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12 いろいろおかしい
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アンバール殿下を殴るというスピネル様の暴挙を目撃した日以来、なんだかいろいろ様子がおかしい。おかしいのはスピネル様だけじゃなく、僕自身も変なのだ。
(そりゃ、あんなベロチューを二度もかまされたんだから変になるのは当然……っていうか、恥ずかしくて挙動不審になるのは仕方ないっていうか)
そう、僕はベロチューのことを思い出すだけで、満足に診察記録も書けなくなっていた。
スピネル様のほうはもっとおかしくて、あのとき以来、潔癖気味の状態がググッとなりを潜めている。というより、本当にこの人は潔癖気味だったのかと疑いたくなるほどの変わりようだった。
「医者としては喜ばしい限りなんだけどさ」
「どうかしたか?」
「……どうかしたというか、あんたがどうかしているというか」
何を冷静に「どうかしたか?」だ。二十四歳の男を膝抱っこしているあんたのほうが、どうかしているだろう。……それを受け入れている僕も、どうかしている。
「サファイヤはたまに口が悪くなるな。だが、それもかわいい」
「……それは、どうも」
また「かわいい」と口走った。ここで「何言ってるんですか」と言えば、このあと時間をかけて僕のどこかかわいいかを語り出すのだから冗談じゃない。
そもそもスピネル様ってこんな人だったか? 一日のうち何度も首を傾げたくなるくらいのおかしな様子に、スピネル様別人説を強く推したいくらいだ。
そう、スピネル様はすこぶるおかしくなったと同時に、とんでもなく変わった。そのことを日々の治療で実感させられている。
(そもそも、もはや治療じゃなくないか……?)
最終目標達成のためには接触の練習をやめるわけにはいかないとスピネル様に言われ、まぁそうだよなと思って治療という名の触れ合いを続けることにした。……が、その内容がおかしいのだ。だって膝抱っこやお姫様抱っこが練習なんて、どう考えてもおかしいだろ。そのうち「添い寝をしよう」なんて言い出すんじゃないかと思って戦々恐々としているくらいだ。
そもそも、こんなことまでできるようになったのなら、もう練習なんて必要ないんじゃないか? そう思っているのに、スピネル様の眩いばかりの笑顔を見ると「やめましょう」とは言えなくなってしまう。
あまりの変わりように医者として心配になった僕は、じっくり時間をかけて話を聞くこともした。その結果わかったことは、僕以外への潔癖気味は継続していること、僕が相手なら素肌への接触は問題なくベロチューくらい朝飯前だということだった。
いや、ベロチューが朝飯前とか絶対におかしいよな? ベロチューって朝飯前にやることじゃないよな? ……いや、この際ベロチューする時間帯のことはいいんだ。
とにかくスピネル様は、僕に関してだけは潔癖気味がほとんど出なくなったということがわかった。
医者としては素直にうれしいと思う。これまでいろいろ大変だっただろうスピネル様が、これから少しずつでも潔癖気味じゃなくなる前兆だと捉えれば、とてもいいことだと一緒に喜びを分かち合いたいくらいだ。
……だがしかし。毎日のように膝抱っこだのお姫様抱っこだのをされる身としては、素直に喜べないのは仕方がないだろう。……それに、だ。
「サファイヤもわたしのことを好きになったんじゃないか?」
これだ。どういうわけか、スピネル様は毎日この言葉を投げかけてくる。とくに膝抱っこしているときなんて、いまみたいに後ろから耳元に口を近づけて囁くように言ってくるのだ。
(これはもう、確信犯だろ!)
