五番目の婚約者

シオ

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 ノウェ様の帰郷を数日後に控えて、侍従たちは上へ下への大騒ぎとなっていた。ノウェ様が身に纏うものを詰めた箱たちで侍従部屋の中は足の踏み場もない状態になっている。おそらく、厨房も似たような状況になっていることだろう。

 俺は準備には加わらず、いつも通りにノウェ様のお傍に控えていた。皇帝と皇妃の寝室に、俺とノウェ様がいる。二人きりの空間であったなら幸せなのだが、俺たち以外にも皇帝と内務卿がこの部屋の中にはいた。

「食べ物は全て、侍従たちが用意するものだけを口にしてくれ。それ以外のものを食べてはいけないし、見知らぬ人間についていくのも駄目だ」

 長椅子の上に腰を下ろしているノウェ様と皇帝。皇帝は、ノウェ様の小さな手をぎゅっと握りながら、言い聞かせるような言葉で語りかけている。対するノウェ様は、少し辟易したような顔で皇帝を見ていた。

「……あのな、ヴィル。俺だって、何も分からない赤子じゃないんだ。それくらい言われなくても分かってる」
「もちろん、ノウェを赤子だと思っているわけじゃない。ただ、心配なんだ」

 心配のし過ぎだと邪険にされた皇帝は、捨てられた犬のような惨めな顔をする。立派な人格者が国を治めているんだと信じて疑わない市井の人々に見せてやりたい。俺はそんなやりとりをするノウェ様たちから少し距離を置いた壁際に立っていた。隣には、内務卿が立っている。

「我々の目がない場所では、貴方が頼りです。どうか、皇妃様をお守り下さい」

 視線をこちらへ向けることもなく、内務卿がそう口にした。その言葉はもちろん、俺へと向けられている。ノウェ様の帰郷には、多くの警備兵が随行することになっている。だが、俺は彼らを信用していなかった。彼らの働きに不満があるわけではなく、ノウェ様を守れるのは俺だけだという自負があるからだ。

「願われるまでもない。ノウェ様は、俺が必ず守る」
「ですよね。貴方ならそう仰ると思っていました」

 俺の視界の端で、肩を竦めて笑う内務卿が見えた。この男はこの仕草ばかりだ。人を馬鹿にするように鼻で笑う。そんな態度に、以前はよく腹を立てていたけれど、今では気にすることもなく流せるようになった。

「これもまた、言わずともご理解頂けていることだとは思いますが」

 そこで一呼吸を置いて、内務卿は視線だけで俺を見る。その気配を感じ取って、俺も目だけを動かして内務卿を見た。俺たちの視線がぶつかる。

「邪まな気持ちでノウェ様に触れることのないように。皇妃様は、必ずここへ戻ってくる。それを阻むことなど、決してなさらぬように」

 俺が抱くノウェ様への想いを、当然、内務卿は把握している。だからこそ、そんな忠告をするのだろう。俺がノウェ様を連れて、どこかへ逃亡してしまわないように、釘を刺しているのだ。

「俺が、ノウェ様の御意思に反意を抱くことはない。あの方が、皇帝のもとへ戻るというのなら、付き従うまで」

 ノウェ様と逃げるということを、考えない日はない。阻む者全てを殺しつくして、ノウェ様の手を取り馬でどこまでも駆けていくのだ。誰も俺たちのことを知らない異邦へ逃げて、逃げて、その先で二人きりで生きていけたなら。どれほど幸せだろうか。

 だが、そんなことをする気は無い。すべては妄想だ。そんなことをすれば、ノウェ様が悲しむことは分かっている。故郷のロアを裏切って、心を寄せつつあるリオライネンから逃げ出すなど、ノウェ様は絶対に願わない。

 ノウェ様の御心が、あの男に向いていようとも、それがノウェ様の願いであるのなら、俺が異を唱えることはない。ノウェ様がお心健やかにお過ごしくださるのなら、皇帝のそばであっても構わないのだ。

 もちろん、俺のそばで、俺の手によって幸せになって頂きたいという我欲はある。だが、それはノウェ様の願いより優先されるような代物ではない。俺の願いなど、どうでも良い。ただ一心に、ノウェ様の幸福を祈るのみだ。

「貴方にとっても、久しぶりの故郷でしょう。楽しみではないんですか?」
「故郷を恋しく思ったことは無い」
「へぇ、そうですか。帰りたがっていたノウェ様とは随分違うんですね。何故ですか?」
「……どうだっていいだろう」

 俺のことまで詮索しようとするこの男は、酷く面倒な存在だった。帰郷を楽しみにしているノウェ様とは異なり、俺にはそのような感情が微塵も湧いていない。だがそれは俺の個人的な事情ゆえだ。そんな領域の事情まで詳らかにする気はない。

「何はともあれ、しばらくは二人きりの日々となりましょう。存分にご堪能ください」

 しばらくして、皇帝と内務卿は執務室へと戻っていった。皇帝にはまだ、今日のうちにこなさなければならない仕事が山ほど残っているという。そうして、部屋の中にはノウェ様と俺だけが残された。

 過保護極まりない皇帝からの注意事項を懇々と聞かされたノウェ様は疲れてしまったのか、長椅子の上に倒れ込む。結んでいない長い赤髪が、椅子の上に流れ出た。俺は駆け寄って、長椅子の前に片膝をつく。

