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「……幸せすぎて苦しい」
大きな溜息と共に、俺は言葉を吐き出した。太い木の幹に寄りかかって空を見上げる。最愛の人、ハルフィニアの双眸は、空の色に少し似ていた。
「そりゃ良かったじゃねぇか。そんな幸せなお前が、なんで俺のところに来るんだよ」
「家にいたんじゃ、またいつ襲いかかるか分からねぇんだよ。……もう二度とあんなことはしたくないんだ」
「ふーん。養い親に恋慕するなんて、奇妙な奴だな」
「五月蠅い」
俺と同じ半人半馬のヘジルは、俺とハルが築き上げてきた尊い愛情を鼻で笑った。
そもそも、賢人の道を進むヘジルに愛情などという情緒深いものが理解できるわけがない。ヘジルとは、奴がこの森に来たばかりの頃、偶然通りがかった俺が森の案内をしたことで、なんやかんやと付き合いが生まれた間柄だった。
普通に、ヘジルだと名乗られて、自分の名をさらっと口にすることに驚いたのは懐かしい思い出だ。
名乗りに戸惑うほどには、俺はハルフィニアと同じ森の隣人の倫理観に染まっていた。ヘジルと出会った時には、俺はまだ俺の名を持っていなかったので、名前は無いと俺は返していた。そんな俺にヘジルは興味を抱き、異種族に育てられた同胞として研究対象にされている。
森の隣人の倫理観に染まることに抵抗感はない。それは、俺があの人に育てられたことの証だから。悪戦苦闘しながら、必死に俺を育ててくれたハルを俺は心の底から愛している。
「あの人は本当に綺麗で、優しくて、太陽みたいにあったかくて、この世界で一番美しい人なんだ。惚れない方がどうかしてる」
「森の隣人かぁ。ちらっと遠目で見たことしかないなぁ。お前の養い親に会わせてくれよ」
「絶対嫌だ」
摘み取った草花の枯れ行く過程と、その過程それぞれで煎じた場合の薬効の差、なんてのを比較しているらしく、座り込んだヘジルの周囲にはたくさんの籠と、煎じた湯が入った乳白色の器が置いてあった。俺はそれらには興味がない。賢人の道、とやらにも関心が無い。
ただ、ハルと共にいたい。ハルが奏でる竪琴の意味や、ハルの好きな花の名前、ハルと同じように泳ぐ方法、そういったことは知りたいが、それ以外で特に学びたいことはない。
「でも、お前と養い親はこの森に住んでるんだろ? もしかしたら、ばったり遭遇なんてこともあるんじゃないか?」
「俺たちの家はここから遠いし、あの人の脚じゃここまで駆けてくるのに数日はかかる。お前の根城付近でばったりってことは絶対にない」
「ふーん」
ヘジルとハルを会わせるなんて絶対に嫌だ。万が一、ハルがこいつに興味を持ったら、俺はこいつを許せなくなる。ヘジルは、この森で唯一気楽に話せる半人半馬だ。険悪な関係にはなりたくない。
そういえば、この森にはあと一人、俺以外の半人半馬がいるが、昔から俺はあいつが気に食わなかった。ことあるごとにハルにちょっかいを出し、頼れる存在であるというような雰囲気を出す。あんな老いぼれにこそ、俺はハルを会わせたくない。
「でも、あれってさ。外見的に言って、お前の養い親じゃないのか?」
「は?」
そう言ってヘジルが指差す方角を見た。そこには信じられない光景が広がっていたのだ。
「……なっ!」
ヘジルの言う通り、向こうからこちらにやって来ているのは、俺の養い親であり最愛の人でもあるハルフィニアだった。
ハルがひとりでここに来ているのであれば、まだ驚くだけで済んだことだろう。だが、俺は今、驚きと共に怒りを感じている。こともあろうに、あの老いぼれの背中にハルが乗っているのだ。慌てて駆け寄る。
「ハっ……!」
ハルフィニア、と叫ぼうとして慌てて口を閉じた。
恐ろしい話を聞いたのだ。森の隣人たちにとって名はとても重要なもので、名を呼び合うのは親密な関係のみ。逆に言って、名を呼ばれてしまえば、どのような相手でも親しい関係性を築かねばならないという。ある種の呪いに近い。