艶のある低い声を聞くとゾクゾクしてしまうことを、スピネル様に悟られてしまったに違いない。
患者をよく観察し、しっかり診察すべき僕が、逆に観察されていろいろ暴かれてしまうなんて、なんてことだ……。親父に知られたら医者として問題外だと言って、やっぱり見習いからやり直しをさせられるレベルの失態だ。
そもそも医者が胸の内を悟られるなんて、あってはいけないことだ。だって、もし患者の命に関わる病気を見つけたとして、それを医者の不注意で患者に悟られるのはよくないことだろう? 患者を不安にさせる原因になりかねないし、だから医者はいつでも冷静であることが好ましいと言われている。
(なのに、僕ってやつは……)
がっくりとうな垂れたところで、背後から抱きしめているスピネル様の手がポンポンと僕の膝を叩いた。
「何か落ち込んでいるようだが、サファイヤはわたしにとって何にも変えがたい名医だ」
「……そう言ってもらえるのは、大変ありがたいです」
「それに、絶対に身代わりなどいない唯一の相手でもある」
それには何と答えればいいのか毎回悩む。
「早く唯一の恋人だと言いたいのだがな」
だから、そういうことを耳元で囁かないでくれ。「それもいいかなぁ」なんて思うようになってしまったらどうしてくれるんだ。病気でも治療でもそうだけれど、暗示っていうのは意外と効果があるんだぞ……!
膝抱っこ状態で、僕はただひたすらいろんなことに耐えるしかなかった。そんな僕を見ながら、スピネル様が「もう少しかな」なんて物騒なことを言っていることにだって、ちゃんと気づいているんだからな……。
※ ※
スピネル様の状態は順調に最終目標に向かっていて、医者の立場としては喜ばしい限りだ。それなのに素直に喜べないのは、最終目標に向かう――すなわち僕の貞操の危機に近づいているということだからに違いない。
スピネル様の順調さとは反対に、サンストーン伯爵家を取り巻く環境はいろいろ大変そうだ。七日に一度になった診察報告も、ついに伯爵様は直接聞く時間が取れないほどになっていた。
気になった僕はちぃ兄に何かあったのか聞いたんだけれど、どうも歯切れがよくない。
それならいろいろ知っていそうなファルクに聞くしかないと、久しぶりにおばさんの店に顔を出した。もちろんファルクが休みの日を狙い、ついでに店に駆り出されていることがわかったうえでだ。
(ファルクがいるときだとオマケが付くからな)
そんな下心を抱きながら、焼き菓子を並べていたファルクに「ちょっと聞きたいことがある」と声をかけた。
「なんだ?」
「最近、伯爵様がやけに忙しそうにしてるからさ、城で何かあったのかと思って」
「そんなこと、兄貴たちに聞けばいいだろ?」
「ちぃ兄に聞いたんだけど、いまいちよくわからなくてさぁ」
隠しているというより、あれはどう話したものかって文面だった。そんなに説明しにくいことでも起きているんだろうか。
「あー、なるほどな」
「おまえ、溺愛されてるもんなぁ」って、何のことだよ。っていうか、誤魔化そうとしてないか?
「なんだよ、おまえまで何も言わないつもりか?」
「いや、サンストーン伯爵家については隠すほどのことはないよ。この間、正式に宰相職が復活するって決まっただけだ」
「え? 宰相って本当に復活するんだ」
それは初耳だ。ちぃ兄からの手紙にも何も書かれていなかった。
「あぁ。陛下も了承して、王太子も納得してるそうだ。まぁ王太子のほうは、仕方なくって部分が無きにしも非ずだろうけどな。ここで頑なに拒否したところで、王太子にとっていいことは何もない」
「うわー、本当に権力闘争っぽい真ん中にサンストーン伯爵家はあるんだな」
「あと五年もすれば王太子が国王になるだろうし、そのときペリドル殿下が宰相になるんだそうだ。それに向けて、ペリドル殿下はいま陛下の最側近になっている」
ペリドル殿下はスピネル様の姉、エスメラード第二夫人の第一子だ。そのペリドル殿下が宰相になるということは、スピネル様はペリドル殿下の片腕的な存在になるということに違いない。
(それにしてはスピネル様、毎日屋敷にいるんだけど大丈夫なのか?)
