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ついに明日、クユセンへと旅立つ。寒さの厳しい冬を越えて、少しずつ春へと向かう季節。街道の雪も解け、馬車での移動に支障もない。本当は、雪が降り始める前にクユセンへ行って、帰ってくるはずだったのだ。けれど全てはあの毒の一件が台無しにした。
だが、あの毒がなければ俺のヴィルヘルムへ向ける気持ちは、これほどまでに変化しなかったことだろう。最初に抱いた憎しみを、そのまま抱き続けていたかもしれない。その憎しみは薄れて、姿を消してしまった。その後に俺の胸に沸いた感情に対して、俺はまだ名前をつけることが出来ないでいる。
二人で眠る大きな寝台の中に一人で潜り込んで、何度も寝返りを打つ。どうにも、眠気が下りてこないのだ。いつもであれば、温かいお茶を飲んで、ほんのりと温められた寝台の中に入ればすぐに眠りに落ちるというのに。目は冴えて、暗闇の中に淡く灯るランプの火の動きを追ってしまう。
小さなノック音が聞こえた。ヴィルヘルムが、俺が寝ていると思っている時に聞こえる小さなノックの音だ。そっと扉を開けたヴィルを、俺は横になったままで見る。俺たちの視線が絡み合った。
「起きてたんだな」
「……なんか、寝れなくて」
「珍しいな。最近は俺が戻って来る前に熟睡してたのに」
「なんだろう……緊張、してるのかな」
長い行程のための準備は全て整っていた。たくさんの荷物を積まれた荷馬車も見たし、随行してくれる侍従の人たち一人一人とも言葉を交わした。そういったことに今日一日を費やして過ごして、明日出発するのだという実感を得た。その実感が今、俺の眠りを阻んでいるような気がする。
「故郷へ帰るのに、緊張しているのか?」
「そうかも。……だってもう、十年近く帰ってないし、皆に会ってないんだ」
「ずっとここに留め置いてしまって、すまない」
「別に責めてるわけじゃない」
責めているつもりで、言ったわけではないのだ。過去のことをいつまでも詰るようなことはしない。ただ単純に事実として、俺はもう何年も故郷の人々に会っていないのだ。緊張してしまうのも、仕方のないことだと思う。
「ロア族の内情全てを把握しているわけじゃないが、それでも、父君はノウェのことを大切に思っておられた」
「……この話はやめよう。本人に聞く」
族長である父が、俺を捨てたわけではないと、ヴィルヘルムは言っているのだろう。俺を気遣った言葉なのだと思う。けれど、それをヴィルの口から聞いたとしても、俺の心は慰められないのだ。父の口から聞きたかった。その口から語られる言葉でしか、俺は納得が出来ない。
「じゃあ、何の話をする?」
一方的に話を終わらせた俺に、ヴィルヘルムが問う。どうやら、眠れないという俺に付き合って起きていてくれるらしい。一日中、政務をこなして疲れているだろうに、そんな素振りもみせず俺に付き合ってくれるヴィルは、優しい奴なのだと思う。
「俺がいなくても、一人で寝れるか?」
「どうだろう。寂しくて、眠れなくて……徹夜で仕事をしてしまうかもしれないな」
「ちゃんと寝なくちゃ駄目だ」
冗談で言っているのかもしれないが、本当にそうなってしまいそうで心配だった。放っておけば、何日も寝ずに仕事を続けてしまいそうなところが、ヴィルヘルムにはある。俺がいなければ、この寝台にも戻ってこなさそうだ。執務室にある長椅子で就寝を済ませてしまう気がする。
ちゃんと体を休めるためにも、この大きくて広々とした寝台でぐっすり眠って欲しい。俺が隣にいなくとも、眠ることくらいは出来るはずだ。だが、もしかすると。本当にヴィルヘルムは他人のぬくもりがないと熟睡出来ないのかもしれない。
俺がいない間、温もりを欲して誰かを寝台に招き入れるようなことがあるのかも。そんなことを一度考えてしまうと、俺の胸の中にはもやもやとしたものが現れた。そのもやもやは、苛立ちにも似ている。
「……寂しいからって、誰かに共寝を頼むのも……駄目だから」
気付いた時には、そんな言葉を口走っていた。だって、嫌だったのだ。知らない人間がこの寝台に入り込んで、ヴィルヘルムの隣で眠っている姿を想像するだけで腹が立った。その寝台は俺のものだし、その場所は俺の定位置なのだ。