つまり、万が一にも、うっかり他人に名が知られてしまえば、番や家族のような関係にならなければならないのだ。だからこそ、ハルフィニア、という名は特に外で口にしてはいけない。そのための短い愛称、ハル、というものが存在する。
名を知った他人が体の関係を迫ってきたらどうするのか、と極端な例として尋ねたことがある。ハルは、抵抗出来ないかもしれない、と心細そうに言っていた。それほどまでに、森の隣人にとって名というのは重要で、深い意味と、強い命令権を持つものだった。
だから俺は、ハルの名を外で口にしない。ハルフィニア、という名を他者に知られるのは恐ろしいが、ハルという愛称を知られるのも不愉快だった。
「どうして貴方がここに」
「いや……あの、えっと……」
「お前の養い親は、家を出て行ったお前を案じてこっそり後をつけていたそうだ。だが道に迷い、崖から落ちて足を挫いていた」
「崖!? だ、大丈夫ですか!?」
なんでアンタが答えるんだ、と老いぼれに対して怒りを覚えるが、今はそれどころではなかった。
確かに、ハルの足には滑り落ちたような擦過傷があり、血もうっすらと滲んでいる。美しい白い足にこんな傷がついてしまった。しかもその原因は俺にあるのだ。不甲斐なくて情けなくて、己自身に怒りが湧く。
「崖なんて大袈裟な。ちょっとした斜面で転んだ程度だよ」
老いぼれの背に跨って、俺に微笑みかけるハル。微笑むのであれば、そんな場所ではなく俺の傍からにして欲しい。
「そこじゃなくて、俺の上に乗って下さい」
「怪我をしているんだ。今は動かさない方が良いだろう。自分の不愉快を解消するために、養い親に痛みを与えるのか?」
「……くそっ」
いちいち人を不快にさせる物言いをする。この老いぼれは昔からそうだ。ハルが見てないところで蹴り飛ばしてやりたい。
「森の隣人、どうやら貴方の養い子は同性の知人と語らいに来ていたようだ。貴方の心配は杞憂だったということだな」
「そ、そのようだ……しかし、何も今言わなくても良いのでは?」
ばつがわるそうに、ハルが小声で老いぼれを詰っている。俺はその言葉に首をかしげるばかりだった。
大きな溜息と共に、俺は言葉を吐き出した。太い木の幹に寄りかかって空を見上げる。最愛の人、ハルフィニアの双眸は、空の色に少し似ていた。
「そりゃ良かったじゃねぇか。そんな幸せなお前が、なんで俺のところに来るんだよ」
「家にいたんじゃ、またいつ襲いかかるか分からねぇんだよ。……もう二度とあんなことはしたくないんだ」
「ふーん。養い親に恋慕するなんて、奇妙な奴だな」
「五月蠅い」
俺と同じ半人半馬のヘジルは、俺とハルが築き上げてきた尊い愛情を鼻で笑った。
そもそも、賢人の道を進むヘジルに愛情などという情緒深いものが理解できるわけがない。ヘジルとは、奴がこの森に来たばかりの頃、偶然通りがかった俺が森の案内をしたことで、なんやかんやと付き合いが生まれた間柄だった。
普通に、ヘジルだと名乗られて、自分の名をさらっと口にすることに驚いたのは懐かしい思い出だ。
名乗りに戸惑うほどには、俺はハルフィニアと同じ森の隣人の倫理観に染まっていた。ヘジルと出会った時には、俺はまだ俺の名を持っていなかったので、名前は無いと俺は返していた。そんな俺にヘジルは興味を抱き、異種族に育てられた同胞として研究対象にされている。
森の隣人の倫理観に染まることに抵抗感はない。それは、俺があの人に育てられたことの証だから。悪戦苦闘しながら、必死に俺を育ててくれたハルを俺は心の底から愛している。
「あの人は本当に綺麗で、優しくて、太陽みたいにあったかくて、この世界で一番美しい人なんだ。惚れない方がどうかしてる」
「森の隣人かぁ。ちらっと遠目で見たことしかないなぁ。お前の養い親に会わせてくれよ」
「絶対嫌だ」
摘み取った草花の枯れ行く過程と、その過程それぞれで煎じた場合の薬効の差、なんてのを比較しているらしく、座り込んだヘジルの周囲にはたくさんの籠と、煎じた湯が入った乳白色の器が置いてあった。俺はそれらには興味がない。賢人の道、とやらにも関心が無い。