伯爵様は今後のことで城に通い詰めているのだろう。最近では晩の食事の席でも姿を見なくなった。そのくらい忙しいということだ。
もしかしたら、始めは伯爵様が宰相を支えるのかもしれない。だとしても、最終的には次期伯爵様であるスピネル様がその地位を継ぐことになるはず。
「スピネル様って、いまそんなに大変な状況にあったのか」
それなのに毎日膝抱っこだとかお姫様抱っこだとかしていて、本当に大丈夫なのか心配になる。
「あー、その次期伯爵様のことだけどなぁ」
「え? スピネル様にも何かあるのか?」
ファルクを見れば、どこか言いにくそうな顔をしている。「なんだよ、言えって」と先を促しても「うーん」と言うばかりで埒があかない。
痺れを切らした僕は、ファルクを店から引っ張り出して池のほとりに移動した。途中の屋台で、ファルクの好物である激辛ソーセージも買ってやる。
「ここなら誰も聞いてないからいいだろ? 隠し事はなしだぞ」
「いや、隠すっていうか、そのうちおまえの耳にも入るだろうしなぁっていうか……」
「はっきりしないな! ちぃ兄も似たようなこと手紙に書いてたけど、一体なんだって言うんだよ」
ズイッと下から睨むように見上げると、ようやく観念したのかファルクがため息をついた。……って、ファルクのやつ、また背が伸びたんじゃないか? この前より顔の位置が高いぞ?
ちょっとイラッとしたけれど、いまは身長のことよりスピネル様のことだ。
「それがさ、スピネル様はペリドル殿下と一緒に陛下の側近として働く予定だったみたいなんだけど、本人が渋ってるらしくてさ」
「なるほど、それで毎日屋敷にいるわけだ。でも何でだよ? 渋る理由なんてないだろ?」
「そりゃあ甥が宰相になるんだから、渋ることはないんだろうけど。……なんつーか、伯爵様とちょっとやり合ってるらしくてな」
「伯爵様と?」
スピネル様と伯爵様が争っているところなんて見たことがなかったから驚いた。そもそも反論している姿すら見たことがない。
もし伯爵様に逆らうことができるのなら、伯爵様が仕込んだムチムチおっぱい侍女たちを真っ先にどうにかするはずだ。
(……話しかけるのも嫌で放置しているのかもしれないけど)
というより、伯爵様に反論できるくらいなら「誰か側におく」なんてことも最初から断れたはずだ。
そんなスピネル様が伯爵様とやり合っているなんて、ちょっと想像できない。
「それがな、伯爵様は将来のことを考えて、王太子んとこのお姫様をスピネル様の奥方にって話をこっそり進めていたらしいんだ。それを知ったスピネル様が、それはもうすごい剣幕で怒ったらしくてなぁ」
「あー……なるほど。うん、それなら納得できる」
僕相手なら潔癖気味が出なくなってきたとはいえ、他の人はまだ駄目なんだ。それなのに、もっとも駄目な女性が相手の話を聞かされれば、そりゃあ怒りもするだろう。
伯爵様に直接報告はできていないものの、そのあたりはデリケートだから急がないようにと報告書には書いておいたんだけどなぁ。
「お、納得できるってことは、噂は本当だったのか」
「は? 噂って何が?」
「だからさ、スピネル様がおまえを奥方にするって伯爵様に宣言したって噂だよ」
「…………は?」
ちょっと待てファルクよ、いま何て言った? 聞き間違いでなければ、スピネル様が僕を奥方にすると、そう言ったか?
「いやぁ、ちょっと前から噂はあったんだよ。これまで誰も近づけようとしなかった美貌の次期伯爵様が、治療のためとはいえおまえを片時も離さないっていうんだから、こりゃなんかあるなって周りは思うだろ? さすがに俺は勘ぐったりしなかったけど、もう三カ月以上経つのにおまえは伯爵家に行ったままだし、これはもしかするともしかするのか? なんて最近は思ったりしてたんだよなぁ」
それはつまり、“もしかすると僕がスピネル様の奥方になるかも”と思ったってことか? それを大勢の貴族が噂しているってことか? ……しかも、伯爵様までご存知ってことだよな……?
噂話の内容をはっきりと悟った僕は、頭にカッと血が上るのがわかった。
「……なんだよそれ!」
急に叫んだ僕にびっくりしたのか、ファルクが食べかけの激辛ソーセージを落としたのが目に入った。お菓子屋の息子なのに甘いものが苦手で辛党なんて、残念な奴だよな。ざまぁみろ、ろくでもないことを言うからだ。
……じゃなくて、僕はいま、とんでもないことに巻き込まれている真っ最中ってことじゃないか!
