上 下
3 / 17

3.聞きたくなかった声

しおりを挟む
社交界ではカトリーナ・ガザン侯爵夫人の帰国は好意的に受け止められていた。


『麗しの黒薔薇』の美貌は健在どころか磨きが掛かり、その立ち振舞は人々を惹き付けてやまない。

貴族にとって社交界の中心人物との繋がりを持つことは大切な社交だ。
だから男女問わず彼女に積極的に話し掛け、なんとか親しくなろうとしていた。




夜会でもカトリーナは多くの人に囲まれ、一人一人に丁寧に対応している。これではいろいろな疲れを癒やす為に帰国したのに、気が休まるどころか疲れ切ってしまうだろうという有様だった。

だがみな自分こそは彼女の助けになれると思っているのか引く様子はない。


その様子を見兼ねてカトリーナの友人達が動いた。自分達が盾となり彼女に群がる人々を牽制し始めたのである。

その効果はてきめんだった。

彼女を守る友人達とは学園に在学中に生徒会で一緒に活躍していた役員で、爵位が高くみな社交界で一目置かれているような人物だった。

そんな彼らを敵に回したくはないと群がっていた人達は渋々彼女から離れていく。


そしてカトリーナの周りには親しい友人達がいつもいるようになった。

もちろんその中にアーノルドやライアンもいる、彼らも生徒会役員だったからだ。





そのせいで私がライアンと一緒に過ごす時間が減っていった。以前はほとんどの時間を私と過ごしていたが、最近は私と数曲踊ると彼はすぐに離れていってしまう。


今日の夜会でも数曲踊り終わるなり、彼は当然のように私から離れていこうとする。


「ちょっと友人達のところに行ってくるよ。リーナも友人とお喋りでも楽しんで」


そう言うと夫は私からの返事を待たずにもう背を向け始めている。彼の視線の先にはあの『麗しの黒薔薇』がいる。

だから私が今どんな表情をしているか彼は知らない。

もし振り返って私を見たら、きっと優しい彼はここに留まってくれるかもしれない。


 あと少しでいいから、ここにいて。
 ねえ私を見て、お願い…。

 
縋るように彼の背に手を伸ばすが、すれ違うように一歩足を踏み出した彼には届かなかった。宙を彷徨う手をそのままにして振り返らない彼に向かって声を掛ける。


「ライ、いってらっしゃい…」

「すまない、これも付き合いなんだ。すぐに戻ってくるから、変な奴から声を掛けられても無視して。なんか困ったことがあったらすぐに俺のところに来てくれ」


いつものセリフを口にして去っていく彼がすぐに戻って来たことは一度だってない。
以前の彼なら私と離れているのは心配だと言って夜会で長時間離れていることはなかった。

でも今は夜会終了間近にならないと私のことを思い出さないらしい。


…彼は変わってしまった。


いいえ、この言い方は正しくない。彼は変わってしまったのではなく、あるべき姿に戻ったのだろう。学園に在学中は熱い眼差しを彼女に向けていたのは知っている。

婚約者がいる身だから友人として節度ある態度で接していた、だけどうちに秘めた想いは一目瞭然だった。


政略結婚とはいえ婚姻を結ぶ前から愛人を持つのは褒められた行為ではないが、既婚者が常識の範囲内で愛人を持つことは許されている。


つまりライアンとカトリーナはお互いに既婚者だから、彼が秘めたる想いを形にしても今は許される立場にあるということだ。


彼はそれを望んでいるのだろうか。


今の穏やかな生活を捨てることなく真実の愛が手にはいるというならば、それを望んでもおかしくはないだろう。

愛人を持つことは貴族の特権だから、愛人を持っても誰からも非難されることはない。


淑女である妻はそれを受け入れるのが務め。
悋気でも見せようものなら『みっともない』と影で笑われる。



でも私に耐えられるのか…ライアンが彼女と愛し合うのを。


…きっと受け入れられない。


彼女に友人として接している夫の姿を遠くから見るだけで心が削られていく。
彼が彼女に笑い掛け、それに応えるように微笑む彼女を見ると『やめて、彼は私の夫なの。奪わないで』と叫びたくなる。



