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ダビド
しおりを挟む花をつけた綿花畑が一面に広がっている。
ここは、レオパーファ侯爵領の西部、ラードル地方にある小さな村セハナだ。
セハナを含むこの辺りの村一帯を管理しているのは、ゼストハ男爵家。
レオパーファ侯爵家が寄り親となっているイゼベルの生家である。
この辺りにある綿花畑は全て、そのゼストハ男爵の管理下にあった。
そこで小作人として働く者たちの一人に、ダビドがいる。
大きな黄白色や紅色の花があちこちに咲く光景はとても美しい。
花の一つ一つは数日で萎むものの、綿の花は次々と咲き続ける。故にこの光景はひと月は楽しめるのだ。
手を休め、それを眺める小作人たちの表情も心なしか柔らかい。彼らにとっては自分たちの労働が報われた事の象徴でもある。恐らくは綿花の収穫への期待もあるのだろう。
だから、少しばかり花々に見惚れる余裕もあるのだ。
ーーー ただ一人、ダビドを除けば。
水やりの手を止め、ぼんやりと綿の花を眺めている様に見えるダビドの目は、どこか遠い。
それは、ここではない何かを、誰かを見つめているからだ。
大切な主人。大切な家族。
愛する妻と娘たち。
誇りを持って行っていた仕事。
それら全てが、遠い過去の様だった。
妻のふくよかな体を抱きしめたかった。
上の娘は、そろそろ年頃になる。
本当なら恋する相手も見つかって、男親としてはやきもきさせられていたかもしれない。
下の娘は、どんどん背が伸びて見違えているだろう。幼子から少女へと、羽化する蝶の様に。
そして。
そして、大事なお嬢さま。
あの聡明でお優しいお嬢さまは、今頃どんな目に遭わされているだろう。
ーーー ここで大人しく働くんだよ
気をつけないと、あの子に何が起こるか、俺も予想できないからね ーーー
セハナ村に連れて来られる前に囁かれた言葉は、今もダビドの心を縛っている。
会いたい、助けに行きたい、けどここから逃げたら直ぐに処理されるのは、自分よりもむしろ。
それを知っているダビドは、助けに走り出したい衝動を堪えつつ、今日も綿花畑で働くしかないのだ。
「・・・」
「おい。サボってるんじゃないぞ」
あまりに長くぼんやりしていたせいだろう、いつもは少し離れた所で見ているだけの見張りが、近づいて声をかけて来た。
「・・・すみません」
軽く頭を下げて、作業を再開する。
やがて、他の小作人たちもゆるゆると視線を手元へと戻し始めた。
「ここは変わってるな。畑に見張りが立ってるなんてさ」
そう小さな声で呟いたのは、一昨日この村に引っ越して来た小作人の男だ。
「別に見張られなくたって、ちゃんと働くのにな」
「・・・はは」
他所から来る小作人は、最初の頃はたいてい同じ事を言う。
そういう時、ダビドはいつも笑って誤魔化していた。
言えない、言える訳がない。
あの見張りたちは、自分一人だけを監視しているのだ、なんて。
だから他の小作人たちの事は何も口を出したりはしない、心配しなくていいんだよ、なんて。
言える、訳が。
「・・・」
大丈夫、もう慣れた。
もう慣れたから。
気にしなければいい。
ただ、願うだけだ。
皆の無事を願うだけなら、許されるから。
「あ~、それにしても暑いなぁ」
ぶつぶつと文句を言っていた新入りが、ズボンのポケットからハンカチを取り出した。
「・・・?」
ちらりと、ダビドの目に入ったのは、見覚えのある模様。
昔、まだヨランダと結婚する前に、妻が贈ってくれたハンカチの刺繍の模様とよく似ていて。
初めて刺したから、ちょっとでこぼこなの。
そう言って、恥ずかしそうにヨランダは笑って。
・・・でもあれは額縁に入れて、レオパーファ家に移動する前に暮らしていた、トムスハット家の使用人部屋の壁に飾ってある・・・筈で。
混乱するダビドをよそに、その男は「暑い」と言って取り出した筈のそのハンカチを、何故か使いもせず、丁寧に畳んでまたポケットにしまった。
「・・・」
ぽかんと口を開けたままのダビドに、その男は笑みを見せると、再び腰を落として作業を始めた。
「ホント参るよな。でもさ、ダビドさん。あと少しで終わるから、もうちょっとだけ頑張ろうぜ」
「・・・っ」
声を交わしたのは今日が初めて。
ましてや挨拶も自己紹介もした覚えはなく。
あと少しで終わるのは、今日の分の作業なのか、それとも。
それとも。
「・・・っ」
ダビドに声をかけて来た男はそれきり黙って作業を始めたから、その後も何も話す事はなかった。
けれど。
とうの昔に手放した筈の希望。
それが、ダビドの胸の奥底で静かに、じわじわと燻り始めるのを確かに感じていた。
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