「ふざけんなよ……」
腹の底から出た声は、自分で聞いても別人のように聞こえた。
(そりゃ、あんなベロチューを二度もかまされたんだから変になるのは当然……っていうか、恥ずかしくて挙動不審になるのは仕方ないっていうか)
そう、僕はベロチューのことを思い出すだけで、満足に診察記録も書けなくなっていた。
スピネル様のほうはもっとおかしくて、あのとき以来、潔癖気味の状態がググッとなりを潜めている。というより、本当にこの人は潔癖気味だったのかと疑いたくなるほどの変わりようだった。
「医者としては喜ばしい限りなんだけどさ」
「どうかしたか?」
「……どうかしたというか、あんたがどうかしているというか」
何を冷静に「どうかしたか?」だ。二十四歳の男を膝抱っこしているあんたのほうが、どうかしているだろう。……それを受け入れている僕も、どうかしている。
「サファイヤはたまに口が悪くなるな。だが、それもかわいい」
「……それは、どうも」
また「かわいい」と口走った。ここで「何言ってるんですか」と言えば、このあと時間をかけて僕のどこかかわいいかを語り出すのだから冗談じゃない。
そもそもスピネル様ってこんな人だったか? 一日のうち何度も首を傾げたくなるくらいのおかしな様子に、スピネル様別人説を強く推したいくらいだ。
そう、スピネル様はすこぶるおかしくなったと同時に、とんでもなく変わった。そのことを日々の治療で実感させられている。
(そもそも、もはや治療じゃなくないか……?)
最終目標達成のためには接触の練習をやめるわけにはいかないとスピネル様に言われ、まぁそうだよなと思って治療という名の触れ合いを続けることにした。……が、その内容がおかしいのだ。だって膝抱っこやお姫様抱っこが練習なんて、どう考えてもおかしいだろ。そのうち「添い寝をしよう」なんて言い出すんじゃないかと思って戦々恐々としているくらいだ。
そもそも、こんなことまでできるようになったのなら、もう練習なんて必要ないんじゃないか? そう思っているのに、スピネル様の眩いばかりの笑顔を見ると「やめましょう」とは言えなくなってしまう。
あまりの変わりように医者として心配になった僕は、じっくり時間をかけて話を聞くこともした。その結果わかったことは、僕以外への潔癖気味は継続していること、僕が相手なら素肌への接触は問題なくベロチューくらい朝飯前だということだった。
いや、ベロチューが朝飯前とか絶対におかしいよな? ベロチューって朝飯前にやることじゃないよな? ……いや、この際ベロチューする時間帯のことはいいんだ。
とにかくスピネル様は、僕に関してだけは潔癖気味がほとんど出なくなったということがわかった。
医者としては素直にうれしいと思う。これまでいろいろ大変だっただろうスピネル様が、これから少しずつでも潔癖気味じゃなくなる前兆だと捉えれば、とてもいいことだと一緒に喜びを分かち合いたいくらいだ。
……だがしかし。毎日のように膝抱っこだのお姫様抱っこだのをされる身としては、素直に喜べないのは仕方がないだろう。……それに、だ。
「サファイヤもわたしのことを好きになったんじゃないか?」
これだ。どういうわけか、スピネル様は毎日この言葉を投げかけてくる。とくに膝抱っこしているときなんて、いまみたいに後ろから耳元に口を近づけて囁くように言ってくるのだ。
(これはもう、確信犯だろ!)
艶のある低い声を聞くとゾクゾクしてしまうことを、スピネル様に悟られてしまったに違いない。
患者をよく観察し、しっかり診察すべき僕が、逆に観察されていろいろ暴かれてしまうなんて、なんてことだ……。親父に知られたら医者として問題外だと言って、やっぱり見習いからやり直しをさせられるレベルの失態だ。
そもそも医者が胸の内を悟られるなんて、あってはいけないことだ。だって、もし患者の命に関わる病気を見つけたとして、それを医者の不注意で患者に悟られるのはよくないことだろう? 患者を不安にさせる原因になりかねないし、だから医者はいつでも冷静であることが好ましいと言われている。
(なのに、僕ってやつは……)
がっくりとうな垂れたところで、背後から抱きしめているスピネル様の手がポンポンと僕の膝を叩いた。
「何か落ち込んでいるようだが、サファイヤはわたしにとって何にも変えがたい名医だ」
「……そう言ってもらえるのは、大変ありがたいです」
「それに、絶対に身代わりなどいない唯一の相手でもある」
それには何と答えればいいのか毎回悩む。
「早く唯一の恋人だと言いたいのだがな」
だから、そういうことを耳元で囁かないでくれ。「それもいいかなぁ」なんて思うようになってしまったらどうしてくれるんだ。病気でも治療でもそうだけれど、暗示っていうのは意外と効果があるんだぞ……!