「そんなこと、するわけがないだろう」
「……分かんないだろ」
「分かるよ。ノウェ以外が隣に寝ていたら、邪魔だなと思って俺は追い出す」
小さく笑いながらヴィルヘルムはそう言った。ノウェ以外をこのベッドに上げるつもりは一切ないよ、と耳元で囁く。その言葉を聞いて嬉しく思ったり、安心したりする自分が嫌だった。
「良い子で待っているから……、可能であれば、早く帰って来てくれ」
毛布の中に体を潜らせて、俺の顎下に己の頭をすっぽりと入れるヴィルヘルム。そのままの流れで、額を俺の鎖骨あたりに押し付けてきた。甘えるような素振りをしながら、そんな台詞を口にする。
可能であれば、と一言添えて、控え目なことを言った。そんなヴィルヘルムを俺は、何故か可愛いと思ってしまう。どうかしている。自分より年上で、大柄な男を可愛いと思ってしまうなんて。気の迷いだ。そうに決まってる。俺は気が触れたのかもしれない。
「……考えとく」
「ありがとう、ノウェ」
一日でも早く帰って来て欲しいと願うほどに、行かせたくないくせに、行かないでとは言わない。そんなヴィルヘルムが健気に思えてしまうから、今夜の俺はやはり頭が可笑しくなっている。
「俺がいなくても眠れるように、おまじないを掛けてやる」
「え?」
毛布の下でもぞもぞと動きながら、俺はヴィルヘルムの額が己の眼前に来る位置までやってきた。そして、その額に口付けを落とす。母親が幼い子にするような、おやすみの口付け。頭が可笑しくなった俺は、ヴィルヘルムにそれをした。
「……これで、きっと……眠れるから」
恥ずかしくて堪らない。顔を赤くしながらそんな言葉を吐く俺は、とても滑稽だった。そんな俺を見て、ヴィルヘルムは嬉しそうに満面の笑みを見せる。今のキスを思い出して、何日かは一人でも眠れそうだ、とヴィルはそう言った。
それからは、他愛もないことを少し話して、気付いた時にはもう眠りに落ちていた。優しい夢を見たような気がする。どんな夢だったかは覚えていないけれど、優しい夢だったことだけは確かに覚えている。
朝、目が覚めた時、俺の体はヴィルヘルムの両腕に抱きしめられていた。温かいぬくもりが俺を包んでいて、とても心地が良い。珍しく、ヴィルはまだ眠っていて、その両目は閉ざされていた。深い湖のような色の瞳が見えない。もう暫く、このぬくもりを堪能していようかな、と思った瞬間にヴィルも目が開く。
「……おはよう、ノウェ」
目を覚ましてすぐに、微笑みながらそんなことを言う。腕の中に俺がいるということが、この上ない幸福だと言いたげな表情を浮かべていて、見ている俺が恥ずかしくなってしまった。
しばらくの間、温かい寝台の中でまどろんで、その後に揃って寝台から出る。イェルマが入って来て、朝食のポリッジを渡してくれた。寝台に腰掛けるヴィルヘルムの足の間に収まって、ひとつの皿とひとつの匙で朝食を摂る。
いつもと変わらない味を咀嚼しながら、ぼんやりと考えた。俺がクユセンへ帰っている間は、こうして食事を摂ることも出来ないのだ、と。ヴィルヘルムは一人で、ポリッジを食べるのだろうか。
朝食後、身支度を整え終わった頃には、出発の時間が迫っていた。俺はいつもと変わらない服装に身を包んで、寝室を出る。いつもであれば執務室へ向かう時間なのだけれど、ヴィルヘルムは俺に付いて車寄せにやって来た。
すでに多くの侍従、警備兵が俺を待っていて、多くの目が俺を見つめるその光景に俺は慄いてしまう。俺が乗る馬車には、ヴィルヘルムの所有物である獅子の紋章が施されていた。その馬車の前にはすでに、乗り込むための踏み台が置いてある。
本当にもう行くんだ。心の中で、そんなことを思った。荷物を乗せた馬車たちは先行してゆっくり進んでいるという。もう、始まっているのだ。少しばかり不安な気持ちになって、後ろを振り返る。そこに立っていたヴィルヘルムを見た。
「道中、気を付けて」
見送りの言葉と共に、小さな溜息を漏らすヴィルヘルム。いつの間にか、ヴィルの背後にやって来ていたイーヴァンが、そんなヴィルヘルムを見て、やれやれ、と肩を竦めた。俺も思わず笑ってしまう。ヴィルヘルムは、こんなにも感情がおもてに出る人間だっただろうか。
