五番目の婚約者

シオ

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 ノウェ様が寝台に潜り込んだのを確認して、寝室を後にする。少し前までは、ノウェ様が眠りに落ちるその瞬間まで見届けることが出来た。皇帝は執務に明け暮れ、夜遅くになっても寝室にはやってこなかったのだ。だからこそ、俺はノウェ様との時間を多く過ごすことが出来た。

 だが、あの忌むべき毒殺未遂事件があってから一変した。皇帝はノウェ様のそばにいる時間を増やし、夜も早くに仕事を切り上げるようになった。寝台の上でのんびりと語らうことなどもある。そうなってしまえば、俺は皇帝によって退室を促される。眠気に包まれてぼんやりとしているノウェ様は、俺を引き留めては下さらない。

 歯痒かった。ノウェ様が憎悪から解放され、お心健やかに過ごされるのは喜ばしいことだ。だが、あの皇帝を憎み続けるべきだと叫ぶ己もいる。それが悋気から芽生えるものであるという自覚は当然あった。

 ノウェ様が皇帝と穏やかに時を過ごす光景を見ると、胸が苦しくなって、息が出来なくなるのだ。俺のことを愛してくれなくても良い。けれど、俺を愛してくれないのなら、他の誰も愛さないで欲しい。そんな我が儘な感情が、己の内側で暴れまわっていた。

「イェルマ殿」

 虚ろな足で歩いていた俺の背後に声が掛かる。振り返らずとも、そこに誰がいるのかは分かっていた。今は見たくない顔だ。けれど、呼び止められた以上、無視するわけにもいかない。溜息を吐きながら、身を翻す。案の定、そこにはダレル内務卿がいた。

「ノウェ様に毒を盛ったフェルカー侯爵家のゾフィー嬢は自白しました。じきに毒で死ぬことでしょう」

 ゾフィー・フェルカー。ノウェ様の毒殺を画策した罪深き女。その情報は、内務卿より伝えられていた。その女が毒で死ぬという。手緩いと思った。毒などではなく、四肢を少しずつ切り落としながら、生まれて来たことを後悔するまで苦しめ抜くべきだ。

「我々を責め立てても良いのですよ」
「心の中で、十分に責めた」
「殺しましたか? 私やヴィルヘルム陛下を」
「何度も」

 片手の数では足りないほどの回数、彼らを丹念に殺した。ノウェ様を守れなかった者たちを。ノウェ様を救うなどという名目で、その御身に触れるあの憎き光景を。もちろん、守れなかったのは俺も同じだ。俺自身も、何度も殺した。

「二度目はない」
「勿論ですとも」

 軽薄な笑みを浮かべているが、その瞳には怒りにも似た鈍い光が宿っていた。内務卿としても、この騒動は予想外の出来事であり、不愉快の塊だったことだろう。晩餐会は台無しになり、来賓たちへの対応に内務卿も苦労していた。

「二度目、などというものが起こらないようにするためにも、アリウス様のご助力を賜ります」
「……先帝の?」
「えぇ。あの方にノウェ様の後見人となって頂くのですよ」

 かつて、アウリス・ゼーマンアーネ・リオライネンと名乗っていた人物。今では、リオライネンの称号は抜かれ、アウリス・ゼーマンアーネという名前になっている。あの人には好印象も悪印象もない。接する機会が少なかったためだ。だが、後見人に相応しい人物であるというのは分かる。

「アリウス様に打診したところ、御快諾頂きました。ただし」

 意味深に、内務卿は一度言葉を切った。小さく溜息を吐き捨てる。どうやら、続く言葉の内容は内務卿の本意ではないらしい。今、この国で一番忙しいのは間違いなくこの内務卿だろう。疲労の色が日に日に増していく。

「明日一日、ノウェ様と過ごしたいとのことで。宮殿の外、城下へと共に遊びに行きたいと仰るのです」
「この状況下で宮殿の外へ?」
「危険性があることは承知しています。しかし、逆に今の宮殿内よりは外の方が安心なのやもしれません。加えて、アリウス様がご一緒とあれば、アリウス様の警備兵たちもノウェ様を守る。安全性はそちらの方が上である可能性もあります」

 本当は、内務卿もノウェ様を外に出したくないのだろう。けれど、アリウス様の要望を叶えないわけにもいかず、そのような言葉を口にして自分自身を納得させようとしているのだ。

 確かに、毒は宮殿内で盛られた。であるならば、どこにいたって危険はある。宮殿の中にいようが、外にいようが、そこには大きな差異はない。それよりも、警備の手を増やして守る方が効果的だと内務卿は言っているのだ。

「ノウェ様も、ずっと部屋に籠っていては気も滅入りましょう。良い気分転換と思えば」

 確かに、軟禁に近い現状にノウェ様も辟易しておられた。部屋の窓から外を眺めるノウェ様の背中は寂しく、俺の中の憐憫を駆り立てるお姿をしていた。これは良い機会なのかもしれない。

「……承知した」

 承諾した俺を見て、内務卿が去っていく。俺もノウェ様の寝室の横に宛がわれた、侍従部屋へ戻った。ノウェ様に付く侍従は、俺だけではない。ノウェ様の要望によって俺のみがお傍に置かれているが、見えないところで働いている侍従は数多くいる。

「お疲れ様です」

 部屋に入った俺に、見慣れた顔の侍従が声を掛けてきた。俺も、お疲れ様です、と返す。四、五人が常にこの部屋には在中しており、ノウェ様の召し物を整えたり、ノウェ様の好みのお茶を淹れたりと細々とした仕事をこなしているのだ。

 俺に声を掛けてきた侍従はどうやら、日報を書きつけているようだ。ノウェ様が今日、何時に起き、何を食べ、どのような体調で、どこを歩かれたのか。そういったことが事細かに記されている。それを読むことを、皇帝は楽しみにしているそうだ。