膝抱っこ状態で、僕はただひたすらいろんなことに耐えるしかなかった。そんな僕を見ながら、スピネル様が「もう少しかな」なんて物騒なことを言っていることにだって、ちゃんと気づいているんだからな……。
※ ※
スピネル様の状態は順調に最終目標に向かっていて、医者の立場としては喜ばしい限りだ。それなのに素直に喜べないのは、最終目標に向かう――すなわち僕の貞操の危機に近づいているということだからに違いない。
スピネル様の順調さとは反対に、サンストーン伯爵家を取り巻く環境はいろいろ大変そうだ。七日に一度になった診察報告も、ついに伯爵様は直接聞く時間が取れないほどになっていた。
気になった僕はちぃ兄に何かあったのか聞いたんだけれど、どうも歯切れがよくない。
それならいろいろ知っていそうなファルクに聞くしかないと、久しぶりにおばさんの店に顔を出した。もちろんファルクが休みの日を狙い、ついでに店に駆り出されていることがわかったうえでだ。
(ファルクがいるときだとオマケが付くからな)
そんな下心を抱きながら、焼き菓子を並べていたファルクに「ちょっと聞きたいことがある」と声をかけた。
「なんだ?」
「最近、伯爵様がやけに忙しそうにしてるからさ、城で何かあったのかと思って」
「そんなこと、兄貴たちに聞けばいいだろ?」
「ちぃ兄に聞いたんだけど、いまいちよくわからなくてさぁ」
隠しているというより、あれはどう話したものかって文面だった。そんなに説明しにくいことでも起きているんだろうか。
「あー、なるほどな」
「おまえ、溺愛されてるもんなぁ」って、何のことだよ。っていうか、誤魔化そうとしてないか?
「なんだよ、おまえまで何も言わないつもりか?」
「いや、サンストーン伯爵家については隠すほどのことはないよ。この間、正式に宰相職が復活するって決まっただけだ」
「え? 宰相って本当に復活するんだ」
それは初耳だ。ちぃ兄からの手紙にも何も書かれていなかった。
「あぁ。陛下も了承して、王太子も納得してるそうだ。まぁ王太子のほうは、仕方なくって部分が無きにしも非ずだろうけどな。ここで頑なに拒否したところで、王太子にとっていいことは何もない」
「うわー、本当に権力闘争っぽい真ん中にサンストーン伯爵家はあるんだな」
「あと五年もすれば王太子が国王になるだろうし、そのときペリドル殿下が宰相になるんだそうだ。それに向けて、ペリドル殿下はいま陛下の最側近になっている」
ペリドル殿下はスピネル様の姉、エスメラード第二夫人の第一子だ。そのペリドル殿下が宰相になるということは、スピネル様はペリドル殿下の片腕的な存在になるということに違いない。
(それにしてはスピネル様、毎日屋敷にいるんだけど大丈夫なのか?)