「笑って見送ってくれないのか」
そう尋ねると、ヴィルヘルムは何とか笑おうと、口の端を上げてみる。だがそれは、ちぐはぐとした不格好なものだった。あまりにも不出来な笑みに、俺は噴き出して笑ってしまう。
「……上手く笑えていないか?」
「全然駄目だな」
「そうか……でも仕方ないさ。許してくれ」
こんなにも別れ難いのに、笑えるわけがない。そう言ってヴィルヘルムは笑顔での見送りを諦めた。今生の別れというわけでもないのに、どうしてそんな顔をするんだと思ってしまう。思いながらも、ヴィルヘルムの気持ちはなんとなく理解出来た。
「抱きしめても、良いだろうか」
こんな大勢の人がいる場所で、一体何を言い出すんだ、と俺は驚いてしまった。イェルマやイーヴァン、侍従や警備兵など、多くの人が俺たちを見ている。けれど、あまりにもヴィルヘルムが切ない顔をするので、逡巡の後に許してしまった。
「……良いよ」
頷けば、すぐさま抱きしめられた。両腕で、しっかりと力強く。あまりにも必死に抱き着いてくるので、俺も思わず抱きしめ返してしまった。ヴィルヘルムの口元が、俺の耳のそばまで下りてくる。
「離れがたい。……でも、ちゃんと見送る。だから、必ず俺のところへ戻って来てくれ」
情けない声だった。泣き言のようにも聞こえる。普段の俺であれば、皇帝なんだからもっとしゃきっとしろ、と怒鳴っていたかもしれない。けれど今日ばかりは、情けない皇帝の姿を許すことしか出来なかった。
「……うん」
抱擁する俺たちを、侍従や警備兵たちが微笑ましい目で見てくる。彼らの視線に晒されるのは良い気分ではなかったが、今更ヴィルヘルムの腕を振り払うことも出来なかった。
「行ってきます」
ゆっくりと離れていくヴィルヘルムの腕。俺たちの体は、少しずつ遠ざかった。不出来なままではあったけれど、先ほどよりは幾分ましになった笑顔でヴィルが俺を見送る。眉が下がり、悲しい笑みになってしまっていた。
「……あぁ、行っておいで」
馬車へ乗り込み、扉が閉ざされる。先頭の警備兵が発した大きな号令と共に、馬車が動き出す。窓の外に見えていたヴィルヘルムの姿が、少しずつ遠ざかって行った。故郷よりも住み慣れてしまった宮殿から離れ、俺はロア族の地、クユセンを目指す。
だが、あの毒がなければ俺のヴィルヘルムへ向ける気持ちは、これほどまでに変化しなかったことだろう。最初に抱いた憎しみを、そのまま抱き続けていたかもしれない。その憎しみは薄れて、姿を消してしまった。その後に俺の胸に沸いた感情に対して、俺はまだ名前をつけることが出来ないでいる。
二人で眠る大きな寝台の中に一人で潜り込んで、何度も寝返りを打つ。どうにも、眠気が下りてこないのだ。いつもであれば、温かいお茶を飲んで、ほんのりと温められた寝台の中に入ればすぐに眠りに落ちるというのに。目は冴えて、暗闇の中に淡く灯るランプの火の動きを追ってしまう。
小さなノック音が聞こえた。ヴィルヘルムが、俺が寝ていると思っている時に聞こえる小さなノックの音だ。そっと扉を開けたヴィルを、俺は横になったままで見る。俺たちの視線が絡み合った。
「起きてたんだな」
「……なんか、寝れなくて」
「珍しいな。最近は俺が戻って来る前に熟睡してたのに」
「なんだろう……緊張、してるのかな」
長い行程のための準備は全て整っていた。たくさんの荷物を積まれた荷馬車も見たし、随行してくれる侍従の人たち一人一人とも言葉を交わした。そういったことに今日一日を費やして過ごして、明日出発するのだという実感を得た。その実感が今、俺の眠りを阻んでいるような気がする。
「故郷へ帰るのに、緊張しているのか?」
「そうかも。……だってもう、十年近く帰ってないし、皆に会ってないんだ」
「ずっとここに留め置いてしまって、すまない」
「別に責めてるわけじゃない」
責めているつもりで、言ったわけではないのだ。過去のことをいつまでも詰るようなことはしない。ただ単純に事実として、俺はもう何年も故郷の人々に会っていないのだ。緊張してしまうのも、仕方のないことだと思う。
「ロア族の内情全てを把握しているわけじゃないが、それでも、父君はノウェのことを大切に思っておられた」
「……この話はやめよう。本人に聞く」