ただ、ハルと共にいたい。ハルが奏でる竪琴の意味や、ハルの好きな花の名前、ハルと同じように泳ぐ方法、そういったことは知りたいが、それ以外で特に学びたいことはない。
「でも、お前と養い親はこの森に住んでるんだろ? もしかしたら、ばったり遭遇なんてこともあるんじゃないか?」
「俺たちの家はここから遠いし、あの人の脚じゃここまで駆けてくるのに数日はかかる。お前の根城付近でばったりってことは絶対にない」
「ふーん」
ヘジルとハルを会わせるなんて絶対に嫌だ。万が一、ハルがこいつに興味を持ったら、俺はこいつを許せなくなる。ヘジルは、この森で唯一気楽に話せる半人半馬だ。険悪な関係にはなりたくない。
そういえば、この森にはあと一人、俺以外の半人半馬がいるが、昔から俺はあいつが気に食わなかった。ことあるごとにハルにちょっかいを出し、頼れる存在であるというような雰囲気を出す。あんな老いぼれにこそ、俺はハルを会わせたくない。
「でも、あれってさ。外見的に言って、お前の養い親じゃないのか?」
「は?」
そう言ってヘジルが指差す方角を見た。そこには信じられない光景が広がっていたのだ。
「……なっ!」
ヘジルの言う通り、向こうからこちらにやって来ているのは、俺の養い親であり最愛の人でもあるハルフィニアだった。
ハルがひとりでここに来ているのであれば、まだ驚くだけで済んだことだろう。だが、俺は今、驚きと共に怒りを感じている。こともあろうに、あの老いぼれの背中にハルが乗っているのだ。慌てて駆け寄る。
「ハっ……!」
ハルフィニア、と叫ぼうとして慌てて口を閉じた。
恐ろしい話を聞いたのだ。森の隣人たちにとって名はとても重要なもので、名を呼び合うのは親密な関係のみ。逆に言って、名を呼ばれてしまえば、どのような相手でも親しい関係性を築かねばならないという。ある種の呪いに近い。
つまり、万が一にも、うっかり他人に名が知られてしまえば、番や家族のような関係にならなければならないのだ。だからこそ、ハルフィニア、という名は特に外で口にしてはいけない。そのための短い愛称、ハル、というものが存在する。
名を知った他人が体の関係を迫ってきたらどうするのか、と極端な例として尋ねたことがある。ハルは、抵抗出来ないかもしれない、と心細そうに言っていた。それほどまでに、森の隣人にとって名というのは重要で、深い意味と、強い命令権を持つものだった。
だから俺は、ハルの名を外で口にしない。ハルフィニア、という名を他者に知られるのは恐ろしいが、ハルという愛称を知られるのも不愉快だった。
「どうして貴方がここに」
「いや……あの、えっと……」
「お前の養い親は、家を出て行ったお前を案じてこっそり後をつけていたそうだ。だが道に迷い、崖から落ちて足を挫いていた」
「崖!? だ、大丈夫ですか!?」
なんでアンタが答えるんだ、と老いぼれに対して怒りを覚えるが、今はそれどころではなかった。
確かに、ハルの足には滑り落ちたような擦過傷があり、血もうっすらと滲んでいる。美しい白い足にこんな傷がついてしまった。しかもその原因は俺にあるのだ。不甲斐なくて情けなくて、己自身に怒りが湧く。
「崖なんて大袈裟な。ちょっとした斜面で転んだ程度だよ」
老いぼれの背に跨って、俺に微笑みかけるハル。微笑むのであれば、そんな場所ではなく俺の傍からにして欲しい。
「そこじゃなくて、俺の上に乗って下さい」
「怪我をしているんだ。今は動かさない方が良いだろう。自分の不愉快を解消するために、養い親に痛みを与えるのか?」
「……くそっ」
いちいち人を不快にさせる物言いをする。この老いぼれは昔からそうだ。ハルが見てないところで蹴り飛ばしてやりたい。
「森の隣人、どうやら貴方の養い子は同性の知人と語らいに来ていたようだ。貴方の心配は杞憂だったということだな」
「そ、そのようだ……しかし、何も今言わなくても良いのでは?」
ばつがわるそうに、ハルが小声で老いぼれを詰っている。俺はその言葉に首をかしげるばかりだった。
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