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第一章
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「私、この世界に残ろうと思うんです」
午後の日差しが穏やかに射し込む部屋の片隅で、サーヤの声は震えていた。
何度も頭の中でシミュレーションして、緊張しないように練習もしてみたのに。その努力も虚しく、平静を装うことは難しかった。
ここはサーヤが先生と呼ぶローレンツの研究室。
彼が国にとって重大な研究をしているとはいえ、こんなにも広々として研究室を与えられているのは彼が王弟という立場からだろう。
三方の壁を本棚に囲まれた、見慣れた一室。
大事な話をするにはもっと別の場所がよかったかもしれないと思いつつも、やはりここが一番適していたようにも思う。
サーヤこと紗也は、五年前にこの世界にやってきた。十五歳のときのことだ。
いわゆる異世界転移というやつで、この世界では紗也みたいにやってくる人や物はそれなりに事例はあるらしい。この世界ではそういった現象を〝渡り〟と呼んでいて、尊ばれている。
渡り人たちには不思議な力があり、その力によってこの世界の浄化する手伝いを命じられる。この世界になじんで力が失われるのが大体五年ほどで、だから五年後には自由にしてもいいという決まりがあるのだ。
それまで衣食住の保障はされるし、給金に該当するお金も支給される。
その五年間という期限が過ぎて、ついに紗也にも今後の生き方を決めるべき時期が来た。元の世界に戻ることを選ぶ人間もいるらしいが、紗也は残ることにした。
紗也ではなくサーヤとして、この世界で生きることを。
だが、それを伝えるとローレンツは、案の定渋い顔をした。濃茶色の髪とそれとおそろいの長い睫毛が影を落として、彼の碧玉みたいな瞳を憂いと神秘に満ちて見せている。
「……私は、君はてっきり戻るものだと。心配しなくても、神殿で送還の儀式を行ってもらえば帰れるのだよ?」
まるで駄々っ子をなだめるみたいな優しい声色でローレンツは言う。
それを聞いたサーヤは「先生っていつもそう!」と癇癪を起こしたくなる気持ちをぐっとこらえた。もしここで癇癪を起こしてしまえば、本当に反抗期の子供だと思われるだろう。
「戻れることは知っています。過去に還った人たちも何人もいると聞いていますし、術式としては完成しているとも。そこを信用していないから帰らないと言っているわけではなくて、ここに積極的に残りたいと思って決めたんです」
これだけではきっとローレンツは認めてくれないだろうなと考え、紗也は思いつく理由をすべて伝えた。
十五歳のときにこちらに来てしまった自分が、二十歳の今、日本に帰っても学びや就職にとても不利な状態であること。待っている家族なんかいないこと。何より、ここでの暮らしが性に合っていること。
「君の生い立ちについてはすでに聞いて承知しているし、君のいた世界が豊かである反面厳しいところだというのも理解しているつもりだ。それでも……君が育った世界だ。あちらのほうが馴染みはあるだろう」
「先生……」
ローレンツが何とか自分を説得できないかと考えているのが伝わってきて、サーヤは嫌になった。
彼は渡りの研究者で、それゆえこの五年間サーヤにとてもよくしてくれた。この世界の常識や教養について教えてくれたのも彼だ。だからサーヤは、彼のことを先生と呼ぶ。
彼はきっと自分のことをサーヤの保護者で先生だと思っているのだろうが、サーヤの中で彼に対する気持ちは違ったものに育っている。
ここに残ることを決めたのは、それが最も大きな理由だと言えるだろう。
「こちらに残るということは、自分で生きていかなくてはいけないということだよ? 当然、国や神殿は援助をするだろうが、だからといって労働は免除されないだろうし」
「わかっています。私の世界でもこの歳になれば働いている人もいますし。働くつもりも覚悟もあって、残ることに決めました」
「サーヤなら雇いたいと言ってくれる人がいくらでもいるだろう。だがな……」
ローレンツはよほど心配なのか、眉間に深く皺を寄せて悩んでいた。
彼が二つ返事で「そうか、わかった」などと言わないことはわかっていたが、ここまで心配されるとは思わなかった。
というよりも、サーヤが残りたいと言う理由を微塵もわかっていないからこの態度なのだろうと思うと、嫌になってしまう。
出会ってすぐなら、彼がサーヤを妹だとか娘としか見れなかったのはわかる。あのときサーヤは十五歳で、この国の同い年の子どもと比べて発育がよくなかった。小柄な日本人らしい体型というのもあるが、栄養状態がよくなかったのだ。
そして出会ったときのローレンツは二十五歳で、彼はサーヤの申告した年齢だとすぐに信じてはくれなかった。そのくらい小さくて、幼かったのだ。
だが、五年経った今は違う。
体はそれなりに成長したし、年齢だって二十歳になった。三十歳の彼の恋愛対象にだってなれるはずだ。
こんなにも子供扱いされる理由はない。
「……離れたくない人がいるの」
核心に触れるつもりはなかったのだが、このままでは埒があかないと思い、サーヤは打ち明けた。
「そう、か……」
一世一代の告白でもするかのような気持ちだったのに、ローレンツの反応は薄い。一瞬驚いた顔をしたものの、すぐに真顔になった。
だが、どうやら納得はしてくれたみたいだ。
「それなら、仕方がないな。仕事のことは心配しなくていい。私が手配しよう。サーヤはまず、周りの人たちに報告をするんだ。みんな喜ぶだろう」
「……はい」
まるで歴史や語学のレッスンが終わったときみたいな締めくくり方をされたせいで、サーヤは席を立つしかなかった。