族長である父が、俺を捨てたわけではないと、ヴィルヘルムは言っているのだろう。俺を気遣った言葉なのだと思う。けれど、それをヴィルの口から聞いたとしても、俺の心は慰められないのだ。父の口から聞きたかった。その口から語られる言葉でしか、俺は納得が出来ない。
「じゃあ、何の話をする?」
一方的に話を終わらせた俺に、ヴィルヘルムが問う。どうやら、眠れないという俺に付き合って起きていてくれるらしい。一日中、政務をこなして疲れているだろうに、そんな素振りもみせず俺に付き合ってくれるヴィルは、優しい奴なのだと思う。
「俺がいなくても、一人で寝れるか?」
「どうだろう。寂しくて、眠れなくて……徹夜で仕事をしてしまうかもしれないな」
「ちゃんと寝なくちゃ駄目だ」
冗談で言っているのかもしれないが、本当にそうなってしまいそうで心配だった。放っておけば、何日も寝ずに仕事を続けてしまいそうなところが、ヴィルヘルムにはある。俺がいなければ、この寝台にも戻ってこなさそうだ。執務室にある長椅子で就寝を済ませてしまう気がする。
ちゃんと体を休めるためにも、この大きくて広々とした寝台でぐっすり眠って欲しい。俺が隣にいなくとも、眠ることくらいは出来るはずだ。だが、もしかすると。本当にヴィルヘルムは他人のぬくもりがないと熟睡出来ないのかもしれない。
俺がいない間、温もりを欲して誰かを寝台に招き入れるようなことがあるのかも。そんなことを一度考えてしまうと、俺の胸の中にはもやもやとしたものが現れた。そのもやもやは、苛立ちにも似ている。
「……寂しいからって、誰かに共寝を頼むのも……駄目だから」
気付いた時には、そんな言葉を口走っていた。だって、嫌だったのだ。知らない人間がこの寝台に入り込んで、ヴィルヘルムの隣で眠っている姿を想像するだけで腹が立った。その寝台は俺のものだし、その場所は俺の定位置なのだ。
「そんなこと、するわけがないだろう」
「……分かんないだろ」
「分かるよ。ノウェ以外が隣に寝ていたら、邪魔だなと思って俺は追い出す」
小さく笑いながらヴィルヘルムはそう言った。ノウェ以外をこのベッドに上げるつもりは一切ないよ、と耳元で囁く。その言葉を聞いて嬉しく思ったり、安心したりする自分が嫌だった。
「良い子で待っているから……、可能であれば、早く帰って来てくれ」
毛布の中に体を潜らせて、俺の顎下に己の頭をすっぽりと入れるヴィルヘルム。そのままの流れで、額を俺の鎖骨あたりに押し付けてきた。甘えるような素振りをしながら、そんな台詞を口にする。
可能であれば、と一言添えて、控え目なことを言った。そんなヴィルヘルムを俺は、何故か可愛いと思ってしまう。どうかしている。自分より年上で、大柄な男を可愛いと思ってしまうなんて。気の迷いだ。そうに決まってる。俺は気が触れたのかもしれない。
「……考えとく」
「ありがとう、ノウェ」
一日でも早く帰って来て欲しいと願うほどに、行かせたくないくせに、行かないでとは言わない。そんなヴィルヘルムが健気に思えてしまうから、今夜の俺はやはり頭が可笑しくなっている。
「俺がいなくても眠れるように、おまじないを掛けてやる」
「え?」
毛布の下でもぞもぞと動きながら、俺はヴィルヘルムの額が己の眼前に来る位置までやってきた。そして、その額に口付けを落とす。母親が幼い子にするような、おやすみの口付け。頭が可笑しくなった俺は、ヴィルヘルムにそれをした。
「……これで、きっと……眠れるから」
恥ずかしくて堪らない。顔を赤くしながらそんな言葉を吐く俺は、とても滑稽だった。そんな俺を見て、ヴィルヘルムは嬉しそうに満面の笑みを見せる。今のキスを思い出して、何日かは一人でも眠れそうだ、とヴィルはそう言った。
それからは、他愛もないことを少し話して、気付いた時にはもう眠りに落ちていた。優しい夢を見たような気がする。どんな夢だったかは覚えていないけれど、優しい夢だったことだけは確かに覚えている。
朝、目が覚めた時、俺の体はヴィルヘルムの両腕に抱きしめられていた。温かいぬくもりが俺を包んでいて、とても心地が良い。珍しく、ヴィルはまだ眠っていて、その両目は閉ざされていた。深い湖のような色の瞳が見えない。もう暫く、このぬくもりを堪能していようかな、と思った瞬間にヴィルも目が開く。