彼を取り戻したい。



きっと間に合うはず、夫はまだ友人として傷心の彼女を労っているだけ。その想いを伝えている様子はない。


今までは良き妻として彼を引き止める言葉は口にせず、咎めることなく送り出してきた。

でも彼を失うくらいなら、私の気持ちを素直に伝えよう。
彼の気持ちが私にないとしても、彼は私の言葉を聞き流すような真似はしない。

愛がなくても家族として培ってきた絆はある、彼がに向ける優しさに嘘はなかった。


家族を愛している彼の気持ちを利用しようとする私は浅ましい。
そんなことは分かっている、でも…。


私から離れた場所にいる夫に目を向ける。彼は友人達と一緒にカトリーナを囲んで談笑している。

『彼を失いたくない』という強い想いが私を突き動かした。

静かに彼らに向かって進んでいく。
誰も私が近づいていることには気がつかずに楽しげに会話を続けている。


 大丈夫、きっとライは私の手を取ってくれる。
 妻としては大切にされている。
 だから…きっと大丈夫。

 彼は家族を蔑ろにしたりしない…。



私は夫に『もう帰りたい』と言ってあの場から彼を引き離すつもりだった。そして二人っきりになってから私の想いを伝えよう。

『ライ、愛しているわ。
…私を愛して、今すぐでなくてもいいから。
いつまでも待っているから。
だからお願い、もう彼女を見ないで…』と。


どうなるかは分からないけど、このまま待つのは心が限界だった。



彼らの話し声が聞き取れるほど近づいた時に『…』と夫を呼ぶ。でも私の声はカトリーナの明るい声にかき消されてしまう。


「もう、ったら!許さないから」


彼女の言葉に耳を疑う。
彼女は私と同じ言葉を口にしていた。それは夫の愛称で私だけの呼びかたのはずだった。


 えっ…なんで『ライ』って呼んで…いるの。
 どうして、それは私だけのものなのに…。



聞き間違えではなかった。
婚約者でも妻でもないのに彼女は私の夫を親しげに『ライ』と愛称で呼んでいた。 


彼もそれを咎めることはなく受け入れている。



それが『私だけの宝物』ではないなんて知りたくなかった。




しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】愛も信頼も壊れて消えた

miniko
恋愛
「悪女だって噂はどうやら本当だったようね」 王女殿下は私の婚約者の腕にベッタリと絡み付き、嘲笑を浮かべながら私を貶めた。 無表情で吊り目がちな私は、子供の頃から他人に誤解される事が多かった。 だからと言って、悪女呼ばわりされる筋合いなどないのだが・・・。 婚約者は私を庇う事も、王女殿下を振り払うこともせず、困った様な顔をしている。 私は彼の事が好きだった。 優しい人だと思っていた。 だけど───。 彼の態度を見ている内に、私の心の奥で何か大切な物が音を立てて壊れた気がした。 ※感想欄はネタバレ配慮しておりません。ご注意下さい。

愚か者は幸せを捨てた

矢野りと
恋愛
相思相愛で結ばれた二人がある日、分かれることになった。夫を愛しているサラは別れを拒んだが、夫であるマキタは非情な手段でサラとの婚姻関係そのものをなかったことにしてしまった。 だがそれは男の本意ではなかった…。 魅了の呪縛から解き放たれた男が我に返った時、そこに幸せはなかった。 最愛の人を失った男が必死に幸せを取り戻そうとするが…。

永遠の誓いを立てましょう、あなたへの想いを思い出すことは決してないと……

矢野りと
恋愛
ある日突然、私はすべてを失った。 『もう君はいりません、アリスミ・カロック』 恋人は表情を変えることなく、別れの言葉を告げてきた。彼の隣にいた私の親友は、申し訳なさそうな顔を作ることすらせず笑っていた。 恋人も親友も一度に失った私に待っていたのは、さらなる残酷な仕打ちだった。 『八等級魔術師アリスミ・カロック。異動を命じる』 『えっ……』 任期途中での異動辞令は前例がない。最上位の魔術師である元恋人が裏で動いた結果なのは容易に察せられた。 私にそれを拒絶する力は勿論なく、一生懸命に築いてきた居場所さえも呆気なく奪われた。 それから二年が経った頃、立ち直った私の前に再び彼が現れる。 ――二度と交わらないはずだった運命の歯車が、また動き出した……。 ※このお話の設定は架空のものです。 ※お話があわない時はブラウザバックでお願いします(_ _)

立派な王太子妃~妃の幸せは誰が考えるのか~

矢野りと
恋愛
ある日王太子妃は夫である王太子の不貞の現場を目撃してしまう。愛している夫の裏切りに傷つきながらも、やり直したいと周りに助言を求めるが‥‥。 隠れて不貞を続ける夫を見続けていくうちに壊れていく妻。 周りが気づいた時は何もかも手遅れだった…。 ※設定はゆるいです。

あなたへの恋心を消し去りました

恋愛
 私には両親に決められた素敵な婚約者がいる。  私は彼のことが大好き。少し顔を見るだけで幸せな気持ちになる。  だけど、彼には私の気持ちが重いみたい。  今、彼には憧れの人がいる。その人は大人びた雰囲気をもつ二つ上の先輩。  彼は心は自由でいたい言っていた。  その女性と話す時、私には見せない楽しそうな笑顔を向ける貴方を見て、胸が張り裂けそうになる。  友人たちは言う。お互いに干渉しない割り切った夫婦のほうが気が楽だって……。  だから私は彼が自由になれるように、魔女にこの激しい気持ちを封印してもらったの。 ※このお話はハッピーエンドではありません。 ※短いお話でサクサクと進めたいと思います。

騎士の元に届いた最愛の貴族令嬢からの最後の手紙

刻芦葉
恋愛
ミュルンハルト王国騎士団長であるアルヴィスには忘れられない女性がいる。 それはまだ若い頃に付き合っていた貴族令嬢のことだ。 政略結婚で隣国へと嫁いでしまった彼女のことを忘れられなくて今も独り身でいる。 そんな中で彼女から最後に送られた手紙を読み返した。 その手紙の意味をアルヴィスは今も知らない。

アリシアの恋は終わったのです【完結】

ことりちゃん
恋愛
昼休みの廊下で、アリシアはずっとずっと大好きだったマークから、いきなり頬を引っ叩かれた。 その瞬間、アリシアの恋は終わりを迎えた。 そこから長年の虚しい片想いに別れを告げ、新しい道へと歩き出すアリシア。 反対に、後になってアリシアの想いに触れ、遅すぎる行動に出るマーク。 案外吹っ切れて楽しく過ごす女子と、どうしようもなく後悔する残念な男子のお話です。 ーーーーー 12話で完結します。 よろしくお願いします(´∀`)

【完結】本当に愛していました。さようなら

梅干しおにぎり
恋愛
本当に愛していた彼の隣には、彼女がいました。 2話完結です。よろしくお願いします。

処理中です...