この部屋を尋ねると決めたときの緊張やドキドキする気持ちがなくなって、ただ虚しさだけが残っている。
午後の日差しが穏やかに射し込む部屋の片隅で、サーヤの声は震えていた。
何度も頭の中でシミュレーションして、緊張しないように練習もしてみたのに。その努力も虚しく、平静を装うことは難しかった。
ここはサーヤが先生と呼ぶローレンツの研究室。
彼が国にとって重大な研究をしているとはいえ、こんなにも広々として研究室を与えられているのは彼が王弟という立場からだろう。
三方の壁を本棚に囲まれた、見慣れた一室。
大事な話をするにはもっと別の場所がよかったかもしれないと思いつつも、やはりここが一番適していたようにも思う。
サーヤこと紗也は、五年前にこの世界にやってきた。十五歳のときのことだ。
いわゆる異世界転移というやつで、この世界では紗也みたいにやってくる人や物はそれなりに事例はあるらしい。この世界ではそういった現象を〝渡り〟と呼んでいて、尊ばれている。
渡り人たちには不思議な力があり、その力によってこの世界の浄化する手伝いを命じられる。この世界になじんで力が失われるのが大体五年ほどで、だから五年後には自由にしてもいいという決まりがあるのだ。
それまで衣食住の保障はされるし、給金に該当するお金も支給される。
その五年間という期限が過ぎて、ついに紗也にも今後の生き方を決めるべき時期が来た。元の世界に戻ることを選ぶ人間もいるらしいが、紗也は残ることにした。
紗也ではなくサーヤとして、この世界で生きることを。
だが、それを伝えるとローレンツは、案の定渋い顔をした。濃茶色の髪とそれとおそろいの長い睫毛が影を落として、彼の碧玉みたいな瞳を憂いと神秘に満ちて見せている。
「……私は、君はてっきり戻るものだと。心配しなくても、神殿で送還の儀式を行ってもらえば帰れるのだよ?」
まるで駄々っ子をなだめるみたいな優しい声色でローレンツは言う。
それを聞いたサーヤは「先生っていつもそう!」と癇癪を起こしたくなる気持ちをぐっとこらえた。もしここで癇癪を起こしてしまえば、本当に反抗期の子供だと思われるだろう。
「戻れることは知っています。過去に還った人たちも何人もいると聞いていますし、術式としては完成しているとも。そこを信用していないから帰らないと言っているわけではなくて、ここに積極的に残りたいと思って決めたんです」
これだけではきっとローレンツは認めてくれないだろうなと考え、紗也は思いつく理由をすべて伝えた。
十五歳のときにこちらに来てしまった自分が、二十歳の今、日本に帰っても学びや就職にとても不利な状態であること。待っている家族なんかいないこと。何より、ここでの暮らしが性に合っていること。
「君の生い立ちについてはすでに聞いて承知しているし、君のいた世界が豊かである反面厳しいところだというのも理解しているつもりだ。それでも……君が育った世界だ。あちらのほうが馴染みはあるだろう」
「先生……」
ローレンツが何とか自分を説得できないかと考えているのが伝わってきて、サーヤは嫌になった。
彼は渡りの研究者で、それゆえこの五年間サーヤにとてもよくしてくれた。この世界の常識や教養について教えてくれたのも彼だ。だからサーヤは、彼のことを先生と呼ぶ。
彼はきっと自分のことをサーヤの保護者で先生だと思っているのだろうが、サーヤの中で彼に対する気持ちは違ったものに育っている。
ここに残ることを決めたのは、それが最も大きな理由だと言えるだろう。
「こちらに残るということは、自分で生きていかなくてはいけないということだよ? 当然、国や神殿は援助をするだろうが、だからといって労働は免除されないだろうし」
「わかっています。私の世界でもこの歳になれば働いている人もいますし。働くつもりも覚悟もあって、残ることに決めました」
「サーヤなら雇いたいと言ってくれる人がいくらでもいるだろう。だがな……」
ローレンツはよほど心配なのか、眉間に深く皺を寄せて悩んでいた。
彼が二つ返事で「そうか、わかった」などと言わないことはわかっていたが、ここまで心配されるとは思わなかった。
というよりも、サーヤが残りたいと言う理由を微塵もわかっていないからこの態度なのだろうと思うと、嫌になってしまう。
出会ってすぐなら、彼がサーヤを妹だとか娘としか見れなかったのはわかる。あのときサーヤは十五歳で、この国の同い年の子どもと比べて発育がよくなかった。小柄な日本人らしい体型というのもあるが、栄養状態がよくなかったのだ。
そして出会ったときのローレンツは二十五歳で、彼はサーヤの申告した年齢だとすぐに信じてはくれなかった。そのくらい小さくて、幼かったのだ。
だが、五年経った今は違う。
体はそれなりに成長したし、年齢だって二十歳になった。三十歳の彼の恋愛対象にだってなれるはずだ。
こんなにも子供扱いされる理由はない。
「……離れたくない人がいるの」
核心に触れるつもりはなかったのだが、このままでは埒があかないと思い、サーヤは打ち明けた。
「そう、か……」
一世一代の告白でもするかのような気持ちだったのに、ローレンツの反応は薄い。一瞬驚いた顔をしたものの、すぐに真顔になった。
だが、どうやら納得はしてくれたみたいだ。
「それなら、仕方がないな。仕事のことは心配しなくていい。私が手配しよう。サーヤはまず、周りの人たちに報告をするんだ。みんな喜ぶだろう」
「……はい」
まるで歴史や語学のレッスンが終わったときみたいな締めくくり方をされたせいで、サーヤは席を立つしかなかった。
この部屋を尋ねると決めたときの緊張やドキドキする気持ちがなくなって、ただ虚しさだけが残っている。
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