「お疲れですか」
「……少し、な。心配してくれてるっていうのは分かるんだけど、ちょっとヴィルは煩い」

 小さく欠伸を漏らすノウェ様は、自由な子猫のようでとても可愛らしい。姿勢を正して椅子に座ったものの、髪はぐしゃぐしゃのままなノウェ様の頭を撫でて、髪を整えていく。安心しきった顔で俺の手に全てを委ね、ノウェ様が目を閉じる。

 この人が俺だけのものであれば、どれほど幸せなのだろうか。叶えられない願いを、心の中で何度、唱えてきたのだろう。叶わないと分かっているくせに、どうして願いは消えてくれないのだろう。俺が抱く不毛な願いは、きっと心の臓に埋め込まれているのだ。この胸が鼓動を止める日まで、この願いが途絶えることはない。

「イェルマ、見てこれ。アナがこんなにもたくさん本を届けてくれたんだ」

 長椅子のそばの小さな机に積まれた本の上に、ノウェ様の手がぽんと置かれる。今更伝えられなくとも、そこに届けられた本が積まれていることは知っていた。けれど、嬉しそうに話すノウェ様に合わせて、少し驚くふりをしてみる。

 アナスタシア・ブルクハルト。彼女は、ノウェ様がこの国で得た初めての友人と言っても過言ではない。ノウェ様と親しくしてくれるおかげで、ノウェ様は日々楽しそうにお過ごしになっている。それは良いことだ。

 だが、彼女はノウェ様と皇帝との仲を取り持とうとするところがある。俺にとってそれは、愉快なことではなかった。皇妃などにはなりたくないという彼女の立場としては、ノウェ様と皇帝が仲睦まじい方が良い。取り持とうとするのも、ある意味、当然のことだった。

「これ全部持っていったら、流石に荷物が多すぎるかな」
「この程度であれば、持っていくことも可能だと思いますよ。お持ちになりますか?」
「そうだな……、せっかく貸してくれたんだし、道中は暇だろうし。持っていこうかな」

 十冊の本の塔が二つと、あと何冊か。往路だけでなく、復路の時間つぶしも考慮されている冊数だった。確かに、移動中は退屈な時間になるだろう。ノウェ様の無聊を慰めるものは多いに越したことはない。

「寄り道せずに真っすぐ行っても、辿り着くのに七日もかかるのかぁ。やっぱり、クユセンとリオライネンって遠いんだな」
「此度は、警備兵や侍従、食料などの荷物を乗せた馬車も一緒に動くので、殊更、時間が掛かるのでしょう。早馬を乗り継いで駆け抜ければ、二日か三日で到着しますよ」
「早馬の乗り継ぎ……良いなぁ。楽しそう」

 早馬で駆けている姿を想像しているのか、ノウェ様は嬉しそうなおもてを浮かべる。そんなノウェ様は微笑ましいが、早馬での移動などという危険な行為は絶対にやらせられない。一秒でも早く目的地へ辿り着くことを目的に育てられる早馬は、走り方が荒々しいのだ。

 安全で穏やかな走りよりも、とにかく速度を追求した結果、そうなってしまう。そんな馬にノウェ様を乗せるなど、考えるだけで恐ろしい。穏やかな走りをするヘカンテにであれば、安心して乗って頂けるが、早馬など論外だった。

「……クユセンでの滞在日数が、何日になっても良いように行程が用意されていたな」

 独り言のような言葉を、ノウェ様が漏らす。用意された行程表をご覧になったのだ。事細かに記されたそれには、分刻みでの予定が示されていた。何日何時までにどこそこを通過、などといったことが全て書かれていた。

 隙が無いほどに細かく記されてはいるが、一点のみ、未確定の行程があった。それは、ノウェ様の滞在日程だ。ロア族の地、クユセンでの滞在日数が一日からの場合から、十日までの場合まで予定がそれぞれに組まれている。

 ノウェ様ご自身で、何日で帰るかを決めて良いということなのだろう。その反面、ノウェ様の不在に皇帝が耐えられるのが、十日までということらしい。ノウェ様が十日以上、クユセンにいたいと願ったら一体どうするのか。あの男が迎えに来るようなことになったとしても、俺は驚かない。

「……俺、何日で帰りたいって思うんだろう」
「何日でも。ノウェ様が望むままに」

 帰りたくないと願ってくれても、構わない。けれどきっと、ノウェ様はそんなことは言わないのだ。俺は冷静に現状を俯瞰出来ている。ノウェ様が帰りたいのは、族長であるお父上と話しをしたいからだ。かつてのような、故郷への寂しさはもう無いのだろう。ノウェ様はきっと、リオライネンへ戻ってくる。

「クユセンで、イェルマは自由にして良いんだからな。会いたい人もいるだろうし、行きたい場所もあるだろうし。ずっと俺のそばにいてくれなくても大丈夫だから」
「俺はノウェ様から離れません」
「え? でも……」
「会いたい人も、行きたい場所もありません。ノウェ様のお傍においてください」

 ノウェ様は戸惑いをおもてに浮かべられたが、それは俺にとってとても素直な気持ちだったのだ。故郷に戻ったとして、会いたい人もいないし、行きたい場所もない。ただただ、ノウェ様のお傍にいたい。それだけが俺の願いだった。

「おいてください、なんて言うなよイェルマ。そばにいてくれるなら俺は心強いし、嬉しいよ」

 そう言ってノウェ様は微笑んだ。その笑みからは太陽のような、慈悲深いぬくもりを感じる。ノウェ様が俺のそばにいてくれるから、俺は生きていけるのだ。ノウェ様のいない世界に、生きる価値など俺は見いだせなかった。


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