伯爵様は今後のことで城に通い詰めているのだろう。最近では晩の食事の席でも姿を見なくなった。そのくらい忙しいということだ。
もしかしたら、始めは伯爵様が宰相を支えるのかもしれない。だとしても、最終的には次期伯爵様であるスピネル様がその地位を継ぐことになるはず。
「スピネル様って、いまそんなに大変な状況にあったのか」
それなのに毎日膝抱っこだとかお姫様抱っこだとかしていて、本当に大丈夫なのか心配になる。
「あー、その次期伯爵様のことだけどなぁ」
「え? スピネル様にも何かあるのか?」
ファルクを見れば、どこか言いにくそうな顔をしている。「なんだよ、言えって」と先を促しても「うーん」と言うばかりで埒があかない。
痺れを切らした僕は、ファルクを店から引っ張り出して池のほとりに移動した。途中の屋台で、ファルクの好物である激辛ソーセージも買ってやる。
「ここなら誰も聞いてないからいいだろ? 隠し事はなしだぞ」
「いや、隠すっていうか、そのうちおまえの耳にも入るだろうしなぁっていうか……」
「はっきりしないな! ちぃ兄も似たようなこと手紙に書いてたけど、一体なんだって言うんだよ」
ズイッと下から睨むように見上げると、ようやく観念したのかファルクがため息をついた。……って、ファルクのやつ、また背が伸びたんじゃないか? この前より顔の位置が高いぞ?
ちょっとイラッとしたけれど、いまは身長のことよりスピネル様のことだ。
「それがさ、スピネル様はペリドル殿下と一緒に陛下の側近として働く予定だったみたいなんだけど、本人が渋ってるらしくてさ」
「なるほど、それで毎日屋敷にいるわけだ。でも何でだよ? 渋る理由なんてないだろ?」
「そりゃあ甥が宰相になるんだから、渋ることはないんだろうけど。……なんつーか、伯爵様とちょっとやり合ってるらしくてな」
「伯爵様と?」
スピネル様と伯爵様が争っているところなんて見たことがなかったから驚いた。そもそも反論している姿すら見たことがない。
もし伯爵様に逆らうことができるのなら、伯爵様が仕込んだムチムチおっぱい侍女たちを真っ先にどうにかするはずだ。
(……話しかけるのも嫌で放置しているのかもしれないけど)
というより、伯爵様に反論できるくらいなら「誰か側におく」なんてことも最初から断れたはずだ。
そんなスピネル様が伯爵様とやり合っているなんて、ちょっと想像できない。
「それがな、伯爵様は将来のことを考えて、王太子んとこのお姫様をスピネル様の奥方にって話をこっそり進めていたらしいんだ。それを知ったスピネル様が、それはもうすごい剣幕で怒ったらしくてなぁ」
「あー……なるほど。うん、それなら納得できる」
僕相手なら潔癖気味が出なくなってきたとはいえ、他の人はまだ駄目なんだ。それなのに、もっとも駄目な女性が相手の話を聞かされれば、そりゃあ怒りもするだろう。
伯爵様に直接報告はできていないものの、そのあたりはデリケートだから急がないようにと報告書には書いておいたんだけどなぁ。
「お、納得できるってことは、噂は本当だったのか」
「は? 噂って何が?」
「だからさ、スピネル様がおまえを奥方にするって伯爵様に宣言したって噂だよ」
「…………は?」
ちょっと待てファルクよ、いま何て言った? 聞き間違いでなければ、スピネル様が僕を奥方にすると、そう言ったか?
「いやぁ、ちょっと前から噂はあったんだよ。これまで誰も近づけようとしなかった美貌の次期伯爵様が、治療のためとはいえおまえを片時も離さないっていうんだから、こりゃなんかあるなって周りは思うだろ? さすがに俺は勘ぐったりしなかったけど、もう三カ月以上経つのにおまえは伯爵家に行ったままだし、これはもしかするともしかするのか? なんて最近は思ったりしてたんだよなぁ」
それはつまり、“もしかすると僕がスピネル様の奥方になるかも”と思ったってことか? それを大勢の貴族が噂しているってことか? ……しかも、伯爵様までご存知ってことだよな……?
噂話の内容をはっきりと悟った僕は、頭にカッと血が上るのがわかった。
「……なんだよそれ!」
急に叫んだ僕にびっくりしたのか、ファルクが食べかけの激辛ソーセージを落としたのが目に入った。お菓子屋の息子なのに甘いものが苦手で辛党なんて、残念な奴だよな。ざまぁみろ、ろくでもないことを言うからだ。
……じゃなくて、僕はいま、とんでもないことに巻き込まれている真っ最中ってことじゃないか!
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腹の底から出た声は、自分で聞いても別人のように聞こえた。
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