、笑顔も見せる。食事はジョエルの当番がない日は琥太郎とジョエルを入れて寮生たちとわいわいとテーブルを囲っている。
 だが特段用事のない時に二人きりでいることは無くなった。
 琥太郎はふらりとジョエルのそばを離れていく。
 行き先は簡単に検討がついた。

「けどさ、コタローの卒業はずっとずっと先だろ? ジョエルはシスターになって学園に残るんなら仲直りできる機会なんてこの先いくらでもあるじゃん」
「いや、そうでもなくて」
「そうなの?」

 互いの発言に驚いて顔を合わせた時、ちりんとハンドベルが鳴った。
 始業開始を知らせるシスターの巡回の音である。
 ジョエルとジーンはお喋りを中断し、教卓のある前を向いた。
 ランチ前の授業が終わり、ジョエルはジーンと迎えにきたフィルに手を振る。・・・さて昼食はどうしようかと天を仰いだ。
 そんなジョエルのもとにジェイコブがやって来る。

「やぁ、ご機嫌よう」
「ご機嫌ようジェイコブ」
「今一人だろう? 俺で良ければ一緒にランチしよう」

 琥太郎のことで気を遣われるのは嫌だが、周囲を見ればランチのために教室を出ていく集団ばかりで、断れずに流れに乗っていた。
 ジョエルはヘリオス寮に誘われてジェイコブの勧めるランチセットを頼んだ。その後カフェテリアの空き席を物色していると、ジェイコブはテラスに席を見つけており、ジョエルを手招きする。

「いつも座ってるの?」
「ああ。特等席なんだぜ。悪巧みにもってこいだ」
「なにそれ、ヘリオス寮のシスターに言いつけよっかな」
「ははは、困った」

 ジェイコブは気持ちがいいほどに爽やかな笑顔だ。
 ヘリオス寮の広いテラス席はテーブルとテーブルの距離にじゅうぶんな余裕があり、丸いテーブルには椅子が二個ずつ、ずいぶん贅沢な使い方だと感じる。腰掛けている学園生の風貌からジョエルはピンときた。

「貴族の特権だ」
「正式な決まりはないよ。ただ昔の誰かが始めたことが非公式の伝統になってる」
「ヘリオス寮ならではの光景だね」
「俺は撤廃したかったんだけど、公平な決まりより、こういうのが根強く残りやすいのはどうしてだろうね」

 不甲斐ないよと、ジェイコブの眉が下がる。
 ジョエルは食後の楽しみにランチメニューに追加していたベリーのタルトレットを、落ち込んだジェイコブのトレーにそっと移した。

「ありがとうジョエル」

 微笑んだジェイコブはトレーに伸ばされていたジョエルの手を握った。

「君にはまず謝りたいことが一つある」
「なに?」

 仕草と発言の両方にどきりとする。
 
「君に内緒で君のことを喋った」
「誰に?」
「コタローに頭下げて頼まれてハワード様に。俺が知っていることなんてジョエルが入学してからのことだし情報価値はないだろうが、話すなら君にちゃんと報告したいと言った。承諾してもらったから謝罪をしたくて」
「・・・・・・そう」

 ジョエルは目を伏せた。

「ハワード様には以前に僕の身辺を調べてもいいかと訊かれて許可してる。僕が怒ることじゃないよ」
「その様子だと・・・ジョエルはアルトリア家について調べられても問題ない? 生みの母親についてとか」

 安堵と困惑を織り交ぜたような表情をするジェイコブに、問題ないと平然と返す。

「秘密じゃないもの。話すひとがいなかっただけだよ。自慢できる思い出話もなかった。僕が物心つく前に亡くなって、実の母については多くを知らないんだ」

 どさりと音がし、ジェイコブがため息と共に背もたれに脱力した。

「まさか今の話もスパイ活動のいっかんだった?」

 ジョエルは笑った。

「いや、完全な俺の興味だ。信じられないと思うけど」
「ジェイコブの言葉だもん信じるよ」

 そう即答すると、ちょっと失敬だと思うくらいに目を丸くされる。

「君があの天使だったら、俺は天使を支持するよ」
「夢の話? ジェイコブはすぐ僕を天使にしたがるね」

 曇りない真っ直ぐさでジョエルを好いてくれるジェイコブ。一瞬、天使の正体を明かしてしまおうかと考えたが、ジョエルはやめた。

「まったくだな」

 と、ジェイコブが面食らった顔で肩をすくめる。残りのランチタイムは、これから迎える学年末テストのことなど当たり障りない話をして終わった。
 この日、監督生の当番に向かう前に教会に足を運んだ。
 苦手意識が強くて、ジョエルは滅多なことで立ち寄ったりしない。特に慈愛に満ちた聖母像が嫌いだ。はなからこちらを罪人扱いしてくる目。あなたの罪を赦しますと問われても、そもそも自分は何をしたというんだろうか。
 そう思ってしまうから、決まった礼拝時間じゃない時には立ち入らないようにしていたのだ。平穏に生きるためには邪魔なものだった。
 ジョエルが扉を押すと、中に先客がいた。
 黒い短髪は琥太郎だ。

(一人になれると思ったのに)

 何処に行っても密かに視線を感じるようになり疲れていた。日常と断絶された環境で考えごとをしたくて苦手な教会に足を運んだというのに、琥太郎と顔を合わせるタイミングとしては最悪だった。

「入らないのか?」

 扉を半端に開けたまま立ちすくんでいるジョエルに琥太郎が気づいた。

「やめとこうかな」

 踵を返そうとすると、「入れよ」と今に限っては嬉しくない言葉がジョエルの心を引き留めた。

「せっかくだし話そうぜ。それとも時間ない?」
「少しならある」

 結局、琥太郎と過ごしたいという誘惑にずるずると惹かれて中に入り扉を閉める。
 ジョエルは琥太郎の隣に座った。それは久しぶりの嬉しい距離感だった。
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