「明日のお出かけの件を、内務卿閣下より聞きました。明日、妃殿下はどのようなお召し物を所望されると思いますか?」
「ノウェ様はおそらく、普段通りの格好をされると思います。いつも通りのもので」
「承知しました」

 主に、ノウェ様が身に着けるものの管理を任されている侍従が、すす、と俺に近寄って来て尋ねた。久々の外出で、しかも城下へ出るという。ノウェ様にとってそれは初めての経験だ。だが、だからといって着飾るようなことはなさらないだろう。

 明確な地位は無いのだが、俺はある意味で、ノウェ様付き侍従長のような扱いを受けている。ノウェ様に関しては一番詳しく、お心を察することも出来る。他の侍従たちからノウェ様にまつわる色々なことを尋ねられることが多かった。

 明日の準備を整えて、俺は自分の寝台に潜り込む。ノウェ様が寝るような、ふかふかとしたものではない。板の硬さを感じるそれに、藁や布を敷いているだけのもの。けれど、十分だった。ノウェ様のお傍にいられるのなら、俺は固い寝台でも幸せに眠れるのだ。

 夢も見ないままに、深い眠りに入って、いつもと同じ時間に目覚めた。時計など確認しなくとも、体に時間が染みついている。寝ずの夜番をしていた侍従と言葉を交わして、夜中に何も問題は発生しなかった、と聞く。

 手早く着替え、顔を洗い、口を漱ぐ。そうして俺は寝室から少し離れた厨房へ向かった。この厨房に、皇妃に毒を盛った人物がいた。そのため、料理人たちを監視する警備兵がつけられることになった。たった一人の悪行で全員が罪人のような目を向けられており、無辜の料理人たちは、毒を盛ったその男を憎々しく思っているようだ。

「イェルマさん、おはようございます」
「おはようございます」

 基本的に、宮殿で働く人々は良い人が多かった。皇妃となったノウェ様のことも、少しずつ受け入れてくれている。何よりも、皇帝の寵愛が激しいことが見て取れるため、皇帝が望むのであれば、という気持ちになっているらしい。

 俺の目の前に大皿に盛ったポリッジが差し出される。様々な音が響き、忙しなく料理人たちが動き回る中で、俺はそのポリッジを小皿に移してから一口食べた。水気を孕んだ米の触感。味は、いつもと変わらない。

 一口食べて、そして厨房を後にする。あのポリッジは、朝食としてノウェ様と皇帝が口にされるものだ。すでに毒見が確認しているそうだが、俺自身でも確認することにした。遅効性の毒であった場合の対処として、ノウェ様の口に入る一時間前に毒見をすることになっている。

 それから、再び侍従部屋に戻る。夜番をしていた者は、すでに寝台に入って眠っていた。他の侍従たちは目を覚まし、それぞれに手早く身支度を整えて己の仕事に取り掛かる。俺たちは互いに一日の流れを確認したり、ノウェ様が目覚めたあとに必要なものの点検をした。

 そうこうしていると、一時間などあっという間に過ぎてしまう。隣の部屋から、微かに物音がした。どうやら皇帝が目を覚ましたらしい。侍従の手を借りることなく、皇帝は自分一人で身支度を整えていく。

 皇帝が目を覚ましたのであれば、すぐにノウェ様も起きるだろう。俺は侍従部屋を出て、寝室の扉の前に立った。案の定、うーん、というノウェ様が伸びをする声が聞こえてきた。軽くノックをし、皇帝の許可を得て寝室に入る。

「おはよう、イェルマ」
「おはようございます。ノウェ様」

 長い赤髪が乱れたままで、ノウェ様が笑っている。太陽のようだった。暗く冷たい俺の世界を照らし出す、唯一の光。俺のすべて。駆けだして、抱きしめてしまいそうになる。そんな己を、毎日毎日抑え込んでいた。

「ノウェ、今日はアリウス様が一日ノウェと過ごしたいそうだ」
「昨日会ったばっかりなのに?」
「あぁ。昨日、僅かな時間しか過ごせなかったからだろう」

 まだ少し眠たいのか、ノウェ様は指先で目を擦っている。そんなノウェ様に、身支度を終えた皇帝が伝えた。どうやら、アリウス様がノウェ様の後見人になる件は話さないようだ。

「城下へおりることになるが、不満はあるか?」
「不満は……別に無いけど、俺、城下って行ったことないかも」
「あぁ、そうだな。長らく、俺が禁じてた。婚約者であったノウェを宮殿から出すことを許していなかったんだ。自由を奪ってしまい、申し訳ない」

 多くのことを、ノウェ様から奪った。馬に乗ることも、長い間禁じていたし、宮殿の外を出歩く自由も、帰郷することさえ、許さなかった。俺はこの男を生涯許すことはないだろう。だが、心優しいノウェ様は、胸に手を当てて恭しく頭を下げる皇帝に驚いてしまう。

「べっ……別に、行きたかったわけじゃないから」

 だから、謝るようなことではないと、ノウェ様は言うのだ。少し視線を逸らして、気恥ずかしそうに言うノウェ様を、皇帝は溶け出しそうな眼差しで見つめる。ノウェ様ほど優しい人を、俺は知らない。あれほどの暴力を受け止め、寛恕なされた。

「警備兵は多くつけさせる。だが、ノウェ自身も危険な目に遭わないように注意してくれ」

 しっかりと頷いたノウェ様に、皇帝が微笑みながら頷き返す。そして一瞬、鋭い視線をこちらに向けた。必ず守れと、そう言っているのだ。言われるまでもない。もう二度と、ノウェ様に苦しい思いをさせたりはしない。


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