182年の人生

山碕田鶴

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1940ー1974 秋山正二

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 時代の転換期はいくつもあるが、これほどの激変を経験することは極めて稀であろう。
 秋山正二となった私は、東京に戻った直後に新聞社に辞表を出した。下宿していた四畳一間のアパートも引き払い、浮浪者となって東京上野周辺をしばらく根城とした後に出征した。
 世界規模の戦争。動乱。混乱。混迷。
 国が焼け、大地震までも次々と襲い来る中で明日を夢見るいとまもなく、目の前の今さえ不確かなまま、後に振り返れば生きる者全てが憑かれたように大きな渦と波を作りながら見えない先へと流されていった。
 何があろうと前に進むしかないのだ。これ以上諦めるものがないような状況で、誰もがその日の暮らしに汲々きゅうきゅうとしていた。
 小林の製糸工場があった地方の村でも影響は大きく、建物疎開による強制移住やら飛行場への爆撃やらで、元々身寄りのない小林の件はうやむやになったらしい。私は何食わぬ顔で秋山正二を名乗り続けている。
 英国と大陸の言葉を理解できた私は、戦地から生還してしばらくの間、本国を占領する外国人の近くで堂々と情報を収集していた。
 言葉が通じないと思い込んでいる相手に警戒されることはまずない。独自の情報網を持つ大陸出身者が多く集う店にも、片言のいい加減な挨拶で調子良く出入りし、政治から痴話喧嘩までそれこそ何でも聞き集めた。
 それらの情報を都度都度に人を選びながら流しては貸しを作り、時に本国人との仲介役となり、見返りに便宜を図ってもらいながら軽薄に生き延びてきた。
 あざむく者を欺き、嘘を嘘で隠す。
 見るからに粗野な秋山の風貌にはぴったりである。吉澤識に比べると格段に品がないのが不満であったが、こんな時代であるからかえって悪目立ちもせず、群衆によく紛れることができた。
 その後運良く下町の工場で働けることになり、これでようやく新しい人生が始められる気がした。
 ひとつ気がかりなのは死神のことだ。死神の気配はどこへ消えたのか。
 きっと今は街中が幽霊で溢れているから、そちらの回収が忙しくて私に構っていられないのかもしれない。ヤイのように幽霊が視える人間には難儀な時代であろうな。
 そう自分を納得させるが、不安は拭いきれない。
 死神は、きっとまた現れる。
 魂を喰われる恐怖と、絶対的な存在に包まれる恍惚と。
 鏡を見るたびに思い出してしまうのは、この身体が死神のものであったからだ。小林が最期に見たのはこの顔だ。
 私を睨む鏡像をいくら見つめても、ここに死神はいない。安堵の中にわずかな落胆が混じるのは、あまりにも鮮烈な記憶を刻みつけられた余韻であろうか。
 私の感覚は相当に麻痺してしまっているようだ。
 死神から奪った肉体が非常に神経質だと気づいたのは、終戦後だいぶ経ってからだった。
 肉や魚をいっさい受けつけないのだ。料理を見るだけで気分が悪くなるほど徹底している。菜っ葉と根と豆くらいしか美味いと感じない。戦中から戦後しばらくの食糧難では食べる機会すらなかったが、周囲の若者がひもじく飢える中で秋山ひとりが元気だったのはそれが理由であろうか。戦場での体験による心的外傷が理由でないことだけは確かだ。
 食べる肉に限らず、触れる肉にも反射的に嫌悪した。女も男も、それこそ握手ひとつでさえ忍耐を要した。
 死神が肉体を忌み嫌い、その習慣を調教した帰結であろうか。
 この世に在るとは、魂が肉をまとうことだ。わざわざ人間に生まれて私に会いに来てやったのだと、死神は苛立ちさえ見せていた。
 この世ならざる者が肉をまとう。今の私が感じる肉への拒絶をあの死神も耐え続けてきたのか。何やら可笑しく、同情もする。
 肉への反動なのか、逆に渇望してやまないのが酒だった。吉澤識もかなり嗜んだ方だが、これはもう十分に依存症である。死神は酒で腹を満たしたか。気を紛らわせたか。
 死神もさぞ難儀であったな。さっさと終わらせろと催促したのもうなずける。
 この肉体を感じることで、私はあの死神を常に意識していた。



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