「……おはよう、ノウェ」
目を覚ましてすぐに、微笑みながらそんなことを言う。腕の中に俺がいるということが、この上ない幸福だと言いたげな表情を浮かべていて、見ている俺が恥ずかしくなってしまった。
しばらくの間、温かい寝台の中でまどろんで、その後に揃って寝台から出る。イェルマが入って来て、朝食のポリッジを渡してくれた。寝台に腰掛けるヴィルヘルムの足の間に収まって、ひとつの皿とひとつの匙で朝食を摂る。
いつもと変わらない味を咀嚼しながら、ぼんやりと考えた。俺がクユセンへ帰っている間は、こうして食事を摂ることも出来ないのだ、と。ヴィルヘルムは一人で、ポリッジを食べるのだろうか。
朝食後、身支度を整え終わった頃には、出発の時間が迫っていた。俺はいつもと変わらない服装に身を包んで、寝室を出る。いつもであれば執務室へ向かう時間なのだけれど、ヴィルヘルムは俺に付いて車寄せにやって来た。
すでに多くの侍従、警備兵が俺を待っていて、多くの目が俺を見つめるその光景に俺は慄いてしまう。俺が乗る馬車には、ヴィルヘルムの所有物である獅子の紋章が施されていた。その馬車の前にはすでに、乗り込むための踏み台が置いてある。
本当にもう行くんだ。心の中で、そんなことを思った。荷物を乗せた馬車たちは先行してゆっくり進んでいるという。もう、始まっているのだ。少しばかり不安な気持ちになって、後ろを振り返る。そこに立っていたヴィルヘルムを見た。
「道中、気を付けて」
見送りの言葉と共に、小さな溜息を漏らすヴィルヘルム。いつの間にか、ヴィルの背後にやって来ていたイーヴァンが、そんなヴィルヘルムを見て、やれやれ、と肩を竦めた。俺も思わず笑ってしまう。ヴィルヘルムは、こんなにも感情がおもてに出る人間だっただろうか。
「笑って見送ってくれないのか」
そう尋ねると、ヴィルヘルムは何とか笑おうと、口の端を上げてみる。だがそれは、ちぐはぐとした不格好なものだった。あまりにも不出来な笑みに、俺は噴き出して笑ってしまう。
「……上手く笑えていないか?」
「全然駄目だな」
「そうか……でも仕方ないさ。許してくれ」
こんなにも別れ難いのに、笑えるわけがない。そう言ってヴィルヘルムは笑顔での見送りを諦めた。今生の別れというわけでもないのに、どうしてそんな顔をするんだと思ってしまう。思いながらも、ヴィルヘルムの気持ちはなんとなく理解出来た。
「抱きしめても、良いだろうか」
こんな大勢の人がいる場所で、一体何を言い出すんだ、と俺は驚いてしまった。イェルマやイーヴァン、侍従や警備兵など、多くの人が俺たちを見ている。けれど、あまりにもヴィルヘルムが切ない顔をするので、逡巡の後に許してしまった。
「……良いよ」
頷けば、すぐさま抱きしめられた。両腕で、しっかりと力強く。あまりにも必死に抱き着いてくるので、俺も思わず抱きしめ返してしまった。ヴィルヘルムの口元が、俺の耳のそばまで下りてくる。
「離れがたい。……でも、ちゃんと見送る。だから、必ず俺のところへ戻って来てくれ」
情けない声だった。泣き言のようにも聞こえる。普段の俺であれば、皇帝なんだからもっとしゃきっとしろ、と怒鳴っていたかもしれない。けれど今日ばかりは、情けない皇帝の姿を許すことしか出来なかった。
「……うん」
抱擁する俺たちを、侍従や警備兵たちが微笑ましい目で見てくる。彼らの視線に晒されるのは良い気分ではなかったが、今更ヴィルヘルムの腕を振り払うことも出来なかった。
「行ってきます」
ゆっくりと離れていくヴィルヘルムの腕。俺たちの体は、少しずつ遠ざかった。不出来なままではあったけれど、先ほどよりは幾分ましになった笑顔でヴィルが俺を見送る。眉が下がり、悲しい笑みになってしまっていた。
「……あぁ、行っておいで」
馬車へ乗り込み、扉が閉ざされる。先頭の警備兵が発した大きな号令と共に、馬車が動き出す。窓の外に見えていたヴィルヘルムの姿が、少しずつ遠ざかって行った。故郷よりも住み慣れてしまった宮殿から離れ、俺はロア族の地、クユセンを